第百五十七夜 扉を守る者
第百五十七夜 扉を守る者
第三聖遺物庫の扉は、古かった。
石でも、木でもない。
白に近い金属で作られた厚い扉には、細い文字が何重にも刻まれている。
祈りの言葉ではない。
保管番号。
管理者名。
開庫条件。
照合記録。
いつ、誰が、何の目的で、どこまで開いたか。
扉そのものが、長い記録だった。
「旧副鍵、照合不能」
記録官が告げた。
保管院長は、扉の前から動かなかった。
背は高くない。
白い保管衣も、古い。
だが、扉の前に立つ姿勢だけは揺れなかった。
「再照合」
「旧副鍵、照合不能。典礼局現行鍵体系と一致しません」
「開庫申請番号」
「未記載」
「教皇庁登録番号」
「未記載」
「対象本人意思」
「不一致」
廊下の先で、男が舌打ちをした。
第三庫へ来たのは、中央会議棟から派遣された司祭が二名。
未登録巡礼守護会の腕章を巻いた者が六名。
そして、扉固定具へ工具を当てている工匠風の男が一人だった。
工匠は本職ではない。
手元を見れば、分かる。
扉を読む者の手ではなかった。
扉を外す者の手だった。
「緊急開庫だ」
司祭の一人が言った。
「聖女帰還勧告に用いる真正印を取り出す。保管院長は協力せよ」
「登録番号を提示してください」
「追って通知される」
「典礼局承認を提示してください」
「緊急だと言っている」
「対象本人の意思一致を提示してください」
司祭は答えなかった。
保管院長は、同じ声で続けた。
「提示されるまで、第三聖遺物庫は開きません」
「貴様は、聖女の帰還を妨げるのか」
「いいえ」
保管院長は、扉へ背を預けなかった。
扉を守っているのではない。
扉の前に置かれた手順を守っていた。
「私は保管規程を守っています」
「規程は信仰のためにある」
「信仰対象を、信仰の名で勝手に持ち出さないためにもあります」
記録官の筆が動いた。
司祭の顔が赤くなる。
「記録を止めろ」
「止められません」
記録官は答えた。
「第三庫前での口頭命令、工具使用、旧鍵提示、登録番号不提示。すべて保管記録へ入ります」
工具が、金属へ触れた。
短い音がした。
扉は開かなかった。
代わりに、扉の文字が一つ光った。
不正接触。
記録官が顔を上げた。
「正規警備へ通知」
「止めろ」
「既に送信済みです」
巡礼守護会の一人が、そこで腕章を見た。
未登録の腕章。
古い巡礼路の守り手を名乗る布。
彼は槍を持っていた。
だが、その手は震えている。
「祈りに来ただけだと、聞きました」
保管院長は彼を見た。
「祈ることは禁じません」
「では、なぜ」
「庫の扉へ工具を当てることは、祈りではありません」
廊下の奥で、足音が増えた。
正規警備が来る。
保管院長は、扉の前で一歩も退かなかった。
◇
同じ頃、ファーランド公都の中央広場では、別の扉がこじ開けられようとしていた。
扉は見えない。
石造りの門でもない。
広場へ入る道。
市庁舎の階段。
市場の通路。
公費の支出欄。
そこに、人が集まっていた。
白い布を肩へ掛けた者達が、広場の中央で膝をついて祈っている。
祈りそのものは、静かだった。
だが、人数が多い。
商人の荷車が止まり、朝市の通路が半分塞がっている。
噴水の横では、別の男が声を張り上げていた。
「聖女の帰還に備え、ファーランド公国は国費をもってメシア教礼拝堂を建設せよ」
羊皮紙が掲げられる。
そこには、聖女帰還礼拝堂建設嘆願と書かれていた。
「信徒保護のため、公共広場の常時祈祷を認めよ」
「庁舎前に祭壇を置く許可を出せ」
「寄進は公的徴収として扱え」
「信徒の数に応じて、国庫から礼拝所維持費を支出せよ」
通りの端で、魚売りの婦人が眉を寄せていた。
「祈るのはいいけどね、そこに荷車を置かれると、うちの氷が溶けるよ」
隣の老人が、小さく頷く。
「うちの孫もメシア教だ。あれとは違う」
リシアは、その言葉を聞いていた。
広場の北側、市庁舎の二階回廊。
リシア、ステファニア、アリシア、アイン、クラウディアが並んでいる。
セラは階段下にいた。
エレナは市庁舎の記録係と一緒に、届いた嘆願書の宛先と署名を分けている。
「ファーランド国内の同時発生地点、七箇所」
クラウディアが報告した。
「公都中央広場、市庁舎前、三市場、河港倉庫前、街道料金所前。いずれも祈祷を名目とした通行占有または国費支出要求です」
「正規の礼拝所は」
ステファニアが尋ねる。
「通常通りです。既存のメシア教礼拝所からは、今回の行動へ関与しないとの書面が二件。問い合わせが五件。困惑が三件」
「困惑」
リシアは小さく繰り返した。
「信仰を守りたい人と、信仰を使いたい人を一緒にしないでください」
エレナが言った。
声は硬かった。
彼女自身、祈りを持つ側の人間だった。
「そこを混ぜられると、止まれる人まで戻れなくなります」
「はい」
リシアは頷いた。
下の広場で、男の声が大きくなる。
「ファーランドは信仰を弾圧するのか」
市庁舎の扉が開いた。
出てきたのは、ファーランド大公家の老行政官だった。
兵ではない。
剣も持っていない。
書類を持っていた。
「公都広場使用に関する行政見解を告知する」
声はよく通った。
祈っていた者達の一部が顔を上げる。
声を張っていた男は、さらに大きく息を吸った。
「祈る自由は、これを妨げない」
広場が少し静かになった。
「私有地、許可済み礼拝所、ならびに通行を妨げない範囲での個人または少人数の祈りは、従来通り自由である」
老人が頷いた。
魚売りの婦人も、少しだけ肩の力を抜いた。
「ただし、公共広場、街道、市庁舎前、河港、料金所、避難所、施療施設前の占有は許可制である。無許可の長時間占有、通行妨害、営業妨害、行政窓口の封鎖は認めない」
「弾圧だ」
男が叫んだ。
老行政官は、読んでいた紙から目を離さない。
「国費による特定宗派専用礼拝所の建設は行わない。国費で建てる施設は、公の目的に供される。礼拝を行うなら、宗派を限定しない公共祈祷室、災害時避難所、施療支援室など、公共用途を満たす施設として別途審査する」
ステファニアが、回廊の上で小さく息を吐いた。
「実に普通です」
「普通を通すのは、時々大変ですわ」
アリシアが扇を閉じたまま言った。
老行政官の告知は続く。
「寄進は任意である。行政徴収、税、通行料、営業許可料へ読み替えることを禁じる。寄進しない者を異端、背信、非信徒として公共サービスから排除することを認めない」
「信徒の保護を拒むのか」
「信徒保護を名目とする武装集会、無許可募金、名簿徴収、寄進強要は取り締まり対象とする」
男の顔色が変わった。
名簿徴収。
その言葉に反応した者が、広場の端に数人いた。
クラウディアが視線を動かす。
「記録しました」
「捕まえますか」
セラが階段下から見上げた。
「今は、逃げ道を塞がないで」
リシアが答えた。
「逃げ道ですか」
「戻れる人まで、追い込まないように」
セラは少し考え、それから頷いた。
「分かりました」
老行政官は、最後の紙を開いた。
「聖女の名を用いる文書、寄進、巡行、帰還勧告、礼拝堂建設要求については、本人意思確認番号、発行時刻、受取人、使用目的の照合を要する。本人意思と一致しない場合、ファーランド公国はこれを公的根拠として扱わない」
広場の男が、そこで初めて言葉を詰まらせた。
彼は、聖女の名を掲げるつもりだった。
だが、本人意思確認番号を持っていない。
「祈りたいのでしたら、祈りなさいませ」
回廊の上で、アリシアが静かに言った。
下へ届く声ではない。
けれど、リシアには聞こえた。
「ですが、人の道と財布を祭壇にしてはなりませんわ」
リシアは、深く息を吸った。
「私からも、言います」
アインが横を向いた。
「大丈夫か」
「はい」
リシアは階段を下りた。
セラが一歩後ろに付く。
広場の視線が、リシアへ集まった。
ファーランド公国公女。
その名は、今この広場では行政官の紙よりもよく届く。
リシアは、祈っている者達を見た。
その中には、不安そうな若い母親もいた。
老人もいた。
ただ声の大きい男に従っているだけの者もいた。
リシアは、男ではなく、その人達へ向けて言った。
「祈ることを止めるつもりはありません」
広場の空気が止まる。
「ですが、道を塞ぐこと、商いを止めること、国費を特定の信仰へ渡すことを、祈りとは扱いません」
男が口を開いた。
「公女殿下は、信仰の自由を」
「祈りたい方は、祈ってください」
リシアは遮らなかった。
ただ、同じ高さで続けた。
「荷車を待たせている方も、子どもの手を引いている方も、祈りを奪われる必要はありません。だから、道を空けてください。寄進を断った方を責めないでください」
「それでは、聖女を迎える礼拝堂が」
「本人が頼んでいません」
リシアの声が、そこで少しだけ強くなった。
「聖女の名で何かを求めるなら、本人の意思を確認してください。眠っている者の沈黙も、遠くにいる者の名も、あなたの許可証ではありません」
広場の端で、誰かが膝を上げた。
一人。
二人。
祈っていた者達の一部が、ゆっくりと通路を空け始める。
魚売りの婦人が、荷車を押した。
若い母親は子供の手を引いて、噴水の横から芝生の端へ移動した。
まだ祈っている。
ただ、道は空いた。
声を張っていた男だけが、広場の中央に残った。
「これは、弾圧だ」
「いいえ」
リシアは答えた。
「祈りは止めていません。道路占有を止めています」
老行政官が、同じ文言を記録官へ示した。
記録官が頷く。
その一文は、広場告知の末尾へ加えられた。
◇
『公都中央広場、通行回復』
トトの声が、貸与邸の作業室へ戻った一同へ届いた。
『同時発生七箇所のうち、四箇所で自発的解散。二箇所で通行部分のみ開放。一箇所、河港倉庫前で名簿徴収を継続』
「武装は」
アインが尋ねた。
『確認されていません。ただし、名簿徴収者の一名が未登録巡礼守護会の受領確認者と同一系統の連絡符を保持』
ステファニアが扇を動かした。
「受領者保護と、工作員分離を同時に。祈っていた方を協力者扱いしないことを明記してください」
「名簿を取っていた者は」
クラウディアが問う。
「任意同行要請。拒否した場合は、寄進強要と個人情報無許可収集として通常法で処理します」
リシアが言った。
自分で言ってから、少しだけ驚いた顔をした。
ステファニアが微笑む。
「今のは、よい行政判断です」
「普通のことを言っただけです」
「普通のことを、騒ぎの中で普通に言える方は貴重です」
アリシアは何も言わず、閉じた扇で円卓を一度だけ叩いた。
『第三聖遺物庫前、正規警備到着』
トトの表示が切り替わる。
白い扉の前に、正規警備の印が並んだ。
『工具使用者、退去命令を拒否。未登録巡礼守護会六名のうち三名が武器を床へ置きました。二名が後退。一名が司祭の後方へ移動』
「止められるか」
アインが言った。
『正規警備で対応可能。ハイランダー投入不要』
「なら、入れない」
アインは短く答えた。
リシアは、表示の中の一人を見た。
槍を床へ置いた若い男。
彼は、何度も自分の腕章を見ていた。
「あの人は」
「祈りに来ただけだと聞かされた方ですわね」
アリシアが言った。
「保護対象ですか」
「少なくとも、今は」
リシアは頷いた。
「武器を置いた人は、正規記録へ名前を残して、帰れる道を。工具を使った人と、命じた人は別に」
ステファニアが記録を分ける。
武器を置いた者と、後退した者。
命じた者と、工具を使った者。
旧鍵を提示し、登録番号を持たないまま命じた者。
同じ場所にいても、同じ罪ではなかった。
『第三庫前、工具使用停止』
表示の中で、工匠風の男が床へ押さえられた。
乱暴ではなかった。
腕を壊さず、工具を離させる。
ヴァイス達が見れば、たぶん頷く。
アインはそう思った。
『司祭二名、退去命令を拒否。保管院長へ口頭で解任を通告』
「解任権限は」
クラウディアが聞いた。
『ありません』
「記録」
『記録済み』
白い扉は、開かなかった。
扉の前に残った工具痕から、旧鍵の照合不能、登録番号の欠落、本人意思不一致、退去拒否、保管院長への無権限解任通告まで、開けようとした痕跡だけが記録へ積まれていく。
◇
正教国中央大聖堂の正規記録室では、年嵩の司祭がまだ息を整えていた。
彼は、偽勅書草稿の作成経緯を提出したばかりだった。
そこへ、第三聖遺物庫からの緊急記録が届く。
続いて、ファーランド公都広場の行政告知写し。
さらに、未登録巡礼守護会三箇所の受領確認。
河港倉庫前での名簿徴収記録。
年嵩の司祭は、机の端へ手を置いた。
指先が白くなる。
「間に合わなかった」
隣の記録修道士が首を横へ振った。
「いいえ」
彼は、第三庫前の記録を指した。
「扉は開いていません」
年嵩の司祭は、その一文を見た。
扉は開いていない。
だが、何が扉を開けようとしたかは、すべて残っている。
記録修道士は、封蝋を手に取った。
「これは、教皇庁正規監査へ上げます」
「教皇猊下へ届くか」
「止める理由がありません」
年嵩の司祭は、封蝋が押されるまで、その一文から目を離せなかった。
◇
貸与邸の作業室で、リシアは広場の記録をもう一度読んだ。
そこに書かれているのは、祈りを止めず、道を塞がせず、国費を特定宗派へ渡さず、寄進を任意のものとして扱い、聖女の名を本人意思と照合するという、ごく当たり前のことばかりだった。
だが、その当たり前を一つずつ書かなければ、誰かが祈りの名で道を塞ぐ。
誰かが財布を開けようとする。
誰かが扉へ工具を当てる。
「扉って、いろいろあるのですね」
リシアが言った。
「物の扉だけじゃない」
アインが答えた。
「はい」
リシアは、第三聖遺物庫の表示を見る。
扉は閉じている。
公都の広場では、荷車がまた動き始めている。
祈りの声は、まだ残っていた。
ただ、道の端へ移っていた。
それでよかった。
祈る者と、商う者と、通る者が、同じ広場に戻っていた。
どれか一つが、他のすべてを押し退ける場所ではなかった。
リシアは、自分の扇を閉じた。
「守ったのは、扉ではなくて、開け方だったのですね」
アリシアが、少しだけ微笑んだ。
「ええ」
白い扉は開かなかった。
広場の道は開いた。
そして、正規記録室へ向かう細い線だけが、静かに太くなっていた。




