第百五十二夜 空けておく椅子
第百五十二夜 空けておく椅子
鍋が落ちたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
共同食堂から宿泊所へ続く廊下で、白灯救済奉仕会の若い男が足を取られた。
両手には、熱のある旅人へ運ぶ粥の鍋。
足元には、昼間届いた毛布の包み。
廊下の反対側からは、洗い場へ急ぐ治療師が水桶を抱えて来ていた。
どちらも、相手が見えていなかったわけではない。
避ける場所がなかった。
「下がってください」
セラが鍋の持ち手を横から掴んだ。
傾いた鍋は、壁際で眠っていた子供から外れた。
それでも粥は縁からこぼれ、若い男の手首へかかった。
男は鍋を離さなかった。
「置け」
アインが言った。
「ですが、二階へ」
「置け」
男はようやく膝を曲げた。
セラが鍋を受け取り、治療師が水桶を床へ下ろした。
リシアは男の袖をまくった。
手首が赤くなっている。
「温い水を」
院長が洗い場を指した。
「走らなくてよい。今度は、道を空けてから」
◇
共同食堂、宿泊所、小施療院は、もともと別々の建物だった。
中央からの配給が止まり、救護を求める者が増えてから、三つは渡り廊下と裏口で繋がれた。
食堂の鍋を宿泊所へ運べる。
宿泊所の患者を雨に濡らさず施療院へ移せる。
洗った布を、外へ出ずにどちらへも届けられる。
便利になった。
その分、廊下には物が増えた。
返却待ちの育苗箱。
洗った毛布。
空の水桶。
修理待ちの椅子。
寄進された子供服。
誰かが一度だけ置き、次の誰かが壁際へ寄せ、いつの間にか通路の半分を使っていた。
「この毛布は、どこへ置く予定でしたか」
エレナが尋ねた。
「寝具棚です」
倉庫番が答えた。
「棚が一杯になったので、明日の朝までここへ」
「育苗箱は」
「洗った後、前庭へ戻すまで」
「水桶は」
「乾くまでです」
どれも、ここへ置く理由はあった。
ここへ置き続ける理由だけがなかった。
ステファニアが、廊下の幅を歩いて確かめた。
「一人なら通れます」
「鍋と水桶が来ると通れません」
セラが答えた。
「担架なら、どちらも来なくても通れません」
若い男の手首へ冷やした布を巻いていた院長が、顔を上げた。
「担架は正面口から入れます」
「雨の夜もですか」
リシアが尋ねた。
院長は答えなかった。
◇
「座ってください」
治療を終えた若い男へ、リシアは言った。
「問題ありません。まだ運べます」
「今は、運ばないでください」
男は困ったように廊下を見た。
座る場所がない。
壁際の長椅子には清潔な布が積まれていた。
食堂の椅子は夜食を待つ患者と付添人が使っている。
宿泊所の空き寝台には、雨を避けて運び込まれた薪袋が置かれていた。
「休憩室は」
アインが尋ねた。
「あります」
院長は、宿泊所の奥を指した。
小さな部屋だった。
扉には、休息室と書かれた札が掛かっている。
中には薬瓶の空箱、予備の蝋燭、会計用の机、洗う前の寝具が積まれていた。
横になれる場所はない。
「いつからですか」
ステファニアが尋ねた。
「少しずつです」
院長は額へ手を当てた。
「最初は空箱一つでした。雨の日だけ薪を置き、帳簿が増えたので机を入れ、患者が増えた日は寝具を」
「休んだ記録は」
エレナが帳簿を開いた。
「勤務記録には、交代済みとあります」
若い男が首を横へ振った。
「交代した後、宿泊所へ粥を運びました」
「それは勤務ではないのですか」
「当番ではありません」
「では、何ですか」
「手が空いていたので」
男はそう答えた後、自分の周りを見た。
どこにも、空いた手はなかった。
◇
荷物は、その場で動かされた。
アインが薪袋を持ち上げ、宿泊所の裏口へ運んだ。
セラは廊下の毛布を共同倉庫へ戻し、空いた幅へ担架を通した。
担架の端が壁へ二度当たった。
「まだ狭いです」
修理待ちの椅子が外へ出された。
育苗箱は前庭の簀の子へ戻された。
水桶には、乾燥中の札と、戻す時刻が付けられた。
休息室の空箱は、潰して薪置き場の棚下へ収めた。
会計机だけは動かなかった。
「夜の記録に必要です」
倉庫番が言った。
「ここでなければ、食堂の卓を使うことになります」
リシアは休息室の広さを見た。
机を置けば、一人分の寝台が入らない。
寝台を置けば、夜の帳簿を書く場所がなくなる。
「食堂の端へ、小さな記録台を置けませんか」
「食事中の方から帳簿が見えます」
エレナが答えた。
「では、衝立を」
「作れます」
村山技研の若い技師が、修理待ちの椅子を抱えたまま言った。
「ですが、今夜には間に合いません」
聖女アリシアが、食堂の配膳棚を見た。
「あちらの裏側は、いかがでしょう」
棚と壁の間には、人一人が座れる空間があった。
料理を受け取る側からは見えない。
帳簿を広げても、通路を塞がない。
「仮置きなら」
倉庫番が言った。
「仮置きに期限を付けます」
ステファニアが答えた。
「三日。衝立と記録台ができたら移します。期限を過ぎても動かなければ、理由を確認します」
会計机は四人で持ち上げられた。
空いた休息室へ、宿泊所の空き寝台が戻された。
若い男は扉の前で立ち止まった。
「私が使ってよいのですか」
「そのための部屋です」
リシアが答えた。
「ですが、私は怪我をしただけで」
聖女アリシアの扇が、静かに閉じた。
「休む方が謝る場所は、休息室とは呼べませんわ」
男は、ようやく寝台へ腰を下ろした。
座っただけで、肩が落ちた。
◇
翌朝、三つの建物には同じ見取図が貼られた。
通る場所。
物を置く場所。
火を使う場所。
休む場所。
色は使わなかった。
夜の薄暗さでは見分けにくく、布や札の色とも重なるからだ。
代わりに、床と壁へ形の違う印を付けた。
通路は長い線。
荷置き場は四角。
火を使う場所は三本の短い線。
休息室と休憩椅子には、背もたれの形をした印。
セラは目を閉じたまま廊下を歩き、壁の印へ指を触れた。
「暗くても分かります」
「荷物を置かれたら」
リシアが尋ねた。
「足が先に当たります」
「それでは遅いですね」
リシアは少し考え、四角い荷置き札とは別に、通路へ物を置いた時だけ使う大きな木札を用意した。
移動待ち。
時刻。
移す先。
書けない者は、当番へ声を掛ける。
「札を置けば、通路へ物を置いてよいことになりませんか」
院長が尋ねた。
「なりません」
ステファニアが言った。
「置いてしまった時に、消えないようにする札です。許可ではありません」
エレナは勤務帳から、交代済みという欄を消した。
代わりに二つへ分けた。
当番終了。
休息開始。
「当番が終わっても、運搬や洗い物を続ければ休息には入りません」
「名前は書きますか」
倉庫番が尋ねた。
「当番表には必要です。ですが、休めなかった理由を本人の怠慢として集計しません」
エレナは前夜の記録を指した。
「粥の運搬、寝具の移動、急患、交代者不足。直す場所を残します」
「交代者がいない時は」
「休息室を無くすな」
アインが答えた。
「人を呼べ。仕事を減らせ。それでも足りなければ、受け入れる数を決めろ」
院長が息を止めた。
「断れ、と」
「倒れてから全部止めるよりましだ」
アインは、廊下の端に置かれた一脚の椅子を見た。
修理を終え、背もたれの印が付けられている。
「休む場所を、余った場所にするな」
◇
昼までに、前夜の鍋は宿泊所へ届いた。
作り直した粥だった。
運んだのは、別の当番二人。
火のある食堂から、長い線の引かれた廊下を通り、宿泊所の四角い荷置き場で一度下ろした。
水桶と行き違う時は、荷置き場で待った。
担架が来た時は、鍋を持ち上げず、道を譲った。
昨夜手首を冷やした男は、休息室で朝まで眠った。
目を覚ました後、仕事へ戻ろうとして院長に止められた。
「今日は昼まで休みです」
「もう痛みません」
「痛まないことは、仕事へ戻す理由にはなりません」
男は不満そうだった。
それでも、寝台へ戻った。
セラが少しだけ頷いた。
「止まれたなら、問題ありません」
リシアは、以前どこかで聞いた言葉だと思った。
だが、口にはしなかった。
◇
夕刻、ベルン商会の伝令が裏口から入ってきた。
馬を替えながら走ってきたらしく、外套の裾に三種類の泥が付いている。
「ファーランド公家、アークライト連絡窓口、学院長府確認窓口へ、同時送付です」
伝令は封筒を三つ差し出した。
声は崩れていない。
膝だけが、わずかに震えていた。
「先に座れ」
アインが言った。
「報告を」
「座ってからでいい」
伝令は廊下の端を見た。
背もたれの印が付いた椅子には、何も置かれていない。
彼は一度だけ迷い、腰を下ろした。
リシアが水を渡した。
伝令は半分飲んでから、最初の封筒を開いた。
「ミース大河東岸で、帝国軍の渡河用資材が集められています。ファーランド北方から東へ伸びる尾根道では、測量隊が確認されました」
リシアの手が、水の杯の縁で止まった。
二つ目。
「アレーナ王国内で、メシア教会名義の信徒保護要請が回されています。同時に、ファーランド方面へ向けた兵站徴発が始まりました」
ステファニアは、二つ目の封筒へ視線を落とした。
三つ目。
「エリオノーラ殿下の旧王都を確保できなかった帝国南方軍が、編成を解いていません。そのまま南下し、湾岸都市国家群へ向かっています」
食堂から、器を重ねる音が聞こえた。
聖女アリシアの扇は開かなかった。
「三つとも、同じ日ですのね」
「はい」
伝令は最後に、封蝋の写しを一枚出した。
「帝国側の連絡文書から、正教国中枢を追われつつある枢機卿の私印が見つかっています」
アインは写しを受け取った。
「クラウに繋げ」
エレナが拡張視覚端末を開いた。
休息室では、若い男がまだ眠っていた。
誰も起こしに行かなかった。




