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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百四十四夜 祈りの下の観測者

第百四十四夜 祈りの下の観測者


「調査のために、祈っていただくことはできません」


 エリオット・ヴァルナーは、照会書を読み終える前に言った。


 学院北棟の小会議室には、旧礼拝堂の現行管理記録と、前日に観測された三本の旧観測線が並べられている。


 照会書には、旧礼拝堂で鐘または祈祷を行い、その際の応答を観測したいと記されていた。


 命令ではない。


 神殿側へ可否を問うための草案だった。


「理由を伺ってもよろしいですか」


 エレナが尋ねた。


「祈りは、観測装置を動かすための操作ではないからです」


 エリオットは照会書を卓上へ戻した。


「祈る者が調査の意味を理解し、自分で祈ると決めるなら止めません。ですが、正しい反応を得るために正しい文言を唱えてほしいと頼めば、それは祈りではなくなります」


「意味を理解せず続けられてきた儀礼であったとしても、ですか」


 ステファニアが尋ねた。


「続けた者にとっての意味はあります」


 エリオットは答えた。


「古い意味が失われていることと、現在の祈りに意味がないことは同じではありません」


 アリシアの扇が、膝の上で僅かに動いた。


「よろしいお返事ですわ」


 柔らかな声だった。


 エリオットは褒められた顔をせず、照会書の次の頁を開いた。


「通常どおり行われる祈りを、了承を得て観測することは可能です」


「旧礼拝堂は、現在は祭具庫ではありませんでしたか」


 リシアが尋ねた。


「はい。礼拝堂としては使われていません。ただ、祭具庫を開ける前と閉めた後に、管理担当者が短い祈りを捧げます」


「毎日ですか」


「祭具を出し入れする日は」


 エリオットは現行管理記録を開いた。


 祭具庫の鍵を受け取った者の名。


 持ち出した祭具。


 返却時刻。


 灯油や蝋燭の補充量。


 その端に、開庫前と閉庫後の祈りを確認した者の署名欄があった。


「祈りをしなければ、祭具を借りられないのですか」


 セラが尋ねた。


「いいえ。忘れた者へ罰則はありません。祭具の貸出しも拒まれません」


「では、なぜ確認欄が」


「祈ったことを証明するためではありません」


 エリオットの指が、署名欄の古い見出しを示した。


「戸締まりと火の始末を、一人だけに任せなかったことを確認する欄です」


 古い見出しには、閉庫祈祷立会いとある。


 現在の様式には、閉庫確認者とだけ記されていた。


 祈りが先にあったのか。


 火の始末を確かめる手順が先にあったのか。


 記録だけでは、もう分からない。


「本日、夕刻の礼拝へ使う灯具が返却されます」


 エリオットは言った。


「担当者と立会人へ、調査の存在と観測範囲を説明します。了承が得られた場合に限り、通常の閉庫を外から観測できます」


「祈りの文言は記録しますか」


 エレナが尋ねた。


「しません」


「旧観測線が文言へ反応する可能性があります」


「それでも、最初から全文を記録する理由にはなりません」


 エリオットは、エレナの端末へ目を向けた。


「反応時刻と、祈りが行われた事実だけで始められますか」


 エレナは少し考えた。


「始められます」


「では、それでお願いします」


     ◇


 旧礼拝堂は、北棟の外れにあった。


 学院の建物が増築されるたび、廊下の向きと階段の位置が変わり、今では礼拝区画の裏手からしか入れない。


 石造りの小部屋には、祭礼用の灯具、替えの燭台、白布、季節ごとの飾り紐が整然と収められていた。


 正面の壁だけが、不自然に空いている。


 かつて祭壇が置かれていた場所だった。


「撤去された記録はありません」


 学院の管理官が言った。


「ただ、百八十六年前の修繕記録では、既にありません」


「床下に沈んでいます」


 アインが言った。


 全員の視線が、空いた壁の前へ向く。


 石床は平らだった。


 エレナの表示にも、隠し階段や空洞は出ていない。


「祭壇そのものが、ですか」


 リシアが尋ねた。


「基礎だけだ」


 アインは床へ触れず、目を向けたまま答えた。


「線が通ってる」


 昨日、旧観測室から伸びた三本目の線。


 それは扉や鍵へ続いていたのではない。


 礼拝堂の床下に残された祭壇基礎へ繋がっていた。


「開けますか」


 管理官が尋ねた。


「本日は開けません」


 クラウディアが答えた。


「通常の閉庫手順への応答だけを観測します」


 祭具庫の担当者は、学院礼拝区画で働く年配の女性だった。


 立会人は、その日の夕刻礼拝で灯具を運んだ学生だった。


 二人は調査の説明を受け、祈りの内容を記録せず、反応時刻と床下設備の状態だけを観測することへ同意した。


「普段どおりで、よろしいのですね」


 担当者が確認する。


「はい」


 エリオットが答えた。


「こちらへ合わせる必要はありません。途中で止めても構いません」


 担当者は頷き、返却された灯具を棚へ収めた。


 学生が油受けを外し、布で拭う。


 担当者は芯の火が完全に消えていることを確かめ、空になった油差しを別の棚へ置いた。


 祭具の数を数える。


 白布の端が扉に挟まらないよう畳み直す。


 窓の留め金を確かめる。


 祈りより先に、長い確認が続いた。


 セラは扉の外に立ち、二人の手順を見ていた。


「火の始末は、祈る前に終えるのですね」


「はい」


 担当者が答えた。


「祈れば火が消えるわけではありませんから」


 学生が、少しだけ笑った。


 エリオットも笑いかけたが、声にはしなかった。


 全てを終えると、二人は空いた壁の前へ並んだ。


 そこに祭壇はない。


 像もない。


 担当者は胸元で指を組んだ。


 学生は一歩後ろに立つ。


 エレナの表示には、祈りの文言を書き取る欄がなかった。


 床下の応答。


 旧観測室側への返送。


 五施設への影響。


 観測するのは、それだけだった。


 担当者が祈り始めた。


 声は小さい。


 リシアには、全ての言葉を聞き取れなかった。


 今日使った灯りへの感謝。


 夜道を帰る者の無事。


 明日、この場所を使う者への願い。


 定められた祈祷文なのか、担当者自身の言葉なのかも分からない。


 けれど、祈りの途中で、床下の祭壇基礎が淡く応えた。


「応答あり」


 エレナが小声で告げる。


 表示された線は、旧観測室の方角へ向かった。


 五施設には、変化がない。


 扉も、棚も、床も動かない。


 祈りが終わる。


 担当者は目を開き、学生と一緒に祭具庫の扉を閉めた。


 鍵をかける。


 学生が取っ手を引き、閉まっていることを確かめる。


 最後に、廊下の壁へ吊られた小さな鐘を一度鳴らした。


 澄んだ音が、石壁へ短く残る。


 床下の線が、もう一度だけ応えた。


     ◇


「祈りの開始時と、閉庫鐘の二度、旧観測室側へ応答が返りました」


 エレナは、観測結果を必要最小限の表示へまとめた。


「五施設への接続、開扉者登録、記録取得はありません」


「文言による差は」


 管理官が尋ねた。


「記録していないため、判断できません」


「次回、文言を変えて確認する必要はありますか」


 エレナは答える前に、エリオットを見た。


「必要があるとしても、祈りを変えていただく方法は採りません」


 エリオットが答えた。


「違う祈りが自然に行われた時に、同じ条件で観測します」


 ステファニアは、床下の祭壇基礎へ意識を向けていた。


 旧観測室の前で感じた参照先とは違う。


 何かを読ませようとしていない。


 誰かを選ぼうともしていない。


「接続許可ではありません」


 ステファニアが言った。


「祈りへ応答はしています。ですが、わたくしへ進む道は開いておりません」


「拒否されていますか」


 リシアが尋ねた。


「いいえ。許可も拒否もしていないのだと思います」


 エリオットは、閉じられた祭具庫の扉を見た。


「昔の祈祷文を確認できれば、何を伝えていたのか分かるかもしれません」


「現在の祈りではなく?」


 アリシアが尋ねた。


「現在の祈りは、先ほど担当者が祈ったものです」


 エリオットの答えは静かだった。


「古い設備が何を受け取ったかを知るために必要なのは、古い文言です。今の祈りを、設備のための正しい形へ直す必要はありません」


 アリシアの扇が、一度だけ開いた。


「ええ。その順序で参りましょう」


 古い祈祷記録は、礼拝区画の書庫から運ばれてきた。


 最も古いものは断片しか残っていない。


 時代ごとに言葉が変わり、祈りの長さも、呼びかける名も変わっていた。


 それでも、閉庫祈祷の終わりには、似た一節が残っている。


 ここで朝を迎えた者。


 ここで夜を迎える者。


 次の鐘まで、ここで生きる者。


 古いほど言葉は硬く、新しいほど短い。


 現在の祈りには、決まった一節としては残っていなかった。


「消えたのでしょうか」


 リシアが尋ねた。


 エリオットは、先ほどの担当者が残した閉庫確認記録を開いた。


 そこには、祭具の返却、火の始末、戸締まり、立会人の署名がある。


 今日、誰がこの場所を使ったか。


 誰が帰り、誰が閉じたか。


 明日、誰が開ける予定か。


「文言は消えました」


 エリオットが言った。


「ですが、していることは残っています」


 古い設備が祈りから何を受け取っていたのか、全てを理解していた者はいない。


 古い祭壇基礎が床下にあることを知る者もいなかった。


 それでも人々は、灯りを使い、火を消し、戸を閉め、一人に任せず、祈って鐘を鳴らした。


 旧観測線は、そのたびに応えた。


「これは、入ってよいという許可ではありません」


 ステファニアが、古い祈祷記録と現在の閉庫記録を並べた。


「ここにいる者が、今日もここで暮らしているという証言です」


 クラウディアは、三候補地の表示へ旧礼拝堂の観測結果を加えた。


 役割の確定欄は、まだ空白のままにする。


 礼拝区画の外で、夜の鐘が鳴った。


 祭具庫の鍵を返しに行く担当者と、その横で閉庫記録を運ぶ学生の足音が、廊下の先へ遠ざかっていった。


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