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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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202/209

第百七十夜 命令の終わり

# 第百七十夜 命令の終わり


 朝の執務室へ入ってきたのは、いつもの側近ではなかった。


 正装した文書官と、記録官が一人ずつ。その後ろに、教皇庁の正規警備を率いる者が立っている。


 枢機卿は、机へ置かれた封書を見た。


 受領棚へ戻される照会書とは、封じ方が違った。


「何の用だ」


「決裁の伝達と、執行に参りました」


 文書官は、書状を開いた。


 正規監査室が提出した記録、関係者の供述、枢機卿側からの弁明。それらを受けた教皇庁の正規決裁が、日付とともに読み上げられた。


 枢機卿が担っていた政務、教区監督、財務に関わる職務を解く。


 関係する司教、司祭、実務担当者についても、それぞれに記した職務を解く。後任の事務は、既存の正規系統へ引き継ぐ。


 管理する公印、職務上の鍵、帳簿、決裁文書は回収し、保全する。


 枢機卿の私印も、今回の指示書と受領の照合に用いる証拠として預かる。


 逃亡と証拠への接触を防ぐため、名を挙げられた者の身柄を確保し、指定された場所へ移す。以後の面談と連絡は、担当者を通す。


「待て」


 枢機卿が言った。


 文書官は読み上げを止め、顔を上げた。


「私が調査を命じたのだ」


「その文書も、審理の資料に含まれています」


「私の名を騙った者を調べよと求めた」


「名を騙ったというご説明と、徴収前の用途変更指示、会計窓口の受入れを照合しています」


 文書官は、枢機卿の手元へ決裁理由の写しを置いた。


 私印だけを根拠にしたものではなかった。


 地方からの送金と、中央での受領。費目を変える前の指示と、変えた後の帳簿。これまで保管されていた未承認文書と、今回提出された控え。


 枢機卿は、途中まで読んで紙を伏せた。


「あの者達の言うことを、全て信じたのか」


「関係者の説明が食い違った箇所も記しています。司教が自ら留めた金と、会計司祭による帳面の切除は、別に責任を問います」


 部下を指せば済む余白がなかった。


 枢機卿は顔を上げ、扉の向こうへ声をかけた。


「私の書記を呼べ」


 廊下にいた侍従が動きかける。


 警備の責任者が、そちらへ片手を向けた。


「職務上の指示は、ただいまをもって執行できません。必要な書面の作成は、こちらで申し出を受けます」


「この部屋の者は、私に仕えている」


 侍従は、枢機卿の顔を見た。


 それから、差し出された決裁の印へ目を落とした。


 足が止まる。


 枢機卿は、もう一度命じようとした。


 その前に、記録官が机の横へ来た。


「印箱を、お開けください」


     *


 印箱には、三つの印が入っていた。


 職務に用いるものと、私的な書状に用いるもの。長く使っていない小さな印も、布に包んで隅へ置いてあった。


 記録官は、一つずつ形を確かめ、別の包みへ収めた。


「それは、私の物だ」


 枢機卿は私印を指した。


「所有についても記します。証拠保全のためお預かりします」


 受領の書面が、机へ置かれた。


 枢機卿は反射的に印箱へ手を伸ばした。


 指先が、空いた窪みに触れる。


「お名前をお書きください。受領を認めない場合は、その旨を記録します」


 記録官は筆を差し出した。


 枢機卿は、しばらく筆を取らなかった。


 これまで、差し出された紙へ印を押せば、人が動いた。巡回の者が出立し、金が運ばれ、下位の聖職者が返事を控えた。


 今、手元にある紙は、自分の印が運び出されることを記していた。


「教皇猊下へ、直接申し上げる」


「申し出はお預かりします。執行は継続します」


 文書官は同じ声で答えた。


 教皇庁の裁定に対する異議を申し立てる道はある。それを口にすれば、この場の決定が消えるわけではなかった。


 枢機卿は筆を取った。


 署名の終わりで、少し墨が掠れた。


 記録官は乾くのを待ち、写しを残した。


 警備の者達が執務机と保管棚を確かめる間、枢機卿は椅子に座っていた。誰も衣を剥ごうとはしない。胸の聖印にも触れない。


 持ち出す私物を尋ねられ、枢機卿は祈祷書を指した。


 挟まれた書面がないか確認した後、書記が両手で渡す。


「お支度が済みましたら」


 警備の責任者が扉を開けた。


 廊下には、顔見知りの者がいた。


 皆、頭を下げた。


 枢機卿は、その中の一人を見た。長年、使者の手配を任せていた男だった。


「東方へ書状を」


 男は頭を下げたまま動かなかった。


 傍らの文書官が、申し出を記すための紙を開いた。


 枢機卿は口を閉じた。


 祈祷書を抱え直し、用意された道を歩いた。


     *


 執行は、枢機卿の部屋だけで行われたわけではなかった。


 監査室側に滞在していた司教には、面談室で本人への決裁が渡された。提出した指示書が証拠として採用されたことと、自ら差し引いた金や帳面の扱いについて責任を問われることが、同じ紙に書かれている。


「私は、進んで出した」


「その点も、記されています」


 年嵩の監査官は、該当する行を示した。


 司教はその行を読んだ。


 協力したという事実は、確かに消されていなかった。


 その先も、消えていなかった。


 別の司教と側近には、それぞれの滞在先で決裁が伝えられた。会計司祭も、担当していた帳簿と鍵を渡した。誰がどこまで知り、何を命じ、何を自分で行ったかによって、課される制限は異なっていた。


 単に清書を命じられた書記や、事情を知らずに文書を運んだ者まで、一列に拘束されることはなかった。


 午後、中央の会計窓口から、旧担当者の印を用いた支払要求が一通戻った。


 執行前に作られ、持参するまでに時間がかかったものだった。


 窓口の者は、書面を破棄しなかった。受け付けた時刻と決裁権失効の通知を添え、支払いを止めて返した。


 使者は戸惑い、古い印を指した。


「昨日は、これで」


「本日からは、後任の確認が必要です」


 返事は短かった。


 使者は一礼して退出した。


 その後に並んでいた施療院の担当者が、薬材の定期支払いを差し出した。正規の予算と納入が確かめられ、その書類は隣の机へ通された。


 止まるものと、続くものが、同じ窓口で分かれていく。


 各地へは、解任と引継ぎ先の通知が送られた。


 荷物の受領を待っている教区には、新しい担当者の名が届く。相談を続けている礼拝所には、返答先が変わらないことも添えられた。受領済みの証言を、また初めから語り直す必要はない。


 それらが地方へ届くまで、日数はかかった。


 だが、出発を止める命令は、もうその部屋から来なかった。


     *


 貸与邸へ執行済みの通知が届いた日は、朝から雨だった。


 使者が玄関で濡れた外套を脱ぎ、メイが受け皿に載せた温かい茶を渡した。封書の外包みには雨の跡があったが、中の紙は乾いていた。


 リシアは、クラウディアが開いた通知を読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。


 解任。


 印と鍵の回収。


 身柄の確保。


 引継ぎの開始。


 長く返事を待ったことが、いくつかの短い文になっていた。


「実行されたのですね」


「はい」


 クラウディアが答えた。


「これは申請ではなく、執行の報告です」


 ステファニアが横から読み、ゆっくり息を吐いた。


 アリシア・ファーランドは、自分の前へ回ってきた紙を静かに持った。扇は閉じて置かれている。


 聖女アリシアは通知の後半を読んでいた。


「礼拝と施療を継続する担当は、決まったのですね」


「正規の担当系統へ戻しています。個別に不足が出たところは、引継ぎ先が受け付けます」


「分かりました」


 聖女アリシアの指が、胸元の聖印へ触れた。


 アインは、窓の雨を一度見てから訊いた。


「これで、あいつらの命令は止まるか」


「中央での権限は失効しました。通知の未着地域には時差が残りますが、旧名義の指示は現行の正規窓口へ照会するよう、順に伝わります」


「頼む」


 アインはそれだけ言った。


 王政府の文書窓口と学院神殿部にも、同じ執行通知が届いていた。聖王国側では、その通知を受けた自国の担当者が、照会先と受領経路を更新する。


 教皇庁の決裁が、聖王国の人事を動かすことはない。


 それぞれの側で、従うべき相手が誰かを確かめ直していた。


 エレナが別紙を開いた。


「献金の返還についても、最初の決裁が出ています」


 リシアは顔を上げた。


 不正な用途変更が確認された金のうち、保全できた残額を分け、納付者と額を照合できたものから返す。用途の確定していない金や、正規の施療予算には手をつけない。


 全ての被害を、その残額だけで補えるとは書かれていなかった。


 まだ行方を追う金も、費用として使われた金もある。けれど、最初に返せるものについて、今度は実際の手配が始まっていた。


「あの宿場も、対象に入っています」


 エレナが言った。


 リシアは通知の番号を確かめた。


 母親が訂正した後の申告額で、照合が済んでいる。


「届いたら、教えていただきましょう」


 リシアの声に、ようやく力が戻った。


「額を決めただけで、終わりにしたくありません」


     *


 返還の使者が宿場へ来たのは、道のぬかるみが乾き始めた頃だった。


 礼拝所の隣室には、以前と同じ机があった。


 母親は、包みから受取札と相談の受領証を出した。担当者は両方を見比べ、事前に届いていた照合済みの名簿へ目を落とす。


 小さな布袋が、机へ置かれた。


「こちらで、お確かめください」


 母親は袋を開いた。


 銀貨と銅貨を、一枚ずつ並べる。数え終わっても、すぐには手を引かなかった。


「これを受け取ったら、前のお話は取り下げるのでしょうか」


「いいえ。返したことを、お預かりした記録へ加えます」


 担当者は受領の文を指した。


「お金を受け取ったという確認です。話を変えるようお願いするものではありません」


 母親は何度か頷いた。


 同伴した娘が、椅子の横から机を覗いている。


「お母さん、数、違うの」


「合っているのよ」


 母親は娘の手を握った。


「合っているから、もう一度見ていたの」


 担当者が、受領の記載を読み上げた。


 母親は指で示された場所へ、ゆっくり名を書いた。相談を受けた時の控えが、隣で見守る立会人へ渡される。


「こちらの司祭様に、お礼を」


「診察のご挨拶でしたら、奥にいらっしゃいます」


 母親は袋を握りかけた。


 担当者は、その手の動きに気づいて付け加えた。


「新しい献金は要りません。どうぞ、お持ち帰りください」


 母親の頬が、少し赤くなった。


 袋を包みの中へ戻すと、娘を連れて奥へ向かった。


 司祭は、娘の顔色を見て笑った。


「歩いて来られたのですね」


 娘が頷いた。


 母親は何度も言葉を選び、それでも最後には、ありがとうございましたとだけ言った。


 司祭はその礼を受けた。


 入口では、次の相談者が待っていた。


     *


 返還済みの知らせが貸与邸へ届くまで、リシア達にも別の仕事があった。


 学院神殿部では、照会記録の引継ぎが続いている。エリオットは、担当者の名を確かめ、未着の返事と到着した返事を照合していた。


 解任された者の名を見つけるたびに騒ぐ者はいなかった。


 ただ、エリオット個人を外すよう求めた書面の横へ、その要求が実行されなかった経緯と、要求者の権限失効が記された。


 エリオットは、そこを二度読んだ。


 年長の補助員が、次の束を机へ置く。


「終わった分は、こちらへ」


「はい」


 エリオットは紙を揃え、受領番号が外から読めるように向きを直した。


 一人を外せば止まると思われていた机は、今日も三人で使っていた。


 教皇庁の若い司祭にも、保護を続けることと、当面の仕事を軽くすることが伝えられた。事件に関係する追加の確認があれば、担当者を通して尋ねる。突然、元の側付きへ戻されることはない。


 若い司祭は、自室で書きかけていた紙を畳んだ。


 上役に出す書状ではなかった。


 家族へ、しばらく便りを出せなかったことを詫び、無事でいると知らせる手紙だった。


 いつものように余白を揃え、日付を書いた。


 最後に、自分の名を添える。


 封じる前に、もう一度だけ読み返した。


     *


 夕方、作業室から大きな書類箱が二つ運び出された。


 廃棄する箱ではない。処理を終えた写しを、必要な時に取り出せる保管場所へ移す箱だった。


 エレナは控えの位置を確かめ、蓋へ札を付けた。


 机が広くなった。


 リシアはその広さを見て、ようやく長かった日々の終わりを感じた。以前は、この上に新しい要求の写しが来るたび、隣の束を少しずつ押しやっていた。


 今夜は、茶器を置くために何も避けなくてよかった。


 メイが皿を運んできた。


「こちらでよろしいでしょうか」


「ええ。皆様の分を」


 アリシア・ファーランドが答えた。


 聖女アリシアも席に着いている。リシアの前には、宿場から届いた返還済みの通知が一枚だけ残っていた。


「娘さんも、一緒に来られたそうです」


 リシアが言うと、聖女アリシアの顔が綻んだ。


「それは、よかった」


 ステファニアも、肩の力を抜いた。


 それから、自分の扇へ目を落とした。


「もう少し、勝ったという気持ちになるかと思っていました」


「違いましたか」


 アリシア・ファーランドが尋ねる。


「ほっとしています。次の返事を怖がらずに、待てることに」


 その声を聞き、リシアも頷いた。


「私もです」


 アリシア・ファーランドは二人を見て、静かに茶を飲んだ。


「でしたら、今日はよく眠れますわ」


 アインが、彼女を見た。


「お前は」


 茶杯が止まる。


「気は済んだか」


 アリシア・ファーランドは、すぐには答えなかった。


 リシアには、その沈黙の中にどれだけ昔のことがあるか分からなかった。ベルカの名も、眠っていた年月も、今夜の通知だけで元へ戻るものではない。


「この方々に、今を生きる方の行き先を決めさせることは、終えられました」


 アリシア・ファーランドは言った。


「今夜は、それで十分ですわ」


 アインは頷いた。


 聖女アリシアは、両手を膝の上へ重ねたまま、そのやり取りを聞いていた。


 誰も次の敵の名を挙げなかった。


 メイが茶のお代わりを注ぎ、エレナが皿を隣へ回した。


 窓の向こうから、通りを歩く人々の声が届いた。


     *


 茶器が片付いた後、クラウディアが薄い綴じ物を持ってきた。


 聖王国封印部との外部監査に用いる、閲覧範囲の確認書だった。


 アークライトの停止系、承認者の分離、記録の連続性。見せない設計と、なお残る危険。それぞれが、以前に決めた位置に残っている。


 腐敗側の干渉が止まったことで、船が安全になったわけではない。


 自分達が説明しなければならないことも、そのままだった。


「封印部と学院神殿部、王政府の立会担当へ、日程の再調整を求めます」


 クラウディアが言った。


「五分類の本文は、まだ取得していません。先に、予定していた外部監査を」


「ああ」


 アインは綴じ物を受け取った。


 リシアは机の反対側から、それを見た。


 古い記録に問いかけるために来たのだった。


 その途中で、今いる人々の話を聞いた。戻る場所も、返事を受け取る先も、自分達だけの都合で閉じてはいけないと知った。


 アインが頁を開いた。


 そこには、古いルカ誓約系の問いが控えてあった。


 開く前に、止まれる者か。


 アインはしばらくその一行を見て、それからクラウディアへ顔を上げた。


「次は、俺達が答える番だ」


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