幕間二十五 渡れなかった王子
幕間二十五 渡れなかった王子
カスパール・ヴェノム・アレーナが魔導騎装へ乗ると告げた時、止める者はいなかった。
正確には、止めようとした者はいた。
第二王子府付きの老騎士は、河岸の地盤が悪いと進言した。
軍務官は、集められた兵の半数が徴発兵であり、渡河戦の訓練を受けていないと報告した。
宮廷礼拝所から来た司祭は、信徒保護要請には教皇庁の登録番号がないと、小さな声で付け加えた。
「だから、私が出る」
カスパールは、その全てを同じ理由へ変えた。
「兵が迷っているなら王族が先頭に立つ。ファーランドが信徒を圧迫しているなら、王子が自ら確かめる。正規の命令が遅れているなら、現地の危機へ先に応じる」
言葉だけを拾えば、勇敢だった。
王家の責任を引き受ける者にも聞こえた。
だが、机の端には別の紙が伏せてあった。
外交使節への接触権停止。
王家名義の使用権停止。
継承評議会への出席権停止。
学院管理迷宮の暴走命令に関する照会。
帝国と正教国から届いた、第二王子の独断を強調する返書。
そのどれも、戦場で一つ勝てば書き換えられると、カスパールは考えていた。
一つでよかった。
ファーランドの旗を一つ奪う。
河岸の監視所を一つ占拠する。
信徒を保護したという報告を一通、王都へ送る。
そうすれば、止まった道は再び開く。
自分を切り離した者達も、勝った王子を無視できない。
「殿下」
老騎士が、最後に呼び止めた。
「勝利して、どちらへお戻りになるおつもりですか」
カスパールは振り返らなかった。
「王都だ」
老騎士が聞いたのは、道のことではなかった。
◇
アレーナ王国側の河岸には、古い渡河路があった。
かつては荷車も通ったとされる浅瀬跡で、今は川底が深く削られ、岸へ降りる斜面だけが残っている。
上流側には仮設橋を掛けるための杭が打たれていた。
だが、橋材は足りない。
舟も揃っていない。
対岸から見れば、渡河準備と呼ぶには半端だった。
それでも、王子の魔導騎装が先頭へ立つと、後ろの兵は進むしかなかった。
機体は王家近衛用だった。
金色の縁取り。
胸部にはアレーナ王家の紋章。
儀礼用の外装を外し、実戦用の盾と長剣を持たせている。
重かった。
河岸で使うには、あまりにも重かった。
『前方、ファーランド側魔導騎装二騎』
観測兵の声が操縦席へ入った。
対岸ではない。
川幅が狭まる中州寄りの砂州に、二騎が立っていた。
ファーランド側の旗は小さい。
槍も剣も、構えていない。
その代わり、外部音声が河面を渡った。
『ここより先はファーランド公国管理河岸。武装したままの進入を認めない。停止し、王国側へ戻られたい』
「信徒保護のための確認である」
カスパールは王家の名を告げた。
『保護対象、救援要請、受入先のいずれも確認できない』
「現地で確認する」
『武装部隊による越境確認は認めない』
返答は速かった。
交渉する声ではない。
既に確認を終えた者の声だった。
「進め」
後方の誰かが息を呑んだ。
『殿下、斜面が』
「進め!」
王家近衛用魔導騎装が、浅瀬跡へ足を下ろした。
泥が沈んだ。
片足分だけ、深く。
姿勢制御が補正した。
重い機体は、倒れないためにもう一歩を前へ出した。
ファーランド側の二騎が動いた。
一騎が盾を上げた。
もう一騎は横へ回り、後続兵が斜面へ入らないよう進路を塞いだ。
『停止せよ』
「退け!」
カスパール機の長剣が抜かれた。
斬撃にはならなかった。
盾の縁が手首を押し、剣先を河面へ逸らした。
次いで、盾面が胸部装甲へ当たった。
強くはない。
倒すためではなく、登ってきた斜面へ戻すための押し方だった。
カスパールは後退を拒んだ。
右脚へ出力を寄せた。
機体が押し返した。
足裏の泥が崩れた。
『殿下、右岸が落ちます!』
右岸だったのか。
浅瀬跡の縁だったのか。
先に機体が滑ったのか。
盾を受けた姿勢制御が、踏んではならない場所へ足を置いたのか。
後の記録では、証言が分かれた。
確かなのは、王家の紋章を付けた機体の右脚が、膝まで泥へ沈んだことだけだった。
カスパールは左脚を引いた。
戻ろうとしたのかもしれない。
踏み直そうとしただけかもしれない。
その足元も崩れた。
王家近衛用魔導騎装は、剣を持ったまま河側へ傾いた。
ファーランド側の一騎が盾を捨て、腕を伸ばした。
指先が肩装甲へ掛かった。
外装板が剥がれた。
金色の縁取りだけが、その手に残った。
機体は横倒しになり、濁った水へ落ちた。
◇
魔導騎装は、浮くようには作られていなかった。
河へ落ちた瞬間、操縦席は自動封鎖された。
浸水を防ぐための機能だった。
外から開けるには、胸部装甲を固定した三箇所の解除具を同時に外す必要がある。
一箇所は泥の下。
一箇所は落下時に歪んだ。
残る一箇所へ、ファーランド側の魔導騎装が手を伸ばした。
水流が機体を押した。
砂州から外れた途端、川底が消えた。
救助索が投げられた。
一本目は腕へ掛かった。
固定する前に、肘装甲が外れた。
二本目は胴へ回った。
岸の杭が抜けた。
三本目を結ぶ間に、機体はさらに沈んだ。
『操縦席応答を確認!』
通信兵が叫んだ。
『殿下、緊急浮上具を』
『作動しない』
雑音の向こうから、カスパールの声が返った。
『右側が、動かない』
『予備魔力を胸部へ回してください』
『回している!』
音が途切れた。
水面に気泡が上がった。
一度。
二度。
河岸の兵達は、王国側もファーランド側も、武器を置いて綱を引いた。
綱は張った。
機体は一度だけ、川底から浮きかけた。
その下で、何かが外れた。
綱だけが水面へ戻った。
通信には、しばらく打撃音が残った。
操縦席の内側から、装甲を叩く音だった。
やがて、それも聞こえなくなった。
◇
ファーランド側の現地指揮官は、追撃を命じなかった。
王国側の兵も、それ以上進まなかった。
武装解除した者から河岸へ近づくことを認め、救助索、舟、潜水具を共同で集めた。
日が沈むまで捜索は続いた。
機体は見つからなかった。
翌朝、王家の紋章が入った胸部外装の一部だけが、下流の葦へ引っ掛かっていた。
ファーランド側の報告書には、短く記された。
アレーナ王国武装部隊による管理河岸への進入を確認。
停止要求三回。
敵機の斬撃動作後、盾による押し戻しを実施。
河岸崩落により一騎転落。
双方による救助活動を実施。
搭乗者、回収に至らず。
アレーナ王国側の報告書は、もっと長かった。
そこには、ファーランド側の攻撃、不安定な河岸、仮設渡河路の整備不足、王子機の過重量、現地指揮系統の混乱、信徒保護要請の真正性未確認までが並んだ。
誰の責任にするかで文面が変わり、清書は三度止まった。
最後まで変わらなかった欄は、一つだけだった。
カスパール・ヴェノム・アレーナ。
アレーナ王国第二王子。
戦闘による死亡とは確認できず。
事故による死亡とも確認できず。
生存も確認できず。
行方不明。
その知らせが王都へ届いた時、第一王子の婚約解消に関する記録は、まだ王家儀礼局の机に積まれていた。
国王は、二つの書類を同じ日に受け取った。
一つは、戻ってきた王子の名を、誰にも勝手に使わせないための記録。
もう一つは、戻ろうとした場所を最後まで間違えた王子の、戻らなかったという報告だった。




