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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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幕間二十八 防壁の皇妃

幕間二十八 防壁の皇妃


 それは、アインが生まれるおよそ百年前の記録だった。


 ベルカ魔導帝国の皇都ベルンは、まだ空へ届いていた。


 その日は、帝国建国千年の記念式典のただ中だった。


 皇都の大通りには白と金の布が渡され、記録塔の外壁には歴代皇帝の名が光で浮かび、空中庭園では祝典用の魔導灯が昼のうちから試験点灯を繰り返している。各州から集められた代表団、軍務局の儀仗隊、技術院の展示船、教会区画の聖歌隊が、皇都のあちこちで決められた順序を待っていた。


 千年。


 それは、帝国が自分自身をまだ永続するものとして語るための日だった。


 白い塔が雲を裂き、環状の航路灯が夜でも昼のように輝いている。皇都上空には輸送船が列を作り、内港へ降りる船と、外郭の軍港へ向かう船が、互いの航路を一度も乱さずにすれ違っていた。


 大地側では、魔導列車が地下へ潜り、地上へ出る。研究区画では魔力炉の低い唸りが途切れず、記録塔では公文書と軍務記録が毎時更新されている。


 帝国は疲弊していた。


 それでも、皇都はまだ帝国だった。


 皇帝は、その皇都を見下ろす執務室で、三枚の報告を並べていた。


 一枚目は、教会区画へ搬入された聖具の一覧。


 二枚目は、皇都中枢魔力炉周辺で観測された微細な干渉波形。


 三枚目は、皇都派遣司教から提出された聖別儀式申請書だった。


 どれも、それだけなら処理できる。


 教会区画へ聖具が運ばれることは珍しくない。まして建国千年祭の最中である。聖歌隊、祝福式、慰霊典礼、皇祖へ捧げる大祈祷。名目はいくらでもあった。


 魔力炉周辺の干渉も、皇都ほど大きな設備なら日々どこかで起きる。聖別儀式も、戦時下で不安を抱える民へ祈りの場を与えるためなら、許可する理由はあった。


 だが、三枚を重ねると、形が変わる。


 聖具の数量は典礼規模に合わない。


 干渉波形は祈祷具ではなく、空間固定具に近い。


 聖別儀式の対象は、礼拝堂ではなく、魔導炉、記録基盤、転移網、管制柱だった。


 皇帝は指先で、申請書の一行をなぞった。


 邪悪なる魔導科学の穢れを祓い、神意により皇都中枢を清める。


 美しい文だった。


 だが、美しすぎる。


「中止を命じますか」


 侍従長が尋ねた。


 皇帝は答えなかった。


 中止を命じる根拠は薄い。教会は反発する。皇都の民は、皇室が祈りを奪ったと受け取る者もいるだろう。


 何より、皇帝自身もまだ確信していなかった。


 何が起きるのか。


 誰が、どこまで知っているのか。


 司教が何を組んでいるのか。


 それを言葉にできるほど、証拠は揃っていなかった。


 ただ、皇都の底で、見えないものが軋んでいる。


 それだけは分かった。


「申請は差し戻す」


 皇帝は言った。


「理由は」


「安全確認不足。魔力炉、記録基盤、転移網、管制柱を同時対象にする儀式は、典礼局単独では扱えない。技術院、軍務局、皇室記録局の三者立会いを求める」


「教会は時間稼ぎと受け取ります」


「時間を稼ぐための差し戻しだ」


 侍従長は黙って頭を下げた。


 皇帝は窓の外を見た。


 空に輸送船の列が見える。


 その向こう、竜山脈南端へ向かう幹線航路があった。


 ファーランド。


 ファーランド西側領境。


 竜山脈西山麓。


 暗黒の森に面した厚い防壁。


 魔物の大発生を受け止め、東西の交易を途切れさせない、竜山脈南端の骨。


「正皇妃の帰郷準備を進めろ」


 侍従長の顔が、わずかに変わった。


「予定より早うございます」


「静養だ」


「ご懐妊中の静養であれば、皇都内でも」


「皇都ではない」


 皇帝は短く言った。


「ファーランドへ帰す」


 侍従長は、そこで初めて書類から顔を上げた。


「陛下」


「大げさにするな。帰郷と静養。随行は必要最低限。護衛はファーランド側へ引き継ぐ。皇室記録官を一名付ける」


「正皇妃殿下へ、どこまで」


「何も告げるな」


 声は静かだった。


「知れば、証人になる。証人になれば狙われる」


「しかし」


「知らなければ、守れる」


 侍従長は、反論しなかった。


 反論できなかった。


 皇帝は、三枚の報告を重ねた。


 まだ何も起きていない。


 けれど、何も起きていないうちにしか、外へ出せないものがあった。


     ◇


 正皇妃は、その日の夕刻、帰郷の命を受けた。


 命という形ではなかった。


 皇帝が自ら、私室へ来た。


 白い外套を脱がず、長椅子の前で足を止める。正皇妃は針仕事の手を止めた。腹部を締めつけない柔らかな衣の上へ、細い布を置いている。


「ファーランドへ戻れ」


 皇帝は言った。


 それだけだった。


 正皇妃は、しばらく夫を見た。


「静養、ですか」


「そうだ」


「いつまで」


「長くなる」


 針が布から抜けた。


 正皇妃は、手元を見た。


 小さな産着だった。


 まだ袖も付いていない。


「わたくしに、何かを知らせないおつもりですね」


 皇帝は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 正皇妃は立ち上がろうとした。皇帝が一歩近づき、手を差し出す。彼女はその手を借りなかった。自分で立った。


「皇都に、残るべきではありませんか」


「残るな」


「皇妃です」


「母でもある」


 正皇妃の目が、わずかに揺れた。


 皇帝は腹部を見なかった。


 見れば、言葉が変わる。


 命令ではなく、願いになる。


 それを避けるように、彼は正皇妃の目だけを見た。


「竜山脈南端の防壁は生きている。輸送船団も動く。ファーランドなら、皇都が沈んでも道が残る」


「皇都が沈む、とお考えなのですね」


「考えていない」


「では」


「沈まないために動く」


 正皇妃は、夫の言葉を聞いた。


 嘘ではない。


 けれど、全部ではない。


「戻れと、おっしゃるのですね」


「戻るな」


 皇帝は言った。


 正皇妃は、そこで息を止めた。


 帰れ、ではなかった。


 戻るな。


 皇都へ。


 夫のそばへ。


 自分の席へ。


 正皇妃は、産着の未完成の袖を見た。


 それから、皇帝へ礼をした。


「承知いたしました」


 皇帝は、礼を受けた。


 夫婦の別れではなかった。


 皇帝と正皇妃の、命令と受領だった。


 だから二人は抱き合わなかった。


 名を呼ばなかった。


 ただ、正皇妃が私室を出る直前、皇帝が一度だけ言った。


「西の空は、まだ明るい」


 正皇妃は振り返らなかった。


「ならば、消さずにおきます」


 扉が閉じた。


     ◇


 その頃のファーランドは、後世の公国ではなかった。


 旧ファーランド辺境伯領。


 竜山脈南端の防壁と、東西交易の結び目を預かる大領だった。


 現代のリシアが知る西の大森林は、まだすべてを呑み込んではいない。森は深く、魔物は出る。だが、人の町があり、畑があり、工房があり、港があった。


 ファーランド西側領境には、巨大な防壁が伸びている。


 灰白色の壁は、地形に沿って折れ曲がり、谷を塞ぎ、丘陵を越え、竜山脈西山麓へ達していた。特に暗黒の森に面する区画は厚い。二重の外壁、内側の退避路、魔導灯台、詰所、兵站倉庫、負傷者を受け入れる施療棟。


 防壁は、魔物を殺すためだけのものではなかった。


 人を逃がすためのものだった。


 暗黒の森は、もともとその名では呼ばれていなかったという。


 古い地図には別の名が残る。


 だが、森の奥で夜でもないのに魔力観測が黒く沈むようになり、木々の間から戻らない調査隊が増え、獣とも魔物ともつかない影が防壁へ寄るようになってから、誰も古い名を口にしなくなった。


 暗黒の森。


 避けるべき森。


 その森を避けるように、北西へ街道が伸びている。街道は他領と陸で繋がっていたが、大量輸送の主役ではない。重い穀物、金属材、医薬品、補修部品、避難民をまとめて動かすのは、魔導輸送船だった。


 空を行く船。


 川を下る船。


 沿岸を回る船。


 地上街道は、近距離輸送と連絡、緊急時の退避、軍の展開に使われる。


 だからファーランドの人々は、道を軽く見なかった。


 大きな船が止まった時、最後に人を運ぶのは道だからだ。


 正皇妃の船がファーランド内港へ入った時、港はいつも通り動いていた。荷下ろしの鐘が鳴り、補修工房の火が揺れ、兵站係の声が倉庫前を走り、港湾施療所へは防壁負傷者が運び込まれている。


 そこへ皇室旗を掲げた船が降りた。


 旧ファーランド辺境伯は、港まで出迎えた。


 ガルフではない。


 その名は、後世の記録では薄い。


 だが、その日、皇都から戻った正皇妃を迎えた当主は、膝をつく前に防壁の方角を見た。


 警報は鳴っていない。


 それを確認してから、彼は膝をついた。


「お帰りなさいませ、殿下」


「帰郷です」


 正皇妃は言った。


「静養でもあります」


「はい」


 辺境伯は、理由を問わなかった。


 問えば、答えを求めることになる。


 答えがないまま人を守ることに、ファーランドは慣れていた。


     ◇


 皇都ベルンでは、差し戻された申請書が戻っていた。


 戻したのは、皇都派遣司教だった。


 文面は丁寧だった。


 皇室、技術院、軍務局への敬意も書かれている。戦時下における民心の安定、祈りの必要性、邪悪な魔導科学がもたらす不安を取り除く義務。


 どれも、もっともらしかった。


 ただし、儀式準備は止まっていなかった。


 教会区画の地下礼拝堂では、床石が外されている。


 白い石の下に、古い金属板が敷かれていた。司教はそれを聖なる陣材と呼んだ。


 実際には、空間座標を固定するための金属だった。


 典礼士達は祈りの文句を唱えている。


 工匠達は、それが何であるか知らず、図面通りに支柱を立てている。


 司教は、祭壇の前で古い写本を開いた。


 そこには、かつての奇跡が記されている。


 異界より光が降り、神敵が姿を現し、信仰薄き者は試練の中で倒れ、信仰厚き者は神の名を唱えて立ち上がった。


 美しい物語だった。


 失敗した召喚は、奇跡へ。


 流入した魔物は、神敵へ。


 人口を半ばまで削った戦争は、信仰を試す百年へ。


 儀式を行った者の責任は、邪悪な魔導科学の罪へ。


 改竄された記録は、時を経るほど聖典に近づく。


 司教は、それを疑わなかった。


 彼にとってベルカの魔導科学は、人が神の座へ近づこうとする傲慢だった。


 その傲慢を焼くためなら、神意を招くことは正しい。


 彼は魔物を呼ぶつもりではなかった。


 災厄を起こすつもりでもなかった。


 救うつもりだった。


 理解していないものを裁けると思った時点で、すでに遅かった。


「神の門を」


 司教が言った。


「皇都の中枢へ」


 祈りの声が重なる。


 金属板が熱を持つ。


 魔力炉から漏れる微細な波が、陣材へ触れた。


 記録基盤の同期信号が、転移網の補助線と重なる。


 管制柱の安全遮断が、典礼陣の外側から押し返される。


 司教は、光を見た。


 白い光だと思った。


 違った。


 白く見えたのは、境界が裂ける瞬間に、皇都側の魔力が一気に吸われたためだった。


 門ではない。


 扉でもない。


 穴だった。


 呼んだのではない。


 裂いた。


     ◇


 皇帝は、最初の警報を執務室で聞いた。


 教会区画地下。


 空間境界異常。


 転移網同期暴走。


 魔力炉負荷上昇。


 記録基盤、保護層断裂。


 報告は重なった。


 皇帝は席を立った。


「中枢遮断」


「既に実行中です」


「転移網を皇都外郭から切り離せ」


「軍務局承認が」


「皇帝命令」


 侍従長は走った。


 床が揺れる。


 窓の外で、航路灯が一列消えた。


 輸送船が傾く。港湾管制が手動へ切り替わり、警報灯が赤く回る。


 皇帝は、教会区画の表示を見た。


 地下礼拝堂を中心に、黒い点が広がっている。


 火ではない。


 爆発でもない。


 空間が、そこだけ別のものに上書きされている。


「陛下、正皇妃殿下の船はファーランドへ到着済みです」


 その報告だけ、皇帝は最後まで聞いた。


「回線を」


「どちらへ」


「ファーランド」


 通信士は、震える手で接続を取った。


 ノイズ。


 赤い警告。


 切断。


 再接続。


 一瞬だけ、映像が開いた。


 正皇妃が映った。


 背景はファーランドの石壁。窓の外に、港の灯りが見える。


 彼女は皇帝を見た。


 状況を問わなかった。


 皇帝も説明しなかった。


「戻るな」


 彼は言った。


 それだけだった。


 正皇妃は、一拍置いて頷いた。


「承知しました」


 通信が乱れる。


 皇帝は、もう一言を飲み込んだ。


 夫としての言葉だった。


 父としての言葉だった。


 だが、回線が切れる直前、彼が言ったのは別の言葉だった。


「竜山脈南端を任せる」


 正皇妃の返答は、音にならなかった。


 ただ、彼女が礼をしたのが見えた。


 通信はそこで途絶えた。


 皇帝は表示の消えた空間を見た。


 それから振り返る。


「皇都外郭の避難経路を開け。教会区画を中心に封鎖。空路をファーランド方面へ向けるな。穴が追う」


「穴が、ですか」


「向こう側に座標を覚えられる」


 皇帝は、初めてその言葉を口にした。


 こちらが開けたつもりのものを、向こう側も見つける。


 その危険だけは、分かった。


 皇都ベルンの空が、黒く沈んだ。


 建国千年を祝うために掲げられていた白と金の布が、警報灯の赤に染まっていく。


 聖歌隊の声は、避難誘導の鐘に呑まれた。


     ◇


 ファーランドへ、皇都崩壊の第一報が届いたのは夜だった。


 正皇妃は眠っていなかった。


 眠れるはずがなかった。


 通信室には、辺境伯、港湾司令、防壁総監、輸送船団長、施療院長、記録官が集められていた。


 誰も大声を出していない。


 大声を出しても、皇都は戻らない。


「皇都ベルン、全域通信途絶」


 記録官が読み上げた。


「ファーランド方面航路上の船、十七隻が管制喪失。うち九隻は手動避難へ移行。三隻、消息不明。五隻、ファーランド方面へ進路変更を希望」


「受け入れます」


 正皇妃が言った。


 辺境伯が一瞬だけ彼女を見た。


 まだ、彼女は皇都から帰郷した皇妃だった。


 だが、その声はもう違っていた。


「港湾司令」


「はい」


「内港の軍需区画を半分空けてください。民間船を追い出してはなりません。避難船は負傷者と子供を先に降ろします。積荷は没収しません。記録して預かります」


「承知しました」


「輸送船団長」


「ここに」


「皇都方面へ戻る船を禁じます」


 船団長の顔が強ばった。


「救助に」


「戻れば、穴へ近づきます。皇都近傍へ入る船は、救助船ではなく次の被害になります」


 言いながら、正皇妃の手が腹部へ触れた。


 一瞬だけだった。


 すぐに離れる。


「救助は、外郭から逃れた船と地上避難路へ向けます。皇都中枢へは入らない」


「承知しました」


「防壁総監」


「はい」


「ファーランド西側領境の警戒を一段上げてください。皇都の穴が魔物を呼ぶなら、竜山脈南端にも圧が来ます」


「暗黒の森側を厚くします」


「街道は閉じないでください」


 防壁総監が目を上げた。


「閉じねば、流入します」


「閉じれば、逃げる者が死にます」


 正皇妃は言った。


「関所は止めるために使わない。積荷、負傷者、魔力汚染、追跡反応を確認するために使います。身分で退けてはなりません」


 部屋に沈黙が落ちた。


 皇都は消えた。


 その直後に、彼女は道を閉じるなと言った。


 辺境伯が、深く頭を下げた。


「ファーランドは、その命を受けます」


 正皇妃は頷いた。


 その時、遠くで鐘が鳴った。


 防壁警報ではない。


 施療棟の呼び出しだった。


 正皇妃の腹部に、痛みが走った。


 彼女は机の縁を掴んだ。


 施療院長が駆け寄る。


「殿下」


「続けなさい」


「しかし」


「続けなさい」


 声は震えていなかった。


 だが、指は白かった。


 その夜、皇都ベルンの通信途絶記録と、ファーランド施療棟の分娩記録は、同じ時刻帯に並んで残った。


     ◇


 皇子は、夜明け前に生まれた。


 小さな声だった。


 けれど、施療棟の石壁に確かに響いた。


 同じ時刻、ファーランド西側防壁の暗黒の森区画で警報が鳴っている。


 魔物の大発生ではない。


 前兆。


 森の奥で、魔力観測が黒く沈み、獣道が一斉に消えた。


 防壁総監は、施療棟へ伝令を出すべきか迷った。


 迷った末、出した。


 伝令は廊下で止められなかった。


 正皇妃は、まだ横になっていた。額に汗が残り、髪は乱れている。腕の中には、生まれたばかりの皇子がいた。


 伝令は跪いた。


「暗黒の森区画、前兆警報。防壁総監より、二重外壁の内側へ予備兵を入れる許可を」


 施療院長が振り返った。


「今は」


「許可します」


 正皇妃が答えた。


 声はかすれていた。


 だが、命令だった。


「民間工房から補修材を徴発する場合、記録と後払い証を必ず残してください。避難町の倉庫は開けてよい。ただし食糧を軍だけで囲わないこと」


「承知しました」


「北西街道は」


「まだ開いております」


「閉じないで」


 皇子が泣いた。


 正皇妃は、その声を止めなかった。


 防壁警報も止めなかった。


 二つの音を聞いたまま、彼女は次の命令を出した。


「皇室記録官を呼んでください」


     ◇


 最初の布告は、朝に出された。


 文面は短い。


 帝国建国千年記念式典中、皇都ベルンとの通信途絶を確認。


 正皇妃は皇子を出産。


 皇子を次期皇帝として保護。


 正皇妃は摂政として、竜山脈南端防壁、避難路、輸送船団、残存連絡網の維持を指揮する。


 その下に、五つの命令が続いた。


 防壁内の街道は、避難民と負傷者を優先する。


 輸送船は、軍需だけに使わない。


 関所は、出自ではなく積荷、負傷、汚染、追跡反応を確認する。


 祈る者を追わない。


 道を塞ぐ者は、祈りの名であっても退かせる。


 辺境伯は、その布告を読んだ。


 読んで、少しだけ笑った。


「皇都が落ちた朝に、道の話ですか」


「皇都を取り戻すにも、道が要ります」


 正皇妃は答えた。


 彼女は椅子に座っていた。


 立てないのではない。


 施療院長と侍女達が、立つことを許さなかった。


 膝の上には、眠った皇子がいる。


 机の上には、防壁図、港湾受入表、輸送船燃料残量、避難町の収容可能数、皇都方面からの途絶報告が並んでいた。


 玉座ではない。


 防壁司令室に近い部屋だった。


「皇都奪還軍を編成せよ、ではないのですね」


 辺境伯が言った。


「編成します」


「ですが、第一命令ではない」


「奪還する前に、残った者を飢えさせれば、皇都は戻りません」


 正皇妃は防壁図を見た。


「皇子は旗印になります。けれど、旗は食糧を運びません。壁も直しません。船も動かしません」


 辺境伯は黙った。


「ですから、わたくしが命じます」


 眠っている皇子の手が、布を掴んだ。


 正皇妃はその手を見た。


 ほんの一瞬だけ、母の顔になる。


 次の瞬間には、摂政の声へ戻っていた。


「皇都奪還は掲げます。ですが、民を餓えさせてまで進みません。防壁を空にしてまで進みません。輸送船を軍だけで使い潰してまで進みません」


「諸侯は弱腰と見るでしょう」


「構いません」


「教会は、信仰不足と言うかもしれません」


「祈りは止めません」


 正皇妃は言った。


「ですが、祈りで道を塞がせません」


 辺境伯は、深く頭を下げた。


「では、ファーランドは道を守ります」


「防壁も」


「はい」


「船も」


「はい」


「泣いている子も」


 辺境伯は、眠る皇子を見た。


「はい」


 その日から、正皇妃は防壁の皇妃と呼ばれ始めた。


 本人が望んだ名ではない。


 正式な称号でもない。


 だが、兵士達はそう呼んだ。


 皇都を失った後、最初に防壁へ出た日、彼女は玉座へ座らなかった。


 鎧をまとい、まだ産後の顔色を隠しきれないまま、暗黒の森を望む防壁の上へ立った。


 その手には、皇室儀礼用ではない大剣があった。


 彼女はそれを抜かなかった。


 防壁の石床へ、まっすぐ突き立てた。


 進むためではない。


 ここから退かないと示すためだった。


     ◇


 百年戦争は、一日で始まったわけではなかった。


 皇都ベルンの穴から流れ込んだものは、最初、形を持たなかった。


 影。


 声。


 魔力反応だけの群れ。


 それから、肉を持つ魔物が現れた。


 皇都周辺の避難路が崩れ、外郭都市が沈み、魔導列車の地下線が途切れた。神敵と呼ばれたものは、皇都からだけ出たのではない。古い召喚痕、観測網の傷、教会が奇跡として保存していた小さな儀式場からも、同じ種類の歪みが滲み出した。


 正皇妃は、すべてを救えなかった。


 救えない場所を、いくつも決めた。


 暗黒の森に近い外側倉庫を捨てた。


 西端の牧草地を焼いた。


 北西街道の古い宿場を、三日で空にした。


 輸送船団のうち、二隻を軍用から施療船へ改装したため、皇都方面へ送れる兵員は減った。


 残存軍の将の一人は、それを非難した。


「今こそ皇都へ進むべきです」


 防壁司令室で、彼は地図を叩いた。


「皇子殿下を戴き、全軍で進めば、諸侯は従います。今退けば、帝国は崩れます」


「進む道は」


 正皇妃が問う。


「あります」


「補給は」


「現地で」


「現地とは、避難民の倉庫ですか」


 将は黙った。


 正皇妃は地図を見た。


 皇都へ向かう線は、まだ残っている。


 だが、その線の上には、避難民、負傷兵、壊れた輸送車、魔力汚染、追跡反応が重なっていた。


「皇都奪還は掲げます」


 彼女は繰り返した。


「ですが、奪還の名で帰る道を潰す軍は、皇都へ着く前に帝国を失います」


「では、いつまで守るのです」


「進める道を作るまで」


「それは後退です」


「いいえ」


 正皇妃は皇子の眠る隣室を見なかった。


 見れば、声が変わる。


「戦線を、切らせないための停止です」


 その命令で、多くの者が救われた。


 同じ命令で、多くの者が恨んだ。


 防壁の皇妃は、恨みを記録から消させなかった。


 撤退命令。


 倉庫放棄。


 街道閉鎖ではなく、避難完了後の封鎖。


 輸送船の軍用転用拒否。


 祈祷団体による関所占拠の解除。


 すべて記録に残した。


 誰が反対したかも。


 誰が泣いたかも。


 どの命令で、どの町が助かり、どの倉庫が失われたかも。


 彼女は、勝利の記録だけを残さなかった。


 後の者が同じ道へ立った時、都合のいい英雄譚だけでは判断できないからだ。


     ◇


 現代の貸与邸で、その記録は卓上へ開かれていた。


 アリシア・ファーランドが所有する鍵スフィアが、円卓の中央に置かれている。


 メイが両手で運び、静かに台座へ載せたものだった。


 表示は三層に分かれていた。


 上層には、皇都ベルンの崩壊記録。


 中層には、ファーランド西側防壁の命令記録。


 下層には、現代のメシア教召喚学生関連証言と、第三聖遺物庫不正開庫記録、教皇庁正規監査へ上がった文書群。


 リシアは、息をするのを忘れそうになった。


 記録は古い。


 古いのに、近い。


 広場で道を塞いだ者達。


 国費で特定宗派専用礼拝堂を建てさせようとした者達。


 祈りの名で寄進を強いた者達。


 それと、千六百年前の布告が、同じ線の上に置かれている。


「この記録は、父の時代より百年ほど古いものですわ」


 アリシア・ファーランドが言った。


 声は静かだった。


「ガルフ卿より前、ですね」


 ステファニアが確認する。


「ええ。父はこの時代の人間ではございません。けれど、父が守ろうとしたものは、ここから続いております」


 アインは何も言わなかった。


 ただ、防壁布告の一行を見ていた。


 祈る者を追わない。


 道を塞ぐ者は、祈りの名であっても退かせる。


 リシアは、その一行を読んだ。


 自分が広場で言った言葉が、急に自分だけのものではなくなった気がした。


 誰かに言わされたわけではない。


 けれど、同じように道を見た人が、ずっと前にもいた。


「ファーランドは」


 リシアは小さく言った。


「昔から、祈りを止めなかったのですね」


「止められるものではありませんから」


 アリシア・ファーランドが答えた。


「ですが、祈りのために道を奪わせもしなかった」


 クラウディアが、別の記録を開いた。


 皇都派遣司教の聖別儀式申請。


 教会側の後世記録。


 百年戦争初期の説教断片。


 そして、現代のメシア正教国による異世界召喚関連証言。


 聖女アリシアは、表示の前で両手を組んでいた。


 扇は持っていない。


 白い衣の胸元にある聖印へ、指が触れている。


 その所作は祈りに近い。


 けれど、目に祈りの柔らかさはなかった。


「過去の失敗を、神の試練へ置き換えています」


 ステファニアが言った。


「召喚失敗は、聖なる光。流入した魔物は、神敵。人口が削られた戦争は、信仰を試す百年。責任は、ベルカの魔導科学へ」


「責任の所在が、全部外へ逃げていますね」


 リシアは呟いた。


 トトのアバターが、卓上表示の横へ現れた。


 小さな姿のまま、声だけが硬い。


「召喚ではありません」


「トト?」


「境界層への無許可穿孔です。向こう側の構造、圧力、侵略性、座標記憶能力を確認せず、こちら側の座標だけを固定して穴を開けています」


 表示が変わった。


 白い線がこちら側。


 黒い層が境界。


 その向こうに、形の定まらない赤い領域。


 穴が開く。


 赤い領域から、細い線がこちらへ伸びる。


「呼んだのではありません。裂いています」


 マキナの声が続いた。


「さらに悪いことがあります。一度開いた座標は、向こう側にも覚えられます」


 舞が、息を飲んだ。


 彼女は異世界召喚という言葉を知っている。


 物語の中では、扉のように扱われる。


 呼ばれて、行く。


 力を得る。


 戦う。


 帰る。


 けれど、目の前の表示は違った。


 穴。


 拉致。


 兵器化。


 座標を覚えられる傷。


 そこに冒険の輪郭はなかった。


「じゃあ、私達の世界から呼ばれた子達も」


 舞の声が、途中で止まる。


 聖女アリシアが、静かに頷いた。


「奇跡として呼ばれたのではありません」


 胸元の聖印へ触れた指が、少しだけ強くなる。


「連れて来られたのです」


 八雲は何も言わなかった。


 紅緒も黙っている。


 二人の沈黙は、舞へ何かを言わせないためではなかった。


 その重さを、途中で軽くしないためだった。


「神の名を使って、世界に穴を開けていたのですね」


 聖女アリシアの声は静かだった。


 けれど、部屋の温度が一段下がったように、リシアには感じられた。


「祈りは」


 聖女アリシアは続けた。


「失敗の名前を消すためのものではありません」


 誰も、すぐには言葉を返さなかった。


 アリシア・ファーランドの扇も、動かなかった。


 ステファニアの指は、表示の端で止まっている。


 クラウディアは記録を閉じない。


 アインだけが、短く言った。


「今もやっている」


 その一言で、過去の記録は現在へ戻った。


 メシア正教国は、過去に時空融合災害を起こした可能性がある。


 その記録を改竄し、奇跡と試練へ変えた可能性がある。


 そして現代でも、異世界から学生達を召喚し、勇者として力を与え、侵攻軍へ組み込んだ。


 懲りていない。


 学んでいない。


 あるいは、失敗したという記録そのものを、失敗として残していない。


「これは宗教問題ではありません」


 ステファニアが言った。


「国家安全保障の問題です。いえ、大陸全体の存続問題です」


「教皇庁正規側へ渡す情報は、どこまでにしますか」


 クラウディアが問う。


 アリシア・ファーランドは、少しだけ目を伏せた。


「すべてではございません」


「理由は」


「扱える者が限られます。過去の罪を突きつけることと、今の穴を塞ぐことは同じではありません」


 聖女アリシアが、ゆっくりと顔を上げた。


「信仰を守りたい者へ、世界を壊していたとだけ告げれば、その人達は折れます」


「では、伏せますか」


 リシアが聞いた。


 聖女アリシアは首を横に振った。


「いいえ。名を変えません。けれど、順番を間違えません」


 その言葉に、リシアは広場を思い出した。


 祈る人。


 通る人。


 商う人。


 寄進を断った人。


 祈りに来ただけだと聞かされていた巡礼守護会員。


 全部を一つにしなかった。


 今も同じなのだと思った。


 メシア教を一つの悪として潰せば、簡単に見える。


 だが、その中には祈る者がいる。


 救護を続ける者がいる。


 記録を残す者がいる。


 穴を開けた者と、祈った者を、同じにしてはいけない。


「まず、現在の召喚術式を止める」


 アインが言った。


「次に、記録を分ける。祈った者、命じた者、開けた者、隠した者」


「過去の改竄記録は」


 クラウディアが問う。


「消さない」


 アインは答えた。


「消せば、またやる」


 短い。


 けれど、その言葉の奥に、皇都ベルンの黒い空があった。


 リシアは、表示の中の防壁を見た。


 正皇妃は、皇都を救えなかった。


 すべての町を守れなかった。


 多くの倉庫を捨て、多くの道を一時的に塞ぎ、多くの者に恨まれた。


 それでも、彼女は記録を消さなかった。


 祈りを止めず、道を塞がせなかった。


 皇子を旗印にしながら、旗だけで人が生きられないことを知っていた。


「防壁の皇妃」


 リシアは、その名を小さく読んだ。


 記録上の正式称号ではない。


 兵士達が呼んだ名。


 防壁の前で命令を出し続けた人へ、誰かが付けた名。


 アリシア・ファーランドが、リシアを見た。


「リシア」


「はい」


「ファーランドは、対岸の東を奪わず、竜山脈南端の道と西側の壁を守ってきた家です。けれど、それは臆病だったからではございません」


 リシアは頷いた。


「はい」


 今なら、少し分かる。


 土地を取らないこと。


 道だけを求めること。


 祈りを止めず、道を塞がせないこと。


 それは弱さではない。


 何を守るかを、先に決めているからできることだった。


 卓上の表示で、防壁線が淡く光った。


 その向こうには、暗黒の森。


 防壁の内側には、生まれたばかりの皇子。


 その間に、正皇妃が立っている。


 玉座ではなかった。


 勝利の壇でもなかった。


 皇都を失った日に、彼女が立ったのは防壁の前だった。


 そして、その足元から伸びた道は、千六百年後の広場まで、まだ途切れていなかった。


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