第十六夜 透明な棺の中で
第十六夜 透明な棺の中で
後頭部に装着された端末は、廊下を歩き始めた瞬間から静かに仕事を始めた。
視界の端に、淡い光が揺れる。
壁面のパネル。扉の識別番号。天井を走る配管の用途表示。
通り過ぎるたびに、それらが薄い文字と図形で重なって見えた。
「……廊下を歩いているだけで、色々見えます」
リシアが言うと、メディナは振り返りもせずに答えた。
「視野に入ったものを読もうとします。止める方法もありますが、医療集中管理室では有効にしておいた方がよいでしょう」
「止められるのですね」
「見たくないものを見ずに済む場面も、あります」
穏やかな声だったが、その言葉の意味するところに、リシアは少し黙った。
ステファニアが小声で言う。
「戦場でも、同じ理屈が使えそうです」
「使えます」
リジェスカが短く答えた。
「大戦末期には、戦術ヘルメットの同系統機能で敵味方の識別補助に用いていました」
ステファニアは剣士として納得し、リシアは剣士でない者として少しだけ遠い目をした。
廊下の突き当たり、二重扉の前でメディナが端末を翳す。
「医療集中管理室です」
扉が、音もなく開いた。
部屋は、静かだった。
広くはない。
中央を隔てるように、天井から床まで続く透明な隔壁があった。
その向こうに、医療ポッドがある。
白く、細長い。
人ひとりが横たわれるだけの大きさで、内部はほのかに光っていた。
その中に、セラがいた。
リシアは、一歩踏み出したまま、止まった。
言葉が出なかった。
数字で聞いていた。
心拍が戻ったと、呼吸が安定していると、回復傾向にあると。
全部、言葉で理解していた。
けれど、ガラスの向こうに横たわるセラを視界に収めた瞬間、その理解の全部が、少し違う場所へ落ちた。
生きている。
それが、数字ではなく形として、目に入った。
ステファニアも黙っていた。
剣士として、おそらく傷の深さを読もうとしていた。
読めてしまったのだろう。
その顔が、静かに固くなっていた。
「ご説明します」
メディナの声で、二人は我に返った。
「AR端末の表示を、医療情報モードへ切り替えます。リジェナ」
「はい」
視界が、一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、隔壁の向こうのセラに、薄い光の層が重なった。
全身が、細かな光の格子で覆われていた。
人体の輪郭を、均等な間隔の線が丁寧に形作っている。
リシアは、視線をどこへ向けるべきか一瞬だけ迷った。
ステファニアは、完全に剣士の顔になって黙った。
どちらも、視線を逸らしはしなかった。
医療の文脈であることは、理解していた。
理解した上で、部屋の温度が、ほんの少し上がった気がした。
「傷の位置と深度です」
メディナが端末を操作すると、格子の上に赤い層が浮かぶ。
右肩口から胸部にかけて、深く、長く。
「搬入時点での損傷範囲はここまでです。現在の再生処置により、この範囲まで回復しています」
緑の層が、赤い層の上に少し重なった。
「……かなり、戻っているのですね」
リシアが言う。
「はい。ただし」
メディナは、ここで一拍置いた。
「この回復速度は、標準的な個体では見られません」
視界の片隅に、数字が並んでいた。
「……これは」
リシアは、視線を片隅へ向けたまま言った。
「数字が、動いています」
「はい。リアルタイムで更新されています」
「この、波打っているものは」
「心拍です。心臓が一回収縮するたびに、波形として記録されます」
リシアは、その波形をしばらく見た。
規則正しく、穏やかに、繰り返している。
「……セラの、心臓の動きですか」
「そうです」
何も言えなかった。
剣士の体の奥で、心臓が動いている。
それが波形になって、ここまで届いている。
「この数値は」
ステファニアが別の表示を指した。
「上と下に、二つ並んでいます」
「血圧です。心臓が押し出す時の圧力と、緩む時の圧力を、それぞれ計測しています」
「血の、圧力を」
「はい」
「……計れるのですか、そのようなものが」
メディナは穏やかに微笑んだ。
「計れます」
ステファニアは短く黙った。
剣士として戦場で血を見てきた人間が、血の圧力を数字で見せられて、少しだけ言葉を失っている顔だった。
「脳波については」
メディナが続けた。
「眠りの深さを示しています。深く休んでいる時と、浅く漂っている時では、波の形が変わります」
「今は」
リシアが問う。
「穏やかに、深く眠っています」
メディナはそこで、少しだけ言葉を選んだ。
「正直に申し上げると、これほどの重傷で搬入された方の脳波としては、異様なほど穏やかです。搬入直後から、この状態でした」
「……搬入直後から」
「出血と循環停止の状態で、これだけ波形が整っているのは、私も多くは見たことがありません」
ステファニアが、静かに息をついた。
「斬られた瞬間は、死を覚悟した。その後すぐ、大丈夫だと判断した。……そういうことでしょうか」
「脳波はそこまで詳しくは語りません」
メディナは穏やかに答えた。
「ただ、否定もしません」
しばらく、誰も何も言わなかった。
光の格子の中で、セラは静かに眠っている。
その時、ステファニアが静かに言った。
「……鎧というのは」
リシアが視線を向ける。
「着る者を隠すものだとは、分かっていたつもりですが」
一拍置く。
「それにしても、随分と隠していたのですわね」
貴族の言葉が、ほんの一瞬だけ戻ってきた。
一拍あった。
「……気づいていませんでした」
リシアは、ガラスの向こうを見たまま答えた。
「本当に、ですか」
ステファニアの声に、ほんのわずかな何かが混じっていた。
リシアは答えなかった。
リジェナが口元を押さえ、リジェスカは天井を見た。
メディナだけが、穏やかに表情を動かさなかった。
もう少し沈黙が続いた後、ステファニアが口を開いた。
今度は、貴族の言葉ではなく、剣士の声だった。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
メディナが静かに答える。
「剣を振る者の身体、でしょうか」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
リシアはステファニアを見た。
その目が、先ほどとは違う何かを見ていた。
格子の輪郭を、剣士として読んでいる目だった。
メディナは、一拍置いた。
「そのことにつきましては」
穏やかな声は、変わらなかった。
「お話とご相談がございます」
ただ、その中に、わずかに何かが混じった。
「セラ様のお身体については、ご本人からの承諾なしにお答えすることはできかねます」
ステファニアは、静かに頷いた。
それ以上、問わなかった。
問わなかったが、その目はまだ、光の格子の中のセラを見ていた。
光の格子の中で、セラは静かに眠り続けている。
心拍の波形は、視界の片隅で、変わらず穏やかに動いていた。
目覚める時を、自分で決めるように。




