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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第十五夜 昼食と透明な棺

 第十五夜 昼食と透明な棺


 病室へ戻るなり、リシアはベッドへ飛び込むように身を投げ出した。


「何だか、妙に疲れました……」


 枕に頬を埋めたまま、くぐもった声で言う。


 ステファニアは、その様子を見て小さく息をついた。


「リシア様。公女がはしたないですわよ」

「今だけです。今だけ、公女ではなく患者です」

「便利にお使いになりますね、そのお立場」


 リシアは反論しなかった。


 できなかった、と言った方が正しい。


 面会用談話室で聞いた話が、まだ頭の奥で重く響いている。

 アークライト。

 ベルカ魔導帝国。

 メシア正教国。

 魔王。

 亡霊。


 どれも、朝食後のお茶で聞くには重すぎる話だった。


「ステファニア様も、座った方がよろしいですよ。たぶん、同じくらい疲れています」


 そう言われて、ステファニアは反論しかけた。


 けれど、言葉は出なかった。


「……少しだけ、座ります」

「はい。少しだけです」


 リシアは枕に顔を半分埋めたまま、どこか満足そうに答えた。


 その時、枕元に置かれていた携帯端末が、控えめな音を鳴らした。


 リシアは片目だけを開ける。


「……今度は何でしょう」


 ステファニアが端末を手に取り、画面を確認した。


「昼食のお知らせです」


 リシアは、ゆっくりと顔を上げた。


「昼食」

「はい」

「……患者ですから、食べなければなりませんね」

「リシア様」

「治療の一環です」

「便利にお使いになりますね、そのお立場」


 二度目の指摘に、リシアは今度こそ少しだけ目を逸らした。


 端末の画面には、いくつかの献立が並んでいた。

 その上部に、小さな文字が表示されている。


『生体情報が安定しています。昼食より、通常回復食の範囲内で献立の選択肢を拡張します』


「……選択肢が、増えています」


 リシアの声に、ほんの少しだけ期待が混じった。


「朝食を問題なく召し上がったからでしょう」

「それだけでしょうか」

「呼吸、心拍、魔力回復傾向も見られているはずです」

「……見られているのですね」

「医療区画ですので」

「便利な言葉になってきましたね、それ」


 リシアはそう言いながらも、端末の画面へ視線を戻した。


 昨日の粥や柔らかく煮た野菜に比べ、昼食の献立は明らかに幅が広い。

 温かなスープ。

 白身魚の蒸し物。

 澄んだ鶏出汁の温麺。

 柔らかく煮た根菜。

 そして、薄焼きのパンに、蒸した鳥肉と葉野菜を包む料理。


「これは……手で持って食べる料理でしょうか」

「おそらくは」

「公女殿下が手で召し上がる昼食」

「ステファニア様」

「いえ。医療区画の食事ですから、作法も医療上の都合に含まれるのでしょう」

「今、少し楽しそうでした」

「安全確認の範囲を広げる意味でも、有効かと」


 リシアは端末から顔を上げ、ステファニアを見た。


「ステファニア様。今のそれは、本心ですか」

「……」


 ステファニアは、静かに目を逸らした。


 結局、リシアは蒸し鳥肉と葉野菜の薄焼き包み、甘辛香味ソース添えを選んだ。

 ステファニアは、澄んだ鶏出汁の温麺、柔らかい根菜入りを選ぶ。


「別々のものを頼めば、二つ分分かります」

「安全確認ですね」

「はい」

「今度は本心ですか」

「半分ほどは」


 リシアは小さく笑った。


 注文を確定してから、さほど時間はかからなかった。


 扉の前で柔らかな音が鳴る。

 リシアが端末で入室を許可すると、灰白色の医療勤務服を着た二人が、昼食を載せた台を押して入ってきた。


「失礼いたします」

「昼食をお持ちしました」


 リジェナとリジェスカだった。


「昨日は、お茶をありがとうございました」


 リシアが言うと、リジェナが穏やかに微笑む。


「こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」

「本日の包み料理は、医療区画向けにかなり穏やかに調整されています」


 リジェスカが皿を並べながら言った。


「本来は、第三ダンジョンの商業区にある店の方が、香辛料が強くて人気です」


 リシアの手が止まった。


「第三、ダンジョン」


 ステファニアも、温麺の器を見つめたまま動きを止める。


「商業区、ですか」


 リジェナとリジェスカは、そこで初めて、しまった、という顔をした。


「……低階層情報の範囲内です」

「はい。範囲内です」


 二人は同時に頷いた。


 リシアはゆっくりと息を吸う。


「船の中に、ダンジョンがあるだけでなく」

「その中に、街があるのですか」


 リジェスカが少し考えてから答えた。


「はい。あります」

「かなりあります」


 リジェナが補足した。


 補足になっていなかった。


 リシアはステファニアを見る。

 ステファニアも、同じようにリシアを見た。


 聞きたいことが増えた。


 あまりにも増えた。


「お二人は、昼食はまだですか」


 リシアが問うと、リジェナが瞬きをした。


「勤務後に予定しています」

「では、よろしければご一緒に。昨日の続きも、少し伺いたいのです」


 リジェナとリジェスカは視線を交わした。


「確認します」


 リジェスカが端末に触れる。

 短い間の後、彼女は頷いた。


「許可が出ました」

「ただし、医療区画内での昼食同席は、患者様の精神安定と情報交換を目的とするもの、とのことです」


 リシアは小さく息を吐いた。


「クラウディア様ですか」

「はい」


 リジェナが微笑む。


「副司令は、手回しのよい方です」

「存じています」


 リシアは、心からそう答えた。


 食事は、思っていたよりずっと賑やかになった。


 リシアの皿には、薄く焼かれた柔らかいパンが畳まれている。

 蒸した鳥肉は白く、細く裂かれ、葉野菜と一緒に包めるよう整えられていた。

 添えられた甘辛い香味ソースは、光を受けて艶やかに見える。


 ステファニアの温麺は、澄んだ鶏出汁の中に細い麺が沈み、柔らかく煮た根菜が彩りよく添えられていた。

 香りは穏やかで、身体に負担をかけないよう調整されていることが分かる。


「これは、こう包むのですか」


 リシアが薄焼きのパンを広げると、リジェナが手元で見本を作って見せた。


「はい。葉野菜を先に置くと、ソースが染み込みすぎません」

「なるほど」


 リシアは慎重に真似をした。


 蒸し鳥肉を乗せ、葉野菜を重ね、甘辛いソースを少しだけかける。

 それから薄焼きのパンを折る。


 思ったより難しかった。


「……これは、手先の作法が問われますね」

「慣れると片手でできます」


 リジェスカが言う。


 リシアは自分の両手を見た。


「片手で」

「商業区では、歩きながら食べる方もいます」

「歩きながら」


 ステファニアの声に、軽い衝撃が混じる。


「公女殿下が歩きながら召し上がる料理」

「ステファニア様」

「いえ。安全確認の観点から、持ち歩ける食事には利点があります」

「また安全確認ですか」


 ステファニアは、今度は目を逸らさなかった。


「今度は本心です」


 リシアは少し笑って、包み料理を口にした。


 柔らかい。

 蒸した鳥肉はほぐれるようで、葉野菜は瑞々しい。

 甘辛いソースは最初に甘さが来て、あとからほのかに香辛料の熱が残った。

 けれど、強すぎない。


「おいしいです」


 素直にそう言うと、リジェナがほっとしたように笑った。


「お気に召してよかったです」

「本来の店では、もっと辛いのですか」

「かなり」


 リジェスカが短く答える。


「医療区画向けでは、刺激を三割以下にしています」

「三割以下」


 リシアとステファニアは、同時に手元の皿を見た。


 これで三割以下。


 第三ダンジョンの商業区という場所は、どうやら想像よりずっと強い場所らしい。


 今度はステファニアの温麺を、リシアが少し分けてもらう。


 澄んだ鶏出汁は穏やかで、塩気も強くない。

 柔らかい根菜は舌でほぐれるほど煮込まれ、麺は細いのに頼りなさはなかった。


「こちらは、落ち着きます」

「はい。こちらも、かなりよいです」


 ステファニアは静かに答えた。


 その声に、少しだけ悔しさが混じっている。


「ステファニア様」

「はい」

「両方選べばよかったと思っていますね」

「……」


 ステファニアは、今度も静かに目を逸らした。


 リジェナが口元を押さえ、リジェスカは何も言わず茶の準備を始めた。


 食後には、昨日と同じほうじ茶が出された。


 リシアは茶器を両手で包み、薄く息を吐いた。

 甘辛いソースの余韻を、香ばしい茶が静かに洗い流していく。


「……落ち着きますね」

「はい。医療区画では、刺激の強い食事の後にも出されることがあります」


 リジェスカが当然のように言った。


「刺激が強い、ですか」

「本来の第三ダンジョン商業区のものに比べれば、本日のソースはかなり穏やかです」


 リシアとステファニアは、同時に皿を見た。


「……あれで、穏やか」

「はい」


 そこへ、病室の扉の前で、控えめな入室音が鳴った。




 リジェナが端末を確認する。


「メディナ主任です」


 リシアの手が、茶器の上で止まった。


 セラ。


 その名は、誰も口にしなかった。

 けれど、部屋の空気が一瞬で変わった。


「お通ししてください」


 リシアは背筋を伸ばして言った。


 扉が静かに開く。


 穏やかな微笑みを浮かべたメディナが、白銀の廊下から入ってきた。


「お食事中に失礼いたします。食後でよろしい頃合いと判断しました」


 その声は柔らかい。

 だが、リシアはすぐに分かった。


 これから話されるのは、食事の話ではない。


「セラのことですね」

「はい」


 メディナは静かに頷いた。


「透明な棺の騎士様について、ご説明します」


 リシアは、茶器を置いた。

 ステファニアも姿勢を正す。


 リジェナとリジェスカは、音を立てずに食器を片づけ始めた。


「結論から申し上げます」


 メディナは、いつもの穏やかな声で言った。


「セラ様は、生きています」


 リシアの胸の奥で、何かがほどけた。


 分かっていた。

 先程、クラウディア様から回復傾向だと聞いていた。

 けれど、その言葉をもう一度、医療担当の口から聞けたことが、どうしようもなくありがたかった。


「ありがとうございます」


 リシアは深く頭を下げた。


「ただし」


 メディナの声は、柔らかいままだった。


「搬入時の状態は、通常であれば死亡確認へ移行していてもおかしくありませんでした」


 ほどけたものが、もう一度、冷たく固まる。


「それほど、ですか」


 ステファニアの声が低くなる。


「はい。右肩口から胸部にかけての深創。大量失血。循環停止。搬入直後、一時的に心拍も消失しています」


 リシアは、指先が冷えるのを感じた。


 セラは、そこまで遠くへ行っていたのか。


「循環律動再同期処置により、心拍は再開しました。現在は医療ポッド内で呼吸、循環、再生処置を統合管理しています」

「再生処置」

「傷を塞ぎ、失われた組織を補い、循環を維持するための処置です。ご本人の回復力を利用しています」


 メディナはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。


「問題は、そのご本人の回復力が、通常の範囲を大きく超えている点です」

「通常の範囲を」

「はい」


 メディナは頷いた。


「自己修復速度が、標準個体の比較値を大きく逸脱しています。医療者としては喜ばしい限りです」


 そこで、彼女は一拍置いた。


「研究者としては、正直に申し上げて、寝食を忘れて観察したい症例です」


 病室の空気が止まった。


 リシアは、ゆっくりとメディナを見る。


 ステファニアも、ゆっくりとメディナを見る。


 リジェナは皿を持ったまま固まり、リジェスカは視線だけを横へ動かした。


 メディナは微笑んでいた。


 穏やかに。

 まったく悪びれずに。


「……今のは」


 リシアが言う。


「聞き間違いです」


 メディナは即答した。


「メディナ様」


 ステファニアの声が、静かに冷えた。


 メディナは、そこで小さく咳払いをした。


「失礼しました。患者は患者です。本人の同意なく研究対象として扱うことはありません」

「本当ですね」

「はい」


 メディナの声は、今度は静かに強かった。


「患者として守ります。そのうえで、緊急医療範囲で観察できるものは観察します」

「そこは、譲らないのですね」

「譲れません。治療判断に必要ですので」


 正直だった。


 正直すぎた。


 リシアは、少しだけ額に手を当てたくなった。


「セラ本人には、目覚めた後に説明を」

「もちろん行います。本人の意思確認なしに、治療範囲を超える研究利用はいたしません」


 メディナはそう言って、手元の小さな端末を取り出した。


「ご希望であれば、現在の状態を視覚化して説明できます」

「視覚化」

「後頭装着式拡張視覚端末を使用します」


 リシアとステファニアは、同時に黙った。


「後頭、ですか」

「はい。後頭部に装着し、視界に医療情報を重ねて表示する端末です」

「後頭部に」

「はい」


 メディナは当然のように答える。


「視覚処理への同期が安定します。出力は患者用に制限しますので、痛みはありません」

「今、また少し不穏な言葉がありました」


 ステファニアが静かに言った。


「安全です」

「安全なものほど、先にそう言われる気がします」


 リシアが小さく呟く。


 メディナは柔らかく微笑んだ。


「戦術用の類似装備に比べれば、かなり穏やかです」

「戦術用」


 今度はステファニアが反応した。


「はい。戦術ヘルメットには、拡張視覚端末と聴覚保護機構が内蔵されています。機動騎士同士の接触音や剣撃音は、近距離では鼓膜を損傷する危険がありますので」


 ステファニアは、騎士としての表情になった。


「確かに、剣戟の衝撃音で耳を潰されれば、戦場では致命的です」

「ステファニア様、納得なさらないでください」


 リシアが言うと、ステファニアは少しだけ目を伏せた。


「ただ、理屈は分かります」

「そのような方のために、戦術ネックバンドもあります」


 メディナが続けた。


「大戦末期、物資不足で正規ヘルメットの補充が追いつかなくなった際、破損したヘルメットから視覚補助系と聴覚保護系を取り外し、首部に固定して応急運用したものが原型です」


 リシアは、言葉を失った。


 ステファニアも、言葉を失った。


「……応急」

「……首に」


 リジェナが小さく目を逸らした。


 リジェスカは、なぜか少し誇らしげだった。


「現在は正式規格化されています」


 メディナは穏やかに言った。


「軽く、修理しやすく、耳も守れます。合理的です」

「合理的、なのでしょうね」


 リシアは、かろうじてそう答えた。


 ベルカという国は、星々を旅する船を作る。

 世界を閉じる兵装を作る。

 そして、壊れた兜から部品を外して首に巻く。


 豊かで、高度で、どうしようもなく現場がある。


 それが、少しだけ分かってきた気がした。


「端末の使用は任意です」


 メディナは言った。


「ただ、セラ様の状態を言葉だけで説明するより、見ていただいた方が誤解は少ないでしょう」


 リシアはステファニアを見る。


 ステファニアは、静かに頷いた。


「お願いします」


 リシアは答えた。


 メディナが端末を二つ取り出す。

 白銀色の薄い小さな板だった。

 髪の下に隠れてしまいそうなほど薄く、けれど表面には細かな光の線が走っている。


 リジェナがリシアの後ろへ回り、リジェスカがステファニアの後ろへ立つ。


「失礼します」


 後頭部に、ひやりとした感触が触れた。


 痛みはない。


 だが、視界の端に、淡い光の線が浮かんだ。

 文字ではない。

 まだ、意味のない光。


 それが一瞬だけ揺れ、すぐに消える。


「初期同期完了。出力は最低段階です」


 リジェスカが短く言った。


「気分は悪くありませんか」


 リジェナが問う。


「大丈夫です」


 リシアは答えた。


 ステファニアも頷く。


 メディナが扉へ向き直った。


「では、医療集中管理室へご案内します」


 透明な棺。


 その言葉が、リシアの胸の奥で静かに形を持つ。


 セラは、まだ目覚めない。


 けれど、生きている。


 それを確かめるために、リシアは白銀の廊下へ踏み出した。


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