第百七十四夜 返事のある頁
# 第百七十四夜 返事のある頁
修繕担当の女は、帳面を膝の上で開いたり閉じたりしていた。
地下では迷わず道具を扱っていた手が、今日は頁の端を探している。リシアが隣の椅子を引くと、女は礼を言い、ようやく帳面を机へ置いた。
「昨日、印を挟んでおいたのですが」
革紐は、初めから見えていた。
リシアはそこを指さず、自分の書面を広げた。
申請を済ませ、再び入った閲覧前室には、地下で控えた外観の記録と、封印部が保管してきた修繕報告の写しが運ばれている。古いものは傷みが強く、綴じたまま開ける角度にも気を遣った。
灰色の衣の女性が女の向かいへ座る。
「今日は、あなたの報告として届けます。言葉が違っていたら、その場で直してください」
「はい」
女は頷いたが、帳面の表紙を押さえる指はまだ固かった。
石台の前で、アリシア・ファーランドがメイへ目を向けた。
「お願いしますわ」
メイは布を解き、鍵スフィアを中央へ据えた。所有者のそばへ戻ったところで、三者の立会人がそれぞれ確認を終える。
銀色の光が溝を満たした。
リシアの視覚拡張端末には、前回辿った管理記録の先に、細い枝が一本増えたように見えた。立会人と修繕担当のためには、外部閲覧用の表示板が机の端へ向けられている。
ステファニアが息を整えた。
「保守照合点から、報告先へ繋がっています」
『提出用の写しを分離。対話以外の操作接続はありません』
トトが返した。
クラウディアは接続範囲を確かめ、アインへ頷いた。
アインは、女の方へ半歩退いた。
「今日は、この人が聞く」
*
最初に照合されたのは、古い報告の行き先だった。
封印部の受領目録と、SEAK側に残る報告目録が並ぶ。紙の方には続きがあるのに、光の方は途中で途切れていた。
リシアは日付の欄を見比べた。使われている暦も、報告を束ねる単位も違う。記録官が一つずつ対応を確かめる間、女は口を閉じて待っていた。
やがてトトが、照合できた範囲を示した。
『今回持参された修繕報告の本文は、照会可能な保守記録内には確認できません。封印部での受領番号と、こちらの収録番号は別のものです』
灰色の衣の女性が、紙に記された照会先を指で辿った。
「ここへ出せば、上へ届くものとして扱ってきました」
声に、言い訳めいた響きはなかった。
「ですが、この番号で確かめられるのは、封印部が預かったことまでです」
女は帳面を見下ろした。
「では、あの方は」
最後まで言わず、唇を閉じる。
アインが石台を見た。
「今、渡せるか」
『現管理者の報告として、受領可能です』
「渡そう」
女が頷くのを待って、控えの写しが送られた。
昨日見た赤い札の姿、受けの擦れ、取り替えた部品の絵。修繕担当が読み合わせて訂正した一行も、そのまま含まれていた。
リシアは、表示板に現れる最後の問いを読んだ。
このまま、次の者へ渡してよいのか。
銀色の枝が、ゆっくり広がった。
『現在、その装置を扱っているのは君か』
前回より長い言葉だった。
クラウディアが、返ってきた意味を室内の声と表示へ移す。姿は現れなかったが、問いの向けられた先は分かった。
女は椅子から立ちかけた。
「はい。私が、修繕を」
『座ったままでいい。帳面を見ながら話そう』
浮かせた腰を、女は静かに戻した。
『ルカだ。この保守系に残した私の人格記録が、君の問いに答える』
老司祭の手が胸元で止まった。
修繕担当は目を伏せ、何かを唱えかけてから、帳面へ向き直った。
「お尋ねしても、よろしいのでしょうか」
『そのために呼んだのだろう』
マキナの口元が、少し上がった。
*
『陶器の受けに替えた時、何を一番困った』
ルカが尋ねた。
女は挟んであった革紐を抜いた。
「湿ると位置が変わるものがありました。それでは、札が正しく戻ったのか分かりませんでしたので」
『残したものは、重かった』
「はい。動きが遅くなりました」
『どのくらい』
女は当時の点検記録を示した。同じ手順で比べたこと、以前より待つようになったことは書かれている。古い装置が持っていた細かな時間の尺度までは残っていなかった。
『これは、外側の札が動くまでの比較だな。本体が異常を捉えるまでの時間とは分けておこう』
「はい」
女は筆を取った。
マキナが、机の端に置かれた外観図を引き寄せる。
「本体の応答までは、ボクも測ってないよ。昨日は見えるところだけ。外付けの札は、支えが外れた時にも下りるようにしてある」
『その変更は分かる。だが、この支えの角度は』
「天井から水が来るんだって。位置をずらした跡があるよ」
『上からか』
「そう。装置の都合だけで部屋は残ってくれないからねえ」
返答が少し遅れた。
『……元はもっと扱いやすかった』
「それ、作った人がよく言うやつだよ」
『実際にそうだった。交換部品も揃っていた』
「揃わなくなった後の話をしてるんだけど」
リシアは思わずマキナを見た。
その向こうで老司祭が、開いた口をゆっくり閉じていた。
始祖の名を持つ相手に、こんなふうに言ってよいのだろうか。リシアが迷っている間に、ルカの方が先へ進んだ。
『この受けの図を、もう一度見せてくれ』
マキナが表示を戻した。
『支えを二つに分ければ、片側の擦れは減らせる』
「その代わり、揃えて作るところが増えるね。この土地の焼き物師に毎回同じものを頼める?」
『……その精度も失われているのか』
「一個ずつなら合わせられるかもしれない。でも、次を作る人が同じことをできるかは別でしょ」
女が小さく頷いた。
「今の受けも、少しずつ違います。取り付ける前に、私が合わせています」
『ならば、合わせる箇所を減らす方が先か』
「うん。いまある道具で確かめられる形にしたいな」
二人の言葉が、少しずつ速くなっていた。
ルカが別の支え方を挙げ、マキナが現地の制約を返す。外観図の脇に線が増えかけたところで、クラウディアが口を開いた。
「お二人とも」
線が止まった。
「その案は、まだ現物で確かめていません。まず、担当者への返答をお願いします」
『そうだったな』
「はいはい。続きは後で」
あまりに似た間で返ってきたので、リシアは視線を落とした。
ステファニアも書面を整えていた。揃っている端を、もう一度揃えている。
*
ルカは、しばらく修繕記録を読んでいた。
頁を送るように表示が変わるたび、女の指も帳面を進む。失敗した受けの絵を過ぎ、取り外した目盛りの記載で止まった。
『これを外した時の担当は』
「前の前の者です。私は会ったことがありません」
『誤った読みをさせるため、使用を止める。理由は、そう書いてあるな』
「はい」
『その判断は残してほしい。元の形に戻すためだけに、読めない目盛りを付け直さなくていい』
女は筆を止めた。
『私が用意した通りには残らなかった。それでも、分からない時に人を止める働きを選んだ。君達が守ったものは分かる』
石の部屋に、筆先の擦れる音が戻った。
女は一行書いてから、顔を上げる。
「では、このまま使ってよいと」
『そこまでは、まだ言えない』
マキナも頷いた。
『図と記録だけで、次の十年を保証するわけにはいかない。君が知らない傷みもあり得る。いま動くことと、次の者が扱えることは、別に確かめよう』
「はい」
『ただ、君の仕事を、元と違うという理由で失敗にはしない』
女の口元が動いた。
返事は声にならなかったが、今度はすぐに頷くことができた。
リシアは机の上の帳面を見た。取り替えた部品、失った目盛り、返答未着の文字。その隣で、新しい墨がまだ光っている。
「次の者に、何を教えればよいのでしょう」
女が尋ねた。
『まず、どの音や動きを見て、君が手を止めているかを聞かせてくれ』
「音、ですか」
『点検手順を読んだ。途中に、動きが悪い場合、とある。君は何でそれを判断している』
女は視線を宙へ向けた。
「札が下りきる前に、細く擦れる音がすることがあります。そういう時は、上がった位置だけで済ませずに、受けを見ます」
マキナが顔を上げる。
「昨日は鳴ってなかったね」
「乾いておりましたから。雨が続いた後には、時折」
『その違いは、書いていないな』
「いつものことですので」
言ってから、女は口を押さえた。
ルカの声が柔らかくなった。
『君には、いつものことだ。次の者には、初めて聞く音になる』
女は、動きが悪い場合、と書かれた行を探した。
筆を置き、両手で頁を平らにする。
「では、ここから書き足します」
*
修繕担当が言葉を探す間、誰も急がせなかった。
擦れる音がした時。札の下り方が途中で変わった時。受けの裏が湿っていた時。普段なら手が先に動くことを、女は一つずつ説明した。
エレナが別紙へ書き取り、読み返す。
「音がしなければ、良いという意味ではありませんね」
「はい。音がなくても、札が途中で止まることはあります」
「でしたら、こちらは別の項目にします」
隣でリシアが、帳面の狭い余白を見た。
「ここへ全部入れると、次の方が読みにくくなりませんか」
女は筆を止めた。
ステファニアが新しい紙を一枚差し出す。
「元の手順は残して、補うところを別にしてはいかがでしょう。どの頁と一緒に読むかを、両方に書いておけば」
「それなら、書けます」
女は紙を引き寄せた。
ルカがマキナへ尋ねる。
『実物を確かめる時、この音の話も見られるか』
「見られるよ。現地の人と一緒にね。雨の日の記録も借りたいな」
『私の古い図は、比べるために出せる範囲を整理しよう。付属表示の話に限れば、内部を開けずに分かるところもある』
灰色の衣の女性が、その範囲を確かめて書き留めた。
魔導科学の図を一式持ち帰る話にはならなかった。今ここで加えられたのは、次の点検で何を見比べるかという助言だった。
聖女アリシアが、水の杯を女の手元へ寄せる。
女は礼を言い、一口飲んだ。
「申し訳ありません。こんな細かいことを、長々と」
『細かいことを聞くために、呼んでもらった』
ルカは言った。
『それに、その記録は私にも要る』
杯を置く音が、小さく響いた。
『この形式を残した時には、交換部品を作れる者も、図を読める者も、次へ繋がると思っていた。そうならなかった時に、君達がどう直したかを、私は今日まで知らなかった』
女は表示板を見つめた。
「報告を、お読みになって、何もおっしゃらないのだと」
『今回の写しで、初めて読んだものがある。少なくとも今見ている報告を、承知して放っておいたとは言えない』
灰色の衣の女性が顔を伏せた。
「預かった後、どこまで届いたかを確かめる役目が、失われていました。こちらでも調べます」
ルカは、短く間を置いた。
『誰か一人を叱って終えるより、次の問いに返事を戻せるようにしてほしい』
女性が頷く。
アリシア・ファーランドは、閉じた扇を膝の上へ置いた。
「では、今日の返答は、この方のお手元へお渡ししますわね。封印部の保管室だけで終わらせずに」
『もちろんだ』
「長く待たせた分まで、一度に書こうとなさらなくて結構ですわ。まずは、今のお答えを」
声の向こうで、ルカが少し笑ったように聞こえた。
『技術者の話を切り上げさせるのに、慣れているな』
「待たされた経験なら、少々」
アインは何も言わず、マキナの方を見た。
「殿下、それ、ボクだけじゃないと思うよ」
今度はクラウディアまでアインを見たので、リシアは水を飲むふりをした。
*
最後に、修繕担当が新しい紙を読み上げた。
いまの装置を無条件で使い続けてよいという許しは、そこにはない。
残してきた警告の働き。失った機能。次の点検で確かめる箇所。そして、帳面の外にあった、自分が知っている音や手応え。
女は途中で一度言い直した。
エレナが訂正を待つ。
ルカも、その先を急がなかった。
「これを、次の者へ渡そうと思います」
『ああ。その者にも、分からないところを尋ねてほしい』
「私が、答えられなかったら」
『問いを残してくれ。私で答えられるものは答える。現物を見なければ分からないものは、そう返す』
女は深く頭を下げた。
その後で、自分からもう一つ尋ねた。
「古い形を知る方が来てくださったら、全てお任せすればよいのでしょうか」
マキナが、すぐに首を振った。
「その音の違いを知ってるのは、君でしょ。そこはボクに教えて」
『私にもだ』
ルカの返事が重なった。
女は頭を上げた。
今度の笑顔は、昨日より長く残った。
*
対話の終わりが近づいた頃、アリシア・ファーランドが石台へ向き直った。
「次は、この場所を残された時のお話を伺えますか」
マキナが表示図から顔を上げる。
「なぜここに作ったのか、ってこと?」
「ええ。どのような人々が使うと考えて、何を託されたのか。今の方々へ引き継ぐなら、そこも知っておきたいと思いますの」
ルカはすぐには答えなかった。
リシアの前に見える銀色の枝が、少し奥へ続いた。そこにある文字は、まだ開かれていない。
『それなら、私がベルカを離れた頃から話した方がいい』
アインの視線が上がった。
『この設備だけを見ていると、私一人で決めて、持ってきたように見えるだろう』
「違うのか」
『関わった者達のことも、話したい』
アインは石台を見つめた。
それから、一度頷いた。
「聞かせてくれ」
灰色の衣の女性が、次回の照会内容を控えた。施設成立時の管理記録を伴う話として、立会いの準備を整えるという。
今日の返答は、その場で現担当の控えと封印部の記録へ分けられた。
接続の終了を確かめてから、メイが鍵スフィアを布に戻した。アリシア・ファーランドが受け取る紙を確認する間も、メイはその隣を離れなかった。
石台の光が消えると、女はしばらく、暗くなった溝を見ていた。
「……もっと、厳しい方かと」
マキナが肩を揺らした。
「次は図を持ってくるって言ってたからね。たぶん、まだ喋り足りないよ」
*
帰りに通った封印部の廊下で、作業着姿の若者が女を待っていた。
修繕を手伝い始めたばかりだという。地下の鍵を返しに来た手には、布で包んだ工具があった。
「どうでしたか」
女は、胸に抱えていた帳面を下ろした。
「返事を頂いたよ」
それだけで済ませかけ、思い直したように廊下脇の台へ寄った。
「少し、ここを読んでみてくれるかい」
新しく添えた紙を広げる。
若い手伝いは、まだ乾ききらない墨に触れないよう、身を屈めた。
「細く擦れる音……。これは、札が落ちた最後の音ですか」
「いや、その前にね」
女が答えかけて、止まる。
筆入れを開け、余白へ一言加えた。
「そうか。これだけでは、分からないね」
リシアは足を止めて見ていた。
女は地下へ向かう戸を示した。
「次の点検で、一緒に聞いてみよう。私が何を確かめているか、そばで見ておくれ」
「はい」
新しい紙が、古い帳面に重ねられた。
返事のない頁を抜き取ることはしなかった。前任者の問いも、失敗した受けの絵も、そのまま綴じてある。
女は二枚の間へ革紐を挟んだ。
今度は、迷わずに。




