第百五十三夜 三本を一本にしない
第百五十三夜 三本を一本にしない
卓上には、何も置かれていなかった。
地図も、駒も、書簡もない。
アリシアは、自身が所有する鍵スフィアをメイへ差し出した。
「円卓の中央へ」
「は、はい」
メイは両手で受け取った。
落とさないよう慎重に運び、円卓の中央へ置いた。
置いた後も、転がらないことを確かめるまで手を離さなかった。
「トト。地形を」
『表示します』
指揮官級拡張視覚端末が、三人の視界を同期させた。
鍵スフィアを中心に、円卓の上へ山脈と大河と平野が立ち上がる。
ファーランド公国を中心に、東のミース大河、その対岸側に広がるアレーナ王国、南へ続く街道と湾岸都市国家群までを収めた立体地図だった。
山の稜線には細かな起伏がある。
谷底には、現在使われていない水路の跡まで残っていた。
森は樹冠の高さによって濃淡が異なり、街道は荷車一台分の道と軍用車列が通れる道に分けられている。
「随分、細かいのですね」
リシアが、故郷の北東にある尾根へ顔を近づけた。
『衛星軌道上のローランド級特務艦が測量した地表情報を基礎地形に使用しています。直近二周回分を統合。地表高度の誤差は開けた場所で六十七センチメートル以内、森林部と市街部では最大四・八メートルです』
「この地図そのものが、机の上にあるわけではないのですね」
「はい」
クラウディアが、少し離れた席から答えた。
「端末を外せば、鍵スフィア一つを載せた円卓と、扇を動かす二人、指で地図を追うリシアが見えるだけです」
アインは卓の端で、四人のやり取りを見ていた。
地図は彼の視界にも共有されている。
「名称は」
アリシアが尋ねた。
『戦域動態観測盤です。短縮呼称は戦域盤』
地形を描くだけの地図ではない。
観測された部隊、車列、橋材、野営火点、通信、徴発記録が、それぞれ取得元と時刻を保ったまま地形へ結び付けられる。
確かに見たものは実線。
複数記録から推定したものは途切れた線。
その先に予想される進路は、幅を持つ淡い帯。
帯が広いほど、予測の不確かさが大きい。
「予測を、観測と同じ線にしないのですね」
ステファニアが言った。
『予測は、外れます』
「ええ。ですから使えます」
ステファニアは扇の先で、三つの報告を戦域盤へ引き寄せた。
◇
最初に開かれたのは、ミース大河東岸だった。
河畔の集積地へ、三十一の荷印が浮かぶ。
舟材。
橋材。
固定杭。
渡し綱。
土嚢用の麻袋。
ベルン商会の荷改め役と二人の船頭が確認した物資へ、ローランド級が軌道上から捉えた車列の轍と天幕の数が重なった。
『東岸集積部隊。歩兵五千から七千。騎兵八百前後。魔導騎装は二十六騎を確認、格納天幕を含めた上限推定三十四騎。工兵比率は通常編成の二倍以上です』
トトの報告に合わせ、河畔から三本の淡い帯が西へ伸びた。
一つは、現在の渡し場。
一つは、北へ迂回する浅瀬。
最後の一本は、測量隊が入った尾根の東端へ向かっている。
「主力ですわね」
アリシアが言った。
「渡るための軍です。威嚇だけなら、杭と綱をこれほど集める必要はございません」
「橋材の量は、二本分です」
ステファニアが荷印を二つに分けた。
「一本を架け、もう一本を予備にするには多い。別の地点で同時に渡すつもりでしょう」
「北の浅瀬は使えません」
リシアが言った。
扇を持たない指で、予測帯の一つへ触れる。
地図が拡大し、河岸の段差が卓上へ迫り上がった。
「春の増水で東岸側が削れています。船頭なら避けますが、古い地図だけを見た測量隊は浅瀬だと思うかもしれません」
『現地船頭三名への追加確認を推奨します』
「二人ではなく?」
『最初の報告者二名と利害関係の異なる者を一名加えます』
「では、そのように」
リシアは北の予測帯を消さなかった。
代わりに、通行困難という札を付けた。
敵が誤る可能性も、こちらが誤っている可能性も残した。
◇
アレーナ王国内では、まだ軍旗が動いていなかった。
戦域盤に現れたのは、宿駅と倉庫だった。
徴発された穀物。
増やされた馬匹。
修理を命じられた荷車。
三つの礼拝所から回された、信徒保護要請。
『現時点の徴発量は、三千から四千の兵を八日間行動させる規模です。王国軍の出発命令は確認されていません』
「出発させる前に、道だけを作っています」
ステファニアの扇が、三つの宿駅を結んだ。
「信徒保護要請が正式な軍命令へ変われば、この線へ兵を載せられます」
「兵を出さなくても、ファーランドは渡河正面を一つに絞れませんわ」
アリシアは東岸の主力から、同じ対岸側に並ぶアレーナの宿駅へ扇を動かした。
大河を挟み、ファーランドの東側に二つの動きが並んだ。
「こちらは別の方向へ振り向かせる手ではありません。同じ長い河岸へ、もう一つ正面を作る手です」
「信徒保護を名目にすれば」
リシアが、アレーナ側の街道を見た。
「ファーランドが国境へ兵を置いただけで、迫害への軍事的威圧と呼べます」
「ですから、軍より先に文書を止めます」
ステファニアは信徒保護要請を三つに分けた。
誰が保護を求めたか。
どの礼拝が妨げられたか。
誰が現地で確認したか。
「王国政府、地域評議、礼拝所へ、同じ質問を別々に送ります。迫害がないとこちらから断定はしません。回答がない場合も、回答がなかったことだけを記録します」
アリシアの扇が、信徒保護という文字の下で止まった。
「祈る方を、進軍の理由へ仕立てた者だけを見つければよろしいのですわ」
◇
南方軍の表示は、他の二方面より疎らだった。
旧王都を確保できなかった部隊が、編成を解かずに南下している。
歩兵は四千前後。
魔導騎装は十一騎。
食料車列は六日分。
攻城器具は少なく、代わりに空の荷車と船具を扱う職人が同行していた。
『確認できる目的地は、湾岸都市国家群です。九港のうち、北側三港へ到達する可能性が高いと推定します』
三本の予測帯が、海岸へ伸びた。
アリシアは、南方軍だけを見なかった。
湾岸の港から北へ戻る海路と街道を同時に開く。
港で荷を積み替えた場合の速度。
穀物を現地調達した場合の継戦日数。
北東の渡河部隊へ補給を送る場合の所要日数。
トトが予測帯を伸ばすたび、三方面の線はファーランドへ近づいた。
「南方軍の目的は、港そのものではありませんわね」
アリシアが言った。
「港を取れば、南から兵と糧食を送り直せます」
「旧王都へ運ぶはずだった空の荷車を残しています」
ステファニアが、車列の構成を拡大した。
「占領地から持ち帰るためではなく、港から積むために使うつもりです。船具職人を連れている理由も同じでしょう」
「北東の渡河が長引いても、別の兵站線を作れる」
リシアは、三本の予測帯が自分の国を囲むのを見た。
「アレーナ側にも兵を割かせ、南で港を取り、東から主力が入る」
『三方面が予定どおり進行した場合、ファーランド北東部の補給負荷は十一日目から急増します。南方三港のうち二港が使用可能になった場合、帝国側の補給限界は推定二十七日から六十三日へ延長されます』
戦域盤の中央に、ファーランドが残った。
アリシアは三本の線を、一本へ束ねなかった。
それぞれの役割を保ったまま、行き着く先だけを見た。
「戦略目標はファーランドですわ」
声は静かだった。
「東から領土へ入り、同じ対岸の別地点へ守備を割かせ、南に長く戦うための口を作る。三つの戦ではございません」
「一つの国を、三つの理由で動けなくする戦です」
ステファニアが答えた。
アインは、そこで初めて口を開いた。
「なら、三本を一本にするな」
◇
対処の線も、戦域盤へ置かれた。
北東方面。
ローランド級は橋材の移動、工兵隊、魔導騎装の位置を継続観測する。
ファーランド公家には、確認済み戦力と三つの予想渡河点を送る。
流域集落には軍の全容ではなく、避難開始の判断に必要な距離と予想到達幅を渡す。
「橋を落とすか残すかは、現地で決めます」
リシアが言った。
「ですが、決める時刻は先に置けます。最後の荷車を渡した後では遅い場所もあります」
アレーナ方面。
ステファニアが、信徒保護要請の根拠照会と、徴発命令の署名者確認を同時に組んだ。
礼拝所へ軍を止める責任は負わせない。
王国政府の回答と、現地信徒の証言も混ぜない。
「根拠のない保護要請へ軍命令を載せる者が、どこにいるかを見ます」
南方湾岸。
九都市へ、南方軍の進路、戦力幅、移動速度、六日分の兵站、船具職人の同行を送る。
港を閉じるか、船を逃がすか、共同防衛へ加わるかは各都市が決める。
ただし、どの港が帝国へ補給を売ったかは、他の八都市にも同じ時刻で共有される。
「選ぶことと、隠して選ぶことは別ですわ」
アリシアの扇が、九つの港へ同じ通知時刻を置いた。
三人の手が止まると、戦域盤にはまだ空白があった。
現在の大河は見える。
現在の尾根も、街道も、港も見える。
だが、千五百年前に使われ、地形の変化で消えた渡河点と退路は、衛星軌道からの測量だけでは名前も用途も分からない。
「旧観測室の索引へ進みます」
ステファニアが言った。
「何を取得しますか」
セラが確認した。
「逃げる道。止める場所。水。橋。見張る場所」
アインが答えた。
『避難経路、限定封鎖点、水源、渡河設備、旧観測線。五分類で接続申請を作成します』
「古い地図だけでは決めない、と入れてください」
リシアが言った。
「現在の住民、管理者、利用者の証言と照合するまで、行動命令へ使いません」
『追加しました』
「取得した記録の受取人も分けます」
ステファニアが続けた。
「北東の避難路を、理由なく湾岸へ渡しません。港の封鎖記録を、アレーナ王国の軍務窓口へまとめて渡すこともしません」
ステファニアは接続と停止。
リシアは、情報の受取人と置き場所が決まらない時の停止。
セラは通常遮断と緊急遮断。
エレナは表示、非表示、再確認条件の分離。
トトは観測と予測を混ぜない。
「一つにするのは、手順だけです」
ステファニアの言葉に、アリシアが頷いた。
◇
夜半、三方面への通知と、SEAK次段階接続の共同申請が送られた。
戦域盤の地形は消えなかった。
東岸の車列は少しずつ河畔へ近づいている。
アレーナの宿駅では、新たな荷車が一台増えた。
南方軍は、予測帯の北端から外れて西へ進路を変えた。
『南方軍予測経路を更新します』
一本の線が消え、二本が残った。
予測は外れた。
だから、盤は正しくなった。




