第百七十三夜 直し続けた手
# 第百七十三夜 直し続けた手
地下へ降りる階段の手すりは、途中から木に変わっていた。
上の方には石の縁が残っている。欠けた場所を跨ぐように木が渡され、その端を別の金具が支えていた。握る部分だけが、長く使われた道具のように滑らかだった。
リシアは手を添え、一段ずつ降りた。
先を行く女が、灯りを下げる。
「最後の二段は、少し高さが違います」
封印部で地下区画の修繕を受け持つ、年配の女だった。指の節が太く、袖口には白い石の粉が残っている。
立入りの連絡が届いた後、現担当が先に通路と床を確かめた。今日は保守照合点の外観と、日頃扱っている付属装置、修繕の記録を見せてもらえることになっていた。
リシアが最後の段を降りると、マキナが頭上へ目を向けた。
「上を持ち上げたんだ」
「天井の補強で床も重ねています。段を全て作り直すほどの余裕はなくて」
「なるほどね」
マキナはもう一度、手すりを見た。
女はその視線に気づき、少し申し訳なさそうに言った。
「古い姿とは、違うでしょう」
「まだ見てないからね。まず見せて」
マキナは答えた。
*
部屋の奥には、黒ずんだ枠が立っていた。
壁の中へ続く古い筐体に、後から組んだ支えが添えられている。金属の色も、留め具の形も揃っていない。下の受けには陶器が使われ、その横を細い棒が通っていた。
マキナは入口で止まった。
「……ずいぶん足したね」
声から、いつもの軽さが少し抜けた。
灰色の衣の女性が、壁際に掛けられた札を確かめる。
「封止部分は開けていません。今日も、こちらの管理範囲を越える操作はしません」
アインは頷き、部屋の端へ寄った。狭い場所へ全員で詰めかけないよう、通路を空ける。
メイはアリシア・ファーランドのそばで、布に包んだ鍵スフィアを抱えていた。聖女アリシアと老司祭は入口寄りに立ち、修繕担当の説明を聞いている。
マキナは枠の周りを、触れずに見た。
「この受け、最初の部品じゃないよね」
「私が来るより前に替わっています。前は石だったそうですが、端から割れまして」
「それで陶器に」
「焼き物師に、割れた物を見せて作ってもらったと聞きました」
マキナは眉を寄せた。
リシアには、不満そうに見えた。
アークライトの整った設備を見た後では、目の前の装置は、どうしても頼りなく感じられる。古い物を、手近にあった物で繋ぎ留めたようだった。
女は小さな机から帳面を持ってきた。
「合わなかった分も、こちらに記しています」
開かれた頁には、受けの絵が三つ並んでいた。
一つ目には、湿りでずれるとある。二つ目には、重く、戻りが遅れる。三つ目には、薄くすると欠ける、と書いてあった。
マキナは帳面を見た。
装置へ戻り、もう一度、帳面を見る。
「これ、どれを残したの」
「二つ目です。遅くなっても、戻ることは確かめられましたから。湿って位置が変わる物は、使えませんでした」
「戻る方を選んだんだ」
「はい」
女は、枠の下を指した。
赤く塗られた細い札が下がっている。
「分からなくなった時は、こちらが下りるようにしています」
*
それは、古い観測部の外に添えられた表示の仕掛けだった。
封止された本体に残る表示を、点検する人間が見落とさないよう、外の札へ伝える。途中で棒が外れたり、支えがずれたりすれば、重みで札が下りる。
何が起きたかを詳しく教えることはできない。
代わりに、確かめるまでは先へ進めないことを、離れたところからでも見えるようにしていた。
「これで、門を閉じるのですか」
リシアが尋ねた。
「いいえ。こちらで分かるのは、確認が要るということだけです」
女が答えた。
「札が下りたら、担当へ知らせます。理由が分かるまで、その点検区画を使う作業は止めます」
実際に何かを制御する装置だと思っていたリシアは、もう一度札を見た。
人が見て、人が足を止める。
そのために、こんなに部品が重ねられている。
「元の表示が見えにくくなったんだね」
マキナが言った。
「はい。昔はもっと明るかった、と教わりました」
「それを、光を強くするんじゃなくて、見える方へ伝えた」
女は少し迷った。
「中を直す方法を、知りませんので」
マキナは、枠へ顔を近づけた。
しばらく黙ってから、低く言った。
「……これ、何が大事か分かって直してるね」
女が顔を上げる。
マキナは、赤い札を指した。
「細かく分かるところは失った。でも、分からない時に大丈夫だと思わせる方へは直してない」
「そう教わりました」
「うん。いい教わり方だと思う」
女の指が、帳面の縁で止まった。
それから、少しだけ頁を丁寧にめくった。
*
仕掛けの動きを確かめるのは、女自身が行った。
日常の点検で使う外側の確認箇所を示し、古い本体から動きを受けない状態にする。観測部や、その奥の機器には触れない。
赤い札が下りた。
重みの落ちる、小さな音がした。
「下りた時刻と、戻せた時刻を記します」
女は言った。
マキナは札を見ていた。
早くはない。
アークライトなら、目で追うより先に結果が出るのだろう。ここでは棒が動き、受けが傾き、ようやく色が見える。
女は手順に従って外側の仕掛けを戻し、表示の対応を確認した。札を上げる前に、本体側の見える範囲も確かめる。
「この間は、前より長くなっています」
女が言った。
「台帳へ書いてあります。次に替える時は、もう少し」
「速くする前に、この受けの擦れ方を見たいな」
マキナはしゃがみかけ、クラウディアを見た。
クラウディアは、女へ視線を移した。
「外観だけなら」
女が答える。
マキナは嬉しそうに頷き、横から受けを覗いた。
「なるほど。こっちだけ削れてる。何回動かしたか、残ってる?」
「日付と、点検した者は。回数だけの帳面はありません」
「それでいいよ。ボクが数える」
「マキナ」
クラウディアが呼んだ。
「本日は、照合点の確認です」
「分かってるよ。直す話は、後でお願いする」
マキナは立ち上がった。
だが、目はまだ受けの方へ向いていた。
アインが少しだけ笑った。
「壊すなよ」
「殿下、今日はまだ何もしてないでしょ」
「だからだ」
修繕担当の女が、二人を交互に見た。
マキナは咳払いをした。
「大丈夫。借りたものは返すよ」
「形を変えずに」
クラウディアが添えた。
*
古い記録との照合は、外装の下部でできた。
後から取り付けられた支えの間に、古い番号が一部残っていた。全ては読めない。だが、壁へ入る線の位置と、封止外装の形を合わせると、取得した旧観測線の保守照合点に対応するものだった。
トトが比較結果を返す。
『取得済み記録との対応を確認。現物の全機能及び内部状態は、未確認です』
灰色の衣の女性が、表示板の文を控えた。
リシアは、女の持ってきた帳面へ目を戻した。
字が途中から変わっている。
初めの方は細く、後ろへ進むほど大きくなる。さらに別の手が、読みにくい行の横へ短く注記していた。
「何人の方が、書いているのですか」
「この一冊だけでも、私で四人目です」
女は答えた。
「前の帳面は、上の保管室に。傷みのひどいものは写してあります」
「親子で、でしょうか」
「そういう時もあったようです。私は、前の担当に弟子としてつきました」
リシアはもう一度、手すりの滑らかな木を思い出した。
同じ家の者だけが守ったわけでもない。
誰かが次の者へ道具と帳面を渡し、次の者が、その意味を分かる範囲で引き受けた。
ステファニアが頁の端を示した。
「こちらの印は」
「封印部へ出した報告の控えです」
女の声が、少し改まった。
「部品を替えた時と、表示の様子が変わった時には、出すことになっています。変わりがない年も、その旨を」
並んだ記載の中に、短い問いがあった。
旧式の受けと同じものを作れないため、代材を用いた。動きは遅くなるが、未確認時に札が下りることを優先した。この扱いでよいか。
その下には、返答未着とある。
次の頁でも、同じ問いが少し違う言葉で書かれていた。
「返事は、来なかったのですか」
リシアが尋ねた。
「受け付けたという返事は来ます。扱いの答えは、私が担当してからは」
女は静かに首を振った。
灰色の衣の女性は、その報告番号を見つめていた。
「正規の受領です。保管先は辿れます」
声が少し低くなった。
マキナは、問いの書かれた行から目を離さなかった。
「返事がなくても、直してたんだ」
「札が動かなければ、誰かが確かめに来る時に困りますから」
女は答えた。
「直せないところは、使えないと残してきました」
*
全てが残っていたわけではなかった。
何を示していたか分からなくなった表示も、代わりを作れずに取り外した付属品もあった。女はそれらを指し、隠さず説明した。
細かな違いを読む目盛りは、途中で失われていた。現在の表示では、異常の種類まで判別できない。その分、担当が現場へ足を運んで確かめる回数が増えている。
マキナはその説明を聞いていた。
「元の能力まで戻すなら、別の調査が要るね」
「はい」
「でも、ここの人達が守ってきた働きは、分かった」
女は何か言いかけた。
すぐには言葉にならず、帳面を閉じかけて、また開く。
「古い方々には、叱られると思っておりました」
その声で、アリシア・ファーランドが顔を上げた。
「なぜです」
「頂いたものを、元の形で残せていませんので」
アリシア・ファーランドは、色の違う金具を見た。
マキナが先に答えた。
「ボクなら、何を変えたか聞くよ」
女がマキナを見る。
「それで、変えた理由がここにある。失ったものも書いてある。何も言わずに動いてるふりをされるより、ずっと助かる」
マキナは帳面を指し、それから手を引いた。
「ただ、ボクはこれを最初に作った人じゃないからね。その人の返事までは、勝手に言えないけど」
「それでも」
女は、ようやく笑った。
「ありがとうございます」
リシアは壁際へ一歩寄り、狭い机の前を空けた。
この場所で礼を受けるべき相手を、自分達が取り違えないようにしたかった。
*
午後、封印部の保管室から、報告の受領目録が運ばれてきた。
地下で見た帳面の番号を、灰色の衣の女性が辿る。報告は捨てられていなかった。新しいものから古いものへ、綴じられた写しが出てくる。
その中には、今の修繕担当が直接は見たことのない、前任者の報告もあった。
湿りの多い時期に遅れが出る。
部材の取り替えだけでは改善しない。
天井からの水を避けるため、支えの位置を変えた。
それぞれに、受領と照会先が記されていた。
「ここから先です」
女性が一つの古い分類を示した。
「現在の目録では、上位照会として扱っています。ですが、回答を戻す経路が使われていません」
マキナが、その分類名を読んだ。
「保守対話の記録だ」
リシアは顔を上げた。
「対話、ですか」
「修理した人が、分からないことを聞くための窓口。古い管理系には、そういう場所がある」
マキナは、そこで言葉を止めた。
クラウディアが、取得済みの旧観測線記録と分類の対応を確かめていた。
『保守照合点に付随する報告先と一致します。報告内容そのものが、現在どこまで収録されているかは未確認です』
トトが返した。
単に装置の位置を確かめただけなら、気づかなかったかもしれない。
現物の横に、直した者の問いがあった。その問いに付いた番号から、受け取った先を辿ることができた。
灰色の衣の女性は、目録を押さえた。
「前回の停止階層への接続とは、提出する内容が変わります。現管理者の報告として、対話先への照会を正式に申請できます」
「装置を動かす許可ではなく」
ステファニアが確かめる。
「はい。まず、報告がどこへ届いているかを問い、返答の範囲を定めます」
アインは修繕担当の女を見た。
「聞きたいことは、まだあるか」
女は、抱えていた帳面を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「このまま、次の者へ渡してよいのかを」
部屋が静かになった。
「私がいなくなっても、あの札が必要な時に下りるようにしたいのです」
アインは、その顔を見ていた。
「それを、持っていこう」
*
帰る前に、マキナは地下の入口へ一度戻った。
見送りに来た女へ、外観確認で控えた箇所を示す。受けの擦れと、棒の遊び。次に詳しく調べるなら、過去の点検記録と並べたい場所だった。
「勝手に替えないでね。今の働きを確認してから、一緒に考えよう」
「あなたが、そうおっしゃるのですか」
クラウディアの声がした。
マキナは振り向いた。
「言うよ。ボクだって、ちゃんと」
途中でアインと目が合う。
マキナは言い直した。
「……今日は、ちゃんと分かったからね」
女は口元を押さえた。
アインも少し笑い、それから手すりへ目を向けた。
「これも、あんたが」
「木の部分は、前の担当です。留め具は私が替えました」
「助かった」
短い言葉だった。
女は驚いたように手すりを見た。
マキナはその横を通り、階段を上がっていった。今度は継ぎ足された木に、自然に手を置いている。
リシアも続いた。
来た時には、古いものが失われた跡だと思った。
帰りには、手を離さずに渡されたものに見えた。
次に鍵スフィアの前へ置く書面には、修繕担当が新しく書いた問いを添えることになっていた。
次の者へ、何を残せばよいか。
リシアは、手すりから指を離した。




