第百六十七夜 引き渡すもの
# 第百六十七夜 引き渡すもの
人を替える。
そう書けば、紙の上では簡単だった。
担当を外す。
補助を移す。
受領者を替える。
席の名札を入れ替えれば、そこに座っていた者が見ていたものも、手にしていたものも、同じように消える。
そう考える者にとって、人事は便利な刃だった。
けれど、人は紙を持っている。
紙は番号を持っている。
番号は、棚へ繋がっている。
翌朝、貸与邸の作業室では、その当たり前のことを当たり前として残すための紙が広げられていた。
人事異動確認票。
受領者変更確認票。
紙の引渡目録。
信徒不利益確認欄。
リシアは、昨日までの査問要求受領票と並べられた新しい紙を、少し時間をかけて読んだ。
文字は難しくない。
けれど、意味は重かった。
異動対象者。
現所属。
異動先。
異動理由。
査問要求との関係。
担当中文書番号。
未処理文書数。
封緘状態。
引渡先。
引渡不能理由。
本人保護の有無。
信徒不利益への影響。
「人を動かす紙なのに、紙の欄ばかりですね」
リシアが言うと、クラウディアは頷いた。
「人だけを動かしたという記録にさせないためです」
「担当を替えると、担当していた紙も動きます」
「はい」
クラウディアは、淡々と答えた。
「動かない場合もあります。その場合は、動かなかった紙の所在が残ります」
ステファニアが、紙の引渡目録を手に取った。
縦に細い欄が並んでいる。
受領番号。
棚番号。
封緘番号。
閲覧制限の有無。
複写の有無。
照会先。
返答未着。
引渡時立会人。
引渡先受領印。
どれも、地味な欄だった。
剣も、魔法も、華やかな決断もない。
それでも、リシアには、その紙が昨日の査問要求受領票より怖く見えた。
人を替えた後に、何が消えたのか。
それを、先に書く紙だからだ。
「異動理由欄も、具体的事実と抽象語に分けるのですね」
「はい」
クラウディアは、机の端へ置いていた見本を示した。
「信仰活動への支障。組織秩序の回復。関係者の負担軽減。調査の公正性確保。この辺りは抽象語分類へ入ります」
「具体的事実欄には」
「どの業務で、どの遅延が起き、誰にどの不利益が出たのかを書かせます」
マキナが、椅子の背もたれに腕を乗せた。
「負担軽減って書いたら、本人を保護したまま休ませる方向にも読めるよねぇ」
「読めます」
クラウディアは否定しなかった。
「そのため、負担軽減を理由にする場合は、本人面談の有無、医療確認の有無、業務量、代替担当の範囲、保護継続の可否を確認します」
「外すつもりで書いたら、守る理由になる」
アインが言った。
「はい」
リシアは、信徒不利益確認欄へ目を移した。
説明不足。
虚偽説明。
献金誘導。
礼拝所での不安拡散。
相談窓口の有無。
救護継続の有無。
昨日、聖女アリシアが求めた欄だった。
祈りを利用された信徒を、腐敗側の口実にも、こちら側の戦果にも置かないための欄。
聖女アリシアは、今朝もその紙を見ていた。
扇は持っていない。
両手を膝の上に重ね、礼拝堂で祈る者と同じ静けさで座っている。
「信徒不利益確認欄は、人事異動票にも付けるのですか」
リシアが尋ねた。
「付けてください」
聖女アリシアは答えた。
「担当者が替わったことで、相談窓口が閉じられたり、救護が遅れたり、信徒への説明が途切れたりするなら、それは人事の影響です」
「信仰活動への支障を理由に人を替えるなら」
ステファニアが続けた。
「その異動で信徒へ実害が出ないかも確認する必要がありますね」
「はい」
聖女アリシアは、静かに頷いた。
「祈りを守ると言う方々が、祈る方々を不安の中へ置いたままでは困ります」
その言葉に、アリシア・ファーランドの扇が、膝の上で小さく鳴った。
「とてもよろしいですわ」
聖女アリシアは、少しだけ困ったように視線を下げた。
「褒めていただくことなのでしょうか」
「ええ。とても」
アリシア・ファーランドは穏やかに微笑んだ。
「祈りを盾にした方々から、祈る方々を取り上げましたもの」
部屋が、一拍静かになった。
マキナが口を開きかけ、閉じた。
クラウディアも何も言わない。
アインだけが、短く言った。
「いい」
聖女アリシアは、その一言を受けて、小さく息を吐いた。
ほっとしたようにも、重さを引き受け直したようにも見えた。
「では、これを正規監査室へ」
クラウディアが紙を揃える。
「王政府文書窓口、学院神殿部、封印部へ同番号照合札。学院神殿部へは、照会記録担当宛てで送ります」
「エリオット様個人ではなく」
リシアが確認する。
「はい」
「それでも、向こうがエリオット様の名を出してきた場合は」
ステファニアが尋ねた。
クラウディアは、少しだけ目を細めた。
「その名を知った経路を書いていただきます」
マキナが、今度は遠慮なく笑った。
「あ、それは刺さるねぇ」
「刺すための欄ではありません」
クラウディアは澄ました顔で言う。
「出所不明の個人名が、なぜ人事異動要求書へ入ったのかを確認するだけです」
「同じことだよ」
「いいえ。記録です」
マキナは片手を上げた。
「はいはい。記録ね」
アインは、紙の引渡目録を見ていた。
「誰を守る」
「全員です」
クラウディアは即答した。
「ただし、守り方は同じではありません。年嵩の監査官は役職と手順で守ります。補助監査官は立会人と引渡目録で守ります。若い司祭は保護対象として動かさない。エリオット・ヴァルナーは個人ではなく照会記録担当の当番制で薄めます」
「薄める」
「はい。名指しされても、一人の責任にできないようにします」
リシアは、その言葉を聞いて、昨日の空欄を思い出した。
空欄は、沈黙ではなかった。
今日は、名前が沈黙する。
けれど、それは逃げるためではない。
一人に全てを背負わせないための沈黙だった。
◇
教皇庁の東棟で人事異動要求書が作られたのは、朝の鐘が二度目を鳴らした頃だった。
腐敗枢機卿は、昨日戻った査問要求受領票を机の端へ押しやっていた。
見える場所に置いておくには不愉快で、捨てるには危険だった。
受領番号がある。
正規記録室への写しがある。
王政府、学院神殿部、封印部へ同番号照合札が出ている。
握り潰せば、握り潰した手の形が残る。
「査問が通らぬなら、人を替える」
腐敗枢機卿は、低く言った。
「正規監査室長補佐を一時交代。補助監査官二名を別件へ移管。受領窓口を信仰秩序局へ預ける。学院神殿部の照会記録担当は、エリオット・ヴァルナーを外させろ」
側近の筆が止まった。
「猊下。学院側の者の名を、こちらの文書へ直接書きますか」
「書け。あの学生が糸口だ」
「ですが、彼は」
「学生だ。外せばよい」
側近は、なおもためらった。
エリオット・ヴァルナー。
神殿系資料整理院補助生。
学院神殿部照会記録担当。
正規監査系統予備候補生である可能性。
そこまでの情報は、通常の信仰秩序局が持っているものではない。
持っていると書けば、どこから得たかを問われる。
しかし、書かなければ、学院側の照会路を止められない。
「早くしろ」
腐敗枢機卿の声で、側近は筆を動かした。
異動理由。
信仰活動への支障を避けるため。
調査の公正性を確保するため。
関係者の負担を軽減するため。
組織秩序を回復するため。
文面は整っていく。
だが、整えば整うほど、側近の背中に汗が滲んだ。
昨日見た抽象語分類欄が、頭から離れない。
信仰活動への支障。
公正性。
負担軽減。
組織秩序。
どれも、あの欄へ運ばれる言葉だった。
「具体的な遅延を書きますか」
「不要だ」
「未処理文書数は」
「知らぬ」
「引継ぎ棚番号は」
「それを知るために替えるのだ」
側近は、口を閉じた。
知らないから替える。
そう書ければ、まだ正直だった。
けれど、そうは書けない。
だから彼は、また綺麗な言葉を選んだ。
円滑な職務継続のため。
筆先が震え、墨が一点だけ濃く落ちた。
◇
正規監査室へ人事異動要求書が届いた時、年嵩の監査官は茶を飲んでいた。
補助監査官が封を持って入ってくる。
「来ました」
「人事か」
「はい」
年嵩の監査官は、湯呑みを置いた。
「開封時刻」
「記録します」
「封蝋状態」
「破損なし」
「受領者」
「正規監査室受領窓口」
「個人名は」
「補助欄へ」
「よい」
手順は昨日と同じだった。
違うのは、紙が人の名を持っていることだった。
正規監査室長補佐。
補助監査官二名。
受領窓口。
若い司祭。
そして、学院神殿部照会記録担当エリオット・ヴァルナー。
補助監査官の眉が、はっきり動いた。
「学院側の学生名が入っています」
「見えるな」
「どの経路で知ったのでしょう」
「それを聞く」
年嵩の監査官は、人事異動確認票を引き寄せた。
要求受領番号。
異動要求者。
対象者。
対象職。
異動理由。
具体的事実。
抽象語分類。
査問要求との関係。
担当中文書番号。
紙の引渡目録添付。
本人面談の有無。
保護継続の要否。
「異動理由」
補助監査官が読み上げる。
「信仰活動への支障を避けるため。調査の公正性を確保するため。関係者の負担を軽減するため。組織秩序を回復するため。円滑な職務継続のため」
「抽象語分類」
「はい」
補助監査官の筆が動く。
具体的事実欄は空いた。
年嵩の監査官は、次の欄へ進む。
「具体的な遅延」
「記載なし」
「具体的な信徒不利益」
「記載なし」
「未処理文書数」
「記載なし」
「引継ぎ棚番号」
「記載なし」
「紙の引渡目録」
「添付なし」
「本人面談」
「記載なし」
「保護対象者の同意」
「記載なし」
若い司祭は、部屋の隅でじっと座っていた。
今日は、昨日よりも顔色が悪い。
自分の名が出るかもしれないと分かっていたのだろう。
しかし、年嵩の監査官は、彼の方を見なかった。
今見ると、彼が中心になる。
中心にしてはいけない。
紙を見る。
紙へ答えさせる。
「受領窓口を信仰秩序局へ預ける、とある」
補助監査官が言った。
「受領中の文書を、どの棚へ引き渡すか」
「記載なし」
「信仰秩序局の受領権限」
「根拠条項なし」
「封印部関係文書の閲覧資格」
「記載なし」
「王政府窓口との照合継続」
「記載なし」
年嵩の監査官は、短く息を吐いた。
「返答」
補助監査官が新しい紙を差し出す。
人事異動要求受領票。
異動承認ではない。
異動要求が届いたという記録だけを残す紙だ。
「要求は受領。異動承認は保留。理由は、引継ぎ情報不足、担当中文書番号未記載、紙の引渡目録未添付、対象者本人面談未実施、保護対象者同意未確認、学院神殿部内部役職への越権照会疑義」
補助監査官は、書く手を止めた。
「越権照会疑義まで入れますか」
「名を書いた」
年嵩の監査官は、静かに答えた。
「なら、そこへ線を引く」
補助監査官は頷き、続けて書いた。
「照会事項。エリオット・ヴァルナーの名および学院神殿部照会記録担当との関連を知った経路。取得日時。取得者。使用根拠」
若い司祭が、そこで小さく息を呑んだ。
年嵩の監査官は、まだ彼を見ない。
「若い司祭の扱い」
「保護継続」
「理由」
「保護解除要求に本人面談、受入先、安全確認、引渡目録が添付されていないため」
「よい」
補助監査官は、最後の欄へ移った。
信徒不利益確認欄。
「相談窓口の閉鎖」
「異動後の窓口未記載」
「救護継続」
「記載なし」
「説明責任」
「記載なし」
「虚偽説明の訂正」
「記載なし」
「献金誘導の有無」
「確認未実施」
補助監査官は、筆を止めた。
「これは、かなり広がります」
「広げるな」
年嵩の監査官は言った。
「欄を置くだけでよい。今は、信徒を人事の外へ落とさない」
その時、若い司祭が椅子から少し身を起こした。
「私に、確認することはありますか」
年嵩の監査官は、そこで初めて彼を見た。
「ある」
若い司祭の肩がわずかに強張る。
「茶は飲めるか」
「……はい」
「なら、飲め。今日の確認はそれで足りる」
補助監査官が、棚から湯呑みを取った。
若い司祭は、何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
その代わりに、両手で湯呑みを受け取る。
指が、少し震えていた。
しかし、昨日よりも長く、湯呑みを持っていられた。
◇
学院神殿部へ届いた人事異動照会は、正午前に開封された。
宛名は、学院神殿部長宛て。
副宛名に、信仰秩序局照会写し。
そして本文中に、エリオット・ヴァルナーの名があった。
照会記録担当の机には、その日三人が座っていた。
エリオット。
年長補助員。
もう一人、神殿法規を学ぶ女子学生。
女子学生が文面を読み、眉を寄せた。
「エリオットさんを名指ししています」
「はい」
エリオットは、思ったより落ち着いた声で答えた。
落ち着いているわけではない。
胸の奥は冷えている。
けれど、紙面の文字を読める程度には、手が動いた。
年長補助員が、机の横に置いていた当番表を開いた。
「今日の照会記録担当は三名だ」
「はい」
「昨日は」
「午前二名、午後三名です」
「明日は」
「四名です」
「では、担当者は誰だ」
エリオットは、一拍置いた。
「学院神殿部照会記録担当です」
「そうだ」
年長補助員は、文面へ指を置いた。
「個人名で外せる役ではない。役を外すなら、学院神殿部の内部手続きがいる。個人を外すなら、なぜその個人が外す対象だと知ったのかを書く必要がある」
女子学生が、静かに書き取りを始めた。
エリオットは、その横顔を見て、少しだけ息を吐いた。
自分だけではない。
それが、これほど効くとは思っていなかった。
「返答案」
年長補助員が言う。
「照会記録担当は当番制であり、個人名による外部変更要求の対象外。外部機関が個人名を指定する場合、氏名取得経路、取得日時、取得者、使用根拠の照会を要する。照会記録は継続。担当者名簿は内部規定により非公開。ただし受領番号と返答時刻は正規監査室、王政府文書窓口、封印部へ同番号で通知する」
「書きます」
女子学生が答えた。
エリオットは、筆を取ろうとして止まった。
年長補助員が、それを見ている。
「今日は、お前が書かなくていい」
「はい」
「外れたわけではない」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
エリオットは、少しだけ困った。
分かっている。
理屈では。
しかし、書かないことが役に立つと言われても、手は空く。
空いた手は、自分が役に立っていないように見える。
リシア達なら、どう考えるだろう。
彼は、昨日届いた雛形の欄を思い出した。
棚を持つ手を増やす。
なら、今日は、自分の手で持たないことが、棚を増やすことになる。
「分かりました」
エリオットは、今度は少しだけ深く頷いた。
「私は、照合します」
「それでいい」
年長補助員は、当番表を閉じた。
「書く者、照合する者、封をする者。三人いれば、一人を外しても紙は残る」
◇
貸与邸へ最初の返答が戻ったのは、午後遅くのことだった。
正規監査室からの人事異動要求受領票。
学院神殿部からの照会返答。
王政府文書窓口からの受領継続確認。
封印部からの閲覧資格確認。
四通が、それぞれ違う手で運ばれ、同じ番号で机に並んだ。
クラウディアが、順に読み上げる。
「正規監査室。人事異動要求は受領。異動承認は保留。理由は、引継ぎ情報不足、担当中文書番号未記載、紙の引渡目録未添付、本人面談未実施、保護対象者同意未確認、学院神殿部内部役職への越権照会疑義」
「綺麗に戻りましたね」
ステファニアが言った。
「戻っただけです」
クラウディアは、次の紙を取った。
「学院神殿部。照会記録担当は当番制。個人名による外部変更要求の対象外。エリオット・ヴァルナー名を取得した経路、取得日時、取得者、使用根拠の照会を要求。照会記録は継続」
リシアは、そこで息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、少し緊張していた。
エリオットの名が直接出た。
それは、紙の上の話でも、リシアには嫌だった。
助けたいと思う者の名が、相手の筆先に乗る。
それだけで、人は傷つく。
「大丈夫でしょうか」
リシアは、思わず言った。
「大丈夫と断言はしません」
クラウディアは答えた。
「ただ、危険は一人に集中していません」
「それが大事です」
聖女アリシアが言った。
「怖い思いをした方へ、怖くありませんと言ってはいけません。怖さを一人で持たせない形にするのです」
リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
怖くないと言わない。
一人で持たせない。
それは、セラが傷ついた時、ステファニアが無理を隠した時、アインが何も言わず前に出た時にも、必要だった言葉かもしれない。
アインは、王政府文書窓口の返答を見ていた。
「王政府は」
「受領継続確認です」
クラウディアが答える。
「信仰内部問題としての照会停止要求について、王政府は公共管理、文書受領、信徒不利益確認、施療継続の範囲に限り受領窓口を継続する。教義判断へは入らない、と返しています」
「いい」
「封印部は」
ステファニアが尋ねる。
クラウディアは最後の紙を取った。
「危険配列閲覧停止に関わる文書は、封印部関係文書として扱う。信仰秩序局へ受領窓口を移す場合、封印部閲覧資格、複写禁止誓約、再現可能配列非開示誓約、監査記録保持条件を先に満たす必要がある。現時点で信仰秩序局側の資格記載なし」
マキナが口笛を吹きかけて、聖女アリシアの前だと思い出したのか、途中でやめた。
「うん。これは無理だねぇ」
「無理というより、条件が見えるようになりました」
クラウディアが訂正する。
「満たせば移せます」
「満たせないでしょ」
「それは、こちらが決めることではありません」
マキナは、肩をすくめた。
「はいはい。記録」
アリシア・ファーランドは、扇を閉じたまま、紙面を眺めていた。
「人を動かすには、思ったより荷物が多いですわね」
「荷物」
リシアが繰り返す。
「ええ。受領番号、棚番号、未処理文書、封緘、立会人、信徒の不利益、本人の同意。人が持っているものを無視して人だけ動かそうとするから、荷物が落ちます」
「落ちた荷物を拾うのですね」
「いいえ」
アリシア・ファーランドは、微笑んだ。
「落とす前に、何を持っているか数えていただくだけですわ」
リシアは、少しだけ背筋を伸ばした。
昨日、抽象語分類欄を見た時、言葉を飾りとして置く欄だと思った。
今日は違う。
人事異動確認票は、荷物を数える紙だった。
人を動かす前に、その人が何を持っているかを見る。
それは、役職だけではない。
責任。
恐れ。
未処理の相談。
まだ返していない返答。
助けを待つ信徒。
紙の束の中に、それらが隠れている。
「信徒不利益確認欄は」
リシアは、自分から尋ねた。
「王政府窓口と地域礼拝所へも送れますか」
クラウディアがリシアを見る。
「目的は」
「中央の人事ではなく、現場で困っている方を拾うためです。礼拝を止められていなくても、説明がなく不安な方がいるかもしれません。救護や施療が止まりそうなら、先に知りたいです」
ステファニアが、小さく頷いた。
「同意します。さらに、献金誘導の有無は任意回答にすべきです。強制すると、答えた信徒が責められます」
「匿名集計」
マキナが言った。
「名前を出さずに、礼拝所単位、施療院単位で件数だけ集める。個人の訴えは保護窓口だけが見る。公開するのは件数と対応状況まで」
クラウディアが、即座に紙を一枚増やした。
「信徒不利益確認票の補助欄へ入れます。個人名非公開、地域単位集計、保護窓口限定閲覧、虚偽告発防止のため原本封緘」
聖女アリシアは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼には早い」
アインが言った。
聖女アリシアは顔を上げる。
アインは、机の上の紙を見ていた。
「届かせるまでだ」
「はい」
その返事は、礼拝堂の返答のように静かだった。
◇
夕刻、腐敗枢機卿の部屋へ、四通の返答が戻った。
一通ではなかった。
正規監査室から。
学院神殿部から。
王政府文書窓口から。
封印部から。
同じ受領番号が、それぞれの紙に押されていた。
腐敗枢機卿は、最初の一通を開いた。
人事異動要求受領票。
異動承認。
保留。
理由。
引継ぎ情報不足。
担当中文書番号未記載。
紙の引渡目録未添付。
本人面談未実施。
保護対象者同意未確認。
学院神殿部内部役職への越権照会疑義。
「保留だと」
側近が、別の紙を開く。
「学院神殿部より照会。エリオット・ヴァルナー名の取得経路、取得日時、取得者、使用根拠を回答せよ、と」
部屋の温度が、少し下がったように感じられた。
名前を書いた。
それだけだった。
しかし、その名がどこから来たのかを問われると、答えは急に重くなる。
未承認の写し。
内通者。
閲覧権限のない候補生名簿。
どれを選んでも、別の扉が開く。
「王政府窓口は」
「受領継続。信徒不利益確認、施療継続、公共管理の範囲に限る。教義判断へは入らない、と」
「封印部は」
「信仰秩序局へ窓口を移す場合、封印部閲覧資格、複写禁止誓約、再現可能配列非開示誓約、監査記録保持条件を先に満たせ、と」
別の側近が、顔を青くした。
「信仰秩序局には、封印部閲覧資格がありません」
「取らせろ」
「今から申請すれば、理由を書かされます」
「書け」
「対象文書名もです」
沈黙。
対象文書名を書けば、危険配列閲覧停止の話へ戻る。
書かなければ、資格申請が通らない。
通らなければ、受領窓口を動かせない。
人を動かすはずの紙が、棚へ戻っていく。
腐敗枢機卿は、机を叩いた。
厚い木の音が部屋に響く。
しかし、紙は揺れただけだった。
破れない。
消えない。
同じ番号で、四つの窓口に残っている。
「もうよい。別の手を使う」
「どの手を」
「現場だ」
腐敗枢機卿は、低く言った。
「礼拝所の信徒を動かせ。祈りが妨げられていると訴えさせる。紙で書けぬなら、声で押す」
側近達は、互いに顔を見合わせた。
昨日までなら、それは有効だったかもしれない。
大勢の信徒が祈り、泣き、訴える。
誰も、それを乱暴に止められない。
誰も、祈りを嘘だとは言えない。
だが、今は机の上に新しい欄がある。
信徒不利益確認欄。
説明不足。
虚偽説明。
献金誘導。
礼拝所での不安拡散。
相談窓口の有無。
救護継続の有無。
信徒を動かせば、信徒が何を聞かされ、誰に動かされたのかまで、欄へ入る。
側近の一人は、それを理解していた。
しかし、口には出せなかった。
口に出せば、次の手も失われる。
「すぐに通達を」
腐敗枢機卿が命じた。
「公都周辺ではなく、少し離れた礼拝所からだ。相談窓口が届く前に動かせ」
筆が走る。
今度の紙には、人事異動とは書かれていない。
信徒有志による嘆願。
祈りの自由回復。
聖歌への干渉停止。
信仰不安の解消。
また、美しい言葉が並んだ。
その美しい言葉の下で、誰が何を聞かされるのか。
まだ、誰も書いていない。
◇
夜、貸与邸の作業室では、王政府文書窓口からの追加連絡が届いていた。
公都から離れた三つの礼拝所で、近日中に信徒有志の嘆願が起こる可能性がある。
情報は、命令書ではない。
噂に近い。
それでも、同じ語が並んでいる。
祈りの自由。
聖歌への干渉停止。
信仰不安の解消。
リシアは、紙を読んで、胸の奥が重くなるのを感じた。
「本当に不安な方も、いるのでしょうね」
「います」
聖女アリシアが答えた。
「その方々は、止めてはいけません」
「ですが、利用されます」
「はい」
聖女アリシアは頷いた。
「だから、祈りを止めずに、説明を届かせます」
アリシア・ファーランドは扇を閉じたまま、窓の外を見ていた。
「次は、紙の上ではなく、人の声の中へ紛れますわね」
「予想通りです」
クラウディアが言った。
「対応案は」
「礼拝所を閉じません。祈祷を止めません。聖歌全体も止めません。代わりに、説明役、施療記録担当、相談窓口、信徒不利益確認票の受領箱を置きます」
「兵は」
アインが尋ねた。
「外側です。見える場所へ置きすぎると、祈りの場を威圧します」
「いい」
アインは短く言った。
「中へ入れるのは」
「信仰側の人間を中心にします」
クラウディアが答える前に、聖女アリシアが口を開いた。
「私が行きます」
部屋の空気が止まった。
リシアは、思わず聖女アリシアを見た。
聖女アリシアの表情は静かだった。
だが、その静けさは、逃げる人のものではない。
「聖女アリシア様」
ステファニアが、慎重に言った。
「それは、相手が望む形でもあります」
「分かっています」
聖女アリシアは答えた。
「聖女が現れた。信徒が集まる。誰かが泣く。誰かが祈る。その姿を使って、正規監査室が信仰を妨げているように見せる。おそらく、その形を望んでいます」
「なら」
「だから、私は一人では行きません」
聖女アリシアは、机の上の紙を見た。
「王政府の相談窓口。地域礼拝所の司祭。施療院の担当者。信徒不利益確認票の受領者。説明役。全員の立会いの中で、祈ります」
リシアは、息を呑んだ。
祈る。
止めるのではなく。
奪うのでもなく。
聖女アリシアは続けた。
「そして、祈りの後で言います。礼拝は止まっていません。聖歌は禁じられていません。困っている方は、ここへ書いてください、と」
マキナが、珍しく黙っていた。
クラウディアもすぐには返さない。
アインは、聖女アリシアを見ていた。
「危ない」
「はい」
「利用される」
「はい」
「それでもか」
「はい」
聖女アリシアの返事は、全て同じ静けさだった。
アインは少しだけ目を伏せた。
それから言った。
「なら、俺も外にいる」
「殿下」
クラウディアの声がわずかに低くなる。
「中じゃない」
アインは言った。
「祈りの場には入らない。外で、祈りを利用しようとする手を見る」
聖女アリシアは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
アリシア・ファーランドの扇が、静かに開いた。
「では、次の欄が必要ですわ」
「何の欄ですか」
リシアが尋ねる。
「祈りの場へ持ち込まれた言葉の出所です」
扇の先が、机の上の紙を指した。
「誰が、どこで、何を聞かせたのか。祈りの自由という言葉を、誰が最初に配ったのか。聖歌への干渉停止と書いた紙を、誰が運んだのか」
ステファニアが、すぐに紙を引き寄せた。
「嘆願文言出所確認欄」
「ええ」
アリシア・ファーランドは、柔らかく笑った。
「声にも、受領番号を差し上げましょう」
リシアは、その言葉に背筋が冷えるのを感じた。
怖い。
けれど、必要だ。
人を動かす紙は、引渡目録に捕まった。
次は、人を動かす声が来る。
それを止めるのではなく、出所を残す。
祈りは、止めない。
声も、奪わない。
ただ、その声を誰が配ったのかを、紙に戻す。
アインは、机の上の新しい欄を見て、短く言った。
「明日だな」
クラウディアが頷く。
「はい。明日、礼拝所へ説明を届かせます」
窓の外では、夜の鐘が鳴っていた。
祈りの時間を告げる音だった。
誰も、その鐘を止めなかった。
その音が続いていることを、リシアは初めて、証拠のように聞いた。




