第十九夜 三割以下の本物
第十九夜 三割以下の本物
父の手紙を読み終えても、部屋の静けさはしばらく解けなかった。
リシアは、膝の上の封書から目を離せずにいた。父の字は、見慣れたものだった。短い。余計な言葉が少ない。けれど、その少なさの中に、いくつもの意味を詰め込む人だった。
しばらく、アークライトに身を預けてほしい。
そう書かれていた。
その言葉が、ただの許可ではないことを、リシアはもう理解していた。帝国の偽装兵。ファーランドへの動員の兆し。一ヶ月と一週間後に迫った学院。
戻りたい、という気持ちはあった。
けれど、今すぐ戻ればいい、とはもう思えなかった。
「結論から申し上げます」
メディナが、穏やかな声で言った。
その声だけで、リシアは背筋を伸ばした。穏やかなのに、逆らってはいけないと身体が判断してしまう声だった。
「本日の地上降下は許可できません」
リシアは、思わず顔を上げた。
ステファニアも、わずかに視線を動かした。セラは表情を変えなかったが、聞く姿勢になっていた。
「リシア様、ステファニア様は魔力枯渇後の回復途上です。数値は安定していますが、通常時に戻ったとは申し上げられません」
メディナは、そこでセラを見た。
「セラ様は覚醒直後です。循環、脳波、自己修復反応の経過観察が必要です。長距離移動や環境変化は、少なくとも本日は避けるべきです」
「……問題ありません」
セラが言った。
メディナは微笑んだ。
「患者の『問題ありません』は、医療判断には含まれませんのよ」
セラが、ほんの少し黙った。
リジェナが口元に手を当てた。リジェスカは静かに視線を外した。ステファニアは、咳払いをするかどうか迷ったような顔をしていた。
「ですが」
メディナは、そこで声を少し和らげた。
「アークライト内であれば、医療監視を継続できます。短時間の外出なら、許可します」
リシアは瞬きをした。
「外出、ですか」
「はい。病室の外へ出ることです」
メディナは当然のように答えた。
病室の外へ出る。
それだけの言葉なのに、リシアの胸の奥が少しだけ軽くなった。ここ数日、世界は広がり続けていた。草原の病室。医療集中管理室。船。大陸に匹敵する人造ダンジョン。
けれど、リシアの足で歩いた場所は、まだほんのわずかだった。
「少し動けるようになりましたね」
クラウディアが言った。
「では、せっかくですから」
その言い方に、リシアは嫌な予感と期待を同時に覚えた。
「第三ダンジョン商業区へご案内しましょう。昼食で召し上がった料理の、本来の店があります」
ステファニアが、ゆっくりとクラウディアを見た。
「本来の店、ですか」
「はい」
リジェスカが答えた。
「医療区画向けでは、刺激を三割以下に調整しています。本来はこちらです」
リシアは、昼に食べた包み料理を思い出した。蒸し鳥肉と葉野菜。甘辛い香味ソース。あれで三割以下。
「……三割以下で、あれだったのですか」
「はい」
リジェナが、少し楽しそうに頷いた。
「人気店です」
セラが短く言った。
「行きましょう」
あまりに迷いのない声だった。
リシアとステファニアは、同時にセラを見た。
「セラ」
「経過観察の範囲内です」
「それは、あなたが決めることではありません」
ステファニアが静かに言うと、セラは少しだけ考えた。
「では、許可の範囲内で行きましょう」
言い直しただけだった。
リシアは、思わず笑いそうになった。笑っていいのか分からず、唇を押さえた。
◇
セラは、補修された服に着替えた。
破れた箇所は丁寧に繕われ、血の跡もなかった。切り裂かれたはずの布は、近くで見なければ分からないほどに整えられている。紋章や飾り紐も省かれていなかった。
「……元通りですね」
リシアが言うと、リジェナが頷いた。
「元通りに近づけました。細部は、後ほどご確認ください」
「十分です」
セラは、短く答えた。
病衣姿の時よりも、ずっとセラらしかった。細身の身体に、護衛騎士としての姿勢が戻っている。けれど、リシアにはもう、鎧の下に隠れていた違和感も見えてしまっていた。
騎士としては、傷がなさすぎる身体。
それを思い出して、リシアは少しだけ視線を落とした。
「リシア様」
セラが言った。
「はい」
「私は問題ありません」
「今のそれは、メディナ様に聞こえないところで言うべきではありませんか」
セラは、少しだけ黙った。
メディナが、背後で微笑んでいた。
「聞こえています」
セラは、今度こそ何も言わなかった。
後頭装着式拡張視覚端末は、そのまま使うことになった。出力は最低限。医療監視と、道案内に必要な情報だけが視界の端に浮かぶ。
扉が開いた。
病室の外の廊下は、相変わらず白銀色に整っていた。けれど今回は、進む先が違った。医療区画の静けさを抜け、リジェナとリジェスカに案内されて、三人は別の通路へ入った。
壁面の表示が変わる。
第三ダンジョン商業区。
その文字の下に、見慣れないベルカ文字が重なっている。
リシアは、思わず足を緩めた。
「読めるのですか」
リジェナが聞いた。
「読める、というほどではありません。ただ、古文献で見た文字に似ています」
「似ているのではなく、同じ系統です」
リジェスカが言った。
「現在の表示は、患者様向けに現代語を重ねています。元の表示はベルカ標準文字です」
扉が開いた。
音が、押し寄せてきた。
人の声。金属が触れ合う音。何かを焼く音。水が流れる音。子供の笑い声。荷車の車輪。店先で呼び込む声。遠くで鳴る鐘のような音。
リシアは、立ち止まった。
街だった。
石畳に似た道が、ゆるやかに曲がっている。両側には店が並び、看板にはベルカ文字と現代語が重なって見えた。布を売る店。金属部品を並べる店。香辛料の匂いを漂わせる店。小さな工具を前に、店主と客が何かを言い合っている。
空はあった。
ただし、本物の空ではない。
見上げるほど高い天蓋には、昼の光が満ち溢れていた。雲に似た白いものがゆっくり流れ、遠くの建物の上には鳥の影のようなものが見える。けれど、どこかでリシアは、それが作られたものだと分かっていた。
それでも、雑ではなかった。
光の差し方が、丁寧だった。
「ここは」
リシアは、思わず口にしていた。
「国の中ですか。船の中ですか」
リジェナが、少し考えるように視線を上げた。
「どちらでもあります」
「どちらでも」
「アークライトは船です。ですが、ここで暮らしている方々にとっては、生活の場です」
リジェスカが続けた。
「第三ダンジョン商業区は、居住区と生産区を繋ぐ市場でもあります。食料、日用品、工具、衣服、娯楽。各区画で作られた品や、船内で再生された資材もここを通ります」
ステファニアが、通りを見た。
「……大きな国を、いくつも閉じ込めているようなもの」
第十四夜で、自分が言った言葉を思い出すような声だった。
「訂正します」
ステファニアは、静かに言った。
「閉じ込めている、だけではありませんね。ここでは、暮らしている」
リシアは頷いた。
人々は、こちらを見た。
けれど、騒ぎにはならなかった。興味はあるのだろう。視線は向く。けれどすぐに戻る。店主は客と話し、子供は走り、誰かが荷物を抱えて角を曲がる。
その自然さが、かえって不思議だった。
そして、リシアは気づいた。
魔法が、当たり前のように使われている。
店先で、水の球が宙に浮かんで野菜を洗っていた。布屋の軒先では、風が一定の強さで布を揺らし、色味を見せている。小さな炉の前では、火が手のひらほどの大きさで安定して燃えていた。
どれも大げさではない。
生活に溶け込んだ、呼吸のような手つきだった。
リシアは、足を止めかけた。
魔法が使えないのではありません。
抑制されている、という方が近い。
メディナの言葉が、頭の中に浮いた。
ずっと、才能がないのだと思っていた。
自分に足りないものだと思っていた。
でも、もし違うのだとしたら。
足りなかったのではなく、眠っていたのだとしたら。
「リシア様」
ステファニアが、静かに声をかけた。
リシアは、はっとした。
「すみません」
「いえ」
ステファニアは、リシアが見ていたものを見た。
「私も、見ています」
短い言葉だった。
それだけで、リシアは少しだけ息がしやすくなった。
◇
「こちらです」
リジェスカが、一軒の店の前で足を止めた。
看板には、ベルカ文字と現代語が重なっていた。現代語のほうは、香味鳥包み専門店、と読める。
店の前から、香りが漂っていた。
昼食の時の香りに似ている。
けれど、強さが違った。
甘い。辛い。酸味。焼けた香辛料。草のような香り。肉の香り。何かは分からないが、鼻の奥を一気に起こす匂い。
リシアは、一歩だけ後ろに下がった。
「……これが、本来の」
「はい」
リジェスカが、扉を開けた。
「こちらが本来の香りです」
中は賑やかだった。カウンターの奥で、薄い生地が焼かれている。蒸した鳥肉がほぐされ、葉野菜と一緒に積まれ、赤みがかった艶のあるソースがかけられていく。
リジェナが注文を済ませた。
しばらくして、包み料理が人数分運ばれてきた。
見た目は、昼食のものと似ていた。
似ているだけだった。
色が違う。香りが違う。存在感が違う。
ステファニアが、包みを見つめた。
「医療区画向けは、三割以下でしたね」
「はい」
リジェスカが答えた。
「こちらが通常です」
「通常」
リシアは、言葉を繰り返した。
セラが、迷いなく手に取った。
「セラ」
リシアが止める前に、セラは一口食べた。
短く咀嚼した。
飲み込んだ。
「おいしいです」
普通の声だった。
リシアとステファニアは、セラを見た。
「辛くはありませんか」
ステファニアが聞いた。
「辛いです」
「平然としていますが」
「辛いだけです」
セラは、もう一口食べた。
リジェナが、肩を震わせた。
リジェスカは水を用意していた。最初から必要になると分かっていたような顔だった。
リシアは、覚悟を決めて包みを持った。
一口。
甘い、と思った。
次に辛かった。
次に、何かが鼻に抜けた。
それから、もう一度辛かった。
「……っ」
リシアは、声を出さないように口元を押さえた。
おいしい。
それは間違いなかった。
ただ、情報量が多すぎた。舌が忙しい。鼻も忙しい。目の奥が少し熱い。
「リシア様」
ステファニアが水を差し出した。
「ありがとうございます」
受け取って飲んだ。
ステファニアは、静かに自分の分を口にした。
その表情は、ほとんど変わらなかった。
ほとんど、だった。
「……問題なさそうです」
「ステファニア様」
リシアは水を手にしたまま言った。
「今のそれは、本心ですか」
ステファニアは、目を逸らした。
セラが、二つ目を手に取った。
「セラ」
「問題ありません」
リシアは、メディナがここにいなくてよかったのか、いた方がよかったのか、少し分からなくなった。
◇
店を出るころには、リシアは少し汗をかいていた。
ステファニアは平静を保っていたが、飲み物の減りが早かった。セラは平然としていた。リジェナは楽しそうで、リジェスカは三人の反応を記録するような目で見ていた。
商業区の通りは、相変わらず賑やかだった。
リシアは、再び魔法を使う人々を見た。
今度は、違って見えた。
遠いものではない。
自分とは関係のない才能でもない。
そう思いたいのに、まだうまく飲み込めない。
抑制されていた。
その言葉は、胸の中に引っかかったままだった。
「難しい顔をしています」
セラが言った。
リシアは、少し驚いてセラを見た。
「そう見えますか」
「はい」
「……少し、考えていました」
「魔法のことですか」
セラの問いは、まっすぐだった。
リシアは頷いた。
「ずっと、私は魔法が苦手なのだと思っていました。努力が足りないのか、才能が足りないのか、あるいは、そういうものなのか」
言葉にしてみると、思ったより重かった。
「それが、抑制されていたのだと言われても、すぐには」
「名前がついただけです」
セラが言った。
リシアは、足を止めかけた。
セラは前を見たまま続けた。
「私の傷が治りやすいことも、そういう体質だと思っていました。今日、名前がつきました。なら、扱い方を覚えればよいのだと思います」
簡単に言った。
あまりにも簡単に。
リシアは、少しだけ笑った。
「セラらしいですね」
「そうでしょうか」
「はい」
ステファニアが、静かに言った。
「ですが、悪くない考え方です。名前がついたのなら、扱い方を学べる」
リシアは、二人を見た。
少しだけ、胸の中のものが動いた気がした。
その時だった。
通りの先に、アインが立っていた。
いつからいたのか分からなかった。人混みの中にいるのに、周囲からわずかに切り離されているように見える。
リジェナとリジェスカが、自然に一歩引いた。
「明日から訓練を始める」
アインは、前置きなしに言った。
リシアは、背筋を伸ばした。
「はい」
「セラは制御の確認から。今の身体がどう動くか、まず把握する」
「承知しました」
セラは迷わず答えた。
「リシアとステファニアは、感知の確認からだ。眠っているものを動かす前に、まず自分の中に何があるかを見つける」
ステファニアが、短く頷いた。
「承知しました」
リシアも頷いた。
「分かりました」
アインは、それだけ確認すると、セラの手元へ視線を移した。
「今日は休め。食べすぎるなよ」
リシアは、思わずセラを見た。
セラは、三つ目の包み料理を紙に包んで持っていた。
「……持ち帰りです」
アインは、何も言わなかった。
リジェスカが、静かに天井を見た。
アインは、そのまま通りの向こうへ歩いていった。
まるで、用件だけを置いていくようだった。
◇
帰り道、三人は少し遠回りをした。
リジェナが、医療監視の範囲内です、と言った。リジェスカが、歩行負荷は許容範囲です、と補足した。
通りを抜けた先に、小さな広場があった。
中央には噴水がある。水は本物のように見えた。もしかすると本物なのかもしれない。周囲には腰を下ろしている人々がいて、子供たちが光の粒を追いかけていた。
リシアは、広場の端で立ち止まった。
ステファニアも隣に立った。
セラも、少し遅れて並んだ。
三人で、空を見上げた。
空があった。
本物の空ではない。
それは、もう分かっていた。ここは船の中で、ダンジョンの中で、作られた街だった。
けれど、光の作り方は丁寧だった。
雲の端が、ゆっくりと明るくなる。高い場所を流れる風のようなものが、広場の木の葉を揺らす。遠くの建物の窓に、昼の色が反射している。
リシアは、手紙の重さを思い出した。
父の字。
帝国の偽装兵。
一ヶ月と一週間。
明日からの訓練。
そして、自分の中に眠っているかもしれないもの。
「本物ではないのですね」
リシアが言った。
「はい」
リジェスカが答えた。
「ですが、雑ではありません」
リシアは、空を見上げたまま言った。
ステファニアが、かすかに笑った気がした。
「そうですね」
セラは、空を見ていた。
「十分です」
短い言葉だった。
リシアは、目を細めた。
本物ではない。
でも、そこに暮らす人がいる。
作られた光でも、丁寧に作られていれば、人はその下で暮らせる。
リシアは、明日のことを考えた。
自分の中に、何があるのか。
まだ分からない。
けれど、見に行くことはできる。
そう思った。




