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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第十八夜 選ぶ夜

第十八夜 選ぶ夜


 廊下に、二名が待っていた。灰白色の医療服とは違う装備だった。


「任務ご苦労さまでした」


 クラウディアが言うと、一方が三通の封書を差し出した。


「全て回収できました。向こうの反応はいずれも概ね想定の範囲です。現在、他のメンバーはそれぞれの指示のもとで行動中。近日中に結果が得られるかと」


「分かりました」


 封書を受け取って、クラウディアは扉を見た。


 アインが、すでに扉の前に立っていた。



 誰も、しばらく何も言わなかった。


 メディナが告げた言葉は、部屋の中に静かに残っていた。


 リシアは、セラを見ていた。


 セラは、メディナを見ていた。その表情は、驚いているというより、何かを確認しているような顔だった。


 ステファニアは、視線を落としていた。


 リジェナが、静かに動いた。


 折り畳まれた布を手に取って、ポッドのそばに立つ。


「セラ様。お着替えをお手伝いします」


 セラが視線を向けた。


「……ああ」


 短く言って、素直に腕を通した。リジェナが手際よく病衣を整えた。リジェスカはそちらを見ないようにしていた。


 それだけの動作が、部屋の空気をわずかに動かした。


 リシアは、なんとなく息がしやすくなった気がした。


 端末が、小さく鳴った。


 メディナが確認した。


「……参りました」


 それだけ言った。


 扉が、音もなく開いた。


 最初に入ってきたのは、クラウディアだった。


 黒い装備ではなく、落ち着いた色合いの服を着ていた。リシアがここで会う時はいつもそうだった。表情は穏やかで、部屋を一度だけ見回した。


 セラを見た。


 ほんのわずかに、目が和らいだ。


 次に入ってきたのは、アインだった。


 リシアは横目で、セラを見た。


 セラがアインを見ていた。


 何も言わなかった。ただ、一度だけ目線が上から下まで動いた。騎士として人を見る時の、静かな動作だった。


 少しだけ間があった。


 セラが、アインを見たまま口を開いた。


「リシア様をお助けいただいたのは、あなたですか」


 部屋が静かになった。


 アインは、一拍置いてから答えた。


「そうだ」


 セラは、一度だけ目を閉じた。開いた。


「……ありがとうございます」


 それだけ言った。


 リジェスカが、視線をわずかに天井へ向けた。クラウディアは表情を動かさなかったが、その口元に何かが通り過ぎた気がした。


 アインが部屋の中に入った。


 リシアたちの前に立つと、思ったより小柄だった。あの夜、草原の暗がりで見た時の印象とは少し違う。それでも、立っている場所の空気が、他の人と違う感じがした。重さ、とも違う。ただ、そこにいるというだけで、何かが変わる感じ。


 うまく言葉にできなかった。


「目が覚めて、よかった」


 アインがセラに言った。短い言葉だった。


 セラは頷いた。それだけだった。


 クラウディアが静かに前に出た。


「改めて、ご説明します」


 メディナを一度見た。


「医療の観点からはメディナに引き続き説明をお願いします。背景については——」


 クラウディアが、わずかにアインを見た。


 アインが、前に出た。


 話は、長かった。


 メディナが検査の結果を改めて整理した。搬入時から現在までの数値の変化。標準値との乖離。自己修復の速度。それらを、三人に向けて丁寧に説明した。


 アインが、そこに言葉を足した。


「ベルカには、体の中に因子を持つ血統があった」


 短かった。


「意図してやったことだ。ベルカは人の設計図を書き換えた」


「母から子へ受け継がれる部分に手を加えた。時間をかけて、血統に根を張った」


 リシアは、黙って聞いていた。


「お前たちの体にも、その痕跡がある」


 一拍置いた。


「ただし眠っている。存在しているが、機能していない。訓練と経験で、変えることができる」


「目覚めさせる、ということですか」


 ステファニアが言った。


「ああ」


「セラ様の場合は」


 メディナが引き取った。


「すでに、ほぼ目覚めた状態にあります。今回の回復速度は、その結果です」


 セラが、小さく息をついた。


「……ああ」


 独り言のような声だった。


「だから、傷の治りが早かったのですか」


 誰も驚かなかった。


 リジェナが、口元に手を当てた。リジェスカは端末に目を落とした。


 アインは、何も言わなかった。


 一度だけ、セラを見た。


「子供の頃から、ですか」


 クラウディアが、少し目を細めて聞いた。


「覚えている限りは」


 セラは短く答えた。「特別だとは思っていませんでした。そういう体質なのだと」


 クラウディアは、何も言わなかった。


 ただ、その表情が、わずかに何か言いたそうだった。言わなかった。


 リシアは、自分の手を見た。


「私は」


 自分でも、声が出ると思っていなかった。


「……魔法が、使えないのではないのですか」


「使えないのではありません」


 メディナが、穏やかに答えた。


「抑制されている、という方が近い。眠っている因子が、既存の魔法回路に影響を与えています。因子が目覚めれば、状況は変わります」


 リシアは、黙った。


 ずっと、才能がないのだと思っていた。四系統の魔法を扱えないことを、そういうものだと思っていた。抑えられていたとは、考えたことがなかった。


 うまく、整理がつかなかった。


「……そうですか」


 それだけ言った。


 ステファニアが、リシアを横目で見た。何も言わなかった。


「訓練を受ければ」


 ステファニアが、クラウディアに向けて言った。


「どう変わりますか」


「正直に言えば、分かりません。個人差があります。ただ、因子が目覚めた状態と眠った状態では、できることが変わります。それは確かです」


 ステファニアは一度だけ頷いて、少し黙った。


「……もう少し強ければ、何か変わっていたかもしれない、と思うことがありました」


 声は静かだった。感情的でも、後悔でもなかった。ただ、確認するような言い方だった。


「あの日のことを言っているなら」


 アインが言った。


「お前たちは十分に戦った。戦力の問題じゃない」


 ステファニアは、アインを見た。


「それでも、と思うことは、許されますか」


「ああ。止める理由はない」


 短い言葉だった。


 ステファニアは、一度だけ目を閉じた。


 しばらくして、リシアは口を開いた。


「……では、訓練を受けます」


 自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。


「お願いします」


 クラウディアが、リシアを見た。


「承知しました」


 ステファニアが続いた。


「私も」


 セラは、少し遅れた。


「……私の場合は、何をすればよいのですか」


「すでにほぼ目覚めています」


 メディナが答えた。


「今後は、その状態を安定させること、扱い方を覚えることが主になります」


「扱い方」


「今のあなたの身体は、以前と違う動き方をします。知らないまま使い続けると、自分でも制御できない場面が出てきます。それを防ぐための訓練です」


 セラは、一拍置いた。


「分かりました」


 クラウディアが、少しだけ表情を変えた。


「もう一つ、お話があります」


 懐から、三つの封書を取り出した。


 それぞれに、名前が書いてあった。


「ご家族から、お手紙をお預かりしております」


 部屋が静かになった。


「今お読みになられますか」


 リシアは、封書を見た。


 父の字だった。


「……はい」


 少し間を置いてから、手を伸ばした。


 ステファニアはすぐに受け取った。


 セラは、自分の名前が書かれた封書を見た。一瞬だけ、何かが止まったような顔をした。それから、受け取った。


 アインが、静かに部屋の端に移動した。メディナとリジェナ、リジェスカも、それに倣うように壁際に立った。


 クラウディアだけが、扉の手前で待った。


 三人は、それぞれの手紙を読んだ。


 音のない時間が流れた。


 窓の外の光は、変わらなかった。


 リシアは、父の手紙を読み終えてから、少しの間そのままでいた。


 しばらく預かってほしい、と書いてあった。


 それだけではなかった。もっと短い言葉が、最後に書いてあった。父らしい、短い言葉だった。


 声に出すつもりはなかった。


 出さなかった。


 ただ、少しだけ、手紙を持つ手に力が入った。


 三人が読み終えたのを確認してから、クラウディアが口を開いた。


「もう一つ、お伝えしておくことがあります」


 声が、少し変わった。穏やかなままだったが、情報として告げる声になった。


「あの日、あなた方を襲った者たちについて、調査が完了しました」


 リシアは、手紙から顔を上げた。


「頭目は捕縛済みです。証拠と自白が取れています」


「……正体は」


 ステファニアが言った。


「帝国の偽装兵です」


 部屋が静かになった。


 セラが、微かに息を吐いた。


「グランカーン帝国の、ということですか」


「はい」


 クラウディアは短く答えた。


「表向きは別の装備を使っていましたが、証拠から身元が確認されました。ファーランドへの動員の兆しについても、現時点での情報は把握しています」


 ステファニアは、静かに考え込んだ。


 リシアは、手紙に目を落とした。父の最後の短い言葉の意味が、少しだけ変わって見えた。父はこれを知った上で書いたのだと、気づいた。


「……ありがとうございます」


 リシアが言うと、クラウディアは頷いた。


 しばらく間があった。


 リシアは、手紙を膝の上に置いた。


「一つ、お伝えしておかなければならないことがあります」


 クラウディアが、視線を向けた。


「私たちは、一ヶ月と一週間後に、聖王国にある学院へ向かわなければなりません」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


「入学の期日があります。それまでには、戻らなければならない」


 アインが、壁際から聞いた。


「学院というのは」


「はい。聖王国の学院です。貴族の子女が学ぶ場所で、私とステファニア様は今年から入学することになっています」


 アインは、クラウディアを見た。


 クラウディアは、すでに何か考えている顔をしていた。


「分かりました」


 短く言った。


「一ヶ月と一週間、ということですね」


「はい」


 クラウディアはメディナを見た。メディナは小さく頷いた。


「期間は短いですが、何もしないよりは違います。できることをやりましょう」


 クラウディアが言った。


 リシアは、アインを見た。


 一ヶ月と一週間。それだけの時間で、何かが変わるかどうか、まだ分からなかった。


 それでも、やると決めた。


 それで十分だと思った。


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