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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百六十八夜 誰のための嘆願

# 第百六十八夜 誰のための嘆願


 礼拝所の前には、もう人が集まっていた。


 街道沿いの宿場だった。学院都市を朝に出た馬車が着く頃には、軒先の影が短くなっている。荷車の通る道を空けて立つ者もいれば、礼拝所の石段へ腰を下ろし、膝の上で帽子を回している者もいた。


 リシアは馬車の窓から、その手を見た。


 指の節に土が入り、袖口には繕いの跡がある。貸与邸の机で読んだ「信徒有志」という言葉に、顔と服と、待ち疲れた足がついた。


 門の脇には、羊皮紙を張った板が立てかけてあった。


 祈りの自由を守るために。


 聖歌への干渉停止を求める嘆願。


 その下の小さな机で、一人の男が名を書き留めている。並ぶ人へ何か説明するたび、首から下げた小さな聖印が揺れた。


「あちらですか」


 リシアが問うと、向かいに座ったステファニアが頷いた。


「連絡のあった三か所のうち、今日中に往復できるのはこちらだけです。残る二か所へは、王政府の担当者が先に向かっています」


 馬車が止まった。


 先に降りたエレナが、御者から木箱を受け取る。蓋に細い口を開けただけの、飾りのない箱だった。リシアも降りようとして、靴先で裾を踏みかけた。


 扉の外からアインが手を差し出した。


「足元」


「ありがとうございます」


 石畳へ立つと、人の声が急に近くなった。


 聖女が来た。


 本当に来てくださった。


 誰かがそう言い、振り向いた人の肩が次の人へぶつかる。アインは馬車と石段の間へ半歩出て、人の流れが一つに詰まる前に、手で横の空きを示した。


「通れるようにしてくれ」


 声を張ることもなかった。


 前にいた男が帽子を被り直し、連れの肘を引いて場所を空ける。その向こうで、聖女アリシアが馬車を降りた。


 出迎えた土地の司祭は、聖女アリシアへ一礼してから、背後の人々を振り返った。


「皆様、先にお入りください。礼拝の時刻です」


 名を集めていた男が、机を離れて近づいてきた。


「聖女様。お待ちしておりました。皆の願いをお聞き届けいただけると伺いまして」


「お話を伺いに参りました」


 聖女アリシアは答えた。


 男は深く頷き、手にしていた巻紙を広げかけた。


「では、祈りの自由を求めるこの嘆願に、聖女様のお名を」


「まず、皆様と祈ってもよろしいですか」


 その問いに、男の手が止まった。


 近くにいた老婆が、ほっとしたように胸へ手を当てた。


「それがよろしい。今日は、歌ってもよいのですね」


 土地の司祭が老婆を見た。


「いつもの歌を歌いますよ」


「昨日、ここへ来るまで分からなくて」


 司祭の口元がわずかに動いた。言いかけた言葉を飲み込み、入口へ腕を向ける。


「どうぞ。いつものお席へ」


 老婆は頷いたが、男の巻紙を一度見てから、石段を上がった。


 聖女アリシアも後に続く。リシアが入口で振り返ると、アインは馬車のそばに残っていた。


 隣にはクラウディアがいる。少し離れた街道側には、王政府の担当者と同行した衛兵が二人、荷車の通行を見ていた。


 アインはリシアと目が合うと、短く頷いた。


 リシアも一礼して、礼拝所へ入った。


     *


 歌の始まりは、ひどく細かった。


 先に歌い出した老女へ、二列目の男が続く。幼い子は節を知らず、母親の唇を見上げていた。誰かの声が途中で裏返り、本人が咳払いをして歌い直す。


 リシアは最後列に座っていた。


 聖女アリシアは、祭壇の高い場所へ上がらず、空いていた長椅子の端に腰を下ろしている。両手を合わせた指の間に、小さな聖印が見えた。


 声が少しずつ増えていく。


 旋律を支えていた老婆が、隣の少女へ拍を教えるように膝を叩いた。少女は一拍遅れ、それでも最後まで歌った。


 その間に、誰も扉を叩かなかった。


 歌い終えた人々が息をつき、長椅子が軋む。司祭の祈りに応じて、下げられていた頭がゆっくり上がった。


 聖女アリシアが立ったのは、司祭が礼拝の終わりを告げてからだった。


「ご一緒させてくださって、ありがとうございます」


 静かな声が、石の壁へ柔らかく返る。


「今日歌った聖歌も、この礼拝所での祈りも、禁じられてはいません。今後、そうした命令が届いたと言われた時には、誰の命令なのか、こちらの司祭様と相談の担当者へ確かめてください」


 後ろの方で、男が立ち上がった。


 入口で巻紙を持っていた男だった。


「ですが、古い聖歌を調べることは止められたのでしょう」


「はい。危険な働きを持つ部分を、再び使える形へ戻す調査は止めています」


「それが本当に危険なのか、我々には分かりません」


「ご不安はもっともです。私も、技術については詳しい者に確かめなければ分かりません」


 聖女アリシアは、そこで一度、土地の司祭へ目を向けた。


「ですから、止めた範囲と理由を説明する者が来ています。礼拝の後、隣の部屋でお聞きいただけます。ただ、実際に危険なものを動かしてしまう音の並びを、そのままお渡しすることはできません」


「それでは、隠しているという疑いは消えない」


「一度の説明で消えない疑いもあると思います」


 聖女アリシアは急がず答えた。


「その疑問も、残してください。今日ここに来られなかった方も聞けるよう、司祭様に説明を預けます」


 男は巻紙を持ち上げた。


「皆は、そのようなことではなく、信仰への干渉を心配して」


「あの」


 別の声がした。


 前から三列目。髪を布でまとめた女が、膝の上の包みを抱いていた。


 立つかどうか迷っているうちに、周囲が振り向いたらしい。女は包みを強く握り、視線を下げた。


 聖女アリシアが、そちらへ身体を向ける。


「お座りのままで大丈夫です」


「お金のことを、聞いてもよいのでしょうか」


 巻紙の男が小さく息を吐いた。


「今は皆の祈りに関わる話を」


「そのために出したお金です」


 女の声が、思いがけず強くなった。


 自分で驚いたように唇を結び、それから包みを解く。出てきたのは、折り目のついた小さな受取札だった。


「古い聖歌を守るために必要だと。出さなければ、ここの施療も続けられなくなると聞きました。少ししか出せませんでしたけれど」


 司祭が、一歩前へ出た。


「施療を止めるとは、私は申し上げていません」


「司祭様ではありません。前に来た方です」


 女は受取札を見つめたまま続けた。


「それで、娘を連れて行くのを待ったんです。お金が足りない家は後になるなら、もう少し貯めてからと思って」


 リシアの手が、膝の上で止まった。


 昨夜、何度も見た欄が頭に浮かぶ。献金誘導。救護継続。その二つの間に、この女が娘を連れて行かなかった日々があった。


「娘さんは、今どちらに」


 聖女アリシアが尋ねる。


「家です。隣の方が見ていてくれます。今日は熱が下がっていますから」


 礼拝所の脇で待っていた施療院の担当者が、司祭へ目配せした。


 司祭は頷き、女の長椅子へ歩み寄った。


「献金の額で診る順番は決めていません。先に娘さんの様子を聞かせてください」


「でも、お話が」


「札のお話も伺います。娘さんを待たせる必要はありません」


 聖女アリシアがそう言うと、女は初めて受取札から目を離した。


 誰も拍手をしなかった。


 女は荷物をまとめ、司祭に付き添われて脇の扉へ向かった。その椅子の隣にいた男が、通りやすいよう脚を引く。


「私も、聞きたいことがあります」


 今度は、窓際の老人だった。


「孫があの札を持ってきた。名前を書けば、歌を守った家として残ると言う。書かなかった家も、どこかに残るのでしょうか」


 巻紙の男が、急いで首を振った。


「そのようなことはありません」


「そうですか。それなら、書かずに帰ってもよいのですね」


 老人は男を見ていた。


 聖女アリシアは、その返事を代わりにしなかった。


 男が頷くまで、少し間があった。


     *


 隣室の机は、持参した見本を並べるとほとんど埋まった。


 リシアは用意してきた説明札を一枚外し、女が包みを置ける場所を空けた。施療院の担当者が短い聞き取りを終え、土地の助祭とともに娘の家へ向かったところだった。


 女はまだ、受取札を手放さなかった。


「これを預けると、払った証がなくなりますか」


「預かる場合は、代わりの受領証をお渡しします」


 王政府の担当者が答えた。


「今日は手元に置いておかれますか。記載を写し、お持ちだったことを立会人と確認する方法もあります」


「そうしていただけるなら」


 エレナが、女の許しを待ってから受取札を机の中央へ寄せた。


 大きな字で、聖歌保全協力金とある。その下に教区へ送る旨が記され、端には小さな印と数字が並んでいた。


「こちらで、お納めになったのですか」


 担当者の問いに、女は首を横に振る。


「市の立つ日に、門の外で。ここの司祭様のお使いだと思っていました」


 戻ってきた司祭が、遠慮がちに札を覗いた。


「この印は、当所のものではありません。教区から巡回に来る者の札に似ていますが、帳面を見なければ」


「では、そこは未確認で」


 エレナが言い、写しの脇に小さく記した。


 リシアは、女へ向けていた質問の紙を裏返した。


「どのように説明されたか、覚えているところからお話しいただけますか。言葉どおりでなくても構いません」


「上手に言えませんけれど」


「私たちが書きます。違っていたら、直してください」


 女はゆっくり話し始めた。


 最初は、歌が失われるという話だった。次に、施療院を支える信仰が弱まると言われた。金を出さない者から診療を断ると、はっきり告げられたわけではない。


 けれど、周囲の人が財布を出し始めた時、女には、出さずに帰ることができなかった。


 エレナが書き終えた文を読み上げる。


「『献金をしなければ診療を受けられないと感じ、受診を遅らせた』。この書き方で、合っていますか」


 女はしばらく考えた。


「断られたわけではないんです」


「はい。断られたとは書いていません」


「……それなら、合っています」


 女の指が、受取札の折り目から離れた。


 リシアは、用意した欄へ急いで収めようとしていた自分に気づいた。人の話は、説明不足と虚偽説明の境で一度立ち止まる。こちらが早く分けようとすれば、話している人まで置いていく。


 隣の机で、ステファニアが担当者へ何か囁いた。


 間もなく、衝立が少し動いた。戸口から、誰がどの相談をしているか見通せなくなる。


「皆様の前でお話しにならなくても受け付けます。お名前を伏せたまま、概要だけお預かりすることもできます」


 ステファニアの説明に、戸口で迷っていた二人が顔を見合わせた。


 そのうちの一人は入ってきた。もう一人は、後日また来ると言って帰った。


 リシアは呼び止めなかった。


 受付箱には、まだ何も入っていない。


 それでも、向かいに座った女は話し続けている。紙を箱へ落とせるようになるまでに、これほど多くの時間が要ることを、リシアは昨日まで知らなかった。


     *


 外では、街道を荷車が通るたびに土埃が上がっていた。


 アインは馬車の脇で、礼拝所から出てくる人々を見ていた。すぐ帰る者、井戸のそばで知人を待つ者、入口の説明札を何度も読む者。それぞれが別の方を向いている。


「殿下」


 クラウディアが、視線だけを石段の下へ動かした。


 巻紙を持った男が、帰ろうとする老人の前へ回り込んでいた。背後にいた連れが、持っていた板へ何か書く。


「せめて、どちらの村かだけでも。集まった人数を報告しなければなりませんので」


「名は書かぬと言いました」


「お名前ではありません。お住まいを」


 老人が避けると、男も同じ方へ足を出した。


 アインは歩き出した。


「帰るんだろ」


 男が振り向く。


「少し確かめているだけです」


「道を空けてくれ」


 男の連れが、板を背中へ回した。


 アインはそれを取り上げず、老人の横へ立った。男がもう一度足を出そうとした先に、少年の靴がある。


「嘆願へ来た方々の確認は、我々の務めでして」


「この人は帰ると言った」


 しばらく、車輪の音だけが続いた。


 老人がアインを見上げ、やがて会釈した。男は半歩下がり、通り道が空いた。


 クラウディアが近くの衛兵を呼んだのは、その後だった。


「お帰りになる方の通行をお願いします。今の件は、こちらで見た範囲をお伝えします」


 衛兵は老人へ追いつき、出口の道を指して何か尋ねた。老人が頷く。


 巻紙の男は、アインの顔を確かめるように見た。


「あなたは、何の権限で」


「通してくれと頼んだ」


 アインは答え、礼拝所の方へ目を戻した。


 男の顔に、言葉にならない苛立ちが浮かんだ。連れに短く何か告げ、名を集めていた机へ戻っていく。


「追いますか」


 クラウディアが問う。


「ここを頼まれた」


「はい」


 アインは井戸のそばへ歩き、空いていた長椅子を少しずらした。門から来る人と帰る人が、同じ狭い場所ですれ違わずに済む位置だった。


 中から出てきたエレナが、その椅子へ水差しを置いた。


「休む場所が欲しかったんです」


「使ってくれ」


 エレナは頷き、また隣室へ戻った。


     *


 午後になって、嘆願の巻紙が相談机へ運ばれてきた。


 男は少し迷ってから、王政府の担当者の前にそれを置いた。


「これも、受け付けるのですね」


「はい。どなたへ届ける嘆願ですか」


「聖女様から、然るべきところへ」


 聖女アリシアは、施療院の担当者の帰りを待っていた。呼ばれて机へ来ると、巻紙の表題を読んだ。


「私がお預かりしたことと、文面に同意したことは、別に記してください」


 男の眉が動く。


「お賛同はいただけないのですか」


「祈りを守りたいという願いは、ご一緒しています。ですが、ここには聖歌全体が禁じられたと読める文があります。そのまま、私の言葉としては出せません」


「これだけの者が名を記したのです」


「ですから、名を書いた方が何を求めたのかも、大切にしてください」


 傍らで待っていた男が、遠慮がちに手を上げた。朝、石段に座って帽子を回していた人だった。


「私は、歌っていいと聞ければ、それでよかったんですが」


 別の女は、まだ説明が分からないので嘆願に名を残したいと言った。


 その二人の返事を、担当者は同じように聞いた。


 巻紙から名を消したい者には、取り下げの申し出を別に残す。元の文面は勝手に直さない。今後の説明を求める者には、返事の届く先を尋ねる。


 誰かが書かせた一枚の嘆願から、異なる希望が少しずつ離れていった。


 リシアは机の端で、配られた説明の出所を尋ねる紙を見ていた。


 朝の男は、文面をどこから受け取ったかには答えなかった。


 代わりに、土地の助祭が古い封筒を持ってきた。巡回の者が司祭不在の日に置いていったという。中の書面には、嘆願の文言と、読み上げる順序が記されていた。


 ただし、それを実際に誰が書き、誰が運んだかは、まだ確認できない。


「受け取った時のことだけで結構です」


 担当者が言うと、助祭は額の汗を拭った。


「疑ってもいませんでした。いつも来る方が、教区からだと」


「その方を、次に見れば分かりますか」


「はい」


 エレナの筆が動いた。


 リシアは、その記録を取る手を見ながら、巻紙の男の方も見た。


 彼は口を閉じていた。さっきまで、皆が何を心配しているのか、あれほど淀みなく説明していた人だった。


 帰る時刻が近づくと、施療院の担当者が戻ってきた。


 女の娘は診察を受け、今夜は自宅で様子を見られるという。急変した時に呼ぶ相手と、翌日の再診を家の者へ伝えてきた。母親は何度も頭を下げ、受取札を包み直した。


「あのお金は、戻るのでしょうか」


 女は最後にそう聞いた。


 リシアはすぐには答えられなかった。


 行き先も確定していない金を、返すとは言えない。ここで安心させたくて約束すれば、女が受け取った曖昧な説明を、今度はこちらが重ねることになる。


「調べた結果を、こちらへお返しします」


 王政府の担当者が、女へ受領証を渡した。


「返せるかどうかも含めて。次に来られた時は、この番号をお見せください」


 女は紙を読み、もう一度だけ頷いた。


 馬車へ向かう途中で、リシアは聖女アリシアの隣に並んだ。


「もっと、安心して帰っていただけると思っていました」


「私もです」


 聖女アリシアは、両手を前で重ねていた。


「祈った後なら、話していただけると思いました。でも、話してくださったことを、全部その場で解決できるわけではありませんでした」


 リシアは振り返った。


 相談机には、まだ土地の担当者が残っている。片付けてよいかと尋ねられた司祭が、首を振っていた。夕方に仕事を終える者も来るらしい。


「また、聞きに来なければいけませんね」


「はい」


 聖女アリシアが頷いた。


 馬車のそばで待っていたアインが、二人のために扉を押さえた。


「次も、道は空けておく」


 リシアは、今度は裾を確かめてから乗り込んだ。


     *


 残る二か所から使者が戻るまでには、さらに数日を要した。


 その間も、最初の宿場からは司祭の追記が届いた。施療院の会計を確かめたところ、聖歌保全協力金という名目の入金は見つからなかったという。ただし、教区が別に預かっている可能性があるため、その行き先を照会したいと添えられていた。


 貸与邸の作業室で、エレナが報告を並べた。


 別の礼拝所では、聖女アリシアが嘆願に賛同したと説明されていた。実際には署名も委任もなく、何をもって賛同としたかを尋ねると、訂正が来ていないからだという返事があった。


 三つ目の礼拝所では、嘆願の前に献金箱が出されていた。集めた額は記録されているが、持ち出した者の受領印がない。土地の司祭は、その空欄を今から自分の印で埋めるよう求められていた。


 机の向こうで、アリシア・ファーランドの扇が止まった。


「お断りになったのですね」


「はい。金を渡したところを見ていないので、押せないと」


 エレナの答えに、聖女アリシアが目を伏せた。


「その方にも、相談先をお伝えしてください。お一人で返事を続けなくてよいように」


 クラウディアが頷き、返送する書状へ付記した。


 ステファニアは三枚の写しを、少し離して置き直した。


「同じ文言があります。ただ、全てが同じ者の指示だとするには、まだ足りません」


「ええ。受け取った方々の証言と、発送した側の控えを合わせていただきましょう」


 アリシア・ファーランドは答えた。


「こちらで一つにまとめて差し上げると、一か所の間違いで全てを疑えるようになりますわ」


 リシアは最初の宿場から届いた追記を、最後まで読んだ。


 女の娘は翌日の再診を受けた。その後の経過は良好。母親は相談机へ来て、礼拝所で口にした金額を訂正したという。端数を覚え違えていたらしい。


「この訂正も、そのまま送りましょう」


 リシアが言うと、エレナは頷いた。


「先の申告と、後の訂正を両方付けます」


「はい。少なくなっていても」


 聖女アリシアが、リシアを見た。


 リシアは紙を揃えた。


「あの方は、私たちのためにお話しになったのではありませんから」


 誰も、金額を元へ戻そうとは言わなかった。


 正規監査室へ送る書状は、王政府の文書便に託された。封筒の中に入ったのは、氏名の開示に同意した者の証言と、匿名化した申告の概要、受取札の照合写し、土地の司祭からの会計照会だった。


 使者が出た後、作業室には、相談を続けるための控えが残った。


     *


 教皇庁でその報告が正規の受領を経て照会へ回った頃、枢機卿の執務室にも、地方からの返書が揃い始めていた。


 嘆願の数は、見込んでいたものに届かなかった。


 名を取り下げた者がいる。相談所へ回った者がいる。献金を持ち出した者の名を教えてほしいという照会が、礼拝所の司祭名義で届いている。


 枢機卿は、一枚目を読み終えると、二枚目へ進んだ。


 側近達は、その静けさを警戒していた。


 机を叩かれる方が、まだ次に何をすべきか分かる。


「聖女は、嘆願を受け取ったのだな」


「はい。ただし、賛同とは別であると」


「礼拝は行われた」


「はい」


「人を追い払ったという証言は」


 側近は答えなかった。


 枢機卿は、椅子へ深く身体を預けた。


 聖女が礼拝に加わった以上、祈りを奪われたという訴えは通しにくい。受け取った嘆願を隠されたと言うにも、こちらに受領証が戻っている。


 さらに悪いことに、地方の司祭達が返事を求め始めた。


 これまで、上へ送った金の使途を尋ねる者は少なかった。今は尋ねる先があり、返事を待っていることまで記録される。


「巡回に出した者を戻しますか」


 側近が慎重に尋ねた。


「今なら、次の市の前に」


「戻せ」


 枢機卿は即答した。


「帳面も持たせろ。使った印と、委任を受けたと主張する書面もだ」


 側近の顔がわずかに緩んだ。


「こちらへ集めます」


「正規監査室へ出させる」


 誰も動かなかった。


 窓の外で鐘が鳴り始めた。最初の一打が消える前に、枢機卿は机の端へ積まれた照会書を指した。


「私の名を使った者を、調べる必要がある」


「閣下」


「信徒の不安につけ込み、許されぬ献金を求めた。地方の司祭へ虚偽の受領印を迫り、聖女の意向まで偽った。事実なら、看過できぬ」


 さっきまで、地方へ送る指示を相談していた者達が、その言葉を聞いていた。


 一人の司教が、口を開いた。


「巡回の差配は、こちらから」


「誰の決裁で行った」


 司教の声が切れた。


 枢機卿は、その顔から目を離さなかった。


「私は、信仰を守るよう求めた。娘を施療院へ連れて行くのをためらわせるようなことを、いつ命じた」


 司教は唇を動かしたが、言葉を選び直す間に、枢機卿の視線は書記へ移っていた。


「書け。一部の司教及び司祭による、権威の不正使用の疑い。私の名を騙った徴収と、未承認の嘆願運動について、徹底調査を求める」


 書記が筆を取った。


 いつもの若い司祭は、もうこの部屋にいない。代わりの筆先は、書き始めに小さな墨溜まりを作った。


「調査への協力を、全ての関係教区へ命じる。正規監査室へは、私から必要な便宜を図ると伝えよ」


「監査室を、閣下が支援されるのですか」


「教会の信用に関わる」


 枢機卿は答えた。


 止められなかった調査なら、先頭に立つ。


 誰かが責任を負うことは、もう避けられない。ならば、責任を追及した者の名が最後に残るようにする。差し出す相手の地位が高いほど、自らに厳しい改革として語られるだろう。


「処分を恐れて帳面を隠す者があれば、それも記せ」


 枢機卿は、自分の印箱を開いた。


 側近の一人が、机へ半歩近づいて止まる。これまで文書の受領を遅らせる相談をしていた場所で、今度は提出を急がせる命令が出来上がっていく。


 側近達は、顔に出かけた戸惑いを伏せ、書記の筆先を見つめていた。


 司教だけが、両手を衣の袖へ入れていた。


 指先に触れたのは、内ポケットの鍵だった。宿舎に置いてきた小箱には、私印のある短い指示書が残っている。


 受け取った時は、いつか栄達の証になると思っていた。


 今、司教は、その箱の鍵を握り直した。


 机の上で封蝋が押された。


 枢機卿は、自分の名が鮮明に残った印を確かめ、書記へ渡した。


「直ちに届けよ」


 司教は、その命令に一礼した。


 そして、誰よりも先に部屋を出た。


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