第百五十六夜 坂の手前
第百五十六夜 坂の手前
第三聖遺物庫からの照会は、朝食より先に届いた。
貸与邸の小食堂には、焼いた薄パンと温かいスープが並んでいる。
セラは既に二枚目の薄パンへ手を伸ばしていた。
リシアは一枚目を半分ほど食べたところで、クラウディアが持ってきた封筒を見た。
ステファニアは、スープの匙を置いた。
アリシアだけが、紅茶を一口飲んでから封筒へ視線を向けた。
「正教国中央大聖堂、第三聖遺物庫管理窓口からです」
クラウディアが言った。
「保管対象に関係する現在存命の本人へ、緊急開庫申請に対する意思確認を求めています」
「存命の本人」
リシアが小さく繰り返した。
封筒の表には、認定聖女本人確認窓口と記されていた。
個人名はない。
それでも、誰を指しているかは明らかだった。
「ようやく、人へ尋ねることを思い出した方がいらっしゃいますのね」
アリシアはカップを置いた。
「開けてくださいませ」
照会文は短かった。
第三聖遺物庫所蔵、聖女名義告知認証具。
使用目的、聖女帰還勧告および聖女巡行告知。
申請者、正教国枢機卿一名、東方教区担当司教一名、宮廷礼拝所担当司教一名。
教皇庁登録番号、未記載。
典礼局承認、未確認。
保管院長立会い、未確認。
記録官立会い、申請中。
対象となる認定聖女本人の意思、未確認。
「最後が確認できないため、こちらへ来たのですね」
ステファニアが言った。
「はい」
クラウディアが答えた。
「保管規程上、認証具が特定個人の意思または巡行を証明する用途で申請された場合、本人が存命で確認可能なら、開庫前に本人意思を照会します」
「まともな規程です」
セラが薄パンを持ったまま言った。
「守られるなら」
アインが付け加えた。
食堂の空気が少しだけ変わった。
アリシアは照会文へ手を伸ばさない。
扇も開かなかった。
「回答は、一行で足りますわ」
「帰還を希望しない、と?」
リシアが尋ねた。
「いいえ」
アリシアは首を横へ振った。
「わたくしは、帰還勧告、巡行告知、救出要請のいずれも依頼しておりません。誰にも代理権を与えておりません。まずは、それだけです」
「認証具を開けるなとは書かないのですね」
「認証具は、わたくしの所有物ではございませんもの」
アリシアの声は柔らかかった。
「保管規程に従って開くなら、保管者の判断です。ですが、わたくしの意思を証明するためには使えません」
ステファニアが、照会文の余白へ回答項目を分けた。
本人意思。
代理権。
現在地。
救出の要否。
公開可能範囲。
ステファニアは、分けた項目を上から指先でなぞった。
「現在地は、ファーランド公国保護下まで」
「十分ですわ」
「救出の要否は、不要」
「ええ」
「この回答は、第三聖遺物庫だけへ返しますか」
アリシアは、そこで初めて扇へ手を伸ばした。
「いいえ」
閉じた扇の先が、照会文の宛先へ触れる。
「同じ文書を、全教区、修道所、施療院、奉仕会、王侯家礼拝所へ」
リシアが顔を上げた。
「勧告が届く前に、本人の否定を届けるのですか」
「否定だけではございません」
アリシアは微笑んだ。
「確認の仕方を、お渡しいたしますわ」
◇
朝食は、小食堂から隣の作業室へ移された。
セラの薄パンだけが、最後まで一緒に移動した。
円卓の中央には、アリシアが所有する鍵スフィアが置かれた。
指揮官級拡張視覚端末が、正教国の教区、修道所、施療院、奉仕会、王侯家礼拝所を表示する。
以前より、中央へ伸びる線は少ない。
礼拝と定時報告の線は残っている。
暗部への患者情報。
用途外転用が可能な寄進。
登録番号のない口頭指示。
教会倉庫の無断軍事利用。
それらは、既に多くの場所で切れていた。
『第三聖遺物庫への緊急開庫申請を確認』
トトが言った。
『申請内容は、保管規程に定める三者立会い、教皇庁登録番号、対象本人意思の三項目を満たしていません』
「拒否される可能性は」
ステファニアが尋ねた。
『現行手順が維持される場合、九十七パーセントです』
「残り三パーセントは」
『口頭命令、記録改変、保管者への圧力、鍵の不正取得、認証具を使用しない類似印の作成』
リシアの手が止まった。
「そこまでしますか」
『予測です』
トトは短く答えた。
『選択の代わりにはなりません』
ステファニアが、ほんの少しだけ目を細めた。
「覚えましたね」
『記録しています』
アリシアは、第三聖遺物庫の表示を扇で円卓の中央から外した。
「開庫を止める策は不要です」
「ですが、不正取得の可能性が」
リシアが言った。
「止めれば、別の庫を探します。認証具を使わず、似た印を作るかもしれません」
アリシアは、表示の外側へ細い枠を作った。
「大切なのは、開いたかどうかではございません。誰が、どの手順を飛ばして、何へ使ったかですわ」
「つまり、坂の手前まで道を明るくする」
ステファニアが言った。
「ええ」
「坂そのものは作らない」
「既に、ご自分達で作っていらっしゃいますもの」
アインが、二人を見た。
「押すのか」
「押しませんわ」
アリシアは即答した。
「追い風くらいは?」
ステファニアが、礼儀正しく尋ねた。
リシアがステファニアを見る。
アリシアは少し考えた。
「帽子が飛ばない程度なら」
「駄目です」
リシアが言った。
二人の扇が、同時に止まった。
「本人達の選択だと記録するのでしょう」
「もちろんですわ」
「でしたら、風も送らないでください」
アリシアとステファニアは、一度だけ視線を合わせた。
「承知しました」
二人が揃って答えた。
アインは、何も言わなかった。
クラウディアは記録欄へ、外部誘導なしと追記した。
◇
最初に作られたのは、聖女アリシア本人意思確認書だった。
わたくしは、正教国への帰還を求めておりません。
巡行、救出、移送、保護のいずれも依頼しておりません。
わたくしの意思を代理して告知する権限を、正教国枢機卿、司教、司祭、王侯家、ファーランド大公家、アークライトのいずれにも与えておりません。
今後、わたくしの名による文書を受領した場合、本人署名、本人意思確認番号、発行時刻、受取人を照合してください。
照合できない場合、従わず、破棄せず、受領時刻と送付経路を保全してください。
アリシアは文面を読み、最後の一行で扇を止めた。
「破棄しない、ですか」
リシアが尋ねた。
「破棄すれば、受け取った方が隠したと疑われます」
ステファニアが答えた。
「従わなくても、持っていたこと自体を罪にされないようにします」
「では、加えてください」
リシアは、自分の扇で文面の下へ空白を開いた。
「受領しただけでは協力者と見なしません。照合を求めた者、保全した者、従わなかった者へ、ファーランド側から改宗、臣従、情報提供を要求しない」
「必要ですわね」
アリシアが頷いた。
「聖女アリシアの文書を使って、今度はこちらが人を集めることになってはいけません」
エレナが、配布先ごとの表示範囲を分けた。
「一般礼拝所には、本人意思と照合方法。保管機関には、第三聖遺物庫の認証具が現時点で未使用であること。王侯家礼拝所と司法窓口には、代理権付与なしと受領者保護。公開範囲はこれでよいでしょうか」
「教皇庁正規窓口へも」
ステファニアが言った。
「腐敗中枢と同一視せず、同じ時刻で送ります。教皇本人の関与を断定しません」
アリシアは扇を閉じた。
「よろしいですわ」
「枢機卿本人へは」
クラウディアが尋ねた。
円卓の上に、一つだけ宛先のない枠が残った。
アリシアは、すぐには答えなかった。
「公開文書とは別にいたしましょう」
「内容は」
「草稿を撤回し、第三聖遺物庫への申請を取り下げ、未登録の武装団を招集せず、これまでの文書と返書を正規記録へ移すなら」
アリシアの声から、楽しさが消えた。
「わたくしは、現時点で得ている記録を、個人への公開断罪には用いません」
「地位も守るのですか」
セラが尋ねた。
「守りません。奪いにも参りません」
「正規の監査へ任せる」
「ええ」
アリシアは言葉を選んだ。
「罪がないことにはいたしません。ですが、正すために止まる方を、坂から蹴り落とすこともしませんわ」
リシアは、ゆっくり頷いた。
「本物の退路ですね」
「何度目でも、残します」
ステファニアが言った。
◇
本人意思確認書は、正午前に送られた。
全教区。
全修道所。
登録済みの施療院と奉仕会。
王侯家礼拝所。
教皇庁正規窓口。
第三聖遺物庫管理窓口。
受領者は、その場で公開する必要はない。
ただし、聖女アリシアの名を使った命令、告知、勧告、救出要請を受け取った場合、同じ照合表を使える。
照合結果は、一致、不一致、確認不能の三つだけ。
不一致でも、受領者へ処罰は求めない。
確認不能なら、従わずに保全する。
中央へ戻る道も残した。
正規の登録番号を取得する。
教皇庁の正式部局を通す。
本人意思を確認する。
未登録武装団を使わない。
草稿を撤回する。
どれか一つでは足りない。
だが、全ては今からでもできることだった。
『受領確認、増加中』
トトが告げた。
『六教区、三修道所、二施療院、白灯救済奉仕会四支部、王侯家礼拝所七箇所。教皇庁正規窓口、受領』
「第三聖遺物庫は」
『本人意思不一致として、緊急開庫申請を保留。申請者へ補正要求を送付しました』
「補正項目は」
『教皇庁登録番号、典礼局承認、保管院長立会い、対象本人意思、使用目的、配布先、回収手順』
七つの項目が、坂の手前へ並んだ。
一つずつ埋めれば、正規の道へ戻れる。
飛ばせば、誰が飛ばしたかが残る。
「枢機卿への私信は」
『受領確認。開封済み』
「返答は」
『ありません』
アリシアは、紅茶へ口をつけた。
まだ、温かかった。
◇
正教国中央大聖堂では、補正要求が机へ叩きつけられていた。
「本人意思不一致」
枢機卿が、その言葉を読み上げた。
「異端の管理下にある者の意思を、教会の認証より上へ置くのか」
東方教区の司教は、全教区へ届いた本人意思確認書を握り潰した。
「先回りされています」
「どこから漏れた」
「第三庫です」
「保管者が売ったのか」
「規程に従って、本人へ照会しただけです」
年嵩の司祭が答えた。
若い司祭は、その場にいなかった。
未承認文書の記録を正規記録室へ移すよう申し出た後、北側会議棟の清書担当から外されている。
「本人意思確認番号まで配られています」
宮廷礼拝所を扱う司教が言った。
「我々の文書を送っても、照合される」
「だから認証具が要る」
枢機卿は答えた。
「古い真正印があれば、地方は迷う」
「本人意思番号とは一致しません」
「教会の印と、異端の番号。信徒がどちらを信じる」
机の端には、アリシアから届いた私信があった。
草稿撤回。
開庫申請取下げ。
未登録武装団の不使用。
文書と返書の正規記録移管。
それらを満たすなら、現時点の記録を個人への公開断罪に用いない。
署名は、アリシア。
認定聖女としてではない。
一人の人間として置かれた署名だった。
「脅迫です」
東方教区の司教が言った。
「どこがだ」
年嵩の司祭が尋ねた。
司教は答えなかった。
「従えば公にしない。従わなければ公にする」
枢機卿が代わりに言った。
「止まれば、正規監査へ委ねると書いてあります」
「同じことだ」
「違います」
年嵩の司祭は、そこで初めて文面から目を上げた。
「これは、まだ戻れるという通知です」
「お前まで」
「私は清書しました」
年嵩の司祭は、偽勅書の草稿を指した。
「質問せず、命じられたとおりに。ですが、まだ送っていません」
枢機卿は彼を見た。
「何が言いたい」
「送れば、私も作成協力者です」
「既にそうだ」
「送付前なら、草稿です」
会議室の中へ、細い沈黙が落ちた。
年嵩の司祭は、自分が書いた紙を見た。
「私は、戻ります」
司教が立ち上がった。
「どこへ」
「正規記録室へ。作成経緯を提出します」
「裏切るのか」
「送る前に止まります」
枢機卿は、机の私信を掴んだ。
破ろうとした。
紙の端が少し裂けたところで、手が止まった。
受領記録がある。
破っても、届いた事実は消えない。
年嵩の司祭は一礼し、部屋を出た。
誰も、すぐには追わなかった。
扉が閉じる。
残ったのは、枢機卿と二人の司教だった。
机には、補正要求と、本人意思確認書と、退路を示す私信がある。
どれも、剣ではない。
どれも、命令でもない。
ただ、次に何を選んだかを隠せなくする紙だった。
◇
「第三庫を開ける」
枢機卿が言った。
「保管院長は応じません」
「副鍵がある」
「典礼局が管理しています」
「旧鍵だ」
宮廷礼拝所を扱う司教が顔を上げた。
「まだ使えるのですか」
「交換前の錠なら」
「交換済みなら」
「扉を外す」
東方教区の司教は、しばらく黙っていた。
「巡礼守護会は」
「集める」
「本人意思確認書を受け取った者は、従わないかもしれません」
「だから、受け取っていない者を使う」
「未登録名簿から?」
「中央へ忠実な者だけを選べ」
宮廷礼拝所を扱う司教は、机の上を見た。
補正要求の期限欄は、まだ空白ではない。
取下げ欄にも、正規記録への移管欄にも、署名できる余白が残っている。
扉の向こうでは、年嵩の司祭の足音が遠ざかっていた。
呼び戻すなら、今だった。
「送付印を」
枢機卿が言った。
宮廷礼拝所を扱う司教は扉を見たまま、偽勅書の草稿を机の中央へ置いた。
連署欄は空いている。
教皇庁登録番号もない。
聖女アリシア本人意思確認番号とは不一致。
第三聖遺物庫の認証具も、まだ押されていない。
「今送れば、偽物だと分かります」
司教が言った。
「だから、先に第三庫を開ける」
「開くまで待つのですか」
枢機卿は答えなかった。
待てば、年嵩の司祭が正規記録室へ着く。
補正要求の期限も進む。
各教区は、本人意思確認書を読み終える。
時間が経つほど、偽勅書は使えなくなる。
「先に送る」
「認証具なしで?」
「追って真正印を送る」
「そのような手順は」
「緊急だ」
同じ言葉だった。
最初の三通にも使った。
失敗の返書を受けた時にも使った。
今度は、正規の道を飛び越えるために使った。
枢機卿は、自分の私印を取った。
朱肉へ押す。
偽勅書の末尾へ置く。
東方教区の司教も副印を押した。
もう一人の司教は、印を持ったまま動かなかった。
「押せ」
「教皇猊下は」
「後から説明する」
「聖女アリシアは」
「救い戻す」
「本人は望んでいません」
「押せ」
司教の手が震えた。
それでも、副印は紙へ下りた。
三つ目の印が付いた。
連署欄は、まだ空白だった。
枢機卿は呼鈴を鳴らした。
入ってきた使者へ、偽勅書を渡す。
「全教区へ」
「登録番号は」
「追って通知する」
「受領確認は」
「取れ」
使者は文書を受け取った。
扉へ向かう。
そこで一度だけ、足を止めた。
「猊下」
「何だ」
「この文書は、教皇猊下の御名によるものですか」
「教皇庁の名による」
「教皇猊下の御名では、ないのですね」
「行け」
使者は一礼した。
扉が閉じた。
偽勅書は、北側会議棟を出た。
◇
『未登録文書の送付を確認』
トトの声が、貸与邸の作業室へ届いた。
円卓の上で、正教国中央から細い線が伸びた。
一つ。
二つ。
七つ。
二十。
全教区へ向かう送付経路だった。
『文書名義、教皇庁信仰秩序保全臨時勅書。該当する正規会議の登録なし。教皇庁登録番号なし。聖女アリシア本人意思確認番号、不一致。第三聖遺物庫認証具、未使用』
ステファニアが扇を動かした。
「受領者保護を開始。受け取っただけでは協力者と見なしません」
リシアも、自分の扇で別の層を開く。
「礼拝、施療、食事、宿泊は止めないでください。未登録文書を保全した場所へ、代替の連絡経路を」
「公開は」
エレナが尋ねた。
「一斉にはいたしません」
アリシアが答えた。
「まず、照合結果を送ります。不一致と知ってなお従うかは、受取人が選ぶことですわ」
『最初の照合結果を受領』
一つの教区が、不一致を返した。
次に、修道所。
王侯家礼拝所。
施療院。
文書は届く。
命令は通らない。
それでも、全てではなかった。
未登録の巡礼守護会名簿から、三つの受領確認が返った。
照合要求なし。
協力受諾。
集合地点の問い合わせ。
「動きました」
リシアの声が硬くなる。
「ええ」
アリシアの扇が止まった。
「ここからは、策ではございません」
ステファニアも頷いた。
「武装団が実際に人へ危害を加える前に、所在と移動経路を各地の正規窓口へ共有します。拘束ではなく、まず解散命令と本人確認を」
「第三庫は」
クラウディアが尋ねた。
『旧鍵による開庫試行を確認。錠は交換済み。現在、扉固定具への工具使用音を保管区画が検知しています』
「保管院長と記録官へ警告を」
アインが言った。
『送付済み。正規警備が移動中です』
アリシアは、円卓の中央に残っていた枢機卿宛ての私信を見た。
まだ戻れると書いた紙。
開封済み。
返答なし。
その隣に、偽勅書の送付時刻が置かれた。
「押したか」
アインが尋ねた。
「いいえ」
アリシアは答えた。
「坂の手前まで、灯りを置いただけですわ」
「風も送っていません」
リシアが念を押した。
「送っておりません」
ステファニアも答えた。
アインは三人を見た。
「なら、自分で踏み出した」
「はい」
アリシアは、偽勅書から伸びる線を見た。
急坂へ入った線は、もう一つではなかった。
偽勅書。
未登録武装団。
聖遺物庫への不正開庫。
三本が、自分達の足で同じ下り坂へ入っている。
まだ、転がり落ち切ってはいない。
途中で止まる場所もある。
だが、坂の手前に残した平らな場所は、もう後ろへ遠ざかっていた。




