第百七十五夜 皇帝の荷
# 第百七十五夜 皇帝の荷
表示された荷目録の初めには、寝具とあった。
リシアは、少し下まで読んだ。保存食、医療用の備品、交換用の工具。さらに進むと、子供用の衣類を追加した記載がある。
ルカがベルカを離れた時の話を聞くために集まったのに、最初に出てきたのは、引っ越しの支度に似たものだった。
「こちらは、研究設備の目録でしょうか」
『出発時の積荷の控えだ。研究設備は、別にある』
ルカが答えた。
正規の立会いを整えて再開した閲覧前室で、声は前回と同じように聞こえた。鍵スフィアは、アリシア・ファーランドの指示でメイが石台の中央へ置いている。取得するのは、施設成立時の管理記録と、それに関する証言だった。
クラウディアは、表示板へ移す範囲を確かめた。機器の内部構造に続く項目は閉じたまま、荷の分類と受け渡しの経緯が残る。
老司祭は、寝具の行を長く見ていた。
『私についてくると言った研究者の一人に、家族がいた』
「ご家族も、一緒に」
リシアが尋ねると、ルカは頷くような間を置いた。
『幼い子を、研究室の寝台で寝かせるつもりかと叱られた。出発前に』
マキナが顔を上げた。
「誰に?」
『荷を揃えていた者にだ』
「それは、言われるねえ」
クラウディアの視線が、マキナの方へ動いた。
「ボクは、ちゃんと居住区を使ってるよ」
「あなたのことは、まだ何も言っていません」
リシアは目録へ目を戻した。
家族のために追加された荷には、最初とは別の確認が添えられていた。文字の形を読み分けられなくても、他の荷と同じ扱いで運ばれたことは分かる。
その先に、荷全体の搬出を認める記録があった。
アリシア・ファーランドの扇が止まった。
*
「こちらの承認は、どこから」
声は静かだった。
ルカは、目録の末尾を示した。
『皇帝の手元からだ』
記録官の筆が止まった。
アインは石台へ近づき、表示された古い形式を見た。クラウディアも照合結果を確認している。
「俺達の時代より、前だな」
「はい。保存記録の年代と、承認形式はその時代に対応しています」
クラウディアの返答を聞いてから、アインはルカへ尋ねた。
「知っていたのか。何を運ぶか」
『知っていた。生活物資だけを認めたのではない』
閉じられた機器目録の表題が、荷目録の横に並んだ。
その中に、SEAKの記録保全と管理に関わる項目があった。
『これを積むように言ったのは、皇帝だ』
リシアは隣のステファニアを見た。
ステファニアは、表示から目を離さなかった。膝に重ねた手の、上になっている指が少しだけ動く。
「ベルカの外へ、お出しになるために」
『そうだ』
灰色の衣の女性が、ようやく口を開いた。
「ルカ聖王が持ち出されたものを、皇帝が認めていたと」
『公に、私の出発を祝いはしなかった。だが、荷は届いた。運ぶ者も、道中で必要な手配も、私達だけで揃えたものではない』
アリシア・ファーランドは、閉じた扇を置いた。
「何を託されたのですか」
ルカの返事が、少し遅れた。
『帝国の外で、帝国の判断を確かめる場所を』
*
ルカは、先に自分の失敗から話した。
『私は、制御できると断じたことがある』
マキナの表情から、軽さが薄れた。
『装置は動いた。取り出せる力も増えた。観測した範囲では、説明のつかない破綻は見つからなかった。それを、問題はないという言葉で済ませた』
「観測した範囲、か」
『後になって、その範囲そのものを疑う必要が出てきた』
ルカはそこで、少し言葉を止めた。
『先に、そこが危ないと言った者がいた。私は、制御の問題なら解けると答えた』
「揉めたんだ」
『何度も。同じ記録を見ていたのに、次第に、相手が何を見落としているかばかり探すようになった』
マキナは口を挟まず、続きを待った。
『最後には、研究の話より、互いの言い方に腹を立てていた気がする。もっと落ち着いて説明しろと、私が言った』
「それで?」
『「私が黙れば、安全になるの」と返された』
マキナが、短く息を漏らした。
「それは、痛いね」
『その時は、そういう言い方をするから話が進まないのだと思ったよ』
声に、苦いものが混じった。
リシアは、書面から目を上げた。ルカは相手の言葉だけでなく、それをどう聞かなかったかまで話している。
「その方は、どうなさったのですか」
『私より先に、帝国を出た。……妹だ』
筆を握る指が止まった。
ルカには、妹がいた。
それまで同じ研究室で議論していた人が、ある日、いなくなった。リシアが思い浮かべたのは、偉人同士の決別より、言い争いの続きをする相手が来なくなった部屋だった。
『出ていく前にも、資料は置いていった。私が読んだものだけで、判断しないようにと』
「読んだの?」
『読んだ。最初は、反論を書くために』
ルカは、少し間を置いた。
『余白に書いたはずの反論が、途中から、調べなければ分からないことの一覧になっていた』
マキナが、ゆっくり頷いた。
『戻ってきたら聞けばいいと思ったことも、あった。だが、いつもの席で待っていれば来る相手ではなくなっていた』
アインは何も言わなかった。
石台の縁に置いていた手を引き、ルカの声を聞いている。
『妹が言ったから、正しいことにしたわけではない。確かめ直すほど、私が言い切るために足りていなかったものが見つかった』
ルカは技術式を開かなかった。
代わりに示したのは、報告をまとめる際の表題と、結論に付された留保だった。調べられていない領域がある。影響が遅れて現れる可能性を排除できない。その二つは、後から加えられている。
『私にも、認めるのが遅かったという自覚はある』
「うん」
マキナは短く答えた。
「動いてくれるとね。まだ見てないところも、大丈夫な気がしてくる」
『君にもあるか』
「あるよ。だから、ボクの説明だけで済ませない人がいる」
クラウディアは何も言わず、古い留保の記載を見ていた。
リシアには、その沈黙の方が、長い説明より分かりやすかった。
ルカは話を続けた。
『帝国では、出来ることが増えていた。工場も、輸送も、生活を支える設備も、成果を求めていた。研究室の判断一つで、働く者や物資の行き先が変わる』
「簡単には、止められなかったのですね」
ステファニアが言った。
『止めた後を問われれば、私も十分な答えを持っていなかった。それでも調べ直すべきだと言うと、ではいつ答えが出るのかと聞かれた』
ルカは、そこで一度黙った。
『私も、以前は同じように聞いた』
老司祭が目を上げる。
『間違いを言う者だけが、別の部屋に集まっていたわけではない。同じ研究室で、昨日まで私が使っていた言葉だ』
リシアは、自分の書面に書きかけた線を止めた。
帝国を離れた正しい人、とだけ記せば、今の言葉が抜け落ちてしまう。
少し余白を取り、ルカが最初に何を信じていたかを書き添えた。
*
皇帝に呼ばれた時、ルカは、研究を続ける条件を詰められると思っていたという。
広い謁見の場ではなかった。
ルカが見せたのは映像ではなく、その時の会話を後に書き留めた記録だった。卓上に報告が置かれていたこと、皇帝が最初に尋ねた言葉が、記憶として残っている。
『本当に危険なのか、と問われた』
「何と答えた」
アインが聞いた。
『安全だと言い切った時より、多くの疑問を持っていますと答えた』
アインは動かなかった。
ルカは、当時の自分の言葉を辿った。
危険を確かめるためには観測を続けなければならない。だが、その観測のために、疑っている機関を無制限に動かしてよいわけでもない。
残したい記録がある。
他の結論を出した者でも、同じ資料に戻れる場所が要る。
そう説明する間、皇帝は報告を閉じなかった。
『皇帝は、私を正しいと認めたわけではなかった』
ルカが言った。
『「では、お前が間違っていた時は、誰が確かめる」と聞いた』
マキナが小さく息を吐く。
「いいところを突くね」
『不愉快だったよ』
「だろうねえ」
『答えに詰まった』
少しして、ルカは付け加えた。
『反対する者なら、前にもいた。その者の言葉を、私は聞けなかった。外へ出て、同じことをしないと、すぐには答えられなかった』
リシアは、石台の光を見た。
後世には誓約として伝わるものを残した人が、まだ、その答えを持っていなかった時の話をしている。
『皇帝は、私に従う者だけを集めた研究室を、もう一つ作ってほしかったのではない。私の結論も疑えるよう、資料を残せと言った』
「失敗した記録も」
アインが言った。
『私が不要だと思ったものも、だ』
ルカの声に、今度は微かな苦笑が混じった。
『運ぶ量が増えた』
「そっちを気にしたんだ」
『限りはあったからな。だが、残さずに出たなら、昨日の担当者に、失ったものも書いておけとは言えなかった』
荷目録の片隅に、追加の記録媒体を示す項目があった。
『妹が置いていった資料も、その中にある。私が書き込んだ反論ごと』
「消さなかったんだ」
マキナが言った。
『消したら、私がどこで読み違えたか分からなくなる』
今度は、誰も笑わなかった。
寝具と衣類を増やしたのと、同じ旅の支度だった。
*
「陛下御自身が、お止めになることはできなかったのでしょうか」
リシアは口にしてから、背筋を伸ばした。
公女として、軽く問えることではないと思った。
皇帝が認めなければ、運び出せないほどのものがあった。その皇帝が、危険だと思う研究を止める代わりに、研究者を外へ出した。
ルカは問いを退けなかった。
『一つの命令で止められる仕事はあった。すべての者が、次の失敗まで含めて正直に報告するようになる命令は、なかった』
リシアは父の執務室を思い出した。
同じ出来事でも、誰が先に説明するかで、聞こえ方が変わる。帳面の数が揃っていても、現場に物があるとは限らない。
ルカは続けた。
『皇帝も成功を求めていた。求めた者の手元だけで、成功したという報告を確かめてよいのか。その疑いを持っていたのだと思う』
「そう、おっしゃったのですか」
『これは、私の受け止めだ。言葉として覚えているのは、別にある』
リシアは書き分けるために、筆を持ち直した。
『「私の望む答えしか戻らなくなった時、お前のところからは違うものが届くようにしておけ」』
誰も、すぐには声を出さなかった。
アリシア・ファーランドは扇へ手を伸ばさず、目録を見ていた。
「随分と、厄介な荷をお預けになりましたのね」
『私もそう思う』
「御自身にとっても、ですわ」
ルカが黙る。
アリシア・ファーランドは、皇帝の承認を示す箇所へ目を向けた。
「後でお気が変わっても、外へ出した問いは、簡単にはお戻しになれませんもの」
『だから、公にはしなかったのだろうな。支援の全てを表へ出せば、私の答えも皇帝が言わせたものとして扱われかねない』
灰色の衣の女性が、目録とルカの言葉を別々の紙へ控えていた。
支援を示す記録と、支援した人が何を考えていたか。
同じ確かさで一行にまとめるには、まだ違いがあった。
*
「国を捨てるつもりだったのか」
アインの声で、ルカが話を止めた。
リシアは顔を上げた。責めているようには聞こえなかったが、アインは目録から目を離していた。
光の奥へ、直接尋ねている。
『捨てたつもりなら、皇帝から預かったものを、ここまで守りはしない』
返事は短かった。
アインは頷かなかった。続きを待った。
『私は、あの場所から離れたかった。自分の見落としを、同じ成功の中で忘れてしまいそうだったからだ。だが、暮らしていた人々まで捨てるために出たわけではない』
「戻ることは」
『考えていた。確かめたことを持って戻り、次の判断を変えられるなら、その方がいいと思っていた』
アインは、荷目録の衣類の行へ視線を落とした。
『皇帝は、私に外へ出ろとだけ命じたのではない。出ると決めた私が、途中で立ち行かなくならないようにした。ついてくる者の暮らしまで含めて』
荷を見ていた老司祭が、両手をゆっくり重ねた。
「こちらの始まりを、帝国との断絶だけで語るのは、足りなかったのですね」
『少なくとも、その荷は、ベルカから届いた』
ルカは言った。
『全ての時代のことを、私の出発だけで説明はできない。後にここを守った者達にも、それぞれの判断があったはずだ』
聖女アリシアが顔を上げた。
「今、ここで祈っている方々のことも、でしょうか」
『私は、その人々の暮らしをまだよく知らない。今日来ている君達の話から、少しずつ聞いている』
「はい」
聖女アリシアは、静かに頷いた。
老司祭の手が、少し緩んだ。
リシアはその横顔を見た。始まりを知ることで、今まで守ってきた全てを取り上げられるのではないかと、案じていたのかもしれない。
*
施設を作り始めた頃の記録には、水を引く作業が載っていた。
機器を置く部屋の準備より、先に済ませるよう追記がある。書いた者の名はルカではなかった。同行者がまとめた作業順を、ルカが承認している。
『私は、観測を始める場所ばかり見ていた』
マキナが目を細めた。
「最初に機材を運び込んだ?」
『運び込もうとした』
「止められたんだ」
『飲む水も決まっていないのに、誰を泊めるつもりかと言われた』
マキナは笑い、それから、少しだけ視線を逸らした。
クラウディアは追及しなかった。
リシアは、水の記録を読む。前回取得した受入れ広場の運用そのものより古く、まだ整っていない敷地へ、人と荷を入れるための支度だった。
後に増えた規則も、後から変えた場所もある。
それでも、人が留まれるようにすることが、最初の仕事に含まれていた。
「昨日の修繕担当の方も、知ったらお喜びになると思います」
リシアが言った。
『何をだ』
「最初から、ルカ様お一人で全部をお作りになったのではないと」
言い終えてから、リシアは少し慌てた。
「いえ、功績を軽く申し上げるつもりでは」
『分かる。昨日も、私には分からない音を教わった』
ルカの返事に、マキナが笑った。
アリシア・ファーランドも、口元を少し和らげた。
「皆様の仕事を残すために持ってこられたものが、役に立ちましたわね」
『ああ』
ルカは、荷目録の表題をもう一度示した。
『運んだ甲斐はあった』
*
終わりに近づいてから、アインが一つ尋ねた。
「皇族がここへ辿り着ける道を残したのも、そのためか」
鍵スフィアを囲む光が、細く揺れた。
『責任を負う立場の者が、何を止め、誰を逃がすべきか、説明を聞く場所へ来られるようにした。皇帝の名が、その道を開く手掛かりになる場合もある』
ルカは一拍置いた。
『だが、血を継いだ者が、正しい答えを持っているとは限らない』
「そうだな」
アインはすぐに答えた。
ステファニアが、石台へ目を向ける。
「だから、辿り着いた後にも、他の方が止められるのですね」
『私の時代の者だけで決めた通りに、未来が残るとは思わない方がよかった。今の管理者がここにいることも、君達が一人で来なかったことも、私は確かめたい』
灰色の衣の女性が顔を上げた。
アリシア・ファーランドは、彼女へ目を向けてから言った。
「お預かりした経緯が分かったからといって、今この場で、持ち帰りますとは申しませんわ」
『それは助かる。まだ、この土地で働いているものがある』
アインが頷いた。
「ここで使うものは、ここで確かめよう」
その言葉を、エレナが書き留めた。
*
持ち帰る写しを分けた後、接続は閉じられた。
メイが鍵スフィアを回収し、布の端を重ねる。アリシア・ファーランドが立つと、メイもそのそばへ戻った。
灰色の衣の女性は、荷目録の分類と、施設成立時の記録の所在を控えていた。公開の扱いは、記録を預かる者達で検討するという。
アイン達が廊下へ出ると、離れた戸口から水桶を運ぶ音が聞こえた。
リシアは、そちらを見た。
古い図にあった水源と、今使っている水は、まだ繋がったと確かめられたわけではない。固定された蓋を開けてもいなかったし、古い道の先には現在の住人がいる。
「ステファニア様」
「はい」
「次は、今、水を運んでいる方のお話を聞きたいです」
ステファニアは、桶が運ばれていった戸口へ目を向けた。
「現地の方に、ご都合を伺いましょう」
アインも足を止めていた。
「俺も行く」
それから、少し遅れて続いてきたアリシア・ファーランドを見た。
彼女は、写しを抱えたメイの手元に目を落としている。
「知らなかったな」
アインが言った。
「ええ」
アリシア・ファーランドは顔を上げた。
「ベルカの外にも、託していた方がいらしたのですね」
アインは短く頷いた。
廊下の向こうで、空になった桶が床へ置かれた。
メイが抱える写しの一番上には、寝具と保存食の目録がある。
皇帝が送り出した荷は、今のリシアにも、何のためのものか分かった。




