第百五十夜 合わない数
第百五十夜 合わない数
最初に気づいたのは、倉庫番だった。
朝の祈りが終わり、施療院の洗い場で温い水が使われ始め、宿泊所へ戻る輸送箱の底が乾いた頃。
共同倉庫の奥で、木札が一枚だけ動かなかった。
入庫。
出庫。
残数。
空き。
四枚の札のうち、残数だけが帳簿と合っていない。
「薬品棚ですか」
エレナが尋ねた。
「いいえ」
倉庫番は、帳簿の端を押さえた。
「薬品棚ではありません。寝具棚です」
毛布が三枚。
清潔な布が十二枚。
乾燥豆の袋が二つ。
保存食の小箱が一つ。
それだけなら、数え間違いで済んだ。
だが、空き棚の札も合わなかった。
何かが減っているのに、空いた場所が増えていない。
「使った記録は」
アインが尋ねた。
「ありません」
倉庫番は、声を落とした。
「少なくとも、ここには」
◇
共同倉庫の床へ、三つの帳簿が並べられた。
施療院の受取帳。
地域薬師組合の調達帳。
白灯救済奉仕会の救護中心派の出庫帳。
エレナは、その横に輸送箱の札記録を置いた。
青。
緑。
黄。
赤。
隔離。
判定待ち。
五つの札は、昨日までただの手順だった。
今日は、数の逃げ道を塞ぐ線になっていた。
「箱で運んだ物は合っています」
エレナが言った。
「宿泊所へ出た粥、布、薬草。戻った箱。底の泥。追加した荷置き台。全て記録と一致します」
「では、箱を使わない物ですか」
リシアが言った。
「はい」
エレナは、寝具棚の出庫欄を指した。
「ここだけ、出た記録がありません」
セラが棚の前へ立った。
扉は壊れていない。
鍵穴にも傷はない。
薬品棚は三者確認でなければ開かないが、食料棚と寝具棚は当番鍵で開く。
前日に決めたとおりだった。
「鍵を持つ者は」
セラが尋ねた。
「当番は私です」
倉庫番が答えた。
「ですが、礼拝堂側にも古い合鍵があります。以前は、司祭様が急な施しの時に使うため、と」
言い終えたところで、倉庫番の顔色が変わった。
自分で言葉にして、初めてそこへ辿り着いた顔だった。
「古い鍵は、返却されていません」
◇
古い合鍵は、礼拝堂の祭具箱に収められていた。
少なくとも、台帳にはそう書かれていた。
実際には、祭具箱には鍵がなかった。
代わりに、細い紙片が三枚挟まれている。
祈祷用毛布。
上位者用備蓄。
教会裁量分。
署名はない。
印章もない。
ただ、見慣れた筆跡で、短い言葉だけが残っていた。
「正式な命令ではありません」
ステファニアが言った。
「署名も印章もなく、根拠条項もない。ですが、現場では命令のように扱われます」
「誰の筆跡ですか」
リシアが尋ねた。
院長は一度、礼拝堂の奥へ目を向けた。
「主任司祭です」
小施療院の院長ではない。
中央暗部でもない。
この地域の礼拝と寄進管理を長く任されてきた司祭だった。
「取り巻きは」
アインが言った。
問いは短い。
けれど、院長は答えられなかった。
代わりに、白灯救済奉仕会の女が口を開いた。
「寄進品を整理する係が三名。礼拝堂の会計補助が一名。宿泊所へ出入りする世話役が一名です」
「知っていたのですか」
若い治療師が震える声で言った。
「疑っていました」
女は、目を逸らさなかった。
「ですが、数が合わないと示せませんでした」
◇
主任司祭は、礼拝堂の奥の小部屋にいた。
白い祭服ではない。
普段着の上に、古い肩掛けだけを羽織っている。
取り巻きの二人が、入口の前で立ち尽くしていた。
「何か誤解があるようですな」
主任司祭は、穏やかに言った。
「救護の物資は、救護のために一時保管しただけです。上位者への祈祷、遠方から来る信徒、急な施し。全て、教会の裁量として」
エレナは、紙片を卓へ置いた。
「署名がありません」
「緊急でした」
「印章もありません」
「信頼で動くべき時もあります」
「受取人の記録もありません」
主任司祭の笑みが、ほんの少しだけ浅くなった。
「幼い方には、信仰共同体の事情は分かりにくいでしょう」
リシアの胸が冷えた。
言葉は柔らかい。
だが、その柔らかさは、問いを包むためではなかった。
問いを無くすための布だった。
「分かりにくいので、数を見ます」
エレナは言った。
声は小さい。
けれど、揺れなかった。
「毛布三枚。清潔な布十二枚。乾燥豆二袋。保存食一箱。どこへ置きましたか」
「それは」
「祈祷用なら、どの祈祷へ。上位者用備蓄なら、誰の保管へ。教会裁量分なら、裁量を記録した者は誰ですか」
主任司祭は答えなかった。
◇
ステファニアは、記録を四つに分けた。
現物確認。
紙片保全。
関係者保護。
処罰権限。
「この場で処罰しません」
彼女は最初にそう言った。
倉庫番が、息を呑む。
「しないのですか」
「できる者が、正しく行います。ここで感情のまま裁けば、次に同じことが起きた時、強い者が弱い者を裁く手順になります」
ステファニアは、主任司祭から視線を外さなかった。
「ただし、証拠は動かしません。関係者の接触も制限します。倉庫の古い鍵は回収し、合鍵の存在を全て申告していただきます」
「教会の内部問題へ、外部の貴族が踏み込むおつもりか」
主任司祭の声が低くなった。
聖女アリシアの扇が止まった。
開きかけていた扇は、そのまま動かない。
「祈りのために預かった物を、祈る者から奪った」
静かな声だった。
「それを内部問題と呼ぶのなら、まず内部の言葉を正してくださいませ」
主任司祭は、初めて聖女アリシアを見た。
彼女は笑っていなかった。
「これは、信仰の問題ではございませんわ」
扇の先が、紙片を指した。
「預かり物の行き先を消した問題です」
◇
取り巻きの一人は、すぐに崩れた。
保存食の小箱は、礼拝堂裏の物置にあった。
乾燥豆の袋は、一つが主任司祭の客間へ、一つが会計補助の家へ運ばれていた。
毛布三枚のうち二枚は、遠方から来る上位聖職者用として取り置かれ、一枚は取り巻きの家族へ渡っていた。
清潔な布十二枚は、六枚が祈祷室の飾り布へ替えられ、四枚が未使用のまま祭具棚へ隠され、二枚は見つからなかった。
薬品棚は開いていない。
そこだけは、三者確認が守った。
「薬品に手を出していないなら、軽くなりますか」
若い治療師が言った。
怒りより先に、何かへ縋りたい声だった。
「ならない」
アインが答えた。
「え」
「盗みだ」
それだけだった。
薬品か、毛布か、豆か。
高価か、安価か。
祈祷用か、救護用か。
どの名を付けても、倉庫から消え、使うはずだった者へ届かなかった事実は変わらない。
「命が直接失われていないことは、結果です」
ステファニアが続けた。
「罪の有無ではありません」
◇
夕方までに、共同倉庫の鍵は全て作り直された。
古い合鍵は、回収済みとして封筒へ入れられた。
封筒の表には、倉庫番、院長、地域薬師組合の年長者、白灯救済奉仕会の女が、それぞれ名を書いた。
主任司祭と取り巻きの接触制限は、地域評議と学院長府確認窓口へ同時に送られた。
ベルン商会の輸送担当は、回収物の返還経路を記録した。
誰も、主任司祭をその場で殴らなかった。
誰も、礼拝堂を閉じろとは言わなかった。
祈りの時間は、いつも通り告げられた。
ただし、寄進箱の横には、新しい札が掛けられている。
寄進品は、預かり記録へ。
救護品は、共同倉庫へ。
祈祷用への転用は、本人同意と三者記録を要する。
リシアは、その札を見上げた。
「祈る場所を残すために、祈りで隠せないようにするのですね」
「はい」
倉庫番が答えた。
今度は、少しだけ声が強かった。
「数えられるようにします」
アインは、空いた棚を見た。
昨日、用途未定と書かれた一段。
そこには、戻ってきた毛布が二枚だけ置かれている。
一枚分は、まだ空いていた。
「埋めるな」
アインが言った。
倉庫番は頷いた。
未返還一枚の欄へ捜索継続と記し、戻った二枚の隣を空けたまま、帳簿を閉じた。
礼拝堂から、夕刻の祈りが聞こえ始めた。
その声が続く間も、一枚分の空きは、消えた毛布の行き先を問い続けていた。




