第百五十九夜 呼ばれた気がした
# 第百五十九夜 呼ばれた気がした
届いた羊皮紙は、薄かった。
薄いのに、重かった。
貸与邸の作業室で、リシアは封緘を見ていた。
学院長府の受領印。
神殿系資料整理院の副印。
聖王国王政府文書受領窓口の小さな確認印。
そして、その横に、まだ見慣れない印が押されている。
教皇庁正規監査室。
その印は、華やかではなかった。
祈りを示す意匠も、聖句もない。
ただ、四角い枠の中に、日付、受領番号、棚番号、扱い区分が淡々と並んでいる。
「飾り気がありませんね」
ステファニアが言った。
「記録用の印です」
クラウディアが答える。
「飾りは、後で読み間違えます」
「それは、少し分かります」
リシアは小さく頷いた。
美しい印は、人の目を引く。
立派な封蝋は、重々しく見える。
だが、重々しく見えることと、正しいことは違う。
それを、ここ数日で何度も見せられていた。
「エリオットさんからですか」
エレナが尋ねる。
「はい」
リシアは封を切った。
中に入っていたのは、手紙ではない。
写しだった。
文面は短い。
教皇庁正規監査室宛。
未承認閲覧申請予告。
古い典礼補助書庫。
封印部への名目と実目的の不一致あり。
添付。
ファーランド公都行政告知受領記録。
第三聖遺物庫不正接触記録。
未登録巡礼守護会三箇所の事情聴取分類。
リシアは、そこで息を止めた。
古い典礼補助書庫。
その言葉だけで、部屋の空気が一段薄くなったように感じた。
「正規監査室から直接ではありません」
クラウディアが文書の経路を確認する。
「正規監査室に提出された予告の、学院神殿部共有用写しです。エリオットが注記を付けています」
トトの小さな光が、卓上に注記だけを映した。
『古い典礼補助書庫は、封印部の本庫ではありません。ただし、封印指定前の写本、唱和句、巡礼路制定前の聖歌断片、境界祓いの応答句が混在している可能性があります』
『本件は、通常の写本状態確認として申請される見込みです』
『ただし、申請対象語が、以前照会を受けた欠落目録の一部と一致します』
リシアは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「一致する語は」
アインが短く尋ねた。
トトが、最後の行を開いた。
召喚補助詠唱の典礼化記録。
文字が出た瞬間、誰もすぐには言わなかった。
ただ、アリシア・ファーランドの扇が止まった。
閉じている。
開いていない。
だが、指先だけが白くなっている。
「第三聖遺物庫が開かなかったから、別の棚へ行ったのですね」
ステファニアの声は静かだった。
「表向きは写本状態確認です」
クラウディアが言う。
「目的が違うと、提出者は記録しています」
「提出者は」
「前回から正規記録へ残している若い司祭と思われます。署名は写しでは伏せられています」
「守られているのですか」
リシアが尋ねる。
「少なくとも、伏せる判断をした者はいます」
それは、よい知らせなのか。
まだ分からない。
ただ、誰かが完全に潰される前に、記録を外へ出した。
その事実だけは、ここにある。
◇
「鍵スフィアを使いますか」
エレナが尋ねた。
問われたのは、アリシア・ファーランドだった。
鍵スフィアは、彼女の所有物であり、彼女の権限と結びついたものだ。
だが、ここで開くものは、彼女一人のものではない。
学院神殿部。
旧礼拝施設。
封印部。
教皇庁正規監査室。
聖王国王政府文書受領窓口。
それぞれの線が、文書の上に重なっている。
アリシア・ファーランドは、少しだけ扇を伏せた。
「開くためではなく、開かないために使いますわ」
「確認します」
クラウディアが即座に応じた。
「今回の使用目的は、接続権限の拡張ではなく、対象語、申請経路、停止権限、閲覧前警告の可視化です」
「ええ」
「本文取得は行いません」
「行いません」
「召喚補助詠唱に関わる本文、唱和句、応答句、音韻、拍、再現可能な配列は取得しません」
「いたしません」
アインがクラウディアを見た。
「音も駄目か」
「駄目です」
クラウディアは迷わず答えた。
「詠唱系は、意味が分からなくても、音の並びだけで危険な場合があります」
「分かった」
アインはそこで頷いた。
リシアも、文書へ視線を戻す。
読んではいけない文字がある。
聞いてはいけない音がある。
けれど、知らなければ止められないこともある。
その境目に、今いる。
「メイ」
アリシア・ファーランドが呼んだ。
「はい」
メイは、部屋の端から一歩進んだ。
いつものように、静かだった。
普段なら、アリシア・ファーランドの背後に控え、必要な時だけ動く。
だが、鍵スフィアを扱う時だけは、両手で受け取る。
落とさないように。
転がさないように。
所有者の手から預かったものを、ただの道具として扱わないように。
アリシア・ファーランドは、小さな布に包まれた鍵スフィアを差し出した。
「中央へ」
「はい」
メイは両手で受け取った。
その動きは、見慣れている。
石台へ向かい、足を止め、布を開き、鍵スフィアを中央へ置く。
転がらないことを確かめる。
もう一度、確かめる。
そして、手を離す。
はずだった。
メイの指が、鍵スフィアから離れなかった。
ほんの一呼吸。
短い。
だが、部屋にいる全員が気づくには、十分だった。
「メイ」
アリシア・ファーランドの声が、少しだけ低くなる。
「あ、はい。申し訳ございません」
メイは慌てて手を引いた。
けれど、その顔はわずかに白い。
「どうしました」
リシアは思わず尋ねた。
メイは、困ったように視線を落とした。
「いえ、その」
「無理に言わなくていい」
アインが言った。
メイは、少しだけ安心した顔をした。
それでも、黙ったままにはできなかったのだろう。
指先を胸元で重ね、小さく言った。
「呼ばれた気が、いたしました」
リシアは、背筋を伸ばした。
「誰に、ですか」
「分かりません」
メイは首を振る。
「声ではございません。音でもございません。ただ、鍵を置いた時に、どこかで、こちらを向いたような」
クラウディアの目が、卓上表示へ移った。
「トト」
『確認しています』
トトの光が、鍵スフィアの周囲を淡くなぞった。
『鍵スフィア本体に異常なし。外部接続なし。未承認応答なし。魔力流入なし。メイ様の生体反応、心拍上昇、末梢温低下、軽度の緊張反応あり』
「異常は」
『観測上はありません』
観測上は。
その言い方が、部屋に残った。
アリシア・ファーランドは、閉じた扇を見下ろしていた。
扇は動かない。
彼女は、メイを叱らなかった。
笑いもしなかった。
「怖い?」
アインが尋ねた。
メイは、少しだけ考えた。
「怖い、のだと思います」
「だと思う?」
「はい。怖いのですが、懐かしいような気もして……申し訳ございません。おかしなことを申しました」
「おかしくない」
アインは短く言った。
「覚えておく」
メイは、目を瞬いた。
ただ記録されるのではなく、覚えておくと言われた。
それだけで、彼女の肩の力が少し抜けた。
◇
鍵スフィアは、薄い光を灯した。
今回、表示されたのは地図ではない。
棚だった。
石造りの書庫を真上から見たような図。
本庫。
補助書庫。
写本室。
封印部受付。
閲覧準備室。
それぞれの区画が、白、灰、青で分かれている。
赤はない。
まだ、開いていないからだ。
「古い典礼補助書庫は、封印部本庫の外側です」
エレナが表示を読む。
「通常は、劣化確認、写本修繕、典礼史研究者の限定閲覧に使われています」
「危険な物を、外側に置くのですか」
リシアが尋ねる。
「元から危険な物として置かれたのではないのでしょう」
ステファニアが答えた。
「後になって意味が変わった言葉、禁じられた儀礼の周辺資料、唱え方を失った聖歌。そういうものが、整理されないまま残った棚です」
「捨てないのですか」
「捨てれば、誰かが再発見します」
クラウディアが言った。
「残せば、誰かが悪用します」
アインが続ける。
「はい」
クラウディアは頷いた。
「だから、封印部があるはずです」
はず。
その言葉は、今は重い。
封印部が正常なら、古い典礼補助書庫の写本確認は止まる。
封印部が腐敗側と繋がっていれば、止まらない。
封印部が割れていれば、遅れる。
そして、遅れれば、その間に誰かが棚を開ける。
「開ける前に止める」
アインが言った。
「はい」
クラウディアは、表示を三つに分けた。
一つ目。
閲覧申請の正式差戻し。
二つ目。
正規監査室による名目不一致照会。
三つ目。
学院神殿部と旧礼拝施設からの共同警告。
「三方向から止めます」
「止まらなかったら」
「閲覧前室の封鎖を申請します。ただし、現地権限が必要です」
「現地」
リシアは、表示を見た。
聖王国。
教皇庁。
封印部。
これまで遠く見えていた名前が、急に近くなった。
「わたくし達が行くのですか」
「まだ早いですわ」
アリシア・ファーランドが答えた。
「こちらが踏み込めば、向こうは侵入と呼びます。腐敗側に、正規監査を潰す口実を与えます」
「では」
「先に、向こうの正規手続きへ足場を置きます」
ステファニアが扇の先で、表示の一箇所を指した。
教皇庁正規監査室。
その隣に、小さな枠がある。
神殿系資料整理院。
「エリオットさんですね」
「ええ。彼は、正規監査室そのものではありません。ですが、学院神殿部と資料整理院を通じて、正規記録へ届く場所にいます」
「危なくありませんか」
リシアの問いに、アインが答えた。
「危ない」
短い。
だから、ごまかしがない。
「なら」
「だから、守る」
アインは表示を見たまま言った。
「本人を前に出しすぎない。記録だけを先に動かす。必要なら、迎えに行ける道も作る」
リシアは、胸の奥で小さく息を吸った。
誰かを使うのではない。
誰かが出した記録を、孤立させない。
その違いを、間違えてはいけない。
◇
「メイ」
聖女アリシアが呼んだ。
それまで黙っていた彼女は、扇ではなく胸元の聖印へ触れている。
祈りを武器にしないために、ずっと言葉を選んでいた。
「はい」
「その感覚は、祈りに似ていましたか」
メイは、すぐには答えなかった。
リシアには、その沈黙が少し意外だった。
普段のメイなら、分からないことは分からないと慌てて言う。
だが、今回は、答えを探している。
自分の中にあるものを、言葉へ変えようとしている。
「祈り、ではないと思います」
メイはゆっくりと言った。
「誰かへ届けたいものではなくて、どこかから引かれるような……いえ、違います。引かれる、というより、向こうに穴があることを思い出させられるような」
部屋が静かになった。
穴。
その言葉だけで、昨夜読んだ記録の中の皇都ベルンの空が戻る。
呼んだのではない。
裂いた。
あの記録が、リシアの胸にもう一度落ちた。
「すみません」
メイが慌てる。
「変な言い方を」
「いいえ」
聖女アリシアは首を振った。
「祈りでないと分かることは、大切です」
「わたくしには、分かったわけでは」
「分からないと分かることも、大切です」
聖女アリシアの声は、静かだった。
それは教えではない。
命令でもない。
迷っている者を、迷ったまま立たせる声だった。
アリシア・ファーランドが、そこで扇を一度だけ閉じ直した。
小さな音。
ぱちん、ではない。
布が空気を押すだけの、ほとんど聞こえない音。
「メイ」
「はい、アリシア様」
「その感覚を、忘れずにいなさい。ですが、追ってはなりません」
「はい」
「向こうから呼ぶものへ、自分から返事をしてはいけませんわ」
メイの顔色が、もう一度白くなった。
それでも、彼女は頷いた。
「はい」
アインは、そのやり取りを黙って聞いていた。
そして、短く言う。
「返事は、こっちで決める」
誰も笑わなかった。
けれど、リシアは少しだけ息がしやすくなった。
呼ばれた気がした。
それが何かは、まだ分からない。
だが、呼ばれたからといって、答えなければならないわけではない。
◇
作業は、そこで止まらなかった。
止めてはいけない。
感覚を記録し、危険語を隔離し、手続きへ戻す。
それが、今できることだった。
クラウディアは、三通の文書案を作った。
一通目は、教皇庁正規監査室宛。
古い典礼補助書庫への閲覧申請について、対象語が欠落目録と一致するため、閲覧前に封印部、正規監査室、神殿系資料整理院の三者照合を求める。
二通目は、学院神殿部宛。
資料整理院補助生エリオットの注記を、個人意見ではなく、学院神殿部の照会記録として保護する。
三通目は、聖王国王政府文書受領窓口宛。
ファーランド公都行政告知が信仰弾圧ではなく公共管理と本人意思確認手続きであることを、王政府側受領記録と照合する。
「こちらから聖王国を責めないのですね」
エレナが言った。
「責めれば、正規側まで敵にする」
アインが答える。
「今は、開けようとした人と、止めようとした人を分ける」
「はい」
リシアは頷いた。
その線は、何度も引いてきた線だった。
祈った者。
命じた者。
開けようとした者。
隠した者。
そして、止めようとした者。
今回は、そこにもう一つ加わる。
呼ばれた者。
だが、リシアはまだその言葉を口にしなかった。
メイを、記録の項目にしてしまう気がしたからだ。
「メイさんのことは」
リシアが言いかけると、クラウディアが先に頷いた。
「医学記録、魔力反応記録、接続記録へ分けます。現時点で、外部異常の証拠とは扱いません」
「本人の感覚は」
「本人申告として保護します。根拠に使いません。消しもしません」
「ありがとうございます」
メイが、少しだけ頭を下げた。
アリシア・ファーランドは、それを見ていた。
その目は、いつものように優雅ではない。
少しだけ、遠い。
千五百年前、星の間でメイがアリシア・ファーランドと共に、祈るような姿勢で眠りに入ったことを思い出しているのかもしれない。
あるいは、それより前のことを考えているのかもしれない。
リシアには分からない。
分からないことを、分からないまま置いておく。
最近、そればかり覚えている気がした。
◇
文書が整う頃には、窓の外が暗くなっていた。
公都の祈りの声は、今日も消えていない。
けれど、道は塞がっていない。
市場の灯りも、河港の鐘も、施療所の扉も動いている。
祈りは残る。
命令は剥がす。
その線を引くことは、簡単ではなかった。
簡単ではないから、記録がいる。
作業室を出る前に、メイは石台へ戻った。
中央には、鍵スフィアが置かれている。
もう光は消えていた。
何も呼ばない。
何も答えない。
ただ、そこにある。
メイはそれを布で包み、両手で持ち上げ、胸元へ抱えた。
祈る形に見えた。
だが、すぐに抱え直す。
「メイ?」
アリシア・ファーランドが呼ぶ。
「はい。何でもございません」
メイは微笑んだ。
少しだけぎこちない笑みだった。
「ただ、今日は、返事をしないでおこうと思いました」
アリシア・ファーランドは、ほんのわずかに目を細めた。
「よろしい」
それだけだった。
アインは、メイの手の中で包まれた鍵スフィアを見ていた。
クラウディアは文書を封じている。
聖女アリシアは、聖印から手を離した。
リシアは、窓の外の祈りの声を聞いた。
祈りは、誰かの通行を止めなくても届く。
けれど、呼ぶ声の中には、届いてはいけないものが混じることもある。
だから、返事をしないことも、選択なのだ。
その夜、三通の文書は学院内連絡路へ回された。
古い典礼補助書庫の扉が開く前に、止めるために。
そして、誰かが呼ばれた気がした時、ひとりで返事をしなくて済むように。




