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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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幕間三十 異議はございません

# 幕間三十 異議はございません


 監査報告が正規の決裁へ上がり、まだその返事が届かない日のことだった。


 会議のために、椅子が一脚減らされていた。


 正規監査室の滞在先から戻ってこない司教の席だった。空けたままでは人目につく。枢機卿はそう言って運び出させたのだが、残った者達が卓の周りへ均等に座り直すまでに、二度、椅子を動かすことになった。


 誰も、空いた側へ寄りたがらなかった。


 枢機卿は上座で待った。


 残る司教は、以前と同じ位置に座った。実務を取りまとめる側近も、それに倣った。その結果、卓の片側だけが広く空いた。


「もっと詰めてはどうだ」


 枢機卿が言った。


「書類を広げられますので」


 司教は、抱えてきた包みを空いた場所へ置いた。


 側近も、その隣へ自分の包みを置く。


 いなくなった者の席は、二人分の書類で埋まった。


 壁際の書記は、見なかったふりをして墨を確かめた。朝から替わった椅子の数を記録する用はない。彼が預かるのは、これから作成する返答の草稿だけだった。


「今こそ、我々が一致して事に当たる必要がある」


 枢機卿の声は低く、よく通った。


 二人は深く頷いた。


「異議はございません」


 先に言ったのは司教だった。


「私もです」


 側近も続く。


 枢機卿は少しだけ肩の力を抜いた。


「まず、調査に協力する。我々に隠すものはない」


「その通りでございます」


 司教が包みを開いた。


「ですから、私がお預かりしたご指示も、全てお出しするつもりです」


 枢機卿の手が止まった。


「全て、とは」


「一部だけでは、前後を取り違えられます。閣下のご真意を正しくお伝えするために」


 司教は一枚目を卓へ置いた。


 枢機卿の私印が、上を向いた。


「お待ちください」


 側近が身を乗り出す。


 枢機卿は、そちらへ顔を向けた。


「その書面だけでは、私が独断で送付先を変えたように読めます。こちらの追記も添えていただきませんと」


 側近の包みから、もう一枚が出た。


 こちらにも、私印があった。


 枢機卿は二枚を見比べた。


「私の名を、不正に用いた者の調査だ」


「はい。不正に用いられたものと、正しく頂戴したものを分けませんと」


 司教は、心から案じているような顔をした。


 書記の筆先が、墨壺の縁に軽く当たった。


 枢機卿はその音を聞き、書記を見た。


「今の話は、まだ書かなくてよい」


「承知しました。返答の本文が決まってからでよろしいですね」


「そうだ」


 書記は筆を置いた。


 司教が筆を取った。


 側近も、小さな板の上へ羊皮紙を載せた。


「何を書いている」


 枢機卿が尋ねた。


「覚えでございます。後で伺われた際、申したことを違えぬように」


 司教は答えた。


「私もです」


 側近が続く。


 壁際の書記だけが、筆を持たずに座っていた。


     *


 最初の返答案は、四行で止まった。


 枢機卿の名が用いられた一連の案件について、関係者一同は、各自の職責に応じて誠実に説明する。


 枢機卿はその文を読み、頷いた。


「これでよい」


「職責、というところですが」


 司教が言った。


「私の職責は、閣下から賜った指示を教区へ伝えることでした。決定の責任まで含まれると、正確ではございません」


「伝達に誤りがあれば、お前の責任になる」


「はい。ですから、ご指示と私の送付文を並べていただくつもりです」


 側近が咳払いした。


「私は、司教様から受けた文書を整えております。私の段階で内容を変えたという誤解が生じませんよう、受け取った草稿も」


「その草稿には、口頭で補った点がある」


 司教の返事は速かった。


「では、同席した者に確かめていただきましょう」


「誰がいた」


 枢機卿が問う。


 二人とも、上座を見た。


 書記は四行目の後へ、まだ句点を打たずに待った。


「一連の案件、という言葉が広すぎる」


 枢機卿が言った。


「地方の献金に限れ」


「異議はございません」


 司教はすぐに頷いた。


「それ以外については、別に説明を差し上げます」


 側近も頷く。


「分けた方が、誤解がございません」


 書記は別紙を一枚出した。


「別に書けとは言っていない」


 枢機卿の声が少し強くなった。


 書記は別紙を戻した。


 司教が自分の包みから一枚出した。


 側近も出した。


 卓の空いていた側が、もう見えなくなっていた。


     *


 茶が運ばれた。


 侍従は盆を持ったまま、いつもなら茶杯を置く場所を探した。司教は指示書の角を押さえ、側近は送付控えを手元へ引き寄せる。


 どちらも、相手の書類の上へ自分の書類を重ねようとはしなかった。


「少し寄せればよいだろう」


 枢機卿が言うと、司教は包みの紐を結びかけた。


 側近が慌てて止める。


「その下に、私の追記があります」


「こちらは、私が受け取ったものだ」


「いえ、右の端に折り目がある方です」


 二人は一枚ずつ確認して分け直した。


 侍従は壁際の書記へ目を向けた。書記は自分の小机の端を空けた。


 茶はそこへ置かれた。


 上座では、枢機卿が空の受け皿を見ていた。


「もうよい。署名をする」


 枢機卿は出来上がった返答案を引き寄せた。


「代表して私が署名する。お前達は協力者として名を連ねよ」


 二人は顔を見合わせた。


「閣下が、代表としてご説明くださるのですね」


 司教が確かめた。


「当然だ」


「では、私から補足の書面もお預けします」


「私からも」


 枢機卿の前へ、二つの包みが滑ってきた。


 枢機卿は見下ろした。


 自分の私印が押された書面が、二人の側から戻ってきている。


「私が全てを説明するという意味ではない」


「では、各自で」


 司教は包みを引き戻した。


 側近も引き戻した。


 書記は、誰の名を先に書くか尋ねるのをやめた。


     *


 昼を過ぎた頃、枢機卿は椅子の背へ身体を預けた。


「この場に、異議のある者はいるか」


「ございません」


「私もございません」


「ならば、なぜ一枚が出来上がらぬ」


 二人は黙った。


 書記が、これまでの草稿を見直した。


 調査に協力することには、全員が賛成している。


 真実を明らかにすべきだという点でも一致している。


 ただし、誰が何を決めたかという話になると、全員の指が必ず自分以外を向く。


「各々の説明を、別々に提出されてはいかがでしょうか」


 書記は慎重に言った。


「監査室からも、そのように求められておりますので」


 枢機卿は目を閉じた。


 司教と側近は、同時に頷いた。


 今日初めて、同じ意味での賛成だった。


 書記は新しい羊皮紙へ、関係者が各自の説明を提出する旨だけを記した。四行を一行へ減らすまでに、半日が過ぎていた。


 枢機卿は署名を済ませると、自分の印箱を手元へ引いた。


「今後、これを私以外に使わせるな」


「承知しました」


 側近が答えた。


 司教は、卓に置いていた小さな紙を拾った。


「これまでの管理については、別に確認を」


「今後の話だ」


「はい。ですから、これまでのことを」


 枢機卿は印箱の蓋を閉じた。


 その音を、書記は会議の終わりと受け取った。


     *


 廊下で、司教は包みを抱え直した。


 側近も同じ方向へ歩き出す。


「そちらも監査室へ」


「閣下のご方針ですので」


「そうでしたな」


 二人は、並んで歩くには少し広すぎる間を空けて進んだ。


 階段の前で、側近が足を止めた。


「私の説明より先に、司教様の説明が届きますと」


「私も、それを案じておりました」


 司教も止まった。


 先に行かせたくはない。だが、一緒に聞かれたくもない。


 それぞれの従者が、背後で包みを持って待っていた。


「別々の部屋で伺うそうですよ」


 追いついた書記が言った。


「先ほどの会議の件で、伝言を預かりました」


 二人は明らかに安堵した。


 その直後、側近が訊いた。


「聞いた内容を、後で合わせるのか」


「そのための調査かと存じます」


 書記は答えた。


 二人はまた黙り、階段を下りた。


 外では一台の馬車が待っていた。監査室へ向かう者がいると聞いた侍従が、手配しておいたものだった。


 司教が右側へ乗り、側近が左側へ乗った。


 二人の間には、どちらの物とも混ざらないよう、それぞれの包みが積まれた。


 御者が行き先を尋ねると、同じ答えが重なった。


「正規監査室へ」


 御者は頷いた。


 これほど行き先のはっきりした客は、今日は初めてだった。


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