幕間二十 眠りを設計した者たち
幕間二十 眠りを設計した者たち
石化睡眠計画の最初の成功は、十七分だった。
白い結晶で覆われた試験片は、術式解除後も形を失わなかった。
内部へ封じた魔力流も、開始前とほぼ同じ状態へ戻った。
研究室にいた技師達は、誰も喜ばなかった。
「位相偏差、許容値内」
「解除線、全系統応答」
「内部循環、再開を確認」
「次は、一時間です」
淡々と確認が続く。
一時間の試験が成功すれば、次は六時間。
その次は一日。
さらに一週間。
人が眠り、目覚めるまでには、まだ遠い。
まして、何年先になるか分からない相手を待つための眠りなど、誰も完成させたことがなかった。
「十七分を、何年へ伸ばせる」
研究室の入口で、ガルフ・ファーランドが尋ねた。
位相維持主任は、記録板から顔を上げなかった。
「分かりません」
「分からない?」
「十七分の成功から、一年の成功を保証する計算式はございません。十年も、百年も同じです」
「なら、何が分かる」
「失敗すれば、どこが壊れるかを一つずつ減らせます」
ガルフは試験片を見た。
派手な成功ではない。
十七分前と同じものが、そこにある。
変わらなかったことだけが成果だった。
「続けろ」
「はい」
技師達は次の試験準備へ戻った。
その中央で、アリシアは別の記録板を読んでいた。
石化睡眠の維持式ではない。
解除後認知補助。
時代差情報引き継ぎ。
覚醒者保護手順。
ガルフは娘の前へ立った。
「眠る技術の研究室で、何を読んでいる」
「目覚めた後のことですわ」
「まだ、眠ることもできていない」
「ですから、今のうちに始めておりますの」
アリシアは記録板を閉じた。
「眠るだけでは足りません」
◇
石化睡眠計画には、当初、三つの班が置かれていた。
身体と魔力流を停止直前の状態へ保つ、位相維持班。
外部干渉を遮断し、解除時だけ道を開く、封印構築班。
眠る者を守る場所と、解除用の鍵を作る、施設技師班。
アリシアは、四つ目の班を加えた。
覚醒後情報導線班。
「必要でしょうか」
記録官が尋ねた。
「必要ですわ」
「解除直後に、当主が事情を説明すれば足ります」
「その当主が、わたくしの言葉を理解できるとは限りません」
「ファーランド家であれば、記録を継承いたします」
「言葉は変わります。国も、家も、礼法も変わります。ファーランドという名が残らないこともございます」
部屋の空気が少し重くなった。
家臣達の前で、ファーランドが残らない可能性を口にした。
けれど、誰も否定できなかった。
ベルカ魔導帝国でさえ、滅びかけている。
「わたくしが目覚めた時、この国が何と呼ばれているかは分かりません。守るべきものが何かも、今と同じとは限りません」
「では、未来の状況を予測して記録しますか」
「いいえ」
アリシアは首を横へ振った。
「未来を、今のわたくし達の予測へ従わせてはなりません」
眠る前に、未来の敵と味方を決める。
未来の正しい国と、正しくない国を決める。
未来の当主へ、守るものと捨てるものを命じる。
それは情報を残すことではない。
まだ生まれていない者達の判断を、過去から奪うことだった。
「残すのは、答えではございません」
「では、何を」
「辿る道を」
◇
覚醒後情報導線班へ最初に集められたのは、学者ではなかった。
家令。
侍女。
城の営繕技師。
記録官。
守備隊の連絡係。
法務官。
それに、ファーランド家の料理長だった。
「料理長も必要なのか」
ガルフが尋ねる。
「目覚めた直後に食べられるものを決める方ですわ」
「医療班が決める」
「医療班は、身体に害がないものを決めます。食べる者が、食事だと思えるものを決めるのは料理人です」
料理長は深く頭を下げた。
ガルフは反論しなかった。
班の最初の課題は、目覚めた者が何を知るべきかではない。
何から知らなくてよいか、だった。
国が滅びたこと。
家族が死んだこと。
待っていた者が戻らなかったこと。
自分だけが時間の外へ残されたこと。
いずれ知る必要はある。
だが、目覚めた瞬間に全てを渡す必要はない。
「最初に本人確認」
医療官が言った。
「次に身体状態の確認。言語理解、時間認識、記憶の連続性」
「その後に、現在地と安全状態です」
守備隊の連絡係が続ける。
「外部に敵対勢力がいる場合、名称を伝えるべきでしょうか」
「名称だけでは判断できませんわ」
アリシアが答える。
「誰が敵だと判断したのか、その根拠は何か、いつの情報かを分けてください」
記録官が項目を増やす。
「ファーランド家の存続は」
家令が尋ねた。
「確認できれば、知らせてください。ただし、当主の命令をわたくしが無条件に受けるとは記録しないでくださいませ」
「お目覚めになった後も、ファーランドのご息女であることは変わりません」
「ええ。ですが、未来の当主が正しいとは限りませんわ」
家令は黙った。
ガルフは腕を組み、娘を見る。
「父上も、間違えることがございますでしょう?」
「お前ほどではない」
「まあ」
記録官は、その会話を覚醒後情報導線へ残さなかった。
◇
計画開始から三ヶ月後。
石化睡眠の維持試験は、初めて一週間を越えた。
解除後の試験片には、僅かな位相のずれがあった。
許容範囲内。
けれど、長期化すれば無視できない。
位相維持班は喜ぶ前に、原因解析へ入った。
施設技師班は、星の間の原型を作り始めていた。
城の地下深く。
外部からの魔力流が安定し、地上の戦闘や天候の影響を受けにくい場所。
半球状の空間へ、記録球を星のように配置する。
「保管庫としては、空間が広すぎます」
営繕技師が言った。
「保管庫ではございません」
アリシアが答えた。
「閲覧室ですわ」
「何を保管するのですか」
「ここには、ほとんど何も」
技師は、まだ何も置かれていない空間を見上げた。
星の間へ置かれるのは、解除用の鍵スフィアと、限定的な案内記録。
一次情報の本体は、既にベルカ各地に存在するシークに残されている。
そこには、公文書や法令、軍務記録、研究記録、系譜、作戦記録が含まれている。
誰かの解釈だけではなく、その時、誰が、何を記録したかを核として残す知識体系。
星の間は、それらを集めた倉庫ではない。
必要な記録へ、安全に辿るための入口だった。
「シークを作るつもりか」
ガルフが問う。
「いいえ」
アリシアは、未完成の星の間を見渡した。
「作るのではありません。既にあるものへ、わたくしが迷わず辿れる道を残すのです」
「シークそのものが失われていたら」
「辿れません」
「権限が失効していたら」
「開けません」
「記録が改竄されていたら」
「一次情報と、後から加えられた解釈を分けて確認します」
「それでも、判断できなければ」
「未来の方へ尋ねます」
ガルフの眉が僅かに動いた。
「お前が?」
「未来は、そこに暮らす方々のものですもの」
眠りから目覚めた自分が、過去を知っているというだけで未来の主人になるわけではない。
アリシアは、自分が目覚めた後の権限へも、限界を置こうとしていた。
◇
鍵スフィアの原型が完成したのは、五ヶ月目だった。
真球に近い白い結晶。
石化睡眠術式の解除位相を保持する鍵。
眠っている者と、解除を求める者を照合する本人確認器。
星の間から必要な記録へ接続する限定端末。
三つの役割を、一つの球体へ収める。
「接続試験を開始します」
位相技師が告げた。
星の間に、淡い光が灯る。
鍵スフィアから幾つもの線が伸び、天井と壁面へ広がった。
それぞれの線は、登録済みの記録参照先へ繋がっている。
法令改訂履歴。
ファーランド家記録。
ベルカ皇族生存記録。
戦後復興記録。
周辺諸国関係記録。
解除後に必要となる可能性が高い参照先だけが、低い階層へ置かれていた。
「通常手順では、案内表示から項目を選択します」
技師が説明する。
「本人確認後、閲覧権限に応じて参照先が開きます。鍵スフィア単体では、記録内容へ接続できません」
「触れても?」
アリシアが尋ねた。
「本人照合の試験だけです。表示された案内以外は開かないでください」
「承知しました」
アリシアが鍵スフィアへ触れた。
光が変わった。
案内表示が開く前に、星の間の線が一斉に向きを変える。
法令。
家記録。
皇族記録。
その奥にある一次情報。
一次情報へ付された注釈。
異なる解釈。
参照を止められた記録。
まだ案内へ登録されていない記録まで、星々のような光となってアリシアの周囲へ広がった。
「接続を切れ」
ガルフの声が響く。
「待ってください」
アリシアは鍵スフィアから手を離さなかった。
目を閉じる。
広がった光の中から、一つも開かない。
見えている。
けれど、読まない。
自分へ向かって流れ込もうとする線を、一本ずつ鍵スフィア側へ戻していく。
最後に、本人照合の光だけが残った。
「接続を終了します」
アリシアが手を離す。
星の間は、試験開始前の静けさへ戻った。
「何をした」
ガルフが問う。
「何も」
「何もして、あれか」
「鍵が繋がっている先を感じました」
位相技師が記録を確認する。
「案内階層を経由していません。鍵スフィアから索引構造へ直接接触しています」
「可能なのか」
「通常は」
技師は言葉を止めた。
通常ではないものが、目の前にいる。
ガルフは娘を見た。
剣を教えた。
政を教えた。
外交を教えた。
見えたものへすぐ飛びつかず、その向こうで誰が何を望むか考えるよう教えた。
仕上げてくれと頼まれたから、容赦なく仕上げた。
その結果、娘は鍵へ触れただけで、誰にも見えない道を見つけた。
そして、見つけた道を開かなかった。
「父上」
「何だ」
「今、少し後悔なさいました?」
「していない」
「そうですの」
「少ししか」
アリシアは扇で口元を隠した。
技師達は、聞かなかったことにした。
◇
鍵スフィアの試験後、計画は一度止められた。
アリシアが直接接続できるなら、星の間の案内表示は不要ではないか。
覚醒後情報導線班の一部から、そうした意見が出た。
「不要ではございません」
アリシアは退けた。
「わたくしが接続できることと、安全に接続できることは別です」
「先ほど、ご自身で止められました」
「次も止められる保証にはなりません」
「アリシア様のための設備です」
「未来のわたくしが、今のわたくしと同じとは限りませんわ」
長い眠りが、記憶や判断へ何を与えるかは分からない。
目覚めた直後、混乱しているかもしれない。
待っていた者が戻らなかったと知り、冷静ではいられないかもしれない。
未来の記録へ触れた瞬間、答えを求めて全てを開こうとするかもしれない。
「最も危険なのは、わたくしが自分を信用し過ぎることです」
アリシアは、覚醒後情報導線へ新しい条件を加えた。
鍵スフィアが直接接続を検出した場合、最初に記録内容を表示しない。
接続可能な記録の総数も表示しない。
本人が何を知りたいかを確認する。
一次情報、後世の解釈、現在の証言を分ける。
途中で停止できる。
停止理由を求めない。
再接続を急がせない。
「知る権利を制限するのですか」
法務官が尋ねた。
「いいえ」
「では、何の権利ですか」
「知る前に、止まれる権利ですわ」
記録官の筆が止まった。
それから、その言葉を最上段へ置いた。
◇
六ヶ月目。
一ヶ月の維持試験が成功した。
七ヶ月目。
解除時の魔力逆流を抑える保護線が完成した。
八ヶ月目。
星の間と鍵スフィアの本人照合が、異なる術者の魔力でも安定して動作した。
九ヶ月目。
城が攻撃を受け、地上設備の一部が失われても、星の間が独立維持できることを確認した。
十ヶ月目。
覚醒後情報導線の模擬試験が行われた。
事情を知らない家臣が、百年後に目覚めた者の役を与えられ、星の間へ入る。
案内表示は、最初に現在年を示さなかった。
国の存亡も。
家族の生死も。
戦争の結果も。
本人確認と身体状態の確認を終え、安全な場所にいることだけを伝えた。
「何年経った」
目覚めた役の家臣が尋ねる。
案内役は答えを表示できる。
けれど、先に尋ねた。
「今、知ることを希望しますか」
「希望する」
「一度に全てを確認しますか。年数のみ確認しますか」
家臣は迷った。
「年数だけ」
百年。
表示された数字を見て、家臣は役であることを忘れたように黙った。
研究室の誰も急かさなかった。
しばらくして、家臣は次の情報を求めた。
「家族は」
案内役は、用意された答えをすぐには表示しない。
「個別記録、家系記録、現在の証言があります。どれから確認しますか」
「個別記録」
試験は続いた。
全ての情報を確認する前に、家臣は自分から停止を選んだ。
「続きを見なくてよいのですか」
試験後、記録官が尋ねる。
「見る」
家臣は答えた。
「だが、今ではない」
その日の記録には、未閲覧項目が失敗として残されなかった。
本人選択による停止。
再開時期、本人決定。
そう記された。
◇
十一ヶ月目。
石化睡眠術式と、星の間と、鍵スフィアと、覚醒後情報導線が、一つの計画として繋がった。
完成とは呼ばれなかった。
何年保つか、誰にも証明できない。
未来にシークが残っているかも分からない。
ファーランド家が、星の間の意味を守り続けられる保証もない。
鍵スフィアを正しく使える者が現れる保証も。
それでも、眠る者を送り出せるところまでは来た。
最後の確認会議で、位相維持主任が立ち上がった。
「長期維持期間は保証不能です」
「承知しております」
アリシアが答える。
封印構築主任が続く。
「外部干渉を完全には排除できません」
「承知しております」
施設技師が記録板を見る。
「星の間が失われた場合、鍵スフィア単独での安全な解除は保証できません」
「承知しております」
記録官が最後に問う。
「未来の記録が失われた場合、覚醒後情報導線は答えを提示できません」
「答えを提示するためのものではございませんわ」
アリシアは、集まった者達を見る。
眠る術式を作った者。
解除線を作った者。
星の間を掘った者。
鍵スフィアを磨いた者。
記録を分けた者。
目覚めた後の食事を考えた者。
誰か一人が、未来へ届く奇跡を作ったのではない。
失敗しても戻れる場所を、一つずつ置いた。
「わたくしが未来で迷った時、迷っていると気づける道を残してくださいました。それで十分です」
計画書の完了欄は、最後まで空白のまま残された。
代わりに、運用開始可能と記された。
◇
眠りへ入る日。
星の間は静かだった。
白い礼装を身に着けたアリシアは、中央の保存位置へ立った。
横たわらなかった。
解除後、最初に目へ入るものが天井ではなく、星の間に残された記録の光であるように。
胸の前で手を重ねる。
後世には、祈る聖女像に見える姿だった。
けれど、彼女が祈っていたかどうかは、記録されなかった。
少し後ろには、メイが立っている。
「本当に、よいのですか」
アリシアが尋ねた。
「はい」
「わたくしと同じ時代へ戻れる保証はございませんわ」
「同じ時代でなくても、同じ時に目覚めます」
メイは、祈るように手を組んだ。
「お一人では、起きた時のお着替えにも困るでしょう?」
「まあ」
アリシアは少し笑った。
位相維持主任が、最後の確認を始める。
身体状態。
魔力流。
解除線。
鍵スフィア。
本人照合。
覚醒後情報導線。
全てが応答した。
「開始できます」
アリシアはガルフを見る。
「父上」
「何だ」
「ファーランドを、お願いいたします」
「任された」
「後継の方へ、星の間をお伝えくださいませ」
「伝える」
「全てを守れとは、お命じにならないでください」
「分かっている」
「時代が変われば、変えるべきものもございます」
「分かっている」
「それから」
「まだあるのか」
アリシアは、少しだけ言葉を止めた。
「アイン殿下が、お戻りになりましたら」
ガルフは黙って待った。
知らせてほしい。
迎えに来てほしい。
自分が待っていると伝えてほしい。
幾つもの言葉を、アリシアは口にしなかった。
「殿下ご自身へ、選んでいただいてくださいませ」
「お前を起こすかどうかを?」
「はい」
「戻ったあいつが、起こさないと決めたら」
「その理由を、未来のわたくしが確認いたしますわ」
ガルフは娘を見た。
待つために眠るのに、待っている相手へすら答えを強制しない。
それが、アリシアが十一ヶ月かけて作った最後の空白だった。
「分かった」
ガルフは保存位置の外へ下がった。
「よく眠れ」
「はい。おやすみなさいませ、父上」
石化睡眠術式が起動する。
足元から、白い結晶が静かに広がった。
礼装の裾を覆う。
重ねた手を包む。
アリシアの表情は、最後まで変わらなかった。
メイも、その少し後ろで白い姿へ変わっていく。
星の間の光が、一つずつ低くなる。
最後に鍵スフィアだけが、淡く瞬いた。
眠りを設計した者達は、未来を完成させなかった。
ただ、目覚めた者が自分で未来を選ぶための道を残した。




