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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第二十夜 感知の初歩

第二十夜 感知の初歩


 翌朝、リシアはいつもより少し早く目を覚ました。


 眠れなかった、というほどではない。むしろ、よく眠れた方だと思う。昨夜は歩いた。街を見た。辛いものを食べた。空を見上げた。身体は疲れていたはずだった。


 それでも、目が覚めた瞬間に、頭の中へ昨日の言葉が戻ってきた。


 感知の確認。


 眠っているものを動かす前に、まず自分の中に何があるかを見つける。


 アインは、そう言った。


 リシアは、布団の中で自分の手を見た。


 この手の中に、何かがあるのだろうか。


 ずっと、ないと思っていたものが。


 指を軽く握る。


 何も起きなかった。


 当たり前だと思った。


 少しだけ、息を吐いた。


「お目覚めですか」


 声がした。


 リシアが顔を向けると、リジェナが寝台のそばに立っていた。いつもの柔らかな表情だった。


「おはようございます」


「おはようございます。よく眠れましたか」


「……はい。たぶん」


「たぶん」


 リジェナは小さく笑った。


「本日は訓練予定ですので、朝の確認項目が少し増えます」


 その言葉で、リシアは完全に目が覚めた。



 朝の確認は、思ったより長かった。


 脈。体温。血圧。魔力枯渇の残り具合。食事の消化状態。昨夜歩いた距離に対する疲労反応。後頭装着式拡張視覚端末の同期状態。


 リシアは途中から、確認される項目の多さに驚くのをやめた。


 ステファニアは、椅子に座ったまま静かに受けていた。ときどき、表示される数値を読んでいるらしい目をする。リシアには、それが何を意味するのかまでは分からなかった。


 セラは、立ったまま受けようとして、メディナに座らされた。


「セラ様」


 メディナの声は穏やかだった。


「患者です」


「……はい」


 セラは座った。


 それだけで、リシアは少し笑いそうになった。ステファニアが横目でこちらを見たので、リシアは慌てて表情を整えた。


 メディナは、手元の表示を見ていた。


「リシア様、ステファニア様。魔力枯渇後の反応は昨日より安定しています。訓練は低負荷、短時間、監視付きで許可します」


「ありがとうございます」


 リシアが言うと、メディナは頷いた。


「セラ様」


「はい」


「回復反応は安定しています。ですが、安定しているということと、通常状態に戻ったということは違います」


「問題ありません」


「それは昨日、医療判断には含まれないと申し上げました」


 セラは、少しだけ黙った。


「では」


 メディナは微笑んだ。


「問題が起きる前に止めるための訓練をします」


 セラは、今度は素直に頷いた。


「承知しました」



 訓練室は、思っていたものと違った。


 リシアは、もっと武骨な場所を想像していた。木剣が並び、床に傷があり、壁に的があるような場所を。


 けれど案内された部屋は、白銀色の壁と柔らかい床を持つ、広い空間だった。天井は高く、壁にはいくつもの細い線が走っている。部屋の中央には、腰の高さほどの台が三つ置かれていた。


 武器は、なかった。


 ただ、部屋の端に、黒い棒のようなものが何本か並んでいる。


「訓練室というより、検査室に見えます」


 リシアが言うと、クラウディアが答えた。


「今日は検査に近い訓練です」


 クラウディアは、落ち着いた色合いの服を着ていた。昨日と同じく、黒い装備ではない。けれど、ここに立つと、彼女がこの場所のすべてを把握しているように見えた。


 アインは、部屋の中央に立っていた。


 背は高くない。


 けれど、そこにいるだけで、部屋の重心が少し変わる。


「まず言っておく」


 アインが言った。


「今日は魔法を使わせる日じゃない」


 リシアは、思わず肩の力を抜いた。


 安堵したのか、残念だったのか、自分でも分からなかった。


「使う前に、感じる。感じる前に、探す。探す前に、余計なことをしない」


 アインは、三人を見た。


「順番を間違えると、体に変な癖が残る」


 ステファニアが、静かに頷いた。


「承知しました」


「返事はいい。まず、できないことを確認する」


 リシアは瞬きをした。


「できないこと、ですか」


「ああ」


 アインは、当然のように言った。


「何ができるかを見る前に、何をしようとして失敗しているかを見る」


 クラウディアが、台の一つに手を置いた。


 台の上に、透明な球体が浮かび上がる。水晶にも見えたが、表面には細かな光の線が走っていた。


「感知補助球です。出力は最低。触れても危険はありません」


「触れるのですか」


「はい。触れて、何かしようとしないでください」


 リシアは、言葉を失った。


 何かしようとしない。


 魔法の訓練で、そう言われたことは一度もなかった。


「魔法を使う時は、普通、何かをしようとします」


「だから失敗する」


 アインが短く言った。


 リシアは、少しだけ胸に刺さるものを感じた。


「悪い意味じゃない。今のお前の基準では、そうなる」


 アインは続けた。


「現代の系統魔法は、外へ形を作る訓練が多い。火を出す、水を動かす、風を起こす、土を固める。だが、お前の中にあるものは、まず外へ出すものじゃない」


 リシアは、透明な球体を見た。


「中を見る、ということですか」


「そうだ」



 最初に触れたのは、ステファニアだった。


 リシアは少し驚いたが、すぐに納得した。ステファニアは、こういう時に迷わない。危険があるなら、自分が先に確かめる。そういう人だった。


 ステファニアは台の前に立ち、両手を軽く重ねるようにして透明な球体へ触れた。


 何も起きない。


 少なくとも、リシアにはそう見えた。


 けれど、クラウディアの視線がわずかに動いた。メディナの端末にも、細かな表示が増えた。


「ステファニア様」


 クラウディアが言った。


「何かを組み立てようとしています」


 ステファニアの指先が止まった。


「……分かるのですか」


「はい」


 クラウディアは淡々と答えた。


「感知補助球の反応が、術式構築の初期反応に近い形を示しています」


 ステファニアは、球体から手を離した。


「申し訳ありません。無意識でした」


「謝罪は不要です。優秀な術者ほど、感じたものをすぐ形にしようとします」


 クラウディアは、わずかに目を細めた。


「ですが、今日は形にしないでください」


 ステファニアは、少しだけ困ったように目を伏せた。


「理解しました。理解したので、少し難しくなりました」


 アインが小さく息を吐いた。


「だろうな」


 リシアは、少し意外だった。


 ステファニアが難しいと言う。そんな場面を、リシアはあまり見たことがない。


 けれど、その顔は嫌がっているものではなかった。


 難しいものを、難しいと理解している顔だった。



 次は、リシアだった。


 台の前に立つと、急に手のひらが冷えた気がした。


「何もしない」


 リシアは、小さく呟いた。


「何もしようとしない」


「力まないでください」


 リジェナが柔らかく言った。


 リシアは頷き、透明な球体へ指先を触れた。


 冷たくはなかった。


 熱くもなかった。


 硬いのか柔らかいのかも分からない。不思議な感触だった。水に触れているようで、薄い布に触れているようでもある。


 何も起きない。


 やはり、と思った。


 胸の奥が、少し沈む。


 その瞬間、球体の中で光が揺れた。


「あ」


 リシアは思わず声を漏らした。


 光は、すぐ消えた。


 自分が何かをしたのかどうかも分からなかった。


「今のは」


「反応です」


 メディナが答えた。


 リシアは、球体を見つめた。


「ですが、私は何も」


「何もしようとしなかったから、反応が見えました」


 クラウディアが言った。


 リシアは、すぐには理解できなかった。


 何もしないから、見える。


 何かをしようとすると、見えなくなる。


「もう一度」


 アインが言った。


 リシアは頷いた。


 指先を触れたまま、息を吸った。


 魔法を使おうとしない。


 水を動かそうとしない。


 風を起こそうとしない。


 光を出そうとしない。


 ただ、そこにあるものを見る。


 そう思った瞬間、手の奥に、細いものが触れた気がした。


 糸ではない。


 流れでもない。


 けれど、何かがある。


 胸の中心から、手のひらの方へ向かう、淡い気配。


 球体の中で、光が細く揺れた。


 今度は、消えなかった。


「……これが」


 リシアは、声を出すのが少し怖かった。


「私の中にあるものですか」


「入口だ」


 アインが言った。


 短い言葉だった。


 けれど、リシアには十分だった。


 胸の奥で、何かがほどけるような気がした。



 セラの訓練は、球体ではなかった。


 部屋の床に、薄い光の線が走る。四角い枠がいくつも現れ、その中央にセラが立った。


「歩くだけです」


 メディナが言った。


「指定された場所へ、指定された速度で移動してください」


「承知しました」


 セラは、簡単に頷いた。


 簡単すぎた。


 リシアは、少しだけ不安になった。


 最初の一歩は、普通だった。


 次の一歩も、普通に見えた。


 けれど、三歩目で床の線が赤く変わった。


 セラが止まる。


「何か問題が」


「止めた理由が分かりますか」


 メディナが聞いた。


 セラは、自分の足元を見た。


「分かりません」


「右足首と左膝に、通常より大きい補正反応が出ています」


「痛みはありません」


「痛みが出る前に修復反応が始まっています」


 メディナの声は穏やかだった。


 少しだけ、楽しそうにも聞こえた。


「興味深いですね」


 リシアとステファニアが、同時にメディナを見た。


 メディナは微笑んだ。


「医療上、興味深いという意味です」


「同じではありませんか」


 リシアが思わず言うと、メディナは聞こえなかったような顔をした。


 セラは、自分の膝を見ていた。


「つまり」


 セラは考えながら言った。


「壊れる前に、勝手に直っているのですか」


「近い表現です。ですが、壊れてよいわけではありません」


「分かりました」


「本当に分かりましたか」


「壊れる前に気づく訓練、ということですね」


 メディナは、少しだけ満足そうに頷いた。


「はい」


 アインが、セラを見た。


「お前は我慢するな」


 セラは顔を上げた。


「我慢、ですか」


「痛いかどうかじゃない。違うと思った時点で止まれ」


 セラは、少し考えた。


「戦場でも、ですか」


「戦場では止まるな。今は訓練だ」


「承知しました」


 その即答に、リシアは少し笑いそうになった。


 ステファニアは、頭痛をこらえるように目を閉じた。



 二度目の感知は、少しだけ楽だった。


 リシアは球体に触れながら、自分の中の細い気配を探した。見つけようとすると逃げる。使おうとすると消える。けれど、ただ待っていると、ふと触れる。


 不思議だった。


 自分の中のものなのに、自分のものではないような距離がある。


 ステファニアは、球体に触れるたび、わずかに眉を寄せた。


「組もうとしてしまいます」


 小さく言った。


「悪い癖ではありません」


 クラウディアが言った。


「ですが、今は邪魔です」


「はっきり仰いますね」


「嘘をつくより、後の手間が少ないので」


 ステファニアは、一瞬だけクラウディアを見た。


 それから、少しだけ笑った。


「承知しました」


 リシアは、そのやり取りを横で聞いていた。


 ステファニアがクラウディアを少し気に入っているのではないかと、ふと思った。


 口には出さなかった。


 出せば、たぶん二人とも違う方向に面倒な顔をする。


 セラは、床の光の中を歩いていた。


 一歩。止まる。


 一歩。止まる。


 それだけなのに、真剣だった。


「違和感は」


 メディナが聞く。


「右足首に少し」


「止まってください」


 セラが止まる。


 床の線は赤くならなかった。


 メディナが頷いた。


「今の判断は適切です」


 セラは、少しだけ目を瞬かせた。


 褒められたことに戸惑っているように見えた。


 リシアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 セラが生きている。


 立っている。


 歩いている。


 それだけで、まだ少し泣きそうになる。


 リシアは、球体に触れたまま目を伏せた。


 手の奥の細い気配が、また揺れた。


 今度は、少しだけ長く続いた。



 訓練は、短時間で終わった。


 リシアには、短いとは思えなかった。全身を使ったわけではないのに、頭の奥が静かに疲れている。


 ステファニアも、いつもより口数が少なかった。


 セラだけは平然としていた。


 少なくとも、平然としているように見えた。


「セラ様は追加確認があります」


 メディナが言った。


「はい」


「リシア様、ステファニア様は休息です」


「私たちも、もう少し」


 リシアが言いかけると、メディナが微笑んだ。


「休息です」


「……はい」


 逆らえなかった。


 アインが、部屋の端から言った。


「焦るな」


 リシアは、そちらを見た。


「焦っているように見えますか」


「見える」


 即答だった。


 リシアは、少しだけ頬が熱くなった。


「……失礼しました」


「謝ることじゃない」


 アインは、透明な球体を見た。


「見つかったなら、今日は十分だ」


 リシアは、自分の手を見た。


 何も見えない。


 けれど、さっきまで確かに何かがあった。


 細くて、淡くて、すぐ消えそうなもの。


 でも、あった。


「はい」


 リシアは、静かに答えた。


 ステファニアが、隣で小さく息をついた。


「私も、今日は十分です」


 その言い方には、少しだけ悔しさが混じっていた。


 クラウディアが、わずかに微笑んだ。


「賢い子は好きですよ」


 ステファニアは、目を逸らした。


 リシアは、今度こそ少し笑った。


 訓練室の白い床に、光の線がゆっくり消えていく。


 昨日見上げた作り物の空とは違う、人工の光。


 けれど、それも雑ではなかった。


 リシアは、手を握った。


 まだ、何もできない。


 けれど、何もないわけではなかった。


 その違いだけで、今日の世界は昨日と少し違って見えた。


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