第百四十二夜 二例目ではなく
第百四十二夜 二例目ではなく
限定開示記録が閉じても、誰もすぐには口を開かなかった。
学院の小会議室には、記録を読み始める前と同じ卓と椅子がある。
窓の外では、授業を終えた学生達が次の教室へ向かっていた。廊下を走りかけて教員に止められる声も、遠くから聞こえる。
けれど、卓上に置かれた鍵スフィアだけが、少し前とは違って見えた。
石化睡眠を解除する鍵。
本人を確かめるもの。
未来の記録へ辿る入口。
そして、触れた者が知る前に戻れるよう作られたもの。
リシアは、隣に座るアリシアを見た。
閉じた扇は、膝の上で動かない。
記録の中でガルフが告げた最後の言葉を、アリシアがどう受け取ったのか。聞いてよいことなのかも分からなかった。
「あの計画書は、現在も完了扱いになっていません」
クラウディアが沈黙を終わらせた。
「星の間が運用を開始し、アリシアとメイが覚醒した後も、完了欄は空白です」
「誰かが、埋めるものなのですか」
リシアが尋ねる。
「いいえ。埋める必要があるかを含め、現在の利用者が決めます」
アリシアの扇が、僅かに動いた。
「わたくしが目覚めたのですから、成功とは呼べますわ」
声は穏やかだった。
「ですが、完了したと記すには、少々多くの方に続きを作っていただきましたもの」
アインが戻ったこと。
ファーランドが残っていたこと。
星の間を守り、鍵スフィアを渡す者がいたこと。
眠る前には存在しなかった者達が、目覚めた後の彼女へ道を繋いだ。
アリシアは卓上の鍵スフィアを見る。
「空白のままで、よろしいのではなくて?」
「異論はありません」
クラウディアは、計画書の表示を閉じた。
代わりに、聖王国の地図と三つの候補地が卓上へ浮かぶ。
「ここからは、現地調査へ進むための確認です」
三つの印のうち、一つが淡く明るくなった。
「その前に、ステファニア様へ説明します」
ステファニアは背筋を伸ばした。
「はい」
「鍵スフィアから案内階層を経ず、シークの索引構造へ直接接触できると確認された者は、記録上二人です。一人目がアリシア。二人目が、あなたです」
事実だけを置く声だった。
褒めてもいない。
特別な役目を命じてもいない。
それでも、二人目という言葉は、ステファニアの前へ一本の道を引いた。
その先には、千五百年前に同じ場所へ触れたアリシアがいる。
「確認しても、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「私が選ばれた理由は、私がアリシア様と同じことをできるからですか」
アリシアの視線が、ステファニアへ向いた。
「それとも、同じことをする者が必要だからでしょうか」
問いを言い終えたステファニアの手は、卓上へ置かれている。
指先は動いていなかった。
だが、リシアには、その問いが鍵スフィアへ触れる時より慎重に置かれたものだと分かった。
アリシアは扇を開かなかった。
「同じ道を通れることと、同じ場所へ参ることは別ですわ」
柔らかな声が返る。
「わたくしが索引構造へ触れた時、わたくしは未来で迷わないための道を探しておりました」
「はい」
「あなたが同じ道へ触れたとして、同じものを探す必要はございません。まして、わたくしと同じ答えへ辿り着く必要など、どこにもございませんわ」
ステファニアは、アリシアの言葉を急いで受け取らなかった。
「二例目という記録は」
「観測された順番です」
クラウディアが答える。
「役職名でも、継承順位でもありません」
「私が、最初の例を再現できなかった場合は」
「再現試験ではありません」
「接続できなかった場合は」
「候補地の調査方法を変更します」
「途中で、行きたくないと判断した場合は」
「行かなくて構いません」
今度はアインが答えた。
ステファニアが彼を見る。
「現地に着いた後でも、でしょうか」
「止まれ」
「接続した後でも」
「切れ」
「私にしか開けられないと分かった後でも」
「鍵にはしない」
短い言葉が、一つずつ道を閉じていく。
行かなければならない道。
最後まで続けなければならない道。
自分にしかできないからと、戻れなくなる道。
全てが閉じた後に、ステファニアが自分で選べる一本だけが残った。
「承知しました」
その返事は、引き受ける返事ではなかった。
説明を理解したという返事だった。
◇
「候補地へ接触するたびに、同意を確認します」
クラウディアは三つの印の横へ、空白の欄を置いた。
「最初に全候補地への調査を一括承諾することはできません。現地へ入る前、接続手段を用いる前、接続深度を変更する前に、それぞれ確認します」
「黙っている場合は、どうなりますか」
エレナが尋ねた。
「同意なしとして停止します」
「一度同意した後、返事ができなくなった場合もですか」
「停止します」
「本人が続けると言っていても、表示側で危険を検出した場合は」
「あなたが停止を要求できます」
エレナは、卓上へ投影された空白欄を見た。
「要求、なのですね」
「はい。表示担当者が本人の判断を恒常的に上書きする権限は持ちません。ただし、接続継続が本人の判断能力を失わせる危険がある場合は、緊急遮断を優先します」
「判断能力を失ったかどうかを、端末だけで決めません」
エレナはすぐに言った。
「何を見るかも、先に予測して表示しません。接続先の数や内容を先に並べれば、見ない選択をする前に見せることになります」
「必要な表示は何ですか」
「接続が続いているか。戻れる経路が残っているか。本人から返事があるか。今の深さから戻した時、どこまで情報が残るか」
エレナは少し考え、続けた。
「それから、表示しなかったものがあるという記録です。中身ではなく、表示しなかった判断と、再確認する条件だけを残します」
迷宮暴走の報告書で作った、書かなかった欄と同じだった。
見せないことで消してしまわない。
だが、見せなかった中身を名前だけで漏らすこともしない。
「採用します」
クラウディアが、エレナの役割欄へ記録する。
「私が接続を切ります」
セラが言った。
「ステファニア様が止めるとおっしゃった時、すぐに」
「接続の維持も担当できますか」
「できます。ただし、私が維持しなければ続けられない状態になったら、維持しません」
セラはステファニアを見る。
「それは、もう一人で戻れないということです」
「私が続けるよう頼んでも、ですか」
「切ります」
迷いのない返事だった。
「怒りますか」
「戻ってからでしたら」
ステファニアの口元が、僅かに緩んだ。
「承知しました」
「セラは、ステファニア様の申告による通常遮断と、即時危険時の緊急遮断を担当します」
クラウディアが記録する。
「本人の選択を無視して接続を続ける権限はありません。本人の選択を守るため、接続を切る権限は持ちます」
次に、クラウディアはリシアを見る。
「リシア様には、取得した情報をどこへ置くか判断していただきます」
「私が、読んでもいないものを決めるのですか」
「内容を決めるのではありません。誰が受け取るべき情報か判断できない場合、それ以上取得しない判断を担当します」
リシアは三つの候補地を見た。
聖王国の地下に残る記録なら、聖王国へ渡すべきものかもしれない。
ベルカの記録なら、アイン達が受け取るものかもしれない。
学院に関するものなら、学院の教員や学生へ知らせる必要があるかもしれない。
だが、誰のものか分からないまま開けば、開いた者が所有者のようになってしまう。
「分からない時は、止めてよいのですか」
「はい」
「ステファニア様が読めると言っても」
「止めて構いません」
リシアはステファニアを見る。
「止めます」
「はい」
「私が怖くなったからではなく、置く場所が決まっていないからと、きちんと申し上げます」
「お願いいたします」
クラウディアが、リシアの役割欄へ記録を加えた。
情報の帰る場所が決まらない時、入口で止める者。
それは、情報を受け取る権限を持つ者ではない。
誰かのものを、開いた者のものにしないための役割だった。
「私は、何を決めますか」
ステファニアが尋ねた。
「接続するかどうかです」
「接続した後は」
「どこまで進み、いつ戻るかです」
「私が見たものを、誰へ話すかは」
「取得後に、改めて決めます。事前の包括同意は求めません」
クラウディアは、ステファニアの前へ空白の欄を移した。
「あなたへ渡すのは、全てを読む権利ではありません」
ステファニアは欄を見つめた。
そこには、承諾を示す印も、署名を求める線もない。
最初から役目を引き受けたことにする文言もない。
「読む前に止まれる権利を、お願いいたします」
「確認しました」
クラウディアが記録する。
空白欄は、埋められなかった。
◇
三つの候補地について、開示範囲も分けられた。
予備調査を行うことは、学院長府と聖王国の封印管理担当へ知らせる。
候補地の正確な位置は、現地で旧規格の反応を共同確認するまで限定する。
シークという名称は使わない。
見つかった情報は、その場で公開先を決めない。
取得した一次記録は封印し、誰の記録で、誰が現在の受取人になり得るかを確認してから扱う。
「隠して調査するのではないのですね」
リシアが言う。
「はい」
クラウディアが答える。
「ただし、存在を確認する前に目的物の名称を公開すれば、封印、破壊、奪取、政治利用を誘発します」
「聖王国にあるものを、聖王国へ黙って開くこともしない」
「その通りです」
「ですが、聖王国が全てを見ると先に決めることもしない」
「その通りです」
リシアは少し困った顔をした。
「難しいです」
「だから、お前がいる」
アインが言った。
リシアは彼を見る。
「分からない時に、分からないまま止める者が必要だ」
「……はい」
難しいことを、簡単にできるとは言われなかった。
分からなくても役に立つとも、慰められなかった。
分からないと判断して止めることを、そのまま役目として渡された。
◇
最初の予備調査先には、学院北棟の地下に残る旧観測室が選ばれた。
三候補の中で、現在の管理者が明確だった。
学院長府が立ち会え、封印管理担当も呼べる。
現行設備へ接続せず、扉の外から旧規格の反応だけを確認できる。
調査申請には、目的が短く記された。
学院地下旧観測線の現況確認。
封印設備への非侵襲予備調査。
異常検出時は接触せず終了。
申請を読んだ学院長府の記録官は、最後の一文を二度見た。
「異常を検出するための調査ではないのですか」
「異常を見つけた後、触れないための調査でもあります」
エレナが答える。
記録官は少し考え、申請を受理した。
◇
翌日。
学院北棟の地下へ下りる階段は、途中から石の形が変わった。
上階は学院設立後に積み直された整った壁。
地下二層を越えると、古い大石を隙間なく組んだ壁になる。
魔術灯は一定間隔で置かれているが、灯りの間には暗い場所が残った。
先頭を歩くのは学院の封印管理官。
その後ろにクラウディアとアイン。
ステファニア、リシア、セラ、エレナが続き、最後をアリシアが歩く。
鍵スフィアは、まだ取り出されていない。
「この先です」
封印管理官が足を止めた。
通路の先に、石造りの扉がある。
学院の記録では、旧観測室。
百年以上使われておらず、内部に危険物はない。封印は侵入防止と設備保護のためで、異常記録も残っていない。
扉の表面には、現在の学院式封印が三重に置かれていた。
その下に、古い線がある。
文字にも、紋章にも見えない。
壁の継ぎ目へ紛れるように伸び、扉の外へは続いていなかった。
「予備調査を開始します」
クラウディアが告げる。
エレナの端末から、四人だけに見える簡易共有表示が開いた。
表示されたのは、扉の構造、現行封印の状態、周辺魔力流。
旧規格の線が何へ繋がるかは表示されない。
予測された接続先もない。
ステファニアが、一歩前へ出た。
「ここから先へ進むことに、同意しますか」
クラウディアが尋ねる。
「扉には触れず、旧規格の反応を感知するところまで、同意します」
「確認しました」
ステファニアは目を閉じなかった。
扉を見る。
見えている石と、見えていない線を、同じ場所にあるものとして捉える。
魔力を伸ばさない。
術式を作らない。
理解できた形へ変えようとしない。
ただ、向こうから届いているものがあるかを待った。
暫くして、ステファニアの呼吸が浅くなった。
セラが半歩近づく。
触れない。
手を伸ばせば届く位置で止まる。
「応答できますか」
エレナが尋ねた。
「はい」
「戻れる経路は見えますか」
「見えています」
共有表示には、接続を示す線は出ていない。
エレナは出さなかった。
ステファニア本人が何を感じているかを、端末の予測で置き換えない。
「参照先はありますか」
クラウディアが尋ねる。
ステファニアは、すぐには答えなかった。
扉の向こうに、道がある。
星の間で鍵スフィアへ触れた時とも、迷宮の古い刻印から消された道を探した時とも違う。
こちらから探す前に、静かに待っている入口。
手を伸ばせば、届く。
何があるかを知るところまで、進めるかもしれない。
「届きます」
ステファニアが答えた。
クラウディアは、次の確認を急がなかった。
アインも、アリシアも何も言わない。
リシアは、置く場所がまだ決まっていない情報の前で待つ。
セラは、切る必要のない接続を切ろうとせず、必要になれば届く位置にいる。
エレナの表示は、何も増えない。
ステファニアは扉を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「ですが、まだ触れません」
「理由を記録しますか」
「はい」
ステファニアは、自分の言葉を選んだ。
「ここが入口である可能性を確認しました。何へ続く入口かは確認しておりません。受取人も、開示先も決まっておりません」
そして、半歩下がる。
「本日の予備調査は、ここで止めます」
扉は開かなかった。
何も読み出されなかった。




