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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百五十一夜 枯れる前に

第百五十一夜 枯れる前に


 苗が消えた、と声が上がったのは、主任司祭の件から二日後だった。


 共同倉庫の前庭には、朝から十二枚の育苗箱が並べられていた。


 熱冷ましに使う銀葉草。


 傷洗いに使う赤根草。


 粥へ混ぜられる細豆。


 地域薬師組合と近隣の農家が持ち寄り、ベルン商会の荷車で運んだ苗だった。


 四つの集落へ、三箱ずつ。


 家の数で割れば、それが最も公平だと考えられていた。


「一箱、足りません」


 配分を担当する若い書記が言った。


 声が固い。


 前庭にいた者達の目が、同時に共同倉庫へ向いた。


 作り直した鍵。


 新しい帳簿。


 まだ戻らない毛布一枚。


 二日前のことを、誰も忘れていなかった。


「中身は」


 アインが尋ねた。


「銀葉草です。低地の南集落へ渡す予定の箱でした」


「出庫札は」


「動いていません」


 倉庫番が答えた。


 セラは育苗箱の列へ近づき、地面に残った跡を見た。


 四角い箱跡が十一。


 その脇から、湿った土の筋が一本だけ伸びている。


「引きずってはいません」


 セラが言った。


「持ち上げています。土が落ちただけです」


 筋は、礼拝堂の裏手へ続いていた。


     ◇


 消えた育苗箱は、礼拝堂の裏にあった。


 軒の影と、浅い水路の間。


 銀葉草は箱から出され、湿った土へ一列に植え直されている。


 その横で、腰の曲がった老女が杓子を持っていた。


「何をしているのです」


 若い書記が詰め寄った。


「植えた」


 老女は答えた。


「見れば分かるだろう」


「勝手に持ち出したのですか」


「あそこに置いたままなら、昼までに半分枯れる」


 老女は杓子で水路の水をすくい、苗の根元へ落とした。


 書記は言葉を失った。


 盗みだ、と言い切るには、苗は隠されていない。


 だが、帳簿には何も書かれていなかった。


「札はあります」


 リシアが、空になった育苗箱を指した。


 箱の内側に、小さな木札が挟まれていた。


 日向から移動。


 根が熱い。


 礼拝堂裏、水路脇。


 字は大きく、不揃いだった。


「書いたのですか」


「倉庫番の娘に習った」


 老女は少し不満そうに言った。


「置き場所を書けと言われたから書いた。あの帳面は字が小さすぎる」


 倉庫番が口元を押さえた。


 笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、リシアには分からなかった。


「この方は、銀葉草を育てていたのですか」


 リシアが尋ねた。


「三十年だ」


 老女は苗の葉を一枚持ち上げた。


「これは北の畑の苗だ。葉が広い。日が強い場所へ持って行けば、水を飲む前に焼ける」


「南集落へ配る予定でした」


 書記が言った。


「だから植えた」


 老女は顔を上げた。


「南へ持って行くな」


     ◇


 残り十一箱の配分は止められた。


 集落ごとの代表者が、前庭へ呼び戻された。


 南の低地。


 西の石混じりの斜面。


 北の林際。


 川沿いの湿地。


 家の数は近い。


 だが、土も、水も、日の当たり方も違った。


「同じ数を渡すのが、公平ではないのですか」


 若い書記は、責める声ではなく尋ねた。


「同じ苗を、同じ数だけ渡せば、受け取ったことだけは同じになります」


 ステファニアが答えた。


「育つ数は同じになりません」


 彼女は配分表の上へ、別の紙を重ねた。


 集落名の横に、家の数ではなく、畑の条件を書き加える。


 乾きやすい。


 朝だけ日が当たる。


 水路から遠い。


 獣が入りやすい。


「ですが、土地の良い集落だけが多く受け取ることになりませんか」


「多く育てられる場所へ、全てを渡すわけではありません」


 エレナが言った。


 彼女は十一箱を、配る箱と残す箱へ分けた。


「今植える分。根付いた後に分ける分。種を取る分。合わない土地へ渡さない分です」


「渡さない分も数えるのですね」


 リシアが言った。


「はい。断った集落を、受取拒否として扱いません」


 エレナは南集落の欄へ、拒否ではなく別の語を書いた。


 土地不適合。


 再選定。


「受け取らないと、次の配分を減らされるのでは」


 南集落の男が尋ねた。


 その心配は、あまりに早く口から出た。


 以前なら、中央から来た物を断ることは、忠誠が足りないという記録に変えられた。


 聖女アリシアの扇が、ゆっくりと閉じた。


「育たない苗を断ったことで、次に必要な苗まで減らす」


 閉じた扇の先が、配分表の空欄へ触れた。


「そのような帳簿は、配分ではなく服従を数えておりますわ」


 若い書記は、すぐに南集落の家数へ引いた線を消した。


     ◇


 セラは、育苗箱を一つ持ち上げた。


 箱の底から水が落ち、靴の先を濡らした。


「運ぶ間に水が抜けます」


「抜けない方がよいのでは」


 村山技研の若い技師が尋ねた。


 簡易温水器と輸送箱を運んできた技師だった。


 老女が首を振った。


「塞げば根が腐る」


「では、水を保ちながら、溜めない」


 技師は育苗箱を裏返した。


 細い隙間はあるが、荷車へ積むと下の箱の蓋で塞がれる。


「重ね方の問題です」


 セラは空箱を二つ重ね、間へ指を入れた。


「この幅があれば、水は落ちます。ですが、揺れると苗が擦れます」


「角に木片を足します」


「外せるようにしてください。苗で高さが違います」


 技師が図面を出しかけると、老女が杓子の柄で箱の角を示した。


「図にする前に、端材を四つ持ってこい」


 技師は一度瞬いた。


「はい」


 アインが言った。


「先に試せ」


 端材を挟んだ箱は、荷車の上で三度揺らされた。


 一度目は苗を入れずに。


 二度目は湿らせた土を入れて。


 三度目は、銀葉草より背の高い赤根草を入れて。


 セラが荷車を押し、技師が箱を押さえ、老女が一番大きな声で止めた。


「今の揺れなら、林際へ着く前に二本折れる」


「二本ですか」


「三本かもしれん」


「増えました」


「なら、もっとゆっくり押せ」


 リシアは、思わず笑った。


 技師も困った顔のまま、少しだけ笑った。


     ◇


 午後には、十二箱の行き先が組み直された。


 南集落へは、銀葉草ではなく、乾いた畑でも育つ細豆と赤根草。


 川沿いの湿地へは、銀葉草。ただし一度に三箱ではなく一箱だけ。


 北の林際には、根付いた後で株を分けられるよう、親株を含む二箱。


 西の斜面へは、現地の苦葉草を残し、持ち込んだ苗は少量だけ試す。


 残った箱は、共同倉庫へ戻されなかった。


 前庭の東側へ、簀の子と古い布で仮の苗置き場が作られた。


 日向。


 半日陰。


 水を多く使う場所。


 乾かしておく場所。


 棚ではなく、土地の条件で置き場所を分けた。


「苗は誰の物になりますか」


 川沿いの集落から来た女が尋ねた。


「苗を受け取った後です。育った葉を施療院へ納める義務はありますか」


 ステファニアは、配分条件を読み直した。


 苗は譲渡。


 育苗箱と運搬用の角木は共同備品。


 育て方の記録は共有できるが、畑の所有者名と収穫量は本人の同意なく集めない。


 枯れた場合の返金、返礼、代納義務はない。


 採れた種を残すことも、近隣と交換することも妨げない。


「収穫は、育てた方のものです」


 ステファニアが答えた。


「施療院へ納める場合は、寄進か取引かを、その都度選んでください」


「苗をいただいたのに」


 女は戸惑った。


 聖女アリシアの扇が開いた。


「実りは、援助につける利息ではございませんわ」


 女はしばらく黙り、それから深くではなく、いつもの礼をした。


     ◇


 夕方、礼拝堂裏の銀葉草は、まだ葉を伏せていた。


 根付いたとは言えない。


 老女は一本ずつ葉の裏を見て、傷んだ二本だけを抜いた。


「助かりますか」


 リシアが尋ねた。


「半分は」


「半分」


「全部助かると言う奴には、苗を預けるな」


 老女は抜いた苗を水路脇へ置いた。


 若い書記が、新しい配分表を持ってきた。


 老女の名を書く欄はない。


 代わりに、移した時刻、根の状態、植え替え先、明朝の確認者が書かれている。


「これでよいでしょうか」


 書記が尋ねた。


 老女は紙を遠ざけたり近づけたりした。


「字が小さい」


「大きくします」


「明日の朝は、私が見る」


「それも書きます」


 アインは、礼拝堂裏から前庭まで続く土の跡を見た。


「盗みじゃなかったな」


 若い書記が、少し顔を赤くした。


「はい」


「次は、先に苗を見ろ」


「はい」


 前庭では、南集落へ戻る子供達が、空の育苗箱を洗っていた。


 四隅には、試しに削った角木が差してある。


 礼拝堂裏から老女の声が飛んだ。


「水へ沈めるな。木が膨らむ」


 子供達は慌てて箱を引き上げた。


 濡れた角木から雫が落ち、前庭の土へ小さな丸をいくつも作った。


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