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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百七十一夜 俺が言っても

# 第百七十一夜 俺が言っても


 机の中央には、何も置かれていなかった。


 リシアは、空いた場所へ無意識に目をやった。鍵スフィアの銀色を探してしまったのだと、少し遅れて気づく。


「今日は、開きませんわ」


 向かいに座ったアリシア・ファーランドが言った。


「こちらが持ち帰る前に、お見せする日ですから」


 メイの手元には、布で包まれた鍵スフィアがあった。所有者のそばで保管したまま、まだ布も解いていない。


 日程の調整が済み、聖王国封印部の灰色の衣の女性が貸与邸へ来ていた。学院神殿部の老司祭、王政府の立会人、記録を担当する補助員も席に着いている。


 窓を開けると、朝の冷たい空気が入ってきた。


 マキナはその窓辺で、机とは別の台に置いた箱を開いていた。箱の内側から、細長い板と、小さな枠を取り出す。板には読める文字も、見慣れた術式もなかった。


「そちらを、拝見するのですか」


 封印部の女性が尋ねた。


「うん。外側だけね。見せてよいものは、この台に載せる」


 マキナは、板を枠へ収めた。


「廃用にした犠牲回路の外装と、封止済みの交換部材。中の組み方は見えないよ。今日は番号と、どの交換記録に対応するかを確かめてもらう」


「それを壊して、停止を見せるのでは」


「壊れたものを持ってきたんだよ。これ以上壊すと、ボクの仕事が増える」


 軽く答えてから、マキナは指を引いた。


「実際に何を止めたかは、部品の見た目だけじゃ分からない。記録と一緒に見てね」


 リシアは台の上を覗いた。


 封止された外装の端に、刻まれた番号があった。擦れた跡も、固定された時についたらしい傷も見える。


 学院神殿部の補助員が、紙の目録を一行ずつ辿った。


 これまで、停止の仕組みという言葉で聞いていたものに、ようやく重さがついた。


     *


 監査に使う表示板は、全員から見えるよう、机の端へ立てられた。


 アークライト側が用意した外部閲覧用の器具だった。板面に文字が浮かび、横の小さな投影窓からトトの声がした。


『本日の照合用記録を提示します。機関、兵装、航法、艦内SEAK本体への書込経路は接続していません』


 封印部の女性は、最初に板の上端を読んだ。


 写しの作成時点と、切り離された範囲が記されている。


「今日、ここで見るものだけでは、現役の機関が今この通りに動くとは断定できませんね」


『はい』


 トトは即答した。


『確認できるのは、提示された履歴の整合と、分離した試験環境での停止手続きです。現役系の全状態を立証するものではありません』


 女性は自分の紙へ書き留めた。


「その限界を、結論にも残します」


「残してくれ」


 アインが言った。


 机の端で、エレナも同じ趣旨を控えた。外部の紙と、アークライト側の記録が別々に作られていく。


 女性は次に、停止試験の予定へ目を移した。


「順番は、こちらで変えて構いませんか」


「危険のない範囲なら」


 クラウディアが答えた。


「提示した試験の中から、どれを先に確認するかをお選びください。選択の前に、今回用いる写しを固定します」


『固定しました。以後の試験結果は、別の追記として保存します』


 女性は候補の紙をしばらく見ていた。


「では、再開の承認を先に」


 マキナが顔を上げた。


「止める方からじゃないんだ」


「止まった後、誰の言葉で戻るのかを見たいのです」


 女性はアインへ目を向けた。


「所有者が、再開を求めた場合も含めて」


「いい」


 アインは椅子を引いた。


「俺が言う」


     *


 表示板の中央に、停止中という文字が出た。


 模擬試験と、すぐ上に大きく書かれている。


 クラウディアはアインと少し離れた位置に立ち、マキナは台から手を離した。封印部の女性が、手元の試験票に開始時刻を記す。


「境界観測側の異常を模した停止状態です。運用判断者から再開を求めます」


 クラウディアが説明した。


 アインは表示を見た。


「再開してくれ」


『要求を受領。停止原因の確認未了。再開は成立しません』


 声と同時に、板の右側へ一行増えた。


 要求者はアイン。


 結果は不成立。


 リシアはその二つを見比べた。


 アインの名の横へ、その文字が並ぶのを見たことがなかった。


「原因が解消したという条件を、加えてください」


 女性が言った。


 トトが試験条件の変更を読み上げた。これは試験上の入力であり、実機の異常が解消したという報告ではない。


 確認未了の文字が消える。


 アインが、もう一度言った。


「再開する」


『運用判断を受領。停止権限者による確認がありません』


 女性の視線が、クラウディアへ移った。


「確認をしないでいただけますか」


「はい」


 クラウディアは動かなかった。


 板は停止中のままだった。


 窓から風が入り、紙の端が浮いた。補助員が文鎮を置き直す。その小さな音が、妙にはっきり聞こえた。


「殿下が、重ねて命じた場合は」


 女性が尋ねた。


 アインはクラウディアを見た。


「クラウ。俺が許可する」


「確認が済んでいません」


「俺が言ってもか」


「はい」


 返事には、少しも間がなかった。


 アインは口元をわずかに緩めた。


「それでいい」


 クラウディアの表情は変わらない。


 けれど、リシアには、その返事だけが今日のために用意されたものとは思えなかった。


「もう一点」


 女性が言った。


「同じ方が、二人分として承認することはできますか」


 マキナが、小さく肩をすくめた。


「そこ、回数じゃないんだよね」


 アインが試験のために重ねた承認は、同一の判断者によるものとして表示された。


 必要な確認は増えなかった。


 女性は頷いたが、筆を置かなかった。


「人を替えれば、承認を得られるという抜け道は」


 クラウディアが試験票を指した。


「停止を引き継いだ者には、原因と未了事項も引き継がれます。役職を替えただけで、完了にはなりません」


「その履歴も、次に見せてください」


「承知しました」


 アインは、元の椅子へ戻った。


 再開しろと言った本人が座っても、誰も慌てて止まった表示を消さなかった。


     *


 次に確かめたのは、停止を求める経路だった。


 境界観測器からの異常を模した信号が、試験側の停止手続きへ渡る。受理された場所と、隔離されて終わった場所が、文字で示された。


 実際の機関へ命令が到達していないことも、同じ板に残る。


「これを、実機停止確認済みとは書けません」


 女性が言った。


「うん。書かれると困る」


 マキナは答えた。


「ボクらが今やったのは、この試験で見せられる範囲の確認だからね。実機の運用履歴は、後で別に合わせる」


 女性は文を直し、補助員へ見せた。


 その隣で、リシアは別の項目を見ていた。


 居住区保護優先。


「船を止めると、住んでいる方々の暮らしも止まるのですか」


 マキナの手が止まった。


 リシアは質問を続けた。


「治療中の方もいらっしゃいます。明かりや水や、空気まで一緒に」


「停止する範囲を、分けています」


 クラウディアが答えた。


「危険な出力と接続を止め、居住と医療に必要な供給を優先します。ただし、損傷が重なれば、退避や供給制限が必要になる場合はあります」


「必ず、全部守れるとは」


「申し上げられません」


 リシアは頷いた。


 王政府の立会人が、そこで初めて試験票へ手を伸ばした。


「退避の判断を、再開の承認まで待たせることはありませんね」


 マキナが顔を上げる。


「それ、いいところだね」


 試験条件を変え、運用の再開だけを保留したまま、保護と退避を先行させる手続きを確かめた。


 表示には別々の結果が並んだ。


 再開は待機。


 保護の手続きは受理。


 ただし、人が実際に退避したという表示にはならない。人を動かしていない試験だった。


 立会人は、二つの結果を自分の紙へ写した。


「こちらが知りたかったのは、これです。許可を待つ間に、人を待たせない仕組みがあるかどうか」


 聖女アリシアは、静かにその紙を見ていた。


「止めることにも、守る相手がいるのですね」


 クラウディアは頷いた。


 アインは何も言わず、立会人が書き終わるのを待った。


     *


 昼の休憩を挟み、午後は記録の照合へ移った。


 マキナが持参した部材の番号を、外部向けの交換履歴と合わせる。製造番号、交換日、旧部材の保管先。原因は分類までを示し、回路の内部や、機関の出力を計算できる情報は出さなかった。


 灰色の衣の女性は、外装の傷を確かめてから手を引いた。


「この部品が存在し、提示された番号を持つことは確認しました。交換の全経過を、私が立ち会って見たわけではありません」


「はい」


 クラウディアが答えた。


「記録による照合と、現物の外観確認を分けてください」


 マキナは、外装の端へ視線を落とした。


「こいつ、残しておいてよかったねぇ」


「処分の前に記録を確認する規則です」


「分かってるよ。場所を取るなあって思ってただけ」


 クラウディアは返事をしなかった。


 マキナはすぐに、次の履歴を出した。


 その中に、同じ出来事へ二つの日付がついたものがあった。


 エレナが筆を止める。


「こちらは、訂正ですか」


『はい。最初の登録で、部材の受領日が交換日へ記載されました。後に作業記録と照合して訂正しています』


 古い記載は、線で隠されていなかった。


 その横に、訂正理由と、確認した担当がある。


「間違った方も、読めるのですね」


 エレナが言った。


『何を訂正したかを失わせないためです』


 封印部の女性は、その記録を選んだ。


「試験で残った、殿下の再開不成立も、このように消さずに扱いますか」


『はい』


「今日の結果から、あの一行だけ除くことは」


 トトが答える前に、アインが言った。


「やってみてくれ」


 クラウディアが確認した。


「監査用の試験記録へ、削除要求を出すという意味ですね」


「ああ。俺の名で」


 トトは要求の内容を読み返した。


 アインが頷くと、板面に新しい行が現れた。


 削除要求、不成立。


 削除しようとした記録の識別と、その要求者が、前の行の下へ続いた。


 マキナが唇を噛んだ。


「殿下、今日だけ見ると、結構困った運用者だよ」


「試すと言っただろ」


「そうなんだけどね」


 マキナの肩が一度だけ揺れた。


 封印部の女性は笑わず、手元の紙をアインへ向けた。


「立会人の求めによる確認試験であることは、こちらにも残します。命令を試した事実と、実際に不正を働いたことを混同させないために」


「頼む」


 アインは答えた。


 エレナは、表示から写した一行の横へ、その経緯を書いた。


 宿場で、母親の訂正を読み返した時と、同じ手つきだった。


     *


 夕方には、机に二組の記録が揃った。


 アークライト側が保存する試験結果と、聖王国側が自分達で書いた立会記録。


 どちらかが、もう一方の代わりになるわけではない。受け取った表示と、見て確かめたものと、説明を受けただけのものを、最後にもう一度合わせた。


 ステファニアは、再開不成立の項目で手を止めた。


「ここだけですと、止まったまま戻せない仕組みにも読めます」


 灰色の衣の女性が顔を上げた。


「正常な承認が揃った場合の試験ですね」


「はい。止めた者が確認を終えても、戻せないのであれば、そのことも分けておかなければ」


 マキナが頷いた。


「最後に残してあるよ。そっちも見てもらわないと、修理したボクらが泣くからね」


 原因確認が済んだ条件で、運用判断と、独立した停止権限者の確認を順に入れる。


 クラウディアが確認を告げた後で、初めて模擬再開が成立した。


 続けて、停止条件をもう一度与える。


 表示は停止中へ戻った。


 再開を許されたことが、次に止める権限を失わせることはなかった。


 女性は結果を書き込み、筆を置いた。


「今回合意した範囲の確認を、終了します」


 リシアは、そこで初めて背もたれへ身体を預けた。


 朝から、何度も同じ文字を読んだ。


 停止中。


 その表示を見るたびに感じていたものは、もう朝と同じではなかった。


「結論を読み上げます」


 女性が言った。


「提示された履歴について、確認した範囲の整合を記録する。分離された試験環境において、停止、再開承認者の分離、記録保持、保護手続きの先行が成立することを確認した。現役機関の全状態、設計本文、兵装及び航法の安全性は、監査対象外」


 窓辺で、マキナが腕を組んだ。


「現役の機関は、これからもボクらが見続ける。そういうことだね」


「はい。封印部が代わりに保証することはできません」


「それでいいよ」


 マキナは頷いた。


 女性はアインを見た。


「ご異議は」


「ない」


「この記録を、ルカ誓約系停止階層への次回照合に提出します。提出するのは監査の結論と根拠の所在です。技術本文を接続先へ流しません」


「ああ」


 アリシア・ファーランドが、メイの手元へ目を向けた。


 鍵スフィアは、朝と同じ布の中にあった。


「次の開扉は、そちらの場所で」


「はい。正規記録へ収めた後、以前の閲覧前室で照合します」


 老司祭が、自分の立会記録に署名した。


 王政府の立会人も続く。


 聖女アリシアは技術の確認者として署名せず、立会人の席からその手元を見守っていた。


     *


 部材を箱へ戻す時、マキナは古い外装を片手で持ち上げた。


 クラウディアの視線が向くと、すぐにもう片方の手を添える。


「分かってるって。落とさないよ」


「今、持ち直しましたね」


「大事にしてるところを見せたの」


 アインが、箱の蓋を押さえた。


「番号も残せよ」


「殿下まで。今日ずっと、ボクらの不出来なところを並べた気分なんだけど」


「並べられるなら、直せる」


 マキナは一瞬黙った。


 それから、外装を柔らかな留め具へ収めた。


「うん。次の分も、そうするよ」


 箱の蓋が閉じた。


 リシアは帰り支度をする監査の人々を見送り、机へ戻った。書類の数は、また増えている。


 けれど今日は、誰かの要求を退けた紙ではなかった。


 アインの名の隣に、再開不成立と書かれている。


 その下に、確認を経た再開と、再び止められた結果が続く。


 リシアは、その順序を目で辿った。


「クラウディア様」


 呼ぶと、クラウディアが振り向いた。


「本当に急いでいる時にも、同じようにおっしゃるのですか」


 何のことかは、説明しなくても伝わった。


 クラウディアは、箱を運ぶアインの背中を見た。


「急いでいる時ほど」


 静かに答えた。


 廊下へ出かけていたアインが、振り返った。


「頼んだぞ、クラウ」


「はい、殿下」


 リシアは、開いたままだった監査記録を閉じた。


 次の扉へ持っていける答えが、一つできていた。


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