第百五十五夜 土地はいらない
第百五十五夜 土地はいらない
戦域盤から、三本の進行帯が消えていた。
夜半を過ぎた会議室には、冷めた茶と、誰も手を付けなかった薄焼き菓子が残っていた。
何もなくなったわけではない。
ミース大河東岸には、帝国東方軍の主力が残っている。
南方街道には、歩けなくなった魔導騎装と、進む道を決められなくなった兵がいる。
アレーナ王国内にも、徴発された穀物、集められた荷車、命令を待つ兵が残されていた。
ただ、それらをファーランドへ向けていた理由が折れていた。
「北東方面から確認します」
クラウディアが言った。
円卓の中央には、アリシアが所有する鍵スフィアが置かれている。
戦域盤は、同席者の拡張視覚端末へ同じ地形を重ねた。
最初に開かれたのは、古い炭焼き道だった。
敵先遣の魔導騎装四騎。
軽歩兵。
全員、生存。
全員、拘束済み。
鹵獲した記録には、渡河予定地点、橋材集積地、工兵隊の編成、東岸主力との通信時刻が残っていた。
「先遣を失っただけなら、主力は動けます」
ステファニアが言った。
「ですが、先遣が持っていた予定表を全て読まれたと分かれば、同じ計画では渡れません」
『東岸集積地で橋材の移動を確認』
トトの声とともに、河畔の荷印が動いた。
前へではない。
岸から離れ、三つの倉庫へ分散している。
『舟橋設営用固定杭の打設を中止。工兵隊は既設杭を抜去中です。撤退命令は未確認ですが、予定されていた二地点同時渡河は実行不能と判定します』
「負けたとは認めず、渡らないのですね」
リシアが言った。
「渡れないと書けば責任が生じますもの」
アリシアの扇が、東岸の三つの倉庫を順に指した。
「保管場所を変えた、と書くのでしょう」
「撤退ではなく再配置」
「敗北ではなく再検討」
「中止ではなく延期」
アインは三人を見た。
「嬉しそうだな」
「便利な言葉の使い方を確認しているだけですわ」
アリシアは穏やかに答えた。
ステファニアとリシアは、何も言わず扇を閉じた。
◇
南方軍の進行帯は、途中で細かく枝分かれしていた。
魔導騎装二騎が歩行不能。
街道上には、正体不明の円盤状障害物があるという噂。
工兵は道を掘り返し、見つからないものへ赤旗を立て続けている。
後続部隊では、円盤を踏んだ機体の足が吹き飛ぶという話が、事実より速く進んでいた。
『南方軍は先頭部隊を三群へ分割。一群は街道調査を継続。二群は丘陵迂回路を探索。三群は旧王都方面へ後退しています』
「三群とも港へ向かっていません」
エレナが表示を整理した。
「湾岸九都市からは?」
「共同警戒通知への受領確認、九都市全てから到着。北側三港は大型軍用船の入港を停止。中央二港は積荷検査と前金決済を条件に民間取引のみ継続。南側四港は態度を保留しています」
「十分です」
ステファニアが答えた。
「全港が同じ対応をする必要はありません。帝国軍が、どの港なら隠して取引できるか分からなくなればよいのです」
南方軍には兵が残っている。
食料も、まだ尽きていない。
だが、港を得て北東へ兵站を繋ぐ計画は、街道へ置き去りにされていた。
「白い髪の男は」
アインが尋ねた。
『同行者三名と八輪車両で湾岸方面へ移動を継続しています』
「追うな」
『追跡していません』
アリシアの扇が、円盤の噂を示す印を避けて通った。
「通りすがりの方へ無礼を働き、自分達で道を失った。それでよろしいでしょう」
「高笑いは」
リシアが、つい尋ねた。
『本人は否定しています』
「そうですか」
『同行女性三名は、その際に目を逸らしています』
リシアは一度だけ瞬いた。
「記録は、本人の否定までにしてください」
『承知しました』
◇
最後に、ミース大河沿いの浅瀬跡が開かれた。
王家の紋章が入った外装板。
切れた救助索。
川底へ沈んだまま見つからない王家近衛用魔導騎装。
河岸には、アレーナ王国側とファーランド側の捜索隊が残っている。
「捜索は」
リシアが尋ねた。
『継続中です。ファーランド側は下流四集落と船頭組合へ、漂着物を動かさず通報するよう依頼。アレーナ王国側も潜水具を追加しています』
「期限を切らないでください」
「水位が下がる時期まで、監視を続けます」
ガリウスの声が、遠隔会議回線から答えた。
円卓の一方に、ファーランド大公家の小会議室が接続されている。
ガリウス。
ウィリアム。
カリウス・グレイヴェル子爵。
三人の前にも同じ戦域盤が共有されていた。
「アレーナ側から、抗議文は届いている」
ガリウスが続けた。
「攻撃による王子遭難、という文案だ。まだ正式署名はない」
「こちらからは、停止要求三回、抜剣確認、押し戻し、河岸崩落、共同救助の記録を同時に返します」
ステファニアが言った。
「責任の断定はしません。救助活動中に双方が確認した事実だけを揃えます」
「それでよい」
ウィリアムが頷いた。
娘の声を聞いた一瞬だけ、父親の顔になった。
だが、すぐに戦域盤へ視線を戻す。
「問題は、その次だ」
アレーナ王国の軍旗は動きを止めていた。
第二王子が行方不明。
第一王子は王都と学院の間で、自分の名を周囲から取り戻そうとしている。
国王は軍を止める命令も、進ませる命令も出していない。
街道沿いの領主と地域評議が、独自に徴発停止を始めている。
『アレーナ王国内の統治継続性について、複数の照会を受信しています』
トトが言った。
『ファーランド公国による一時管理、河岸都市の保護、王国領の担保化、共同統治を想定した問い合わせを含みます』
戦域盤の上で、アレーナ王国の一部が淡く区切られた。
ミース大河沿いの河岸都市。
ファーランドへ続く街道。
湾岸都市国家群へ抜ける南東回廊。
手に入れれば、地図の上では便利だった。
「いらん」
ガリウスが言った。
トトの説明が止まった。
「父上」
リシアが呼ぶ。
「聞こえている。土地はいらん」
「河岸都市を取れば、対岸の渡し場を両方管理できます」
ステファニアが確認した。
「できるな」
「湾岸都市国家群へ、陸路で直接繋がります」
「繋がるな」
「関税収入も増えます」
「役人も兵も要る」
ガリウスは即答した。
「河を越えて役所を置き、道を守り、アレーナ王家の継承争いを引き受け、正教国の司祭が誰を支持したかまで数えろというのか。いらん」
「呪物ですね」
カリウスが言った。
「土地を呪物と呼ぶのは、少し」
リシアが言いかける。
「土地ではない」
カリウスは淡々と訂正した。
「土地についてくるものが呪物だ」
ウィリアムが、アレーナから湾岸へ抜ける街道を見た。
「交易路は欲しい」
「土地はいらん」
「橋も欲しい」
「土地はいらん」
「共同関税所なら」
「それは要る」
三人の返答が、あまりにも速かった。
アインは腕を組んだまま、戦域盤のアレーナ領を見た。
「西は」
「森だ」
ガリウスが答えた。
「大森林の縁だけでも、まだ開ける土地がある。東へ河を越えて他人の国を抱える前に、自分の国で道を通す場所がいくらでも残っている」
「南回りの交易路も、ミースを下る船もあります」
リシアは、父の言葉を引き取った。
「陸路が一つ増えることは利益です。ですが、領土にしなければ得られない利益ではありません」
「その通りだ」
ガリウスは頷いた。
アリシアは、閉じた扇の先でアレーナ側の街道だけをなぞった。
「では、道だけをいただきましょう」
「いただく、ですか」
リシアが尋ねる。
「ええ。土地を奪わず、二度と進軍理由へ使えない形で」
◇
戦域盤から、領土分割の淡い線が消された。
代わりに、細い印が一つずつ置かれた。
ミース大河の渡河点と、平時の通行権。
戦時にも閉じない救護回廊は、湾岸都市国家群へ続く中立街道へ接続する。
共同関税所では両岸が同じ帳簿を持つ。
信徒保護を名目とした武装部隊の通行は禁止する。
礼拝所、施療院、避難所を軍の集積地に使わせない。
王位継承争いの当事者が、ファーランドの保護を勝手に名乗れないことも確認する。
「領土要求は、最初から入れません」
ステファニアが条文案を分けた。
「アレーナ王国政府が機能しない場合も、地域評議、河岸都市、船頭組合、街道管理者と個別に暫定協定を結べるようにします。ただし、暫定協定を併合の同意へ読み替えられないと明記します」
「救護回廊を使う者の信仰は問いません」
リシアが加えた。
「兵士であっても、武装解除し、治療と帰還を目的とするなら通れるようにしてください」
「共同関税所の監査は」
エレナが尋ねた。
「両岸と湾岸都市国家群から一名ずつ」
ウィリアムが答えた。
「片方が帳簿を消しても、もう片方だけが正しいことにはならん」
「橋の維持費は」
「通行量で按分する」
カリウスが言った。
「軍用重量は別料金だ」
「通すのですか」
「平時の正式許可がある場合だけだ。信徒保護と紙に書けば無料になる仕組みは、今ここで終わらせる」
アリシアは、扇を開かなかった。
その横顔から、先ほどまでの僅かな楽しさが消えていた。
「祈る方の名を、橋を渡る軍靴の下へ敷かせないでくださいませ」
「条文の最初に置きます」
ステファニアが答えた。
アインは、出来上がりつつある協定案を見た。
「取らないのか」
「取りません」
リシアが答えた。
もう父の言葉を繰り返すだけではなかった。
「他国の土地を持たなければ道を守れないなら、私達の交渉が足りません。道を使う人を守るために国まで奪うのは、順番が違います」
ガリウスが、遠隔表示の向こうで口元を緩めた。
「聞いたか」
「聞いた」
ウィリアムが答えた。
「公女殿下に先を越されたな」
カリウスも頷く。
「では、土地はいらんと書くか」
「外交文書へ、そのまま?」
リシアが少しだけ困った顔をした。
「誤解がない」
アインが言った。
クラウディアは、既に記録欄へ文字を置いていた。
「正式文面へ整えます。基本方針は、領土要求なし。統治介入なし。必要な通行、救護、交易、安全のみ協定化」
戦域盤の上で、アレーナ王国の土地は元の色へ戻った。
その上に、橋と道だけが残った。
勝った側の色には、塗り替えられなかった。




