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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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幕間二十六 三通とも戻らない

幕間二十六 三通とも戻らない


 三通の返事は、同じ日には届かなかった。


 最初に戻ったのは、帝国東方軍へ送った文書だった。


 正教国中央大聖堂、北側会議棟。


 まだ朝の鐘が鳴り終わらないうちに、泥の付いた革筒が机へ置かれた。


 枢機卿は、封印を見た。


 帝国東方軍兵站局の副印。


 自分達が古い巡礼宿で接触した男の印だった。


 封は切られている。


 中の書簡は、枢機卿が送った未承認司牧文書の写しではなかった。


 帝国側の回答だけが入っている。


「読みなさい」


 清書を命じられた若い司祭が、書簡を開いた。


「東方軍は、予定されていた二地点同時渡河を延期。先遣部隊との通信途絶後、ファーランド側から捕虜確認と負傷者一覧を受領。先遣魔導騎装四騎、軽歩兵――」


「損害だけでよい」


 東方教区を扱う司教が遮った。


「死者、なし。重傷者、なし。全員、拘束下にあります」


「ならば失敗ではない」


 司教は即座に言った。


「先遣は生きている。主力も残っている」


 若い司祭は、次の行へ目を落とした。


「拘束された先遣部隊の携行記録から、渡河予定地点、橋材集積地、工兵隊編成、通信時刻がファーランド側へ開示された可能性が高い。既設杭を抜去し、橋材を三倉庫へ再配置。現行計画による作戦継続は不能」


「不能ではない」


「書簡には、不能と」


「帝国の軍務官が、自分の責任を軽くするために書いたのだ」


 司教は革筒を取り上げた。


 底を覗く。


 何もない。


「増援要請は」


「ありません」


「再度の司牧要請を求める文言は」


「ありません」


「信徒保護への言及は」


「ありません」


 枢機卿が手を伸ばした。


 回答書の末尾には、もう一つ短い文があった。


 今後、教皇庁登録番号を伴わない宗教上の助言を、作戦根拠として受領しない。


 帝国東方軍は、敗北を認めていない。


 だが、枢機卿の私印を、もう軍を動かす理由には使わないと書いていた。


「裏切ったのです」


 司教が言った。


「誰が」


 若い司祭が尋ねる。


「帝国が、教会を」


 司祭は回答書を机へ戻した。


 帝国側から見れば、登録番号のない文書を作戦根拠にしたこと自体が、後から切り捨てるための余白だった。


 前回の会議で、誰も命じていないことにされると自分は言った。


 それが、帝国側から先に始まっただけだった。


「返書として登録します」


「待て」


 枢機卿が言った。


「これは正式な外交文書ではない」


「副印があります」


「副印しかない」


「私印しかなかったこちらの文書への返事です」


 会議室の空気が止まった。


 枢機卿の指が、机を二度叩いた。


「受領記録だけを残せ。内容は閲覧制限」


「制限根拠は」


「軍事機密だ」


「教皇庁の軍ではありません」


「東方教区の信徒保護に関わる」


 若い司祭は、そこで反論を止めた。


 止めたのは、従ったからではない。


 枢機卿が今口にした言葉を、そのまま記録するためだった。


     ◇


 二通目は、その日の午後に届いた。


 帝国南方軍の臨時司令部へ送った使者本人が戻ってきた。


 馬は替えている。


 外套は乾いている。


 それでも顔だけがひどく疲れていた。


「南方軍は、港へ到達したのか」


 枢機卿は、挨拶より先に尋ねた。


「到達しておりません」


「なぜだ」


 使者は一度、口を閉じた。


「街道が、危険だと」


「軍が街道を恐れたのか」


「魔導騎装二騎が、歩行不能になりました」


「攻撃を受けたのだな」


「攻撃者は確認されておりません」


「地中へ仕掛けた障害物か」


「円盤状のものを踏んだ、と」


「円盤状の何だ」


「分かりません」


 東方教区の司教が椅子から身を乗り出した。


「軍の正式報告は」


「未知の対魔導騎装障害、街道地盤異常、旧時代遺物、現地勢力による工作の可能性を併記しています」


「可能性ではなく、原因を聞いている」


「分かりません」


 同じ答えが二度続いた。


 使者は、三度目を言いたくない顔をしていた。


「それで、四千の兵が止まったのか」


「街道調査、丘陵迂回、旧王都方面への後退に分かれました」


「港は」


「湾岸九都市へ、南方軍の戦力と進路が同時に共有されています。北側三港は大型軍用船の入港を停止。中央二港は民間取引に限定。南側四港は回答を保留しました」


「どこが流した」


「確認できません」


「ファーランドだ」


 枢機卿が断じた。


「あるいは、魔王の船だ」


 使者は顔を上げた。


「現地では、別の噂が」


「何だ」


「白い髪の男が、高台で擱座した魔導騎装を見て高笑いしていた、と」


 会議室が静かになった。


 司教の一人が、聞き返した。


「高笑い」


「本人とされる男は、否定しています」


「本人を確認したのか」


「軍の報告では、八輪の大型車両を伴う民間の旅行者です。軍が道を空けるよう求め、揉めた後に機体が歩行不能となりました」


「捕らえなかったのか」


「武器を所持しておらず、攻撃の瞬間も確認されず、機体の操縦者と周辺兵に死者も負傷者もありません。軍は拘束理由を立てられませんでした」


「異端者を捕らえるのに、理由が必要か」


 使者は答えなかった。


 若い司祭は、机の端で筆を止めた。


 異端者。


 白い髪。


 八輪の車。


 攻撃記録なし。


 死傷者なし。


 それだけで異端者と書く根拠は、どこにもなかった。


「南方軍へ、再度の要請を送る」


 枢機卿が言った。


「港湾都市には、異端勢力が帝国軍を妨害していると通知する。協力を拒む港は、異端者支援と見なす」


「教皇庁登録番号は」


 若い司祭が尋ねた。


「緊急だ」


「前回も緊急でした」


「だから何だ」


「前回の文書を根拠に動いた軍は、今回、登録番号のない助言を受け取らないと返しています」


「帝国東方軍と南方軍は別だ」


「同じ帝国です」


「指揮系統が違う」


「都合のよい時だけ、違うのですか」


 司教が立ち上がった。


「口を慎め」


 若い司祭は一礼した。


「記録へ残す文言を確認しております」


 謝罪ではなかった。


     ◇


 三通目は、夜になっても届かなかった。


 アレーナ王国へ向かった使者から、連絡がない。


 宮廷礼拝所を扱う司教は、夕刻から何度も窓を見た。


 巡礼路を通れば、今日中に最初の中継所から返答が来るはずだった。


 来ない。


 鐘が一つ鳴った。


 二つ鳴った。


 三つ目の前に、会議棟の下で馬が止まった。


 戻ったのは、送った使者ではない。


 アレーナ王国の宮廷礼拝所に所属する助祭だった。


 礼拝所の紋章が入った外套を着ている。


 だが、胸元の飾り紐は外されていた。


「第二王子殿下が」


 助祭は、席へ着く前に言った。


「ミース大河で、行方不明となりました」


 宮廷礼拝所を扱う司教の手から、杯が落ちた。


 割れなかった。


 厚い銀杯が石床を転がり、絨毯の端で止まった。


「戦死か」


「確認されておりません」


「ファーランドが殺したのか」


「確認されておりません」


「では事故か」


「確認されておりません」


 助祭の答えは、全て同じだった。


「停止要求三回。第二王子機の抜剣。ファーランド側の盾による押し戻し。河岸崩落。転落後、両軍が共同で救助。機体と殿下は未回収」


「共同で」


「はい」


「敵が救助したと?」


「記録上は」


 司教は立ち上がり、すぐに座り直した。


「信徒保護要請はどうなった」


「王国政府が、真正性を照会しています」


「宮廷礼拝所が出したのだろう」


「礼拝所は、出しておりません」


 今度は、枢機卿が顔を上げた。


「何を言っている」


「三礼拝所へ届いた文書は、枢機卿猊下の私印による緊急司牧助言です。教皇認可も、中央登録番号もない。礼拝所のうち一つは回覧しましたが、二つは保留しました」


「保留した?」


「信徒保護の対象、礼拝妨害の事実、現地確認者が記されていなかったためです」


 若い司祭は、筆を動かした。


 前回、自分が尋ねたことと同じだった。


 誰が保護を求めたか。


 どの礼拝が妨げられたか。


 誰が確認したか。


 文書には、どれも書かれていない。


「第二王子殿下は、何を根拠に出た」


 助祭は、少し迷ってから答えた。


「信徒保護要請と、王族による現地確認です」


「ならば、要請は機能した」


 司教が言った。


 助祭は、彼を見た。


「殿下は戻られておりません」


「だが軍は動いた」


「殿下は戻られておりません」


 二度目は、少しだけ強かった。


「王国内では、徴発停止が始まっています。街道沿いの領主、地域評議、船頭組合が、王国政府の正式命令を確認できるまで兵站協力を止めました。宮廷礼拝所も、未承認文書に基づく軍事協力を停止します」


「誰の命令だ」


「礼拝所評議の決定です」


「中央の許可なく?」


「中央の許可がない文書へ従わないための決定です」


 枢機卿の顔から、血の気が引いた。


 助祭は、革袋から封筒を取り出した。


「なお、最初の使者は王国内に留まっています」


「なぜだ」


「第二王子殿下の出撃後、未承認文書の送付経路を確認するため、王国司法窓口から事情聴取を受けています」


「拘束されたのか」


「本人同意による聴取です」


「裏切ったな」


 枢機卿の声が低くなった。


「教会を売った」


 助祭は一礼した。


「彼は、誰が文書を作り、誰が清書し、誰が送ったかを、記録どおり答えています」


 若い司祭の筆が止まった。


 送付文書の端へ、自分が残した欄。


 作成者。


 同席者。


 清書者。


 送付先。


 消せと言われた欄が、遠い王国で使者を守っていた。


     ◇


 三つの報告が、同じ机へ並んだ。


 東方軍。


 南方軍。


 アレーナ王国。


 最初の文書を作った時、地図の三本の線は、ファーランドへ向かっていた。


 今、返ってきた三本は、どれも中央大聖堂へ向いている。


 誰が認可したのか。


 誰が事実を確認したのか。


 誰が責任を負うのか。


 問いだけが戻ってきた。


「信仰が足りない」


 東方教区の司教が言った。


「帝国兵に、信仰が?」


 若い司祭が尋ねる。


「現地の信徒だ。彼らが本当に助けを求めていれば、ファーランドの民も立ち上がった」


「助けを求めていません」


「異端に抑え込まれているからだ」


「礼拝は続いています」


「それが偽りなのだ」


「施療院も動いています」


「外部へ見せるためだ」


「寄進も止まっていません」


「用途を指定した寄進など、中央への服従ではない」


 最後の一言だけは、事実だった。


 枢機卿は、それを聞いて顔を上げた。


「そうだ」


 会議卓の端へ、会計係が新しい報告を置いていた。


 六教区からの寄進は入っている。


 だが、施療、孤児衣服、冬季食料、礼拝堂修繕へ用途が固定されている。


 自由裁量口座への振替はできない。


 暗部連絡費へも回せない。


 さらに三修道所が、今月分から共同帳簿による公開監査へ移ると通知していた。


「白灯救済奉仕会は」


 枢機卿が尋ねた。


「中央暗部への患者情報提出を停止。救護活動は継続しています」


「礼拝所連絡網」


「定時報告は継続。口頭の緊急指示は、登録番号と発信者確認がある場合のみ受領」


「兵站協力」


「教会所有倉庫の軍事利用は、教皇庁の正式許可がある場合に限定すると」


「誰が教えた」


 枢機卿は、机の報告を払い落とした。


 紙が床へ散った。


「誰が、地方へ、こうすれば中央へ逆らえると教えた!」


 若い司祭は、床へ落ちた一枚を拾った。


 そこには、患者の名は書かれていない。


 毛布の数。


 薬品の箱。


 粥に使った穀物。


 薪。


 それぞれの行き先だけが記録されている。


「誰か一人ではありません」


 司祭は言った。


「同じことを、別々の場所で始めています」


 前回と同じ答えだった。


 枢機卿は、それを覚えていなかった。


     ◇


「まだ、残っている」


 宮廷礼拝所を扱う司教が呟いた。


 夜は深くなっていた。


 会議室の燭台は半分まで短くなり、窓の外では雨が降り始めている。


「何がです」


 若い司祭は尋ねた。


「信仰だ」


「信仰は、最初から残っています」


「我々へ従う者だ」


 司教は言い直した。


 その言い直しを、司祭は記録した。


「巡礼守護会の名簿を」


 東方教区の司教が言った。


 会計係の顔が強張った。


「巡礼守護会は、三十年前に解散した組織です」


「正式にはな」


「未登録の武装団を動かすおつもりですか」


「巡礼路を守る信徒だ」


「どの巡礼路を、何から守るのです」


「異端からだ」


「異端者の指定は」


「中央が行う」


「教皇庁のどの部局が」


 司教は答えなかった。


 枢機卿は、散った紙を踏んだまま、会議室奥の扉を見た。


 その先には、小さな礼拝室がある。


 さらに奥に、古い保管区画へ下りる階段があった。


「聖遺物庫を開ける」


 若い司祭が顔を上げた。


「どの聖遺物庫です」


「第三庫」


「第三庫は、教皇庁典礼局、保管院長、記録官の三者立会いが必要です」


「緊急時には、枢機卿裁量で開けられる」


「緊急の定義は」


「信仰秩序の崩壊だ」


「礼拝は続いています」


「中央への服従が崩れている!」


 声が壁へ当たり、礼拝室の扉が僅かに震えた。


 しばらく、誰も動かなかった。


 枢機卿は自分の声を聞いたように、口を閉じた。


 だが、引かなかった。


「第三庫には、古い聖女認証具がある」


「認証具」


「聖女の名による告知を、各教区で真正と確認するためのものだ」


 若い司祭の背中が冷えた。


「聖女本人の意思を確認するものですか」


「教会が、聖女の正統な扱いを示す」


「本人ではなく」


「聖女は教会の導きに従う」


「どの聖女が」


 枢機卿は答えなかった。


 答えの代わりに、保管区画の鍵を要求した。


     ◇


 第三聖遺物庫の扉は、その夜には開かなかった。


 保管院長が不在だった。


 典礼局は、緊急開庫の根拠文書を求めた。


 記録官は、対象物の保管番号と使用目的を先に提出するよう返した。


 以前なら、枢機卿の口頭命令で翌朝までに鍵が揃っていた。


 今は、三者とも同じ返事をした。


 登録番号を。


 枢機卿は、机へ戻った。


「ならば、作る」


 若い司祭は、聞き間違いかと思った。


「何をです」


「緊急勅書だ」


「教皇猊下の?」


「教皇庁の」


「誰が署名しますか」


「信仰秩序保全のため、枢機卿団の連署とする」


「枢機卿団は招集されていません」


「後から署名を得る」


「先に使用するのですか」


「遅れれば、さらに教区が離れる」


 東方教区の司教が、古い書式集を持ってきた。


 王位継承、異端審問、聖遺物移送、聖女巡行。


 百年以上使われていない書式が、革表紙の中へ並んでいる。


 司教の指が、聖女巡行告知で止まった。


「これを使う」


「巡行する聖女がいません」


「いる」


 枢機卿の声は静かだった。


「ファーランドに」


 若い司祭は、筆を置いた。


「認定聖女は、御自身の意思で正教国を離れています」


「異端に欺かれている」


「本人の証言があります」


「異端の管理下での証言だ」


「小礼拝所の老司祭の記録もあります。あの方は、自らの足で歩いていたと」


「だからこそ救い戻す」


「戻ると仰っていますか」


「聖女は、正しき祀りへ戻るべきだ」


 若い司祭は、枢機卿を見た。


 最初の三通には、誰が助けを求めたかが書かれていなかった。


 今度の文書には、誰が戻りたいと言ったかが書かれない。


「清書しなさい」


「できません」


 枢機卿の顔から、表情が消えた。


「命令だ」


「教皇認可がありません」


「緊急勅書だ」


「枢機卿団の連署もありません」


「後から得る」


「聖女本人の同意がありません」


「教会の聖女だ」


 若い司祭の指が震え、筆先から小さな墨が落ちた。


 書式集の余白へ黒い点が滲む。


 それでも、筆は置かなかった。


「……人です」


 短い言葉だった。


 会議室の誰も、すぐには動けなかった。


 若い司祭は続けた。


「聖女である前に、人です。本人の同意なく、帰還命令も、巡行告知も、救出要請も作れません」


「お前が決めることではない」


「ですから、決めません。清書もしません」


 東方教区の司教が机を叩いた。


「司祭位を失いたいのか」


「失わせる命令を、登録してください」


「貴様」


「作成者、根拠条項、処分理由、異議申立先を記してください」


 怒声は続かなかった。


 書けば残る。


 残れば、誰が命じたか消せない。


 若い司祭は、それしか持っていなかった。


 剣もない。


 兵もいない。


 高い位もない。


 ただ、欄を空けないことだけができた。


     ◇


 清書は、別の司祭へ回された。


 会議棟へ呼ばれたのは、暗部との連絡を長く扱ってきた年嵩の司祭だった。


 彼は文面を読み、質問をしなかった。


 聖女アリシア帰還勧告。


 異端勢力による不当拘束からの救出。


 正統な祀りへの復帰。


 各教区、修道所、礼拝所、巡礼守護会に対する協力要請。


 教皇名は書かなかった。


 代わりに、教皇庁信仰秩序保全臨時勅書と記した。


 存在しない臨時会議の名だった。


 枢機卿の私印。


 二人の司教の副印。


 後から連署欄を埋めるための空白。


 第三聖遺物庫から認証具を出せれば、その印を最後へ加える。


「送付先は」


 年嵩の司祭が尋ねた。


「全教区」


 枢機卿が答えた。


「修道所、施療院、奉仕会、王侯家礼拝所にも」


「巡礼守護会は」


「別紙で招集する」


「未登録名簿を使います」


「構わん」


 年嵩の司祭は頷いた。


 若い司祭は、部屋の隅でそのやり取りを聞いていた。


 清書から外された後も、退室を命じられていない。


 おそらく、見せつけるためだった。


 従わなければ別の者が書く。


 お前が止めても意味はない。


 確かに、文書は作られた。


 だが、若い司祭は別のものを見ていた。


 後から埋める連署欄。


 存在しない臨時会議。


 本人同意の確認欄がない。


 第三庫の認証具は、まだ出ていない。


 穴だらけだった。


 隠すための穴ではない。


 後から誰でも、偽物だと確かめられる穴だった。


     ◇


 夜明け前、会議は一度散会した。


 枢機卿と二人の司教は、第三庫を開けるための根拠文書を整える。


 年嵩の司祭は、未登録の巡礼守護会名簿を取りに向かった。


 会計係は、使える自由裁量口座を探すよう命じられた。


 残っていたのは、若い司祭だけだった。


 机には、三通の返書がある。


 東方軍からの、もう使わないという返事。


 南方軍からの、進めないという報告。


 アレーナ王国からの、従わないという通知。


 その横に、新しい勅書の草稿が置かれている。


 若い司祭は、前回保全した封筒を記録庫から取り出した。


 未承認司牧文書。


 私印使用。


 送付済み、三通。


 その後ろへ、返書を一通ずつ収めた。


 さらに、新しい草稿の写しを加えた。


 表紙の記録名を変える。


 未承認国外送付文書、および返書。


 聖女アリシア本人同意なし。


 存在しない臨時会議名義。


 未登録武装団招集予定。


 第三聖遺物庫認証具、未使用。


 書き終えてから、最後の一行を足した。


 教皇本人の関与、現時点で確認できず。


 それは教皇を守るための一文ではなかった。


 関与していない者の名を、勝手に使わせないための欄だった。


 封筒を閉じる。


 記録庫の棚には、空きがあった。


 前回より少し広い。


 各地から届いた公開監査の写しが、正規記録室へ移されたためだ。


 若い司祭は、封筒を奥へ隠さなかった。


 未承認文書の棚へ、登録順に置いた。


 見つける者が、正規の手順で見つけられる場所だった。


 外で、朝の鐘が鳴った。


 礼拝堂では、いつもどおり祈りが始まる。


 施療院では、夜勤の者が朝勤へ患者を引き継ぐ。


 奉仕会の台所では、粥鍋へ火が入る。


 中央から三通の命令が出て、三つとも折れた後も、それらは止まらなかった。


 戻ってこなかったのは、信仰ではない。


 命令だった。


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