第十八夜 選ぶ夜
第十八夜 選ぶ夜
廊下に、二名が待っていた。灰白色の医療服とは違う装備だった。
「任務ご苦労さまでした」
クラウディアが言うと、一方が三通の封書を差し出した。
「全て回収できました。向こうの反応はいずれも概ね想定の範囲です。現在、他のメンバーはそれぞれの指示のもとで行動中。近日中に結果が得られるかと」
「分かりました」
封書を受け取って、クラウディアは扉を見た。
アインが、すでに扉の前に立っていた。
◇
誰も、しばらく何も言わなかった。
メディナが告げた言葉は、部屋の中に静かに残っていた。
リシアは、セラを見ていた。
セラは、メディナを見ていた。その表情は、驚いているというより、何かを確認しているような顔だった。
ステファニアは、視線を落としていた。
リジェナが、静かに動いた。
折り畳まれた布を手に取って、ポッドのそばに立つ。
「セラ様。お着替えをお手伝いします」
セラが視線を向けた。
「……ああ」
短く言って、素直に腕を通した。リジェナが手際よく病衣を整えた。リジェスカはそちらを見ないようにしていた。
それだけの動作が、部屋の空気をわずかに動かした。
リシアは、なんとなく息がしやすくなった気がした。
端末が、小さく鳴った。
メディナが確認した。
「……参りました」
それだけ言った。
扉が、音もなく開いた。
最初に入ってきたのは、クラウディアだった。
黒い装備ではなく、落ち着いた色合いの服を着ていた。リシアがここで会う時はいつもそうだった。表情は穏やかで、部屋を一度だけ見回した。
セラを見た。
ほんのわずかに、目が和らいだ。
次に入ってきたのは、アインだった。
リシアは横目で、セラを見た。
セラがアインを見ていた。
何も言わなかった。ただ、一度だけ目線が上から下まで動いた。騎士として人を見る時の、静かな動作だった。
少しだけ間があった。
セラが、アインを見たまま口を開いた。
「リシア様をお助けいただいたのは、あなたですか」
部屋が静かになった。
アインは、一拍置いてから答えた。
「そうだ」
セラは、一度だけ目を閉じた。開いた。
「……ありがとうございます」
それだけ言った。
リジェスカが、視線をわずかに天井へ向けた。クラウディアは表情を動かさなかったが、その口元に何かが通り過ぎた気がした。
アインが部屋の中に入った。
リシアたちの前に立つと、思ったより小柄だった。あの夜、草原の暗がりで見た時の印象とは少し違う。それでも、立っている場所の空気が、他の人と違う感じがした。重さ、とも違う。ただ、そこにいるというだけで、何かが変わる感じ。
うまく言葉にできなかった。
「目が覚めて、よかった」
アインがセラに言った。短い言葉だった。
セラは頷いた。それだけだった。
クラウディアが静かに前に出た。
「改めて、ご説明します」
メディナを一度見た。
「医療の観点からはメディナに引き続き説明をお願いします。背景については——」
クラウディアが、わずかにアインを見た。
アインが、前に出た。
話は、長かった。
メディナが検査の結果を改めて整理した。搬入時から現在までの数値の変化。標準値との乖離。自己修復の速度。それらを、三人に向けて丁寧に説明した。
アインが、そこに言葉を足した。
「ベルカには、体の中に因子を持つ血統があった」
短かった。
「意図してやったことだ。ベルカは人の設計図を書き換えた」
「母から子へ受け継がれる部分に手を加えた。時間をかけて、血統に根を張った」
リシアは、黙って聞いていた。
「お前たちの体にも、その痕跡がある」
一拍置いた。
「ただし眠っている。存在しているが、機能していない。訓練と経験で、変えることができる」
「目覚めさせる、ということですか」
ステファニアが言った。
「ああ」
「セラ様の場合は」
メディナが引き取った。
「すでに、ほぼ目覚めた状態にあります。今回の回復速度は、その結果です」
セラが、小さく息をついた。
「……ああ」
独り言のような声だった。
「だから、傷の治りが早かったのですか」
誰も驚かなかった。
リジェナが、口元に手を当てた。リジェスカは端末に目を落とした。
アインは、何も言わなかった。
一度だけ、セラを見た。
「子供の頃から、ですか」
クラウディアが、少し目を細めて聞いた。
「覚えている限りは」
セラは短く答えた。「特別だとは思っていませんでした。そういう体質なのだと」
クラウディアは、何も言わなかった。
ただ、その表情が、わずかに何か言いたそうだった。言わなかった。
リシアは、自分の手を見た。
「私は」
自分でも、声が出ると思っていなかった。
「……魔法が、使えないのではないのですか」
「使えないのではありません」
メディナが、穏やかに答えた。
「抑制されている、という方が近い。眠っている因子が、既存の魔法回路に影響を与えています。因子が目覚めれば、状況は変わります」
リシアは、黙った。
ずっと、才能がないのだと思っていた。四系統の魔法を扱えないことを、そういうものだと思っていた。抑えられていたとは、考えたことがなかった。
うまく、整理がつかなかった。
「……そうですか」
それだけ言った。
ステファニアが、リシアを横目で見た。何も言わなかった。
「訓練を受ければ」
ステファニアが、クラウディアに向けて言った。
「どう変わりますか」
「正直に言えば、分かりません。個人差があります。ただ、因子が目覚めた状態と眠った状態では、できることが変わります。それは確かです」
ステファニアは一度だけ頷いて、少し黙った。
「……もう少し強ければ、何か変わっていたかもしれない、と思うことがありました」
声は静かだった。感情的でも、後悔でもなかった。ただ、確認するような言い方だった。
「あの日のことを言っているなら」
アインが言った。
「お前たちは十分に戦った。戦力の問題じゃない」
ステファニアは、アインを見た。
「それでも、と思うことは、許されますか」
「ああ。止める理由はない」
短い言葉だった。
ステファニアは、一度だけ目を閉じた。
しばらくして、リシアは口を開いた。
「……では、訓練を受けます」
自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。
「お願いします」
クラウディアが、リシアを見た。
「承知しました」
ステファニアが続いた。
「私も」
セラは、少し遅れた。
「……私の場合は、何をすればよいのですか」
「すでにほぼ目覚めています」
メディナが答えた。
「今後は、その状態を安定させること、扱い方を覚えることが主になります」
「扱い方」
「今のあなたの身体は、以前と違う動き方をします。知らないまま使い続けると、自分でも制御できない場面が出てきます。それを防ぐための訓練です」
セラは、一拍置いた。
「分かりました」
クラウディアが、少しだけ表情を変えた。
「もう一つ、お話があります」
懐から、三つの封書を取り出した。
それぞれに、名前が書いてあった。
「ご家族から、お手紙をお預かりしております」
部屋が静かになった。
「今お読みになられますか」
リシアは、封書を見た。
父の字だった。
「……はい」
少し間を置いてから、手を伸ばした。
ステファニアはすぐに受け取った。
セラは、自分の名前が書かれた封書を見た。一瞬だけ、何かが止まったような顔をした。それから、受け取った。
アインが、静かに部屋の端に移動した。メディナとリジェナ、リジェスカも、それに倣うように壁際に立った。
クラウディアだけが、扉の手前で待った。
三人は、それぞれの手紙を読んだ。
音のない時間が流れた。
窓の外の光は、変わらなかった。
リシアは、父の手紙を読み終えてから、少しの間そのままでいた。
しばらく預かってほしい、と書いてあった。
それだけではなかった。もっと短い言葉が、最後に書いてあった。父らしい、短い言葉だった。
声に出すつもりはなかった。
出さなかった。
ただ、少しだけ、手紙を持つ手に力が入った。
三人が読み終えたのを確認してから、クラウディアが口を開いた。
「もう一つ、お伝えしておくことがあります」
声が、少し変わった。穏やかなままだったが、情報として告げる声になった。
「あの日、あなた方を襲った者たちについて、調査が完了しました」
リシアは、手紙から顔を上げた。
「頭目は捕縛済みです。証拠と自白が取れています」
「……正体は」
ステファニアが言った。
「帝国の偽装兵です」
部屋が静かになった。
セラが、微かに息を吐いた。
「グランカーン帝国の、ということですか」
「はい」
クラウディアは短く答えた。
「表向きは別の装備を使っていましたが、証拠から身元が確認されました。ファーランドへの動員の兆しについても、現時点での情報は把握しています」
ステファニアは、静かに考え込んだ。
リシアは、手紙に目を落とした。父の最後の短い言葉の意味が、少しだけ変わって見えた。父はこれを知った上で書いたのだと、気づいた。
「……ありがとうございます」
リシアが言うと、クラウディアは頷いた。
しばらく間があった。
リシアは、手紙を膝の上に置いた。
「一つ、お伝えしておかなければならないことがあります」
クラウディアが、視線を向けた。
「私たちは、一ヶ月と一週間後に、聖王国にある学院へ向かわなければなりません」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
「入学の期日があります。それまでには、戻らなければならない」
アインが、壁際から聞いた。
「学院というのは」
「はい。聖王国の学院です。貴族の子女が学ぶ場所で、私とステファニア様は今年から入学することになっています」
アインは、クラウディアを見た。
クラウディアは、すでに何か考えている顔をしていた。
「分かりました」
短く言った。
「一ヶ月と一週間、ということですね」
「はい」
クラウディアはメディナを見た。メディナは小さく頷いた。
「期間は短いですが、何もしないよりは違います。できることをやりましょう」
クラウディアが言った。
リシアは、アインを見た。
一ヶ月と一週間。それだけの時間で、何かが変わるかどうか、まだ分からなかった。
それでも、やると決めた。
それで十分だと思った。




