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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百四十八夜 温い水の条件

第百四十八夜 温い水の条件


 最初の小施療院は、朝の祈りを終えても扉を閉めなかった。


 以前は、礼拝所の扉を閉めてから、中央への報告義務を拒む手順を読み上げた場所だった。


 今は、扉の前に小さな木札が掛かっている。


 診療中。


 礼拝中。


 相談可。


 三枚の札は、同じ紐に通されていた。


「一つだけ外すと、紐ごと傾きます」


 院長が言った。


「誰かが考えたのですか」


 リシアが尋ねた。


「患者の子供が」


 院長は少しだけ笑った。


「祈る人と診てもらう人が、同じ入口で迷わないように、と」


 玄関脇には、村山技研アークライト分室から届いた木箱が置かれていた。


 中身は、簡易温水器。


 新型機関の部材ではない。


 戦うための装備でもない。


 水を温めるための小さな機械だった。


     ◇


「受け入れ条件を確認します」


 ステファニアは、木箱の上へ書面を置いた。


 寄進ではない。


 貸与でもない。


 施療院、地域薬師組合、白灯救済奉仕会の救護中心派、ベルン商会、村山技研アークライト分室が共同で扱う試験導入。


 祈り、礼拝、信仰告白、組織加入、報告義務を条件にしない。


 使用をやめても、返礼義務は発生しない。


 故障記録と消耗品使用量は共有するが、患者名、病名、信仰、寄進額は記録対象に含めない。


「ずいぶん、条件が多いのですね」


 施療院の若い治療師が言った。


「はい」


 ステファニアは頷いた。


「少なければ、誰かが後から足せます」


「後から」


「この装置を置いたのだから、こちらの名を掲げよ。こちらの祈りを先にせよ。患者名を報告せよ。そうした条件を、後で混ぜられないようにするためです」


 治療師は、書面をもう一度見た。


 何をするかより、何をしないかが細かく書かれている。


「助けていただくのに、拒むことばかり書いているようで」


「助ける側が、拒まれる範囲を先に書くのです」


 聖女アリシアが言った。


 扇は閉じている。


「善意は、境界を越える免状ではございませんわ」


 院長は深く頭を下げなかった。


 代わりに、書面の確認欄へ自分の名を書いた。


     ◇


 簡易温水器は、施療院の裏手にある洗い場へ置かれた。


 大きな装置ではない。


 既存のかまどへ接続し、余熱と小さな魔石調整具で水温を保つ。


 湯を作るのではなく、温い水を切らさないためのものだった。


「沸かせないのですか」


 セラが尋ねた。


「沸かせます」


 村山技研の若い技師が答えた。


「ですが、沸かし続ける装置ではありません。熱湯が欲しい時は、これまで通り鍋で沸かしてください。これは手を洗い、布を洗い、身体を冷やさずに拭くための水を安定させるものです」


「熱湯が出ると思って触る者が出ます」


 セラは、吐出口の位置を見た。


「逆もあります。温いと思って触ったら熱い、も危険です」


「温度表示はあります」


「読めない者は」


 技師は一度口を閉じた。


 エレナが、表示板の横へ色札を並べた。


 青。


 緑。


 赤。


「文字を読めない方には、色と音で伝えます。赤の時は栓が固くなるようにできますか」


「できます。少し重くなりますが」


「重くなりすぎると、子供では閉められません」


 リシアが言った。


 洗い場の隅には、水桶が積まれている。


 水を運ぶのは、治療師だけではない。


 近所の子供が手伝うこともある。


 年寄りが自分で布を洗うこともある。


「この高さでは、子供が桶を持ち上げる時に膝をぶつけます」


 リシアは桶の位置を変えた。


「水を運ぶ人も、使う人です」


 アインは技師を見た。


「直せるか」


「台を二段にします。吐出口を少し手前へ出せば、桶を高く持ち上げずに済みます」


「部品は」


「こちらで加工できます。複雑なものではありません」


「なら、そうしろ」


     ◇


 エレナは、記録欄を三つに分けた。


 装置の状態。


 水と燃料の使用量。


 手入れと故障。


「患者名は書きません」


 エレナが言った。


「何人分使ったかも?」


 院長が尋ねた。


「人数は、必要なら範囲で記録します。十人未満、十人から三十人、三十人以上。個人を辿れる形にはしません」


「病名は」


「不要です」


 リシアは少し驚いた。


「病名も、使い方に関係しないのですか」


「この装置が見るのは、水温と故障です」


 クラウディアが答えた。


「誰が何の病で来たかを知る必要はありません」


 施療院の奥で、赤子が泣いた。


 若い母親が、布を抱えて洗い場へ来た。


 院長は一度、アイン達を見た。


「使ってもよろしいですか」


「本人に聞け」


 アインが答えた。


 院長は母親へ説明した。


 新しい装置で温めた水を使うこと。


 患者名や病名は記録しないこと。


 嫌なら、これまで通りかまどの湯を使えること。


 母親は、泣いている赤子を抱き直した。


「温いなら、お願いします」


 最初の使用記録には、名前が残らなかった。


 水温。


 使用量。


 異常なし。


 それだけが記された。


     ◇


 温い水で濡らした布が赤子の肌に触れると、泣き声が少しだけ弱くなった。


 母親はもう一度布を浸し、冷えないうちに小さな腕を拭いた。その肩から、ほんの少し力が抜けた。


 リシアは、その一拍を見ていた。


「治療ではないのですね」


「治療の前に必要なことです」


 院長が答えた。


「手を洗う。布を洗う。身体を冷やさない。湯を沸かす者が、鍋の前から離れられる」


 小施療院には、医師だけがいるわけではない。


 治療師。


 薬師。


 洗い物をする者。


 水を運ぶ者。


 火を見る者。


 祈る者。


 待つ者。


 温い水は、その全員の間を通る。


「これを置くと、救われたことになるのでしょうか」


 若い治療師が尋ねた。


 言葉は慎重だった。


 救いという言葉を、中央が何度も別の意味へ使ってきたからだ。


「ならない」


 アインが答えた。


「え」


「道具が一つ増えただけだ」


 治療師は、温水器を見た。


 木箱から出されたばかりの小さな機械。


 色札が付けられ、吐出口の位置を直され、記録欄を削られた道具。


「ですが、助かります」


「それでいい」


 聖女アリシアの扇が、静かに開いた。


「助かったことを、誰かの所有印に変えなければ」


     ◇


 試験導入の終了時、ステファニアは書面へ最後の欄を加えた。


 現地で直せる故障。


 村山技研へ戻す故障。


 使用を止めるべき異常。


 三つは、別々に記された。


「壊れた時に、すぐ返送ではありませんのね」


 リシアが確認した。


「はい。こちらで直せるものまで返送すれば、ここでは待つしかなくなります」


 ステファニアは、地域の鍛冶師と薬師へ向けた図面を添えた。


「ただし、触れてはいけない部位も明記します。全部を開けられることが自立ではありません」


「触れてよい場所を決めるのですね」


「止める場所も」


 セラが、赤い札の付いた安全弁を見た。


「ここが動かなければ、使ってはいけません」


「分かりやすいです」


 院長が言った。


「祈る前にも、火を見る前にも、最初に見る場所を決めておけます」


 アインは、小施療院の洗い場を見た。


 新しい機械は一つ。


 けれど、変えたのは機械だけではなかった。


 書く欄。


 読まない欄。


 触れてよい場所。


 止める場所。


 断ってよい条件。


 誰が水を運ぶか。


 誰が火を見るか。


 誰が休めるか。


「置いて終わりにするな」


 アインが言った。


「使える形にしろ」


「はい」


 院長と治療師、薬師、技師が同時に答えた。


 洗い場の片隅で、温い水の湯気が細く上がっている。


 祈りの声と、赤子の泣き声と、工具の音が、同じ建物の中にあった。


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