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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百七十六夜 水を運ぶ道

# 第百七十六夜 水を運ぶ道


 桶は、持ち上がった。


 思ったより軽い、と感じたのは、最初の一歩までだった。


 リシアが足を進めると、水面が遅れて傾いた。次の一歩で戻ってきた水が縁を叩き、靴の先に冷たいものが落ちる。


「あまり急がない方がいいですよ」


 先を歩く男が振り返った。


 肩に担いだ棒の両端で、二つの桶が静かに揺れている。リシアのものより多く入っているのに、こぼれる気配がなかった。


「はい」


 リシアは歩幅を狭めた。


 ステファニアが隣へ並ぶ。


「お持ちしましょうか」


「持てます。ただ、中が」


「動きますね」


 二人で水面を見た。


 もう一度進む。今度は足を止める方が急になり、水が反対の縁へ寄った。


 背後から、アインが一つ桶を持って追いついた。


「止まる時も、ゆっくりだ」


「分かりました」


 リシアは、言われた通りに足を運んだ。


 持ち上げる力だけなら足りていた。だが、水はこちらの都合に合わせて、すぐには止まってくれない。


     *


 礼拝施設へ水を届ける男に、仕事の合間の話を頼んだのは、前日のことだった。


 朝の運びを済ませてからなら、と返事が来た。では道中から見せてもらえないかと尋ね、今日は管理者の案内で、普段使っている水汲み場まで来ていた。


 水場は古い図にあった貯水設備とは別で、礼拝施設から少し離れた坂の上にある。


 そこから運ぶ道も、古図の線とは重ならない。


 クラウディアは通りの端で足を止め、現在の道と取得済みの図を見比べていた。マキナが横から何かを言いかけ、男の後を追って歩き出す。


 今日は鍵スフィアを使わない。メイが布包みを保持し、アリシア・ファーランドのそばにいる。


 聖女アリシアは、空いた桶を持って施設側の手伝いと歩いていた。


「飲む水は、みんなここからですか」


 リシアが尋ねた。


「この辺りの家は、別の井戸も使います。うちは頼まれた先へ。礼拝所と、その隣の家には毎朝です」


 男は肩の棒を少しずらした。


「古い水が使えるようになるんですか」


 後ろで、老司祭が顔を上げた。


 マキナが首を振る。


「まだ分からないよ。残ってる場所と、今どう使ってるかを見に来たところ」


「そうですか」


 男はすぐ前へ向き直った。


 少し歩いてから、付け加えた。


「近くなるなら、助かる人はいるでしょうね。坂を下りるより、空を担いで上る方が楽なんですが、それでも毎日ですから」


 リシアは、曲がり角の先を見た。


 水を汲んだ場所からは、まだ半分ほどしか来ていなかった。


     *


 古い道が通っていた辺りには、家が建っていた。


 戸口の前に薪が積まれ、その向こうで布が干されている。朝の光を受けた白い布が、古図の線を横切って揺れた。


 リシアは少し前まで、地図に線を引けば道があるように感じていた。


 ここで引けば、誰かの家を通り抜けてしまう。


「こちらは入ってもよいのですか」


「表の台までなら。いつもそこへ置きます」


 男は、門柱に添えられた板を顎で示した。


 家の奥から、袖をまくった女が出てきた。老司祭の顔を見て会釈し、その後に続く人数に少し驚く。


「朝から、何か」


「前にお話しした、古い施設の確認です。今日は水を運ぶ道から見せていただいています」


 老司祭が説明した。


 女は頷いたが、干した布へ目をやった。


「庭も見ますか。今はちょっと、広げておりまして」


「急ぎません」


 リシアは答えた。


「まず、桶をどちらへ置けばよいでしょう」


 女が、門脇の低い台を指す。


 リシアはそこへ桶を下ろした。最後に傾けないよう両手を添えると、女が近づいて口元を緩めた。


「そこまで入っていれば、十分です。初めは大抵、半分になりますから」


 リシアは濡れた靴を見ないことにした。


 アインが隣へ桶を下ろす。


 こちらは縁の近くまで水が残っていた。


「こちらもですか。ありがとうございます」


「どこに移す」


「そこへ置いてくだされば、私が」


 女の言葉が終わる前に、男が台の奥へ回った。


「大きい甕が空いてるでしょう。そこまで運びますよ」


 毎朝のやり取りらしかった。女は戸を広く開き、足元の板を退けた。


 アインも場所を聞いてから、桶を持ち直した。


 リシアは通りへ一歩戻り、入口を空けた。


 届け先まで来ても、水を運ぶ仕事はまだ終わっていなかった。


     *


 桶が空になるのを待つ間、マキナが台の脚元を見ていた。


 木の台を支えているのは、灰色の石だった。二つの石が、少し離れて並んでいる。片方は布を干す支柱の陰に入り、上には後から板が渡されていた。


「この石、動かした?」


 戻ってきた女が首を振った。


「私が来た時から、ここに。板の方は替えましたけれど」


「下を少し見てもいいかな」


「桶の置き場なら、構いません。洗い桶を退けましょうか」


「お願い」


 女が洗い桶を持ち上げると、その下に浅い窪みが現れた。


 マキナはしゃがみ、触れずに形を見る。次に、礼拝施設の壁へ目を向けた。


「クラウ。物置で見た窪み、控えはあるよね」


「あります」


 クラウディアが取得済み記録を呼び出した。


 リシアの視覚拡張端末にも、現物の輪郭と別の色で、古い図が現れる。女は光の線を見ていなかった。マキナの視線を追って、石と壁を交互に眺めている。


 クラウディアは、そのことに気づくと、携えてきた見取図の写しを示した。


「この印と比べています。調べたいのは、こちらの二つの石と壁までです」


「家の中は?」


「入りません」


 女は、ようやく肩の力を抜いた。


「なら、布を少し寄せますね」


 白い布が一枚、畳まれた。


 石の内側に、細長く削られた部分が見えた。


     *


 マキナは、掃いてよい範囲を女に確かめた。


 小さな刷毛で土埃を払い、表面を露出させる。古い傷に道具を差し込むことはせず、片側の窪みと、もう片側の窪みを見比べた。


「何かを、ここへ渡してたんだね」


「今も板を渡していますけれど」


「うん。でも、前はもっと細くて、端がここに収まるもの」


 男が、肩から棒を下ろした。


「ああ、樋を置く石だって、昔は言ってましたね」


 マキナが顔を上げた。


「誰が?」


「前にここへ住んでいた婆さんです。水が流れたのを見たとは言ってませんでしたが」


 リシアはその言い方を覚えておこうと思った。


 伝わっていた名前と、実際に見たことは違う。


 クラウディアが、石の間隔と壁からの位置を測っていた。礼拝施設の管理者にも声を掛け、敷地側から見える壁の窪みを確かめる。


 前回の外観記録へ、新しい位置が加わった。


 トトの返答は、クラウディアの携帯表示器へ短く現れた。SEAKへ新たに接続したのではなく、取得済みの図との比較だった。


 クラウディアが女達へ説明する。


「古い配水場所の図に、この組合せがあります。樋の受けが二つと、その根元に当たる壁の口。向きと間隔が一致します」


 マキナが頷いた。


「石の形もね。置き直した跡がないかは、もう少し見る必要があるけど、この一組は古い配水場所の遺構として照合できる」


 リシアは、木の板が載っていたところを見た。


 古い図には、人へ水を渡す場所として描かれている。


 今も、桶を置いていた。


「ここで、水を受け取っていたのですね」


「そのための樋を支える場所だね。水が今も来てるって話ではないけど」


 マキナは、壁の口を指した。


 そこは、後から詰められた石と固い目地で塞がっていた。


「この先は、今日は触らない」


 女が壁を見る。


「そこを抜くと、物置の方へ?」


「繋がっていた可能性はある。でも、中は見ていないから、まだ分からないよ」


 マキナは立ち上がり、膝の埃を払った。


「まず一つ、場所が分かった」


     *


 老司祭は、配水場所と記した紙を見ていた。


「庭の外れだと思っておりました」


 女が頷く。


「私も、物を置くのに丁度よいところだと」


 リシアには、それが不思議に嬉しかった。


 名前を忘れても、水桶を下ろす高さは使いやすかったのだろう。道を歩いてきた腕には、あの台があるだけで助かった。


 けれど、女の表情は、まだ少し固かった。


「昔の大事なものだと、使えなくなりますか」


 リシアは答えかけて、口を閉じた。


 自分の領地でも、自分が預かっている庭でもない。


 老司祭が封印部の案内役と顔を見合わせた。


「こちらで、現状の扱いを確認します。今日の発見だけで、家の方を追い出したり、台を取り上げたりはしません」


 女は、アリシア・ファーランドを見た。


 アリシア・ファーランドは閉じた扇を手元に収めたまま、頷く。


「わたくし達からも、そのようなことは求めませんわ。お暮らしの場所を見せていただいたのですもの」


「そうですか」


 女は息を吐いた。


 リシアが尋ねる。


「今日伺ったことも、記録に添えてよろしいでしょうか。今はどなたが使い、何を置く場所になっているのかを」


「それは、どうぞ。物置の荷もここを通しますから、そのことも」


 エレナが筆を動かした。


 古い配水場所。


 現在は、水桶と荷の受け渡しに使う台。


 同じ紙に書かれた二つの用途を、リシアは指で追った。


     *


 調べ終えると、マキナは退けたものを戻す前に女を呼んだ。


「元は、この位置?」


「もう少し手前です。奥へ寄せると、洗い桶が傾きます」


「ここかな」


「はい」


 板が元の位置へ戻った。古い石の窪みは、再び見えなくなる。


 リシアは一瞬、惜しいと思った。


 だが、その板の上へ空の桶が置かれると、女はいつもの手つきで持ち上げた。


 必要な形を控えた今、見えるようにしておくために暮らしを変える必要はなかった。


「こんな遠回りを、毎日なさるのですね」


 ステファニアが男へ言った。


「荷車なら表通りから来ます。桶だと、この裏の方が近いので」


「図では、以前はこの先から広場へ出られたようですが」


 リシアは家の奥を指さず、手元の紙の上で線を辿った。


 男が覗き込む。


「今は出られませんね。その向こうには塀がある」


 女も紙を見た。


「ただ、表から入ると、雨の日は低いところへ水が溜まります。礼拝所へ来る人が増えた時は、桶を運ぶ者と、待つ人が重なりまして」


 老司祭が顔を上げた。


「入口のところですか」


「はい。私達は裏へ回れますが、初めて来た人には分かりませんから」


 リシアは、現在の見取図を出した。


 古い線の上へ新しい線を重ねず、別の紙を女の前へ置く。


「どこでお待ちになりますか」


 女は指を伸ばし、表の入口を示した。


 水を受け取る台がどこにあったかより、今、人がどこで足を止めるかの方が、すぐには見えなかった。


     *


 礼拝施設へ戻ると、男は残りの水を引き渡した。


 聖女アリシアが空桶を受け取り、入口脇へ寄せる。ちょうど中から出てきた老人が、その分だけ広くなったところを通った。


 リシアは、女が示した場所に立ってみた。


 桶を受け取る者が一人。荷を運び込む者が一人。そこへ人が待てば、戸の前が塞がる。


「ここですね」


 ステファニアが隣へ来た。


「ええ。列だけを整えても、運び込む時には横切ります」


 老司祭が、水を預かる手伝いを呼んだ。


 普段の置き場所と、人が多い日のやり方を聞く。手伝いは少し考え、戸口から離れた軒下の台を指した。


「あちらへ先に受けて、私達が中へ運べば。普段は、空の桶を置いています」


「空桶は?」


「反対の壁際へ。ただ、扉の前までは置かないようにします」


 老司祭はその場で確かめ、今日はその置き方を試してみることにした。


 アインが、空桶を二つ持ち上げる。


「こっちか」


「はい。重ねていただければ」


 リシアも一つ運んだ。


 水が入っていない桶は、足を止めても素直だった。


 手伝いが笑う。


「楽でしょう」


「大変よく分かります」


 思ったより力を込めて答えてしまい、リシアは口を閉じた。


 ステファニアが目を伏せた。


 新しい受け場所へ、男が最後の桶を置いた。手伝いが中へ運ぶ間にも、戸口を人が通れる。


 古い道を開けずに、今日の運び方が少し変わった。


 雨の日や人が増えた時にも同じでよいかは、ここで働く者が見ていくことになった。


     *


「では、私は次の家へ」


 男が空桶を担いだ。


 リシアは礼を言ってから、もう一つだけ尋ねた。


「水汲み場が使えない時は、どうなさるのですか」


「長雨で濁った時ですか。別の井戸からです。それも駄目なら、荷車で買って運びます」


「遠いのですか」


「渡し場の手前です。水を売る者がいるので。道が使えれば、ですけどね」


 リシアは、書面の端を押さえた。


 渡河設備の記録は、まだ表題と関連先しか見ていない。


 今の男の話だけで、古い記録と同じ場所だとは分からなかった。けれど、こちらの水が足りなくなった時、どこから運ぶのかという問いが、初めて具体的な行き先を持った。


「今度、そちらの道も教えていただけますか」


「私の行く日でよければ。荷車の方が通る道は、また違いますよ」


「その道を、知りたいです」


 男は頷き、次の家へ歩いていった。


     *


 帰る前に、クラウディアが今日の照合結果を示した。


 旧配水場所の樋受けと、壁の口の位置を確認。


 現在の水源は別。塞がれた口の内部、貯水部との連絡、古い水の状態は未確認。


 その下に、エレナが住人の言葉を添えた。今は桶と荷を受け取る場所であり、今後の調査も暮らしの都合を聞いてから進める。


 マキナは、石の輪郭をもう一度見た。


「ルカにも、この板の方を見せたいね」


「石ではなく?」


 リシアが尋ねる。


「石も。でも、今もここで水を受け取ってるって、教えたいじゃない」


 アインが頷いた。


「持っていこう」


 今日の記録を、という意味だった。


 アリシア・ファーランドは、布包みを抱えたメイへ目を向けてから、リシアの紙を見た。


「次の問いも、出来ましたわね」


「はい。水が来なくなった時に、どうやって運ぶかを」


 リシアは答えた。


 古い記録を開くためだけに考えた問いではなかった。朝、坂の上で汲んだ水が、この戸口まで来なくなったら。今日会った者達は、どうするのか。


 その続きを、聞きたかった。


 靴の先は、まだ少し湿っていた。


 リシアは紙を畳み、今度は空いた両手で裾を整えた。


 帰り道の曲がり角には、朝と同じ石があった。


 そこへ来ると、自然に歩幅が狭くなった。


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