第百七十夜 命令の終わり
# 第百七十夜 命令の終わり
朝の執務室へ入ってきたのは、いつもの側近ではなかった。
正装した文書官と、記録官が一人ずつ。その後ろに、教皇庁の正規警備を率いる者が立っている。
枢機卿は、机へ置かれた封書を見た。
受領棚へ戻される照会書とは、封じ方が違った。
「何の用だ」
「決裁の伝達と、執行に参りました」
文書官は、書状を開いた。
正規監査室が提出した記録、関係者の供述、枢機卿側からの弁明。それらを受けた教皇庁の正規決裁が、日付とともに読み上げられた。
枢機卿が担っていた政務、教区監督、財務に関わる職務を解く。
関係する司教、司祭、実務担当者についても、それぞれに記した職務を解く。後任の事務は、既存の正規系統へ引き継ぐ。
管理する公印、職務上の鍵、帳簿、決裁文書は回収し、保全する。
枢機卿の私印も、今回の指示書と受領の照合に用いる証拠として預かる。
逃亡と証拠への接触を防ぐため、名を挙げられた者の身柄を確保し、指定された場所へ移す。以後の面談と連絡は、担当者を通す。
「待て」
枢機卿が言った。
文書官は読み上げを止め、顔を上げた。
「私が調査を命じたのだ」
「その文書も、審理の資料に含まれています」
「私の名を騙った者を調べよと求めた」
「名を騙ったというご説明と、徴収前の用途変更指示、会計窓口の受入れを照合しています」
文書官は、枢機卿の手元へ決裁理由の写しを置いた。
私印だけを根拠にしたものではなかった。
地方からの送金と、中央での受領。費目を変える前の指示と、変えた後の帳簿。これまで保管されていた未承認文書と、今回提出された控え。
枢機卿は、途中まで読んで紙を伏せた。
「あの者達の言うことを、全て信じたのか」
「関係者の説明が食い違った箇所も記しています。司教が自ら留めた金と、会計司祭による帳面の切除は、別に責任を問います」
部下を指せば済む余白がなかった。
枢機卿は顔を上げ、扉の向こうへ声をかけた。
「私の書記を呼べ」
廊下にいた侍従が動きかける。
警備の責任者が、そちらへ片手を向けた。
「職務上の指示は、ただいまをもって執行できません。必要な書面の作成は、こちらで申し出を受けます」
「この部屋の者は、私に仕えている」
侍従は、枢機卿の顔を見た。
それから、差し出された決裁の印へ目を落とした。
足が止まる。
枢機卿は、もう一度命じようとした。
その前に、記録官が机の横へ来た。
「印箱を、お開けください」
*
印箱には、三つの印が入っていた。
職務に用いるものと、私的な書状に用いるもの。長く使っていない小さな印も、布に包んで隅へ置いてあった。
記録官は、一つずつ形を確かめ、別の包みへ収めた。
「それは、私の物だ」
枢機卿は私印を指した。
「所有についても記します。証拠保全のためお預かりします」
受領の書面が、机へ置かれた。
枢機卿は反射的に印箱へ手を伸ばした。
指先が、空いた窪みに触れる。
「お名前をお書きください。受領を認めない場合は、その旨を記録します」
記録官は筆を差し出した。
枢機卿は、しばらく筆を取らなかった。
これまで、差し出された紙へ印を押せば、人が動いた。巡回の者が出立し、金が運ばれ、下位の聖職者が返事を控えた。
今、手元にある紙は、自分の印が運び出されることを記していた。
「教皇猊下へ、直接申し上げる」
「申し出はお預かりします。執行は継続します」
文書官は同じ声で答えた。
教皇庁の裁定に対する異議を申し立てる道はある。それを口にすれば、この場の決定が消えるわけではなかった。
枢機卿は筆を取った。
署名の終わりで、少し墨が掠れた。
記録官は乾くのを待ち、写しを残した。
警備の者達が執務机と保管棚を確かめる間、枢機卿は椅子に座っていた。誰も衣を剥ごうとはしない。胸の聖印にも触れない。
持ち出す私物を尋ねられ、枢機卿は祈祷書を指した。
挟まれた書面がないか確認した後、書記が両手で渡す。
「お支度が済みましたら」
警備の責任者が扉を開けた。
廊下には、顔見知りの者がいた。
皆、頭を下げた。
枢機卿は、その中の一人を見た。長年、使者の手配を任せていた男だった。
「東方へ書状を」
男は頭を下げたまま動かなかった。
傍らの文書官が、申し出を記すための紙を開いた。
枢機卿は口を閉じた。
祈祷書を抱え直し、用意された道を歩いた。
*
執行は、枢機卿の部屋だけで行われたわけではなかった。
監査室側に滞在していた司教には、面談室で本人への決裁が渡された。提出した指示書が証拠として採用されたことと、自ら差し引いた金や帳面の扱いについて責任を問われることが、同じ紙に書かれている。
「私は、進んで出した」
「その点も、記されています」
年嵩の監査官は、該当する行を示した。
司教はその行を読んだ。
協力したという事実は、確かに消されていなかった。
その先も、消えていなかった。
別の司教と側近には、それぞれの滞在先で決裁が伝えられた。会計司祭も、担当していた帳簿と鍵を渡した。誰がどこまで知り、何を命じ、何を自分で行ったかによって、課される制限は異なっていた。
単に清書を命じられた書記や、事情を知らずに文書を運んだ者まで、一列に拘束されることはなかった。
午後、中央の会計窓口から、旧担当者の印を用いた支払要求が一通戻った。
執行前に作られ、持参するまでに時間がかかったものだった。
窓口の者は、書面を破棄しなかった。受け付けた時刻と決裁権失効の通知を添え、支払いを止めて返した。
使者は戸惑い、古い印を指した。
「昨日は、これで」
「本日からは、後任の確認が必要です」
返事は短かった。
使者は一礼して退出した。
その後に並んでいた施療院の担当者が、薬材の定期支払いを差し出した。正規の予算と納入が確かめられ、その書類は隣の机へ通された。
止まるものと、続くものが、同じ窓口で分かれていく。
各地へは、解任と引継ぎ先の通知が送られた。
荷物の受領を待っている教区には、新しい担当者の名が届く。相談を続けている礼拝所には、返答先が変わらないことも添えられた。受領済みの証言を、また初めから語り直す必要はない。
それらが地方へ届くまで、日数はかかった。
だが、出発を止める命令は、もうその部屋から来なかった。
*
貸与邸へ執行済みの通知が届いた日は、朝から雨だった。
使者が玄関で濡れた外套を脱ぎ、メイが受け皿に載せた温かい茶を渡した。封書の外包みには雨の跡があったが、中の紙は乾いていた。
リシアは、クラウディアが開いた通知を読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。
解任。
印と鍵の回収。
身柄の確保。
引継ぎの開始。
長く返事を待ったことが、いくつかの短い文になっていた。
「実行されたのですね」
「はい」
クラウディアが答えた。
「これは申請ではなく、執行の報告です」
ステファニアが横から読み、ゆっくり息を吐いた。
アリシア・ファーランドは、自分の前へ回ってきた紙を静かに持った。扇は閉じて置かれている。
聖女アリシアは通知の後半を読んでいた。
「礼拝と施療を継続する担当は、決まったのですね」
「正規の担当系統へ戻しています。個別に不足が出たところは、引継ぎ先が受け付けます」
「分かりました」
聖女アリシアの指が、胸元の聖印へ触れた。
アインは、窓の雨を一度見てから訊いた。
「これで、あいつらの命令は止まるか」
「中央での権限は失効しました。通知の未着地域には時差が残りますが、旧名義の指示は現行の正規窓口へ照会するよう、順に伝わります」
「頼む」
アインはそれだけ言った。
王政府の文書窓口と学院神殿部にも、同じ執行通知が届いていた。聖王国側では、その通知を受けた自国の担当者が、照会先と受領経路を更新する。
教皇庁の決裁が、聖王国の人事を動かすことはない。
それぞれの側で、従うべき相手が誰かを確かめ直していた。
エレナが別紙を開いた。
「献金の返還についても、最初の決裁が出ています」
リシアは顔を上げた。
不正な用途変更が確認された金のうち、保全できた残額を分け、納付者と額を照合できたものから返す。用途の確定していない金や、正規の施療予算には手をつけない。
全ての被害を、その残額だけで補えるとは書かれていなかった。
まだ行方を追う金も、費用として使われた金もある。けれど、最初に返せるものについて、今度は実際の手配が始まっていた。
「あの宿場も、対象に入っています」
エレナが言った。
リシアは通知の番号を確かめた。
母親が訂正した後の申告額で、照合が済んでいる。
「届いたら、教えていただきましょう」
リシアの声に、ようやく力が戻った。
「額を決めただけで、終わりにしたくありません」
*
返還の使者が宿場へ来たのは、道のぬかるみが乾き始めた頃だった。
礼拝所の隣室には、以前と同じ机があった。
母親は、包みから受取札と相談の受領証を出した。担当者は両方を見比べ、事前に届いていた照合済みの名簿へ目を落とす。
小さな布袋が、机へ置かれた。
「こちらで、お確かめください」
母親は袋を開いた。
銀貨と銅貨を、一枚ずつ並べる。数え終わっても、すぐには手を引かなかった。
「これを受け取ったら、前のお話は取り下げるのでしょうか」
「いいえ。返したことを、お預かりした記録へ加えます」
担当者は受領の文を指した。
「お金を受け取ったという確認です。話を変えるようお願いするものではありません」
母親は何度か頷いた。
同伴した娘が、椅子の横から机を覗いている。
「お母さん、数、違うの」
「合っているのよ」
母親は娘の手を握った。
「合っているから、もう一度見ていたの」
担当者が、受領の記載を読み上げた。
母親は指で示された場所へ、ゆっくり名を書いた。相談を受けた時の控えが、隣で見守る立会人へ渡される。
「こちらの司祭様に、お礼を」
「診察のご挨拶でしたら、奥にいらっしゃいます」
母親は袋を握りかけた。
担当者は、その手の動きに気づいて付け加えた。
「新しい献金は要りません。どうぞ、お持ち帰りください」
母親の頬が、少し赤くなった。
袋を包みの中へ戻すと、娘を連れて奥へ向かった。
司祭は、娘の顔色を見て笑った。
「歩いて来られたのですね」
娘が頷いた。
母親は何度も言葉を選び、それでも最後には、ありがとうございましたとだけ言った。
司祭はその礼を受けた。
入口では、次の相談者が待っていた。
*
返還済みの知らせが貸与邸へ届くまで、リシア達にも別の仕事があった。
学院神殿部では、照会記録の引継ぎが続いている。エリオットは、担当者の名を確かめ、未着の返事と到着した返事を照合していた。
解任された者の名を見つけるたびに騒ぐ者はいなかった。
ただ、エリオット個人を外すよう求めた書面の横へ、その要求が実行されなかった経緯と、要求者の権限失効が記された。
エリオットは、そこを二度読んだ。
年長の補助員が、次の束を机へ置く。
「終わった分は、こちらへ」
「はい」
エリオットは紙を揃え、受領番号が外から読めるように向きを直した。
一人を外せば止まると思われていた机は、今日も三人で使っていた。
教皇庁の若い司祭にも、保護を続けることと、当面の仕事を軽くすることが伝えられた。事件に関係する追加の確認があれば、担当者を通して尋ねる。突然、元の側付きへ戻されることはない。
若い司祭は、自室で書きかけていた紙を畳んだ。
上役に出す書状ではなかった。
家族へ、しばらく便りを出せなかったことを詫び、無事でいると知らせる手紙だった。
いつものように余白を揃え、日付を書いた。
最後に、自分の名を添える。
封じる前に、もう一度だけ読み返した。
*
夕方、作業室から大きな書類箱が二つ運び出された。
廃棄する箱ではない。処理を終えた写しを、必要な時に取り出せる保管場所へ移す箱だった。
エレナは控えの位置を確かめ、蓋へ札を付けた。
机が広くなった。
リシアはその広さを見て、ようやく長かった日々の終わりを感じた。以前は、この上に新しい要求の写しが来るたび、隣の束を少しずつ押しやっていた。
今夜は、茶器を置くために何も避けなくてよかった。
メイが皿を運んできた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ。皆様の分を」
アリシア・ファーランドが答えた。
聖女アリシアも席に着いている。リシアの前には、宿場から届いた返還済みの通知が一枚だけ残っていた。
「娘さんも、一緒に来られたそうです」
リシアが言うと、聖女アリシアの顔が綻んだ。
「それは、よかった」
ステファニアも、肩の力を抜いた。
それから、自分の扇へ目を落とした。
「もう少し、勝ったという気持ちになるかと思っていました」
「違いましたか」
アリシア・ファーランドが尋ねる。
「ほっとしています。次の返事を怖がらずに、待てることに」
その声を聞き、リシアも頷いた。
「私もです」
アリシア・ファーランドは二人を見て、静かに茶を飲んだ。
「でしたら、今日はよく眠れますわ」
アインが、彼女を見た。
「お前は」
茶杯が止まる。
「気は済んだか」
アリシア・ファーランドは、すぐには答えなかった。
リシアには、その沈黙の中にどれだけ昔のことがあるか分からなかった。ベルカの名も、眠っていた年月も、今夜の通知だけで元へ戻るものではない。
「この方々に、今を生きる方の行き先を決めさせることは、終えられました」
アリシア・ファーランドは言った。
「今夜は、それで十分ですわ」
アインは頷いた。
聖女アリシアは、両手を膝の上へ重ねたまま、そのやり取りを聞いていた。
誰も次の敵の名を挙げなかった。
メイが茶のお代わりを注ぎ、エレナが皿を隣へ回した。
窓の向こうから、通りを歩く人々の声が届いた。
*
茶器が片付いた後、クラウディアが薄い綴じ物を持ってきた。
聖王国封印部との外部監査に用いる、閲覧範囲の確認書だった。
アークライトの停止系、承認者の分離、記録の連続性。見せない設計と、なお残る危険。それぞれが、以前に決めた位置に残っている。
腐敗側の干渉が止まったことで、船が安全になったわけではない。
自分達が説明しなければならないことも、そのままだった。
「封印部と学院神殿部、王政府の立会担当へ、日程の再調整を求めます」
クラウディアが言った。
「五分類の本文は、まだ取得していません。先に、予定していた外部監査を」
「ああ」
アインは綴じ物を受け取った。
リシアは机の反対側から、それを見た。
古い記録に問いかけるために来たのだった。
その途中で、今いる人々の話を聞いた。戻る場所も、返事を受け取る先も、自分達だけの都合で閉じてはいけないと知った。
アインが頁を開いた。
そこには、古いルカ誓約系の問いが控えてあった。
開く前に、止まれる者か。
アインはしばらくその一行を見て、それからクラウディアへ顔を上げた。
「次は、俺達が答える番だ」




