第百四十夜 書かなかった欄
第百四十夜 書かなかった欄
学院管理迷宮の暴走について、学生達にも正式な報告書の提出が求められた。
教室の正面には、六枚の大きな紙が並べられている。
観察事実。
推測。
公開可能。
限定共有。
記録しない。
再確認条件。
「見た順に書けばよいのではないのですか」
リシアが尋ねる。
「見た順に書いた原記録は、既に全員分を提出している」
ラウル教官は答えた。
「今日は、それを誰へ、どこまで渡せる形にするかを決める。報告書は、書けば終わりではない」
迷宮暴走を起こした命令は、学院長府、アレーナ王国司法窓口、関係国外交窓口へ送られている。
だが、授業に参加した学生達が何を見たかは、まだ一つの報告書へまとめられていなかった。
負傷した学生がいたこと。
帰還を選んだ者と、残って訓練を続けた者がいたこと。
アインとアリシアが暴走源へ進んだこと。
その先で何が起きたかを、学生達は共有表示と帰還後の説明で知った。
同じ出来事でも、自分の目で見たものと、後から知ったものは違う。
「最初に、観察事実だけを書いてください」
エレナが言った。
学生達が一枚目の紙へ集まった。
◇
リシアは、観察事実の欄へ一行を書いた。
アイン様が、私達を守ってくださった。
「リシア様」
隣で記録を整理していたエレナが呼んだ。
「はい」
「これは、どこをご覧になった記録でしょうか」
「最初からです」
リシアは答えた。
「白い帰還線を置いて、魔物を一匹も通さず、前へ進んでくださいました」
「守られたと感じたことは」
「事実です」
「はい」
エレナは否定しなかった。
「ですが、アイン様が何を目的としていたかは、見ただけでは確定できません」
リシアは自分の書いた一行を見た。
アインは守るために動いた。
疑う余地などないと思う。
それでも、アイン本人が口にしたのは、帰還路を守れ、こちらへ一匹も通さない、という短い指示だった。
「では、書いてはいけませんか」
「分けて書けます」
エレナは、観察事実の紙と推測の紙の間へ、細い線を引いた。
リシアは最初の一行を消し、書き直す。
アイン様は、入口まで続く白い線と、魔物側を隔てる黒い線を置いた。
アイン様とアリシア様が暴走源側へ進んだ後、魔物は一匹も白い線の内側へ到達しなかった。
推測の欄には、先ほどの言葉を少しだけ変えて残した。
私は、二人が私達を守るために前へ進んだと受け取った。
「これなら、よろしいですか」
「はい」
エレナは二つの記録を見比べた。
「後から別の目的が判明しても、リシア様がそう受け取った事実は残ります」
「受け取ったことも、消さなくてよいのですね」
「誰かの目的として書かなければ」
リシアは頷いた。
事実だけを書こうとすれば、自分が何を感じたかまで捨てなければならないと思っていた。
分ければ、どちらも残せる。
◇
観察事実の紙が埋まると、次は公開範囲を決める作業になった。
負傷者の氏名は、公開しない。
負傷の程度、治療開始時刻、授業停止と再開の条件は、公開可能。
帰還を選んだ学生の氏名も、公開しない。
帰還を選んでも不利益を与えないと事前に告げられたことは、公開する。
「残った者の氏名は載せるのですか」
学生の一人が尋ねた。
「本人が希望すれば」
エレナは答えた。
「ただし、残った者だけを評価する一覧にはしません」
「なぜですか」
「次に同じ状況が起きた時、帰還を選びにくくするためです」
書かれた名前は、褒賞にも圧力にもなる。
迷宮で与えられた選択を、報告書が後から奪ってはならない。
学生は自分の名前を書きかけた紙を見て、手を止めた。
「希望しません」
「記録します」
エレナは、氏名非公開を本人が選んだことだけを限定共有欄へ置いた。
◇
問題は、アインとアリシアの戦闘記録だった。
「七本の剣は、公開してもよいと思います」
ステファニアが言った。
「既に多くの学生が目撃しております。存在まで伏せれば、報告書の方が不自然になります」
「用途は」
クラウディアが尋ねる。
「攻撃、防御、進路分割、押し返し、封鎖へ同時に用いたことまでは観察事実です」
「制御方法は」
「私達には分かりません」
「では、書けません」
七剣盾という名称と、七本の魔力実体化両手剣を同時運用した事実は公開欄へ置かれた。
構築方法、制御方法、必要魔力量は空白のまま残る。
「分からないことを、秘匿したことにしないでください」
クラウディアが言った。
「はい」
エレナは空白の横へ、未観察と記した。
アリシアの閉じた扇についても、同じように分けられた。
扇の先に短い魔力刃が形成されたこと。
接触した魔物を切断したこと。
そこまでは公開可能。
材質、魔力収束の手順、刃が成立する条件は、学生側では確認できていない。
「レイピアは、斬る瞬間だけ光っていました」
リシアが言う。
「観察事実ですか」
エレナが尋ねる。
「はい。ずっと光っていたわけではありません」
「では、そのように書けます。瞬間だけ魔力を通した、と断定できますか」
リシアは少し考えた。
「いいえ。そう見えただけです」
「推測欄へ置きます」
リシアは、自分で二枚目の紙へ書き移した。
◇
オーバーライトとエクリプスは、限定共有へ置かれた。
存在と結果を全て隠すわけではない。
暴走命令が停止したこと。
証拠消去命令の効果が成立せず、記録が保全されたこと。
それは公開可能だった。
だが、接触した魔力経路へ上位命令を重ねる条件や、命令と結果の間を遮る手順は、捜査中の術式構造と直結する。
公開すれば、模倣事故だけでなく、次に証拠を消そうとする者へ不足点を教えることになる。
「記録しないのですか」
リシアが尋ねた。
「学生向け報告書には、手順を記録しません」
エレナは答えた。
「原記録と捜査記録には残っています」
「では、この記録しない欄には、何を書くのですか」
五枚目の紙は、まだ白かった。
エレナは筆を持ったまま止まる。
オーバーライトの手順。
エクリプスの成立条件。
扇とレイピアの詳細。
書かない情報の名前を並べれば、何が存在するかを教えることになる。
詳しく書けば、記録しない欄ではなくなる。
「書かないものを書いたら、書いていますね」
リシアが言った。
「はい」
エレナは五枚目の紙へ、技術名を書かなかった。
代わりに、三つの項目だけを置く。
非記録判断者。
理由。
再確認日。
「何を書かなかったかは、残さないのですか」
「学生向け報告書には残しません」
「後で、何を確認し直すのか分からなくなりませんか」
「対応する原記録の封印番号だけを、閲覧権限のある記録へ残します」
公開報告書からは辿れない。
だが、判断した者が都合よく忘れることもできない。
エレナは、非記録判断者の欄へ自分の名を書いた。
その隣へ、ラウル教官とクラウディアの確認署名が入る。
理由は、模倣事故防止および捜査保全。
再確認日は、司法窓口から捜査保全解除の通知を受けた日から七日以内。
書かなかった内容を置く中央の欄は、白いままだった。
けれど、誰が白くしたのかは残った。
◇
「これも、公開欄でよいと思います」
報告書がほぼ完成した頃、カイルが一行を追加した。
アインが学生周辺へ残したウィルオウィスプ八個は、暴走源停止まで学生側で作動しなかった。
アインが、書かれた言葉を見る。
「違う」
「八個ではなかったですか」
「そこじゃない」
「では、作動しなかった、の方ですか」
「ウィルオウィスプじゃない」
教室の何人かが顔を見合わせた。
「でも、皆そう呼んでいます」
ミレイアが言った。
「俺は呼んでない」
「では、正式名称は」
「魔力球」
エレナは記録用紙を見た。
「構造上の分類名は、高圧縮浮遊魔力球です」
「長い」
カイルが言った。
「正式記録ですので」
エレナは公開欄の記述を修正する。
高圧縮浮遊魔力球八個は、暴走源停止まで学生側で作動しなかった。
その横に、小さな通称欄を作った。
ウィルオウィスプ。
「それも消せ」
「学生間で実際に使用されている呼称です」
「認めてない」
「認定者の欄はございません」
アインはエレナを見た。
エレナは記録を消さなかった。
クラウディアも止めなかった。
「……好きにしろ」
カイルが通称欄へ小さな印を付けた。
続いて、教室のあちこちから同じ印が増えた。
◇
完成した学生向け報告書には、迷宮暴走の全ては書かれていなかった。
それでも、起きたことを小さくはしなかった。
負傷者がいたことも、帰還と続行を本人が選んだことも、人為的な命令によって暴走が起き、停止後に証拠が保全されたことも記されていた。
見たことと、そう受け取ったことは、別々に残った。
書かなかった技術の詳細は空白のままだが、その横には、エレナの名と二つの確認署名、再び開く日を決める条件があった。
リシアは最後に、推測欄へ残した自分の一行を読む。
私は、二人が私達を守るために前へ進んだと受け取った。
その一行は、観察事実の紙ではなく、推測の紙に残っていた。




