↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

175/186

第百五十二夜 空けておく椅子

第百五十二夜 空けておく椅子


 鍋が落ちたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。


 共同食堂から宿泊所へ続く廊下で、白灯救済奉仕会の若い男が足を取られた。


 両手には、熱のある旅人へ運ぶ粥の鍋。


 足元には、昼間届いた毛布の包み。


 廊下の反対側からは、洗い場へ急ぐ治療師が水桶を抱えて来ていた。


 どちらも、相手が見えていなかったわけではない。


 避ける場所がなかった。


「下がってください」


 セラが鍋の持ち手を横から掴んだ。


 傾いた鍋は、壁際で眠っていた子供から外れた。


 それでも粥は縁からこぼれ、若い男の手首へかかった。


 男は鍋を離さなかった。


「置け」


 アインが言った。


「ですが、二階へ」


「置け」


 男はようやく膝を曲げた。


 セラが鍋を受け取り、治療師が水桶を床へ下ろした。


 リシアは男の袖をまくった。


 手首が赤くなっている。


「温い水を」


 院長が洗い場を指した。


「走らなくてよい。今度は、道を空けてから」


     ◇


 共同食堂、宿泊所、小施療院は、もともと別々の建物だった。


 中央からの配給が止まり、救護を求める者が増えてから、三つは渡り廊下と裏口で繋がれた。


 食堂の鍋を宿泊所へ運べる。


 宿泊所の患者を雨に濡らさず施療院へ移せる。


 洗った布を、外へ出ずにどちらへも届けられる。


 便利になった。


 その分、廊下には物が増えた。


 返却待ちの育苗箱。


 洗った毛布。


 空の水桶。


 修理待ちの椅子。


 寄進された子供服。


 誰かが一度だけ置き、次の誰かが壁際へ寄せ、いつの間にか通路の半分を使っていた。


「この毛布は、どこへ置く予定でしたか」


 エレナが尋ねた。


「寝具棚です」


 倉庫番が答えた。


「棚が一杯になったので、明日の朝までここへ」


「育苗箱は」


「洗った後、前庭へ戻すまで」


「水桶は」


「乾くまでです」


 どれも、ここへ置く理由はあった。


 ここへ置き続ける理由だけがなかった。


 ステファニアが、廊下の幅を歩いて確かめた。


「一人なら通れます」


「鍋と水桶が来ると通れません」


 セラが答えた。


「担架なら、どちらも来なくても通れません」


 若い男の手首へ冷やした布を巻いていた院長が、顔を上げた。


「担架は正面口から入れます」


「雨の夜もですか」


 リシアが尋ねた。


 院長は答えなかった。


     ◇


「座ってください」


 治療を終えた若い男へ、リシアは言った。


「問題ありません。まだ運べます」


「今は、運ばないでください」


 男は困ったように廊下を見た。


 座る場所がない。


 壁際の長椅子には清潔な布が積まれていた。


 食堂の椅子は夜食を待つ患者と付添人が使っている。


 宿泊所の空き寝台には、雨を避けて運び込まれた薪袋が置かれていた。


「休憩室は」


 アインが尋ねた。


「あります」


 院長は、宿泊所の奥を指した。


 小さな部屋だった。


 扉には、休息室と書かれた札が掛かっている。


 中には薬瓶の空箱、予備の蝋燭、会計用の机、洗う前の寝具が積まれていた。


 横になれる場所はない。


「いつからですか」


 ステファニアが尋ねた。


「少しずつです」


 院長は額へ手を当てた。


「最初は空箱一つでした。雨の日だけ薪を置き、帳簿が増えたので机を入れ、患者が増えた日は寝具を」


「休んだ記録は」


 エレナが帳簿を開いた。


「勤務記録には、交代済みとあります」


 若い男が首を横へ振った。


「交代した後、宿泊所へ粥を運びました」


「それは勤務ではないのですか」


「当番ではありません」


「では、何ですか」


「手が空いていたので」


 男はそう答えた後、自分の周りを見た。


 どこにも、空いた手はなかった。


     ◇


 荷物は、その場で動かされた。


 アインが薪袋を持ち上げ、宿泊所の裏口へ運んだ。


 セラは廊下の毛布を共同倉庫へ戻し、空いた幅へ担架を通した。


 担架の端が壁へ二度当たった。


「まだ狭いです」


 修理待ちの椅子が外へ出された。


 育苗箱は前庭の簀の子へ戻された。


 水桶には、乾燥中の札と、戻す時刻が付けられた。


 休息室の空箱は、潰して薪置き場の棚下へ収めた。


 会計机だけは動かなかった。


「夜の記録に必要です」


 倉庫番が言った。


「ここでなければ、食堂の卓を使うことになります」


 リシアは休息室の広さを見た。


 机を置けば、一人分の寝台が入らない。


 寝台を置けば、夜の帳簿を書く場所がなくなる。


「食堂の端へ、小さな記録台を置けませんか」


「食事中の方から帳簿が見えます」


 エレナが答えた。


「では、衝立を」


「作れます」


 村山技研の若い技師が、修理待ちの椅子を抱えたまま言った。


「ですが、今夜には間に合いません」


 聖女アリシアが、食堂の配膳棚を見た。


「あちらの裏側は、いかがでしょう」


 棚と壁の間には、人一人が座れる空間があった。


 料理を受け取る側からは見えない。


 帳簿を広げても、通路を塞がない。


「仮置きなら」


 倉庫番が言った。


「仮置きに期限を付けます」


 ステファニアが答えた。


「三日。衝立と記録台ができたら移します。期限を過ぎても動かなければ、理由を確認します」


 会計机は四人で持ち上げられた。


 空いた休息室へ、宿泊所の空き寝台が戻された。


 若い男は扉の前で立ち止まった。


「私が使ってよいのですか」


「そのための部屋です」


 リシアが答えた。


「ですが、私は怪我をしただけで」


 聖女アリシアの扇が、静かに閉じた。


「休む方が謝る場所は、休息室とは呼べませんわ」


 男は、ようやく寝台へ腰を下ろした。


 座っただけで、肩が落ちた。


     ◇


 翌朝、三つの建物には同じ見取図が貼られた。


 通る場所。


 物を置く場所。


 火を使う場所。


 休む場所。


 色は使わなかった。


 夜の薄暗さでは見分けにくく、布や札の色とも重なるからだ。


 代わりに、床と壁へ形の違う印を付けた。


 通路は長い線。


 荷置き場は四角。


 火を使う場所は三本の短い線。


 休息室と休憩椅子には、背もたれの形をした印。


 セラは目を閉じたまま廊下を歩き、壁の印へ指を触れた。


「暗くても分かります」


「荷物を置かれたら」


 リシアが尋ねた。


「足が先に当たります」


「それでは遅いですね」


 リシアは少し考え、四角い荷置き札とは別に、通路へ物を置いた時だけ使う大きな木札を用意した。


 移動待ち。


 時刻。


 移す先。


 書けない者は、当番へ声を掛ける。


「札を置けば、通路へ物を置いてよいことになりませんか」


 院長が尋ねた。


「なりません」


 ステファニアが言った。


「置いてしまった時に、消えないようにする札です。許可ではありません」


 エレナは勤務帳から、交代済みという欄を消した。


 代わりに二つへ分けた。


 当番終了。


 休息開始。


「当番が終わっても、運搬や洗い物を続ければ休息には入りません」


「名前は書きますか」


 倉庫番が尋ねた。


「当番表には必要です。ですが、休めなかった理由を本人の怠慢として集計しません」


 エレナは前夜の記録を指した。


「粥の運搬、寝具の移動、急患、交代者不足。直す場所を残します」


「交代者がいない時は」


「休息室を無くすな」


 アインが答えた。


「人を呼べ。仕事を減らせ。それでも足りなければ、受け入れる数を決めろ」


 院長が息を止めた。


「断れ、と」


「倒れてから全部止めるよりましだ」


 アインは、廊下の端に置かれた一脚の椅子を見た。


 修理を終え、背もたれの印が付けられている。


「休む場所を、余った場所にするな」


     ◇


 昼までに、前夜の鍋は宿泊所へ届いた。


 作り直した粥だった。


 運んだのは、別の当番二人。


 火のある食堂から、長い線の引かれた廊下を通り、宿泊所の四角い荷置き場で一度下ろした。


 水桶と行き違う時は、荷置き場で待った。


 担架が来た時は、鍋を持ち上げず、道を譲った。


 昨夜手首を冷やした男は、休息室で朝まで眠った。


 目を覚ました後、仕事へ戻ろうとして院長に止められた。


「今日は昼まで休みです」


「もう痛みません」


「痛まないことは、仕事へ戻す理由にはなりません」


 男は不満そうだった。


 それでも、寝台へ戻った。


 セラが少しだけ頷いた。


「止まれたなら、問題ありません」


 リシアは、以前どこかで聞いた言葉だと思った。


 だが、口にはしなかった。


     ◇


 夕刻、ベルン商会の伝令が裏口から入ってきた。


 馬を替えながら走ってきたらしく、外套の裾に三種類の泥が付いている。


「ファーランド公家、アークライト連絡窓口、学院長府確認窓口へ、同時送付です」


 伝令は封筒を三つ差し出した。


 声は崩れていない。


 膝だけが、わずかに震えていた。


「先に座れ」


 アインが言った。


「報告を」


「座ってからでいい」


 伝令は廊下の端を見た。


 背もたれの印が付いた椅子には、何も置かれていない。


 彼は一度だけ迷い、腰を下ろした。


 リシアが水を渡した。


 伝令は半分飲んでから、最初の封筒を開いた。


「ミース大河東岸で、帝国軍の渡河用資材が集められています。ファーランド北方から東へ伸びる尾根道では、測量隊が確認されました」


 リシアの手が、水の杯の縁で止まった。


 二つ目。


「アレーナ王国内で、メシア教会名義の信徒保護要請が回されています。同時に、ファーランド方面へ向けた兵站徴発が始まりました」


 ステファニアは、二つ目の封筒へ視線を落とした。


 三つ目。


「エリオノーラ殿下の旧王都を確保できなかった帝国南方軍が、編成を解いていません。そのまま南下し、湾岸都市国家群へ向かっています」


 食堂から、器を重ねる音が聞こえた。


 聖女アリシアの扇は開かなかった。


「三つとも、同じ日ですのね」


「はい」


 伝令は最後に、封蝋の写しを一枚出した。


「帝国側の連絡文書から、正教国中枢を追われつつある枢機卿の私印が見つかっています」


 アインは写しを受け取った。


「クラウに繋げ」


 エレナが拡張視覚端末を開いた。


 休息室では、若い男がまだ眠っていた。


 誰も起こしに行かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。