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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第十四夜 船の話

 第十四夜 船の話


 リシアは茶器を両手で包み、静かに顔を上げた。


 まずは、アークライトについて。

 次にベルカについて。

 そして、メシア正教国について。


 クラウディアはそう言った。


 順番は穏やかだった。

 けれど、その三つは、リシアたちの常識を根から揺らすものばかりだった。


「アークライトは、船です」


 クラウディアは結論から始めた。


「正式には、ハイランド級攻撃型移民船アークライト。長距離移民、文明保存、開拓支援を目的として建造された大型艦です」

「移民、ですか」


 リシアは、その言葉を繰り返した。


 船に乗って人が移る。

 それ自体は分かる。

 海の向こうへ渡る者、川を下って新しい土地へ行く者。公国の歴史にも、そういう記録はあった。


 だが、いま語られているのは、その程度の話ではない。


「何人ほどを運ぶ船なのですか」

「設計上は、十億単位での長期居住が可能です」


 リシアは、言葉を失った。


 十億。


 それは、町ではない。

 都市でもない。

 小さな国でさえ足りない。


 ステファニアも、さすがに息を止めていた。


「十億を、船の中に?」

「はい」

「船体の大きさは」

「全長、およそ七十キロメートル」


 ステファニアが、静かに口を開いた。


「馬車で、丸一日走っても端に届かない距離ですね」

「概ね、そうなります」


 リシアは思わず、窓の外へ視線を向けた。


 面会用談話室の窓の向こうには、朝の庭が映っている。

 薄い光を受けた木々が揺れ、どこかで水の流れる音がする。


 それが本物の庭ではないことを、リシアはもう知っている。


 だが、その庭を内包するこの場所が、馬車で丸一日走っても端に届かない船の一部だと考えると、足元の床が急に遠く感じられた。


「それは、もう城ではありませんね」

「都市でも足りません」


 ステファニアが静かに言った。


「大きな国を、いくつも閉じ込めているようなものです」

「近いです」


 クラウディアは否定しなかった。


「ただし、閉じ込めるためではありません。運ぶためです。アークライト内部には三つの人造ダンジョンがあり、合計すれば、かつて『大陸』と呼ばれた極大の大地に匹敵する面積を確保しています」

「タイリク……?」


 リシアは、聞き慣れない音をなぞるように繰り返した。


「島や国という単位を超えた、一つの巨大な地塊のことです。あなた方の伝承にある『失われた世界』の全土が、ひとつの陸地として繋がっている状態、と考えてください」

「……世界、すべてが」


 リシアは息を呑んだ。

 古文書の隅に、神話の断片として記されていた「巨地」。今の世界では地図さえ失われた、想像上の広さだ。


「七十キロメートルの船に、その……神話の大地が収まっているというのですか。計算が合いません」

「物理的に横へ広げるのは非効率ですから。アークライトは、高度に圧縮された積層構造をとっています」


 クラウディアは淡々と、けれどリシアの常識を切り捨てるように事実を告げる。


「各階層は空間転移によって接続されています。中央ロビーを起点として、居住区のあるダンジョン、鉱山主体のダンジョン、海洋が主体のダンジョンに分かれており、例えば自宅のある十階から一階へ、そこからさらに鉱山主体のダンジョンへ入り採掘を行い夕方自宅へ戻り体を休める。様々な要求に対応、維持できる様にした空間の積み重ねが、この船の正体です」


 リシアは、目眩を覚えた。

 国をいくつも抱えるような、計り知れない大地そのものを、この船は階層という名の棚に並べているのだ。


「人、知識、技術、文化、種子、動植物、都市機能。ひとつの文明を、別の星へ移すための船でした」


 別の星。


 リシアは、夜空を思い出した。

 昨夜、ステファニアと見上げた投影の空。

 散りばめられた小さな光。


 古い文献にあった、空を越え、月を越え、星の海を渡ったという記述。


 神話だと思っていたものの、続き。


 その言葉が、胸の奥で再び響いた。


「ベルカは、本当に星々を旅していたのですね」

「はい」


 クラウディアの返答は短かった。


 その短さが、かえって答えを重くする。


「では、アークライトは今も、その旅の途中なのですか」

「いいえ」


 今度は、アインが答えた。


「旅は終わった。少なくとも、本来の意味では」


 リシアはアインを見る。


 白い髪の少年は、手元の茶には触れていなかった。

 赤い瞳は、こちらを見ているようで、もっと遠いものを見ているようでもあった。


「アークライトは、最後の戦争で役割を変えた」

「役割を、ですか」

「移民船から、門を閉じるための船になった」


 門。


 アイン様から出た言葉だ。

 向こう側にあった侵略世界。

 放置すれば、こちらが滅びたという、あの門。


 クラウディアが引き継ぐ。


「本来、アークライトは人を運び、文明を保存するための艦でした。ですが大戦末期、境界を閉鎖するための装備が追加されました」

「境界」

「世界と世界の接続面、と考えてください。今はそれ以上の説明は省きます」


 省く。


 ステファニアの指が、膝の上でわずかに動いた。

 それでも、彼女は問いを飲み込んだ。


 先ほど、理解しようとしてしまうから、と言われたばかりだ。


「つまり、アークライトは救命艇であり、武器でもあったのですね」


 リシアが言うと、クラウディアは少しだけ目を細めた。


「よい整理です」

「褒められているのでしょうか」

「ええ」


 リシアは小さく息を吐いた。


 褒められている気はする。

 だが、喜んでよい内容ではなかった。


「そして、その武器としての役割が、アイン様を魔王と呼ばせた」

「一因です」


 クラウディアは即答した。


「ただし、メシア正教国の伝承を単純な嘘と断じるのは、現時点では正確ではありません」

「正確ではない?」


 ステファニアが問う。


「ええ。伝承には、事実が含まれています。大地が焼かれたこと。魔物が現れたこと。世界が滅びかけたこと。危険な力が使われたこと。それらは、概ね事実です」

「では、違うのは」

「順番と、主語です」


 クラウディアの声は淡々としていた。


 けれど、その二つの単語は、刃物のような鋭利さで既存の物語を解体していく。


 焼いたのは誰か。呼んだのは誰か。

 真実の所在がたった一行入れ替わるだけで、世界を救った神話は、容易にその姿を翻す。


 そこが変われば、同じ出来事でも物語はまったく別の形になる。


「伝承は、長い時間の中で変質します。意図的な隠蔽もあったでしょう。善意の簡略化もあったはずです。恐怖を伝えるために、危険な技術を悪しき名で呼んだ者もいたでしょう」

「メシア正教国は、悪ではないと?」


 リシアは問うた。


 公国にとって、正教国は遠い国でありながら、重い影響を持つ存在だ。

 開祖メシアの教え、魔王伝承、禁忌。

 そのすべてを、ここで簡単に否定することはできない。


「少なくとも、単純な悪ではありません」


 クラウディアは答えた。


「危険なものを封じ、二度と同じ惨事を起こさない。その意志が、起源に含まれていた可能性は高いと見ています」

「可能性、なのですね」

「はい。私たちも、千五百年後の現在のメシア教の総本山である正教国を、まだ知りません」

「……まあ。それは、我らも同じではありましょうが」


 ステファニアが、皮肉めいた自嘲を込めて応じる。


 アインが短く言った。


「知ってから判断する」


 リシアは、その言葉を静かに受け止めた。


 魔王と呼ばれた者が、自分をそう呼んだ国をまだ裁かない。

 それは甘さではない。

 ただ、知らないことを知らないまま断じないという態度だった。


「では、ベルカとは」


 ステファニアが口を開いた。


「どのような国だったのですか。星々を旅する船を作り、魔法を工学として扱い、世界を閉じる武器を持った国。私たちが文献で読むベルカ魔道帝国は、もっと神話に近いものです」


 クラウディアはすぐには答えなかった。


 珍しい沈黙だった。


「一言で言えば、高度な魔導工学文明です」

「魔導工学」


 ステファニアが聞き返した。


「あなた方の言葉に寄せるなら、そう表現するのが近いでしょう。魔法を祈りや神秘としてだけ扱うのではなく、再現し、測定し、設計し、量産する文明でした」


 リシアは、喉の奥が乾くのを感じた。


 魔法を量産する。


 貴族が血筋として誇り、学院が才能として測り、神殿が祝福として語るものを、作る。


 それは豊かさでもあり、冒涜でもあった。


「誰もが魔法を使えたのですか」

「程度の差はあります。ですが、魔導具、術式補助、教育体系、身体調整などにより、現代よりはるかに広い範囲で扱えました」


 身体調整。


 その言葉に、リシアはリジェナとリジェスカを思い出した。

 病室での茶会で聞いた、長期任務に耐えるための調整。


 あの時は、分かったようで分からなかった。

 今も、きっと核心は伏せられている。


「それは、人を作り変えるという意味ですか」


 ステファニアの声が低くなる。


 クラウディアは否定しなかった。


「その側面はあります」

「危険な響きですね」

「危険です」


 あまりにもあっさりとした肯定だった。


 リシアは思わずクラウディアを見る。


 クラウディアは平然としている。

 自分たちの文明を飾るつもりがない顔だった。


「ベルカは豊かな文明でした。多くの命を救い、多くの不可能を可能にしました。ですが、清らかな理想郷ではありません。強すぎる技術は、必ず影を持ちます」

「その影を、正教国は禁忌と呼んだ」

「おそらくは」


 リシアは、茶器を包む手に少しだけ力を込めた。


 メシア正教国。

 ベルカ。

 アークライト。

 魔王。


 どれも、単純な善悪では収まらない。


 子供に聞かせる伝承なら、白き神が魔王を討ち、世界は救われたで終わる。

 けれど、現実はそうではない。


 白き神と魔王の名が、同じ少年に重なっている。


「アイン様」


 リシアは、少年の名を呼んだ。


「ベルカは、滅びたのですね」


 アインは頷いた。


「ああ、そのようだな。少なくとも、我々の知るベルカは」


 アインの言葉に、クラウディアは静かに頷いた。


「では、アークライトの中に、ベルカの人々は」


 リシアがそう問うと、アインは少しの間、天井を見つめていた。


「十億はいない」


 短い答えだった。


 リシアの胸が、静かに沈む。


「生き残っている者は、いる。アークライトの中にも、地上へ出た者にも。二年の旅で、住人は十万人を超えた」

「十万人を」


 リシアは、声を落とした。


 それだけでも、ひとつの都市だ。

 けれど、十億を運ぶための船にとっては、あまりにも少ない。


「だが、ベルカそのものと呼べるほどじゃない」

「では、文明保存というのは」

「記録はある」


 アインは少しだけ視線を落とした。


「人より、多く残った」


 その言い方が、リシアにはひどく寂しく聞こえた。


 人より、記録が多く残った。


 それは、滅びた国の残酷な形だった。


 ステファニアも何も言わなかった。

 問うことはできたはずだ。

 どのような記録なのか。

 どこに保管されているのか。

 誰が読めるのか。


 けれど、今ここで踏み込むべきではないと、彼女も感じたのだろう。


「だから、亡霊なのですか」


 リシアが問うと、アインは小さく肩をすくめた。


「そう見えるだろ」

「私は」


 リシアは言いかけて、少し迷った。


 慰めを言う場面ではない。

 そして、軽い否定はきっと、この少年には届かない。


 リシアは飲み込みかけた言葉を、意識して奥へ沈めた。


「まだ、決められません」


 そう答えた。


 アインがリシアを見る。


「あなた方が亡霊なのか、生き残った人々なのか。私には、まだ決められません」

「そうか」


 アインは短く言った。


 怒ってはいなかった。

 むしろ、その答えでよいと思っているように見えた。


 クラウディアが茶を一口含み、静かに茶器を置く。


「本日の説明は、この程度が妥当でしょう」

「ここで止めるのですか」


 ステファニアの声には、抑えた不満があった。


「はい」

「理由を伺っても?」

「医療上の理由が半分。情報管理上の理由が半分です」

「正直ですね」

「先ほども申し上げました」


 クラウディアは澄ました顔で言った。


「嘘をつくより、後の手間が少ないので」


 ステファニアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 不本意ながら、気に入ってしまったような顔だった。


「では、今日のところは、ここまでにします」


 リシアはそう言って、姿勢を正した。


「ただし、続きは求めます。アークライトのこと、ベルカのこと、正教国のこと。そして、私たちの身に何が起きているのかも」

「承知しました」


 クラウディアが答える。


 アインも頷いた。


「話す。順番は選ぶけどな」

「それで構いません。私たちも、問いの順番を選びます」


 リシアがそう返すと、アインは少しだけ目を細めた。


「やっぱり面倒だな」

「お互い様です」


 今度は、ステファニアが咳払いをした。


「リシア様」

「分かっています。少しだけです」


 リシアは自分の頬が熱くなるのを感じた。


 公女としては、少し言い返しすぎたかもしれない。

 だが、アインの方も気にしていないようだった。


 クラウディアは、どこか満足そうに茶器を片づけ始める。


「面会後は、いったん病室へお戻りいただきます。セラ様の治療経過については、医療担当から説明を行います」

「セラは、目を覚ましますか」


 リシアの声は、自分で思ったよりも早く出た。


 アインとクラウディアの視線が、同時にリシアへ向く。


 クラウディアが答えた。


「現時点では、回復傾向です。ただし、覚醒時期はまだ確定できません」

「危険は」

「搬入時より大幅に低下しています」


 その言葉に、リシアはようやく息を吐いた。


 世界の話。

 滅んだ国の話。

 魔王伝承の話。


 どれも重要だった。


 けれど、リシアにとって、いま一番近い世界はまだセラの眠る透明な棺だった。


「ありがとうございます」


 リシアは深く頭を下げた。


 ステファニアも同じように礼を取る。


 アインは少しだけ困った顔をした。


「助けると決めた」


 それだけ言った。


 短い言葉だった。

 けれど、リシアはその言葉を、先ほど聞いたどの説明よりも信じやすいと思った。


 面会用談話室の扉が、静かに開く。


 廊下の向こうには、白銀の光が伸びていた。


 アークライトは船だった。

 国を運ぶために造られ、世界を閉じるために変えられ、千五百年の後に帰ってきた船。


 その船の中で、リシアはまだ何も知らない。


 けれど、知らないまま頷くつもりもなかった。


 リシアはステファニアと並び、扉の向こうへ歩き出した。


 背後で、アインの声が小さく聞こえた。


「クラウ」

「はい」

「次は、どこまで話す」

「セラ様の覚醒状況次第です」


 少しの間。


「そうだな」


 扉が閉じる直前、リシアは振り返らなかった。


 振り返れば、もっと聞きたくなる。

 だから今は、前を見る。


 白銀の廊下の先に、透明な棺で眠る騎士がいる。


 そしてその先に、まだ名も知らない真実が待っていた。


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