幕間二十九 祈りを盾にした者たち
# 幕間二十九 祈りを盾にした者たち
正教国中央大聖堂の北側会議棟には、朝の光が入りにくい。
厚い石壁。
狭い高窓。
磨き込まれた長卓。
その上に置かれた羊皮紙だけが、場違いなほど白かった。
ファーランド公都行政告知。
祈りの境界線。
枢機卿は、その見出しをしばらく見ていた。
見ていただけで、読んではいなかった。
すでに一度読ませている。
二度も読ませた。
三度目を命じる前に、内容が変わっていないことだけは分かっていた。
「信仰弾圧とは書けぬ」
東方教区を扱う司教が、低く言った。
「書けばよい」
別の司教が答えた。
「書けぬ、と申し上げています」
「なぜだ」
若い司祭は、長卓の端に立っていた。
清書役として呼ばれたが、いま彼の手元にあるのは清書用の紙ではない。
受領記録。
照合欄。
封緘番号。
どれも、言葉を美しく飾るためではなく、後で誰が何を受け取ったかを隠せなくするための紙だった。
「行政告知本文に、信仰の自由は従来通り保護するとあります」
若い司祭は読んだ。
「私有地、登録済み礼拝所、通行と営業を妨げない公共空間の端での祈りは禁じない。病者、遺族、旅人、信徒の相談窓口は別に設ける。寄進は任意であり、行政徴収、通行許可、施療順序、就学許可と結びつけてはならない」
「そこではない」
司教が苛立った。
「国費によるメシア教専用礼拝堂の建設を拒んだ箇所を読め」
「読みました」
「そこが弾圧だ」
「特定宗派専用施設への国費支出は行わない、とあります。メシア教だけを対象にした文ではありません」
「実際には我らを狙っている」
「本文だけでは、そう断じられません」
司教の指が長卓を叩いた。
音が硬く響く。
その音を、若い司祭は記録しなかった。
叩いた事実より、何を命じたかが重要だった。
「切り取ればよい」
南方教区の司教が言った。
「信徒に読ませるのは、拒否された箇所だけでよい。祈りの場所を端へ追いやり、礼拝堂を建てず、寄進を禁じた。そう書け」
「寄進を禁じたとは書けません。任意の寄進は認めています」
「強制を禁じたのだろう」
「はい」
「それを寄進への干渉と書け」
若い司祭は、筆を取らなかった。
取らないことが返答だった。
「なぜ書かぬ」
「原文が、公都掲示板、河港、学院長府、教皇庁正規記録室へ同時に届いています。切り取った文を出せば、切り取った側の記録が残ります」
「誰が正規記録室へ送った」
枢機卿の声が、初めてはっきりした。
「ファーランド公都行政庁です。受領番号があります」
「教皇庁へ直接送る資格などない」
「信徒保護と宗教活動に関わる国際行政告知として、聖王国王政府経由、教皇庁文書受領窓口宛です」
受領窓口が受けた文書は、正規記録室へ回る。
そこに入れば、後から切り取った写しも照合される。
「王政府」
枢機卿は、口の中でその言葉を潰した。
大聖堂の中にありながら、教皇庁だけが正教国ではない。
それを忘れたわけではない。
忘れたことにしてきただけだった。
◇
三つの報告が、長卓の上に並べられた。
第三聖遺物庫。
未登録巡礼守護会。
ファーランド公都。
どれも、勝った報告ではなかった。
第三聖遺物庫は開かなかった。
旧副鍵は現行鍵体系と照合不能。
典礼局承認なし。
本人意思確認番号なし。
扉固定具への工具接触は、不正接触として記録された。
未登録巡礼守護会の三箇所は、動いた。
動いたが、揃わなかった。
一箇所は武器を置いた。
一箇所は命令書の登録番号を求めて停止した。
一箇所は、工具を持ち出した者だけが拘束され、祈りに来ただけだと聞かされていた者達は別室で事情聴取へ回された。
ファーランド公都では、広場は空かなかった。
祈る者は残った。
だが、道は空いた。
市庁舎の窓口は開き、市場の荷車は通り、河港の料金所は名簿を取らなくなった。
彼らが欲しかった絵は、どこにもない。
兵に囲まれて祈りを禁じられる信徒。
聖句を唱えただけで捕らえられる老人。
聖女アリシアの名を掲げた旗が踏みにじられる広場。
ない。
あるのは、警備隊の横で祈る場所を案内される信徒と、道を塞ぐ縄を外される工作員だけだった。
「これでは、民が怒らぬ」
南方教区の司教が呟いた。
「怒らせるのです」
別の司教が言う。
「どの民を」
若い司祭が尋ねた。
また、空気が止まった。
「ファーランドの民か。聖王国の民か。施療院へ薬を取りに行けるようになった者か。市場で荷車を通せるようになった商人か。祈る場所を奪われなかった信徒か」
「黙れ」
「記録のために確認しています」
「記録、記録、記録」
司教は吐き捨てた。
「お前達は、記録を神より上に置くのか」
若い司祭は、少しだけ目を伏せた。
「神の名で何をしたかを残すために、記録があります」
その声は大きくなかった。
大きくないからこそ、会議室の石壁に残った。
枢機卿は、若い司祭を見た。
処分はできる。
地方修道院へ飛ばすことも、写本庫へ閉じ込めることも、発言資格を奪うこともできる。
だが、いま処分すれば、処分した理由もまた記録される。
記録室は、すでにこちらを見ている。
第三聖遺物庫の扉の前で封蝋が押された時から、正規監査は歩き始めている。
ゆっくりと。
しかし、確実に。
◇
「教皇猊下の御名を」
東方教区の司教が言った。
「急ぎの司牧命令として発すれば、各教区は従う」
「御名を使うには、秘書院の副署と正規台帳の番号が要ります」
若い司祭が答える。
「黙っていろ」
「偽れば、秘書院が否認します」
「否認させなければよい」
「すでに第三聖遺物庫の件が上がっています。今、秘書院を黙らせれば、関与が広がります」
「では、聖女アリシアの名を使う」
別の司教が、少し早口で言った。
「本人意思確認番号を求められます」
「聖女が、信徒の弾圧を望むはずがない」
「それを本人の言葉として出すには、本人確認が必要です」
「本人が拒めば」
「拒んだ記録が残ります」
「ならば、拒む前に出す」
「発行時刻が合いません」
若い司祭は、そこで筆を置いた。
「それでも出せ、と命じますか」
誰もすぐには答えなかった。
聖女アリシアの名は、強い。
強いからこそ、使いたかった。
だが、いまその名を偽って使えば、ただの文書偽造では済まない。
信徒の祈りを守る名で、信徒の道を塞いだことになる。
それを恐れたのではない。
露見した時に、誰も庇えないことを恐れた。
「では、我らは何もできぬと言うのか」
南方教区の司教の声が、少し上擦った。
「帝国は退き、アレーナは傾き、港湾都市は様子を見る。第三庫は開かず、巡礼守護会は半分が退いた。ファーランドは信徒を捕らえず、祈る場所まで示した。これでは、こちらが何を言っても、彼らは笑うだけだ」
「笑わせておけばよい」
枢機卿が言った。
会議室の温度が、少し下がった。
「笑っている者は、足元を見ない」
枢機卿は、長卓の端に置かれた欠落目録の写しを引き寄せた。
ファーランド側が照会したもの。
聖王国成立前夜の封印記録。
境界災害後の巡礼路制定記録。
初代聖王戴冠時の誓約文。
メシア本人の説法写し。
異界来訪者に関する禁書目録。
召喚補助詠唱の典礼化記録。
その最後の一行に、枢機卿の指が止まった。
「彼らは、知らぬ」
「何をです」
「祈りが、何から民を守ってきたかを」
若い司祭は、返答しなかった。
その言い方は、正しいようで違っていた。
祈りが守ったものはある。
人を支えた言葉も、病床で手を握った聖職者も、戦場で死者を数えた修道士もいた。
だが、いま枢機卿が見ているのは、その人達ではない。
記録の棚の奥にある、危険な言葉だった。
「禁書目録は、教皇庁封印部の管理です」
若い司祭は言った。
「典礼化記録は」
「同じく封印部です」
「写しは」
「原則、ありません」
「原則」
枢機卿は、そこで小さく笑った。
笑い声には、楽しさがなかった。
「原則は、例外を隠すためにある」
「猊下」
「第三庫が開かぬなら、第三庫でない棚を開く」
「正規監査中です」
「だから、正規ではない棚を使う」
「それは」
若い司祭は、言葉を切った。
言えば、命令になる。
言わなければ、記録できない。
だが、言わせたい相手は、最初から記録など恐れていない。
「古い典礼補助書庫を開け」
枢機卿は言った。
「閲覧対象は、巡礼路制定前の聖歌断片、境界祓いの応答句、召喚補助詠唱の典礼化記録に関わる注解。封印部へは、写本状態確認と報告する」
「虚偽報告です」
「状態確認はする」
「目的が違います」
「目的など、後から正される」
若い司祭は、筆を取った。
今度は、拒むためではない。
命令をそのまま書くためだった。
古い典礼補助書庫。
閲覧対象。
申請名目。
実目的と不一致。
発言者。
同席者。
時刻。
枢機卿は、その筆先を見ていた。
「お前は、まだ記録するのか」
「はい」
「それで何かが止まると思っているのか」
「止まらないかもしれません」
若い司祭は、書きながら答えた。
「ですが、後で誰かが、どこから始まったかを見つけられます」
◇
会議が終わると、司教達は別々の扉から出ていった。
同じ廊下を歩けば、同じ陰謀に見える。
別々に出れば、偶然に見える。
そう考えている者達の足音を、北側会議棟の石床は区別しなかった。
若い司祭は、最後に残った。
机の上には、祈りの境界線と題された告知の写しがある。
彼は、それをもう一度読んだ。
祈りは、誰かの通行を止めなくても届く。
その一文だけが、行政告知の中で少しだけ温度を持っていた。
聖女アリシアの名は、そこに記されていない。
だが、誰の言葉かは分かった。
若い司祭は、告知の写しを閉じた。
それから、別紙を一枚取り出す。
教皇庁正規監査室宛。
未承認閲覧申請予告。
古い典礼補助書庫。
封印部への名目と実目的の不一致あり。
提出者欄で、彼の指が一瞬止まった。
名を書けば、戻れない。
書かなければ、誰かがまた祈りの名で扉を開ける。
彼は自分の名を書いた。
震えた字だった。
だが、読めた。
その頃、会議棟の地下では、別の鍵束が古い箱から取り出されていた。
銀ではない。
聖別された鍵でもない。
黒ずんだ鉄の鍵だった。
使われなくなって久しいはずの鍵束が、布の中で小さく鳴る。
その音は、祈りの音に似ていなかった。
扉の音に似ていた。
そして、彼らはまだ知らない。
自分達が開けようとしているものが、閉じられていた理由を。




