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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百五十四夜 今は違う

第百五十四夜 今は違う


 学院北棟地下の旧観測室には、円形の石台がある。


 前回は、何も載っていなかった。


 今回は、アリシアが鍵スフィアをメイへ差し出した。


「中央へ」


「はい」


 メイは両手で受け取り、石台の中心へ置いた。


 前夜よりは早く手を離した。


 それでも、転がらないことを二度確かめた。


 鍵スフィアの表面には、まだ光がない。


 学院旧観測室。


 旧礼拝施設。


 封印管理区画。


 三地点の立会いが揃うまで、アリシアの所有物であっても接続は始まらなかった。


「本日の取得目的を確認します」


 学院の管理官が、共同申請を読み上げた。


「避難経路、限定封鎖点、水源、渡河設備、旧観測線。以上の五分類です」


「取得した記録は、北東、アレーナ、南方湾岸の受取人へ分けます」


 エリオットが続けた。


「現在証言として、旧礼拝施設の閉庫記録、ミース大河の船頭三名、流域二集落、湾岸九都市の受領確認を接続します」


「異常時は、封印管理区画から切断します」


 封印管理官が言った。


「許可外分類、受取人未定、現在証言との衝突が確認された場合も、取得前に停止できます」


 アリシアは、石台中央の鍵スフィアへ触れなかった。


「こちらは、許可を増やしませんわ」


「確認しています」


 管理官が答えた。


「接続先、取得範囲、停止状態を同席者へ示す補助表示としてのみ使用します」


 鍵スフィアは、扉を開く鍵ではなかった。


 誰が、どこまで開けると決めたかを、見失わないための灯だった。


     ◇


 ステファニアが円形の石台前へ進んだ。


 セラは右後方。


 リシアは受取人記録の前。


 エレナは、接続継続、帰還経路、本人応答、取得分類、現在証言を別々の枠へ開いた。


「接続しますか」


 クラウディアが尋ねた。


「はい」


「五分類の参照先確認まで進みますか」


「進みます。本文取得前に止めてください」


「確認しました」


 ステファニアの指先が、石台へ触れた。


 鍵スフィアに細い光が走った。


 一つの光ではない。


 学院の許可。


 旧礼拝施設の現在証言。


 封印管理区画の切断待機。


 三本が別々に入り、スフィアの内側で重ならずに止まった。


『接続を確認しました』


 トトの声が、旧観測室へ届いた。


『戦域動態観測盤の現在地形を、参照用の別層として表示します。SEAK記録への書き込みは行いません』


 石台の上へ、ミース大河と北東尾根が立ち上がった。


 その上に、千五百年前の地形が重なった。


 大河の幅が違う。


 尾根の切れ目も違う。


 現代では森に埋もれた道が、古い地図では街道として残っている。


「参照先へ到達しました」


 ステファニアが言った。


「応答できますか」


「はい」


「停止できますか」


「はい」


「表題を取得してください」


 五つの分類から、記録の名だけが現れた。


 ミース大河渡河設備台帳。


 ファーランド北東尾根退路記録。


 東方旧国境水源管理記録。


 南方港湾避難物流記録。


 旧観測線保守記録。


 本文は、まだ開いていない。


     ◇


「一件ずつ確認します」


 エレナが、最初の表題だけを残した。


 ミース大河渡河設備台帳。


 受取人は、ファーランド公家、流域集落、船頭組合。


 取得目的は、避難経路と渡河設備。


「本文取得へ進みますか」


 クラウディアが尋ねた。


「進みます」


 ステファニアは一度石台から指を離した。


 接続を切り、自分の声で次の同意を置いた。


「ミース大河渡河設備台帳。避難経路と渡河設備の範囲だけを取得します」


「確認しました」


 再接続すると、古い大河へ七つの印が現れた。


 常設橋が二つ。


 季節橋が一つ。


 舟橋設営点が二つ。


 浅瀬が二つ。


 それぞれに、当時の水深、流速、通行可能重量、退避方向が記録されている。


 北側の浅瀬へ、避難路という分類が付いた。


 荷車一日三百二十台。


 徒歩避難者、一刻に千二百人。


 増水時も西岸の石棚を利用可能。


 戦域盤が、その位置へ現在地形を重ねた。


 東岸が削れている。


 西岸の石棚は、上流から流れ込んだ土砂の下にある。


 前夜、リシアが通行困難の札を付けた場所だった。


『船頭三名の現在証言を表示します』


 一人目。


 春の増水後、荷舟では近づかない。


 二人目。


 西岸へ上がる場所がない。


 三人目。


 徒歩なら渡れる日もあるが、子供と荷車を連れては使わない。


「過去記録上は、避難路として有効です」


 エレナが言った。


「現在証言とは衝突しています」


「取得を続ければ、古い通行量と退避先まで得られます」


 クラウディアが確認した。


「止めますか」


 リシアは、古い地図を見た。


 七つの渡河点の中で、最も多くの人を逃がせる道になっている。


 数字だけなら、捨てる理由がない。


 けれど、その数字の上には、三人の船頭の言葉が置かれていた。


「止めてください」


 リシアが言った。


「北側浅瀬を、避難路として取得することを止めます」


「過去記録そのものも取得しませんか」


「はい。表題と、現在証言により停止した記録だけを残します」


「敵軍が、古い地図を使う可能性は」


 セラが尋ねた。


「あります」


 リシアは答えた。


「ですが、それは敵進路の再確認として、別の受取人と目的を決めてから開きます。避難する人達へ渡す地図には入れません」


 北側浅瀬の光が弱くなった。


 消えてはいない。


 取得停止。


 現在再調査待ち。


 二つの札が付いた。


     ◇


 残る六つの渡河点も、現在証言と照合された。


 常設橋の一つは現存していた。


 季節橋の跡は、今も増水時に上流から流れてくる丸太を受け止める場所として使われていた。橋ではなくなっていたが、川を読む者にとっては、まだ流れの変わる場所だった。


 もう一つの浅瀬は水深が増し、荷を背負って渡る道ではなくなっていた。代わりに、対岸の火と舟影を見張る場所としてなら利用できる。


 北東尾根退路記録からは、現在の炭焼き道と重なる旧街道が一つ見つかった。地元の炭焼きは、それを街道とは呼ばず、雨の日に馬を休ませる道と呼んでいた。


 東方旧国境水源管理記録では、三つの井戸のうち二つが埋まり、一つだけが共同井戸として残っていた。


 南方港湾避難物流記録は、九都市全てへ渡さなかった。


 各都市が管理する港と、隣接する避難路だけを分けた。


 旧観測線保守記録には、北東尾根からミース大河を見下ろす観測点が二つ残っていた。


 一つは崩落。


 一つは、現代の猟師が雨宿りに使う石屋根として残っている。


 古い記録は、何度も正しかった。


 何度も、今は違っていた。


「五分類の取得を終了します」


 クラウディアが告げた。


「ステファニア、切断できますか」


「はい」


 ステファニアが石台から手を離した。


 セラは通常遮断を確認し、緊急遮断を使わなかった。


 エレナは取得済み、取得停止、再調査待ちを別々の枠へ保存した。


 鍵スフィアの光が消えた。


 メイが石台へ近づき、両手で持ち上げた。


 今度は、一度確かめただけでアリシアへ返した。


     ◇


「リシア」


 旧観測室を出たところで、アリシアが呼び止めた。


 その手には、閉じた扇が一本ある。


 アリシア自身が用いるものと同じ形。


 アリシアが策略課題を完遂したステファニアへ、承認の証として授けたものとも同じ形。


 色だけが、そのどちらとも違っていた。


「差し上げますわ」


 リシアは、すぐに手を出さなかった。


「私は、止めただけです」


「ええ」


 アリシアは否定しなかった。


「ステファニアには、剣の届かない相手へも責任を負えると認めた印として、扇を差し上げました」


 ステファニアは、自分の扇を閉じたまま一礼した。


「あなたには、古い正しさから、今を生きる方々を守れると認めた印として」


「同じものでは、ないのですね」


「同じ材、同じ形ですわ」


 アリシアは扇を差し出した。


「ですが、同じ役目を求めてはおりません」


 リシアは両手を出した。


「お預かりします」


「いいえ」


 アリシアの手から、リシアの手へ扇が渡った。


「差し上げます。あなたのものですわ」


 リシアは、閉じた扇を見た。


 開かなかった。


 まだ、使い方を知らない。


 それでも、返そうとはしなかった。


 円形の石台には、もう何も載っていない。


 新しい扇は、リシアの両手の中にあった。


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