幕間二十四 開けておいた穴
幕間二十四 開けておいた穴
ファーランド北東部、古い炭焼き道が尾根の影へ沈む場所に、薄い線が引かれていた。
防衛線、と呼ぶには少しだけ頼りない。
土嚢はある。
仮設柵もある。
魔力感知の杭も、通信用の細い柱も、等間隔に立っている。
だが、地図を読める者なら気づく。
尾根の西側を大きく迂回するより、この炭焼き道を抜けた方が早い。
夜明け前なら、なおさらだった。
「薄すぎませんか」
リシアが、卓上の戦域盤を見下ろして言った。
卓の中央には、アリシアが所有する鍵スフィアが置かれている。メイが両手で運び、円卓の中心へ静かに据えたものだった。
実際にそこへ地図が浮かんでいるわけではない。
アリシア、ステファニア、リシア、そして同席を許された数名の視界へ、拡張視覚端末が同じ盤面を重ねている。
地形、人の退避状況、敵の推定進行速度、魔導騎装の足跡候補、補給可能地点。
その奥には、ローランド級特務艦が測量した尾根の凹凸まで、淡い線で重なっていた。
「薄く見せておりますもの」
アリシアは扇を閉じたまま答えた。
「見せている、ですね」
ステファニアが確認する。
「実際には、民家はありません。炭焼き小屋は二日前に空にしました。後方の作業道は塞いであります。抜けた先には、人ではなく、止めるための場所だけが残っています」
「それでも、穴です」
リシアは目を逸らさなかった。
「捕虜を試すために穴を開けるなら、私は反対します」
室内の空気が、少しだけ硬くなる。
アリシアは微笑まなかった。
ステファニアも、反論を急がなかった。
「失敗した時、誰が死にますか」
リシアは続けた。
「敵ではなく、こちら側の話です。民でも、兵でも、捕虜でも」
「誰も死なせません」
ステファニアが答えた。
「後方は二重に閉じています。ヴァイス隊が止められなかった場合、第一介入はハイランダー八騎。第二介入はローランド級からの拘束射撃。第三介入は、アイン様の許可を得た強制停止です」
「捕虜本人達には」
「全ては伝えません。逃げられるか、守るかを見るためです」
リシアの指が、盤面の炭焼き道へ触れた。
指先は、そこにあるはずのない土の湿りを確かめるように止まった。
「逃げられるように見せるのですか」
「逃げられるように、ではありません」
アリシアが、そこで口を開いた。
「逃げてもよい形に見せます。捕虜として与えられた線を捨てるなら、そこで分かりますわ」
「捨てなかった場合は」
「捕虜のまま、もう一段だけ、任せられる線が増えます」
リシアはすぐには頷かなかった。
少し前なら、ここでアリシアとステファニアの策に押されていたかもしれない。
だが、今のリシアの手元には扇があった。
預かりものではない。
アリシアから、あなたのものだと渡された扇だった。
「ハイランダー八騎の待機位置を、もう一度表示してください」
リシアは言った。
トトの声が、室内の補助端末から返る。
『表示します』
炭焼き道の背後、尾根の影に八つの光点が並んだ。
敵からは見えない。
味方の前線からも、ほとんど見えない。
だが、一歩で道を閉じられる位置だった。
「分かりました」
リシアは、ようやく頷いた。
「ただし、試すのは勇気ではありません。失敗しても誰も死なないように作った線だと、後で本人達が理解できる形にしてください」
「承知しました」
ステファニアが、静かに頭を下げる。
アリシアは閉じた扇で盤面の穴を軽く叩いた。
「では、開けておきましょう」
◇
ディートハルト・ヴァイスは、試験格納庫で新しい機体を見上げていた。
派手ではない。
装甲の面は飾り気がなく、関節周りも無駄に膨らんでいない。
帝国式の威圧的な肩張りも、貴族用の装飾板もない。
だが、立ち方がよかった。
膝が正直だ。
重心が嘘をついていない。
「アイゼンヴァルト・ヴェルケ基礎フレーム。村山技研の姿勢復帰制御。瑞穂の実用艤装」
シオンが、読み上げるように説明した。
「出力は制限しています。通信は監視下。機体には外部停止装置。武装も、指定範囲外では作動しません」
「捕虜だからな」
ヴァイスは当然のように言った。
その首元には、識別帯が光っている。
部下達にも、同じものがある。
それは消えない。
外されてもいない。
「本日の試験内容は、防衛線補助です」
クラウディアが告げた。
「敵先遣の魔導騎装が、北東炭焼き道へ接近中です。あなた方には試験機で前線補助へ出てもらいます」
「我々に、敵を斬れと?」
「殺害は許可していません」
「よい」
ヴァイスは笑った。
大盾が運ばれてくる。
分厚いが、ただ重い盾ではなかった。
盾面の縁には押し付けた時に滑らせない細かな噛みがあり、裏側には腕だけでなく肩と胴へ衝撃を逃がす支持具がある。
次に、ウォーハンマーが運ばれてきた。
刃はない。
潰すための棘もない。
打撃面は広く、角は丸い。
魔導騎装の膝、肘、肩、武装基部、足首を叩いて止めるための道具だった。
「剣は不要ですか」
シオンが尋ねる。
「斬れば死ぬ」
ヴァイスは、盾の固定具へ手を通した。
「叩けば止まる場所を選べる」
部下の一人が、隣で小さく笑った。
「隊長、また捕虜らしくないことを言っています」
「捕虜らしいとは何だ」
「少なくとも、出撃前に武装を褒めることではないかと」
「良い道具は褒めるべきだ」
ヴァイスは操縦席へ入る。
拘束確認。
外部停止確認。
出力制限確認。
識別帯連動確認。
全ての表示が固定された。
『試験機一番、起動許可』
機体が一歩、前へ出た。
ヴァイスは、その一歩で目を細めた。
「よく転ぶが、転び方が正直だ」
『褒め言葉として記録します』
シオンの声が返る。
「褒めている」
二番機が、隣で同じように一歩を出した。
装甲の厚い脚が、見た目に反してすっと戻る。
「隊長」
『何だ』
「いつも思うのですが、重装甲のくせに動きが滑らか過ぎませんか」
「文句か」
「いえ。文句ではありません。ただ、重いなら重いらしく、もう少し踏ん張っている顔をしてほしいです」
三番機が膝を曲げ、すぐに戻した。
「分かる。転ぶ準備まで上手い」
「褒めているのか」
「褒めています」
ヴァイスは短く笑った。
もう一歩。
盾を構える。
機体の肩が遅れない。
足裏が、戻るべき場所へ戻る。
「勝たせる機体ではない」
ヴァイスは呟いた。
「帰らせる機体だ」
◇
敵先遣隊は、炭焼き道を見つけた時、迷わなかった。
魔導騎装四騎。
軽歩兵二十数名。
連絡兵三名。
正面の防衛線を避け、尾根の影を抜けるには十分な数だった。
彼らに見えている地図では、この道は古く、細く、だが生きていた。
柵は薄い。
杭は少ない。
夜明け前の湿った空気の中で、魔導騎装の足音だけが低く響く。
先頭機が、仮設柵を押し倒した。
その瞬間、道の奥から一騎が出た。
敵騎士は、最初それを見落とした。
真正面にいるのに、突進してくるようには見えなかったからだ。
大盾を構えた機体が、滑るように距離を詰めた。
鈍重な突撃ではなかった。
重さを前へ投げるのではなく、足元の土を一歩ずつ消していくような接近だった。
敵騎士が槍を下げた。
遅い。
気づいた時には、目の前に盾面があった。
衝撃。
先頭機が吹き飛ばされた。
倒れたのではない。
倒される方向を選ばれた。
魔導騎装は道の端へ肩から落ち、後続の進路を塞いだ。
「盾が遅れない」
ヴァイスの声が、試験回線に乗った。
「いい機体だ」
彼は追撃しなかった。
起き上がろうとした敵機の膝へ、ウォーハンマーを落とした。
鈍い音がした。
関節が砕ける音ではない。
駆動が一拍遅れ、立ち上がれなくなる音だった。
二騎目が横を抜けようとした。
ヴァイス隊の別機が、盾を斜めに当てた。
押した。
受けるのではなく、相手の肩を壁へ戻すように押した。
そのまま武装腕を木立の幹へ押し付け、もう一機が武装基部を打った。
「隊長」
『言え』
「今、戻りました」
部下の声には、奇妙な明るさがあった。
「押した後、足が戻りました。踏み替えが遅れません」
「分かった。喜ぶのは捕ってからにしろ」
「了解」
三騎目が焦って投射器を上げた。
その砲口が、味方後方へ向く前に止まった。
尾根の影から出たハイランダー機が、一歩だけ踏み込んでいた。
剣は抜いていなかった。
ただ、敵機の肘関節と砲身の角度を、手の甲で押さえていた。
次の瞬間、砲身は空を向いた。
敵騎士は理解した。
今の一歩で、殺されていないだけだ。
ハイランダー機は何も言わず、再び尾根の影へ下がる。
主役を奪わない。
ただ、保険が保険としてそこにあることだけを示した。
「殴った後に立っていられる」
ヴァイスは、四騎目の足首を打った。
「これなら捕れる」
最後の敵機が片膝をついた。
軽歩兵達は、逃げる方向を探した。
後ろは倒れた機体で塞がれている。
前には盾。
左右には森。
そして森の奥には、逃げてもよいが進めないと告げるような光点が、八つあった。
「武器を捨てろ」
ヴァイスの声は、帝国語だった。
敵兵達が息を呑む。
彼の機体には、帝国の紋がない。
だが、その声は彼らの知る軍人の声だった。
「生きて捕虜になれ。飯は出る」
部下の一人が、回線外で咳き込んだ。
「隊長、それは勧誘に聞こえます」
「事実だ」
武器が、泥の上へ落ちた。
◇
戦闘は短く、死者も重傷者も出なかった。魔導騎装四騎は、膝、肘、肩、武装基部、足首のいずれかを止められ、解体ではなく拘束の対象として並べられた。
ヴァイス隊の試験機にも、盾面の擦過、左膝の過負荷予兆、ウォーハンマー柄部の微細な歪みは残ったが、全機が戻った。
格納庫へ戻ったヴァイス隊は、操縦席を開けられてからも、しばらく機体を見上げていた。
「捕虜試験騎士、全員識別帯継続」
クラウディアが告げる。
「外部停止装置、解除しません。武装管理権限、返却済み。身分変更なし」
「当然だ」
ヴァイスは頷いた。
「我々は捕虜だからな」
「その割に、ずいぶん楽しそうでしたね」
マキナが言う。
「良い機体だった」
「そこなんだ」
アインは少し離れた場所で、腕を組んでいた。
「逃げなかったな」
「逃げ道ではなかった」
ヴァイスは即答した。
「ほう」
「薄く見えた。だが、民家の匂いがない。後方へ抜ける道も、土の踏まれ方が新しい。さらに、森の奥に本物が八ついた」
リシアの肩が、ほんの僅かに動いた。
ヴァイスは気づいていないふりをした。
「あれは、こちらが失敗しても誰も死なせないための穴だ」
室内が静かになる。
リシアは、ゆっくり息を吐いた。
アリシアが一歩前へ出る。
「逃げ道を用意しましたのに」
ヴァイスは、少しだけ笑った。
「騎士に逃げ道を見せるなら、守る線も置いておくべきです」
「置いておきましたわ」
「ならば、守ります」
「捕虜のまま?」
「捕虜のまま」
ヴァイスは、そこで大盾の方を見た。
「ただし、次に使う時は盾の右縁を少し削ってほしい。押した時、相手の肩装甲に噛み過ぎる」
シオンが即座に記録を開いた。
「該当箇所、確認します」
「あと、ウォーハンマーの柄だ。二度目の打撃で僅かに捩れる」
「歪み記録と一致します」
「それから」
マキナが両手を上げた。
「はいはい。捕虜の反省会が始まったね」
クラウディアは無表情で端末へ記録する。
「区分変更。捕虜試験騎士。限定防衛協力、条件付き許可」
「臣下ではない」
アインが言った。
「釈放でもない」
クラウディアが続ける。
「はい。捕虜です」
ヴァイスは満足げに頷いた。
「飯は」
「出ます」
「では、問題ない」
リシアは、思わず小さく笑ってしまった。
それから、自分の扇を閉じたまま握り直した。
戦域盤の上で見た時より、ずっと泥臭い。
だが、これなら記録できる。
開けておいた穴の向こうで、捕虜の識別帯はまだ外されないまま光っていた。




