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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百七十二夜 水を残した人

# 第百七十二夜 水を残した人


 石台は、前に来た時と同じ冷たさだった。


 リシアは、縁へ触れた指を引いた。旧礼拝施設と封印部の管理区画に挟まれた小室には、外を行き交う人の声が届かない。三つの浅い溝へ落ちる灯りを見ていると、ここを離れてからの方が夢だったような気さえした。


 背後で、紙の擦れる音がした。


 灰色の衣の女性が、正規記録へ収められた監査の結論を開く。


 それを見て、リシアはようやく、戻ってきたのだと思った。


 以前は持っていなかったものを、一つ持っている。


 旧観測室の記録官、旧礼拝施設の老司祭、封印部の女性が、それぞれの札を確かめた。取得範囲は以前と同じ五分類。今回は、監査結果を先に照合し、停止階層が受け付けた範囲で管理記録の本文へ進む。


「アリシア様」


 メイが布包みを持ち上げた。


「置いてくださいませ」


 アリシア・ファーランドは答えた。


 鍵スフィアが石台の中央へ置かれた。メイは手を引き、所有者の隣へ下がる。


 銀色が、三つの溝に沿って広がった。


 ステファニアは目を伏せ、接続の感覚を確かめていた。クラウディアがその横顔を見て、返事を待つ。


「前と同じ場所です。下へ引かれる感覚はありますが、こちらからは進めていません」


「停止状態を維持」


『維持しています。監査結論の照合用記録以外、流入はありません』


 トトの声が小さく返った。


 アインは三者の立会人を見た。全員が頷いたのを確かめ、石台へ向き直る。


「返事を持ってきた」


 銀色の光が、一度だけ深くなった。


     *


 監査の結論と、確かめた根拠の所在が、接続先へ渡された。


 船の設計も、機関の数値も、その中には入っていない。現役系の全状態を保証しないという結論も、署名と同じように残されている。


 しばらく、返事はなかった。


 リシアの視覚拡張端末には、細い光の筋が見えていた。石台の上に浮いているようでいて、立会人達の視線は別のところを向いている。彼らは外部閲覧用の表示板に移された文を読んでいた。


 同じものを確かめながら、見ている景色は違う。


 光の筋が止まった。


『未確認を、未確認のまま持ち帰ったか』


 意味が届き、クラウディアの側で閲覧者向けの言葉へ整えられた。


 アインは頷いた。


「見ていないものは、見ていない」


『停止権限は』


「俺一人では、戻せない」


 灰色の衣の女性が口を開いた。


「確認したのは、分離試験での手続きと提示履歴です。現役機関の全てを、私が認めたことにはしないでください」


 光は消えなかった。


 女性は自分の言葉が届いたかを確かめるように、表示板を見た。


『確認範囲を保持する』


 返答の後、石台の三つの溝に沿って、別の光が流れた。


『管理記録、限定閲覧へ移行する』


 クラウディアが読める範囲を確認する。


 避難経路。限定封鎖点。水源。渡河設備。旧観測線。


 開いたのは、そのうち閲覧前室に連なる旧施設の管理記録だった。設計や制御の本文は外され、位置関係と用途、停止時の扱いが残っている。


 リシアの前で、光が広がった。


 細い線が一つの囲いを作り、その周りに小さな印が灯る。


 待っていた地図だった。


 リシアは思わず身を乗り出し、すぐに足を止めた。


 図の中央に、人の集まる場所があった。


 建物の名より先に、用途が目に入った。


 受入れ。


 その下に、配水とあった。


     *


「ここは、井戸でしょうか」


 リシアが尋ねる。


 マキナは図の端を見ていた。


「貯める方だね。水源から引いて、ここへ残す」


 水の経路は、危険な接続に関わる線と分けられていた。機械の中身は示されず、どの場所へ供給するかだけが読める。


「閉鎖中も、使うのですか」


 ステファニアが言った。


 注記を辿ると、貯水槽の側へ短い文が現れた。


 接続停止によって、受入れを終了しないこと。


 リシアはその文を二度読んだ。


「門を閉じるのに、人は受け入れる」


「どの門か、見るんだ」


 アインが言った。


 図には、二つの入口があった。


 一つは、太い枠に囲まれている。その先は非表示だった。もう一つは、建物の外から広場へ入る、幅のある道だった。


 閉じる印は、太い枠の方にだけ付いていた。


 外から来る人の道は、配水の印へ続いている。


「危険な接続口を閉じても、歩いて逃げてくる人はいる」


 アインは言った。


「その人達を入れる場所だ」


 聖女アリシアが、表示板の前へ一歩近づいた。


 聖印へ添えていた手が、ゆっくり下がる。


「封じた後にも、来る方を待っていたのですね」


 老司祭は答えず、図の囲いを見つめていた。


 その視線が、画面の端から小室の入口へ移る。


「この壁の曲がり方は」


 司祭は途中で言葉を止め、懐から旧礼拝施設の見取図を出した。


 現代の手で書かれた羊皮紙だった。何度も折った角が丸くなっている。


「こちらへ、置いても」


 クラウディアが石台の脇の台を示した。


「そちらで比較してください。現在の図面を、古い記録へ書き込みません」


 司祭は紙を広げた。


 礼拝施設の側廊と、その外にある小さな庭。物置として使っている区画。使わなくなった裏口。


 全てが重なるわけではなかった。


 増築した部分があり、図にはない壁もある。それでも、広場の隅の折れ方と、太い柱の位置には共通するところがあった。


「裏の物置の下に、空洞があると聞いています」


 司祭が言った。


「古い貯水の場所だとも。私は、蓋を開けたことがありません」


 リシアは、光の図を見た。


 聖なるものを置くための部屋だと思っていた建物のそばに、水を配る場所が残っているかもしれない。


 まだ、それだけだった。


 けれど、祈りを捧げる人の足元に、誰かが喉を渇かせないための場所があるということが、リシアには不思議に近しく感じられた。


     *


 水源の記録には、運用時の注意が添えられていた。


 残量が減った場合の配分。病人へ回す容器の扱い。外から持ち込んだ水を、確認せず混ぜないこと。


 詳細な数値や設備の製法は含まれていない。それでも、使っていた人々が何に困ったかは、短い追記から伝わった。


 杯を返せない者に、給水を拒まないこと。


 リシアはその一行で、目を止めた。


 器を持てない人もいただろう。受け取ったまま、次の場所へ移ってしまった人も。


 誰かが困り、誰かがこの文を加えた。


「全部、ルカ様のお言葉なのでしょうか」


 老司祭が尋ねた。


『複数の改訂を含みます。記載者を特定できない追記があります』


 トトが、記録の付帯情報を返した。


 ルカ誓約系へ収められていることと、一人の人間が全て書いたことは違う。


 司祭は頷き、その区別を自分の紙へ記した。


 マキナが、別の注記へ目を移した。


「ああ、こっちも残してる」


「何を」


 アインが尋ねる。


「水の側から、接続部の運用を待たせられるんだよ。受入れの準備がないなら、開かない」


 マキナの声が少し低くなった。


「閉じることばっかり考えてたわけじゃないんだね」


 図の中央で、広場が淡く明るくなる。


 再開する前に、そこへ来る人を受け止められるか。


 昨日、リシアが船の居住区について尋ねたことに、よく似ていた。


 けれど、同じ仕組みだと決めつけることはできない。ここで扱われていた接続の詳細も、当時の人々が何から逃げてきたのかも、今開いた記録だけでは分からなかった。


 アインが石台へ向き直った。


「止めた後のことも、考えてたんだな」


 光が、一度だけ揺れた。


『閉じても、人は残る』


 短い応答だった。


 記録の見出しとは違う形で、こちらへ届いている。


 クラウディアが、応答形式を確認した。前回と同じ、停止階層に属する人格記録の応答だった。全人格との対話が成立したとまでは、まだ言えない。


『水を必要とする者は、待ってくれない』


 アインは黙って聞いた。


 それから、頷いた。


「知ってる」


 聖女アリシアは、アインの横顔を見た。


 リシアも見た。


 アインは、もう図へ目を戻していた。


     *


 限定封鎖点と避難経路の記録を合わせると、受入れ広場の形が、もう少しはっきりした。


 危険な接続側から距離を取る壁と、人の歩く道を塞がないための切れ目があった。水を運ぶ通路は、運用者の出入りする道から分かれている。


 リシアは、現在の見取図を見た。


「こちらの裏口を、また使えるようにしたら」


 口にしてから、先を飲み込んだ。


 老司祭が顔を上げる。


「今は、隣接する家との境にございます。後の増築で、道の一部が敷地に入っておりますので」


「……先に、その方にも伺わなければいけませんね」


 リシアは答えた。


 図に道があると、つい、そこを通れるものとして見てしまう。


 アリシア・ファーランドは、何も言わずにリシアを見ていた。


 リシアは見取図から指を離した。


「現在の避難路としては、まだ使いません。建物も水も、確かめてからです」


「はい」


 灰色の衣の女性が頷いた。


 古い記録の取得と、今の施設の使用許可は、同じ紙へ押し込まれなかった。


 旧観測線の項目では、違う形の線が現れた。


 水源へ向かうものと、建物の基部へ向かうもの。そこから、さらに下へ続く経路があった。


 線の終わりに、保守用の確認地点が示されている。


 マキナが顔を寄せた。


「地下に、照合点があるね」


「どの下ですか」


 ステファニアが尋ねた。


「図の基準が今と合うなら、封印部の管理区画側。水槽そのものじゃない」


 その先は、開かなかった。


 機器の接続や操作に関わる部分は、非表示のままだった。


『旧観測線の位置関係と保守照合点まで。操作手順は取得していません』


 トトが告げる。


 灰色の衣の女性は、現在の管理図を確かめた。


「地下の点検区画はあります。ただし、こちらに記されたものと同じかは、現場の確認が必要です」


「勝手には降りない」


 アインが言った。


「確認を頼めるか」


「管理担当へ回します。立入りの範囲を決めた上で、ご案内できるか確認します」


 アインは頷いた。


 渡河設備の記録は、今回の旧施設に直接結びつくものが少なかった。対応する現地の水路を確かめられないため、表題と関連先だけを残して取得を保留した。


 読み進めれば、もっと広い図が得られる気配はある。


 ステファニアはその広がりを見て、ゆっくり息を吐いた。


「今日は、ここまでにします」


 誰かに止められる前に、自分で言った。


「この建物の下を確かめる方が、先です」


 マキナが、残念そうに光の先を見た。


 だが、手を伸ばすことはなかった。


「うん。現物、見たいしね」


     *


 取得したものが、順に閉じられた。


 水源、避難経路、限定封鎖点のうち、旧施設に関係する管理本文。旧観測線の位置関係と照合点。渡河設備は表題と関連先まで。


 読めた範囲を残し、見ていない先を空けておく。


 今回の取得物に、召喚の音も、境界を開く手順も含まれていなかった。


 クラウディアが終端を確認し、三者の札が順に外された。


 銀色の光が薄くなる。


 アリシア・ファーランドがメイへ頷いた。


 メイは鍵スフィアを包み、所有者のもとへ戻った。


「お持ちいたします」


「お願いしますわ」


 その間に、老司祭が灰色の衣の女性へ声をかけた。


「物置の壁までなら、今日、ご覧いただけます。蓋は開けられませんが」


 女性は小室の外で待つ担当者と確認し、頷いた。


 リシアは、思わずアインを見た。


「行こう」


 アインは言った。


     *


 物置には、使わなくなった燭台と、長椅子の脚が置かれていた。


 窓が小さく、空気が冷たい。


 司祭が灯りを掲げると、壁の下の方に、色の違う石が見えた。床際には、動かさないよう固定された蓋がある。


「この先は、今日は触れません」


 管理担当が言った。


 マキナは両手を背へ回した。


「見てるだけ」


「そのままでお願いします」


 クラウディアが添えた。


 マキナは振り向かずに頷いた。


 リシアは司祭の灯りの届く範囲で、壁を見た。


 石の継ぎ目に、浅い溝がある。途中で埋められ、上から塗られたらしい。その横には、同じ高さに並んだ小さな窪みがあった。


「棚受けでしょうか」


 リシアが訊く。


「今ある棚は、後につけたものです。あちらの窪みは、私も知りません」


 司祭が答えた。


 クラウディアが、取得した管理図の公開可能な部分を外部閲覧用の板へ映した。石壁へ直接重ねることはせず、図と現物を並べて見る。


 水を配る側に、器を置く場所があった。


 窪みの位置は、その辺りとよく似ていた。


「似ていますね」


 ステファニアが言った。


「うん。ただ、後から同じ場所を使ったかもしれない。寸法と石組みを調べないと、まだ」


 マキナの声は、意外なほど慎重だった。


 リシアは、触れようとした手を下ろした。


 古い人々の声が聞こえたわけではない。


 ここに立っていた誰かの姿も見えない。


 それでも、杯を返せない者にも水を渡せと書いた一行が、目の前の壁とつながり始めていた。


 老司祭は灯りを少し上げた。


「この部屋を、長く物置として使っておりました」


 聖女アリシアが隣へ並ぶ。


「残っていたから、確かめに来られました」


 司祭は、聖女アリシアの方を見た。


「そのように考えてよいのでしょうか」


「はい。分かったことを、これから大切にすればよいと思います」


 司祭は頷き、床に置いてあった燭台を、足に当たらない位置へ寄せた。


 その仕草を見て、アインが壁から目を離した。


「水は出さなくていい」


 マキナが振り向く。


「まだ出せないよ」


「分かってる。今日は、場所が残っているだけでいい」


 アインは言った。


 マキナは少しだけ表情を変え、また古い石組みへ目を戻した。


     *


 帰り際、封印部の女性が管理図を畳んだ。


「地下の点検区画は、先に現担当が状態を確かめます。古い観測線の照合点が残っているなら、現在の記録との違いも調べられます」


「頼む」


 アインが答えた。


 リシアは、旧礼拝施設の廊下を振り返った。


 来る時には、封じられた場所の手前を通っているのだと思っていた。


 今は、その傍らに、人を迎えるための場所があったと知っている。


 どちらも、この施設の過去だった。


「ルカ様は、どのような方だったのでしょうね」


 リシアが言うと、アインは少し考えた。


「まだ、分からない」


 それから、物置の方へ一度だけ視線を向けた。


「水を残すことは、忘れなかったんだな」


 アリシア・ファーランドが、静かに頷いた。


 帰りの馬車へ持ち込む記録は、来た時より増えていた。


 その一番上には、今の暮らしへ使う前に、現地確認を要すると書かれている。


 リシアは紙の端を揃えた。


 次に見に来る場所が、もう決まっていた。


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