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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百三十九夜 選ぶ時だけ

第百三十九夜 選ぶ時だけ


 再現試験の開始前に、ステファニアは実習板から離された。


「私が補助しては、再現できたことになりませんものね」


「はい」


 エレナは答え、試験卓の向こう側を示した。


 黒い実習板が四枚。


 それぞれに刻まれている術式は異なる。


 術式灯。小さな風を起こす送風術式。標的へ水を運ぶ導水術式。そして、訓練用の障壁術式。


 試す学生達が、既に扱い慣れているものばかりだった。


 ただし、どの術式にも一か所だけ空白がある。


 状況が変わった時、術者が自分で補わなければならない場所だった。


「ステファニア様の術式を再現する試験ではないのですか」


 カイルが尋ねた。


「構造だけを借ります」


 エレナは答えた。


「同じ術式、同じ空白、同じ判断を求めれば、ステファニア様に近づける試験になります。他の方が使えるかは分かりません」


「なるほど」


 カイルは障壁術式の実習板を持ち上げた。


「つまり、俺は俺のやり方で失敗すればいい」


「安全停止の範囲でお願いします」


「分かっている」


 ラウル教官が四枚の実習板を確認する。


 空白の外側には、完成した保護線がある。魔力流が許容範囲を外れれば、術式は空白ごと切り離され、停止する。


「失敗は記録する。事故にはしない」


 ラウル教官は言った。


「続行、修正、停止のどれを選んでも、試験上の不利益はない。分からない場合は止めろ。止めた後で考えればいい」


 四人の学生が頷いた。


 エレナだけが、すぐには頷かなかった。


「教官」


「何だ」


「分からない場合に停止するという指示は、試験開始前の共通条件として記録します。補助表示には出しません」


「理由は」


「表示されたから止めるのではなく、本人が止める必要を判断できるか確認するためです」


 ラウル教官は一度、クラウディアを見た。


「問題ありません」


 クラウディアが答えた。


「始めろ」


     ◇


 エレナの装身型端末には、四つの術式から情報が届いていた。


 魔力の流入量と空白前後の圧力差、保護線までの余裕、それに術者が行った補正の履歴。


 その全てを、試験を受ける学生達へ見せることはできる。


 ステファニアが前回、空白へどの形を入れたかも残っている。


 けれど、エレナは表示しなかった。


 エレナの端末から各実習板へ投影するのは、小さな印だけ。


 判断が必要になった時、実習板の空白に重なる位置へ淡い輪が現れる。術者だけでなく、周囲で試験を見守る者にも見える簡易共有表示だった。


 許容範囲から外れ始めれば、輪の縁が細く欠ける。


 安全停止を考えるべき時には、輪が閉じる。


 足せとも、減らせとも、止めろとも書かれていない。


「何も分かりませんね」


 術式灯を担当する学生が言った。


「必要なことは分かりますか」


「今は、何も選ばなくてよい」


「はい」


 訓練柱から風が吹いた。


 術式灯の光が僅かに弱まり、空白の上に淡い輪が現れる。


 学生は光を見た。


 風の強さを確かめ、術式へ少しだけ魔力を足した。


 空白を細い光の線が繋ぐ。


 灯りは元の明るさへ戻り、輪は消えた。


「消えました」


「判断が不要になりました」


「合っていましたか」


 エレナは記録を見た。


「許容範囲内です」


「正解ではなく?」


「他の方法を試していませんので」


 学生は少し不満そうに、それでも実習板を次の柱へ運んだ。


     ◇


 ミレイアの送風術式へ、横から別の風が加えられた。


 正面の粉塵を一定方向へ流すはずの風が、二つに割れる。


 淡い輪が現れた。


 ミレイアは魔力を足さなかった。


 指先を少し開き、術式へ流していた魔力の一部を逃がす。


 強く押し返していた風が弱まり、横風と混ざって一つの流れになった。


 粉塵は標的の左右を避け、床の回収溝へ落ちる。


「維持する試験ではありませんでしたか」


 近くで見ていた学生が尋ねた。


「風向きを維持するより、粉塵を標的へ当てない方を選びました」


 ミレイアは答えた。


「術式の出力は、規定より下がっています」


 エレナが記録を確認する。


「でも、目的は満たしています」


 先ほど術式灯へ魔力を足した学生が、ミレイアの実習板を見た。


「同じ印だったのに」


「同じなのは、選ぶ時だけです」


 エレナは言った。


 その言葉を、端末の試験記録へ残した。


     ◇


 カイルの障壁術式には、訓練用の衝撃杭が使われた。


 一打目。


 障壁は揺れたが、保った。


 二打目。


 空白へ淡い輪が現れる。


 カイルは障壁を厚くしようとして、手を止めた。


「もう一度」


 ラウル教官が衝撃杭を動かす。


 三打目が来る前に、輪の縁が大きく欠けた。


 カイルは術式から手を離した。


 障壁が消える。


 衝撃杭は何もない場所を通り、停止線の手前で止まった。


「続けられました」


 エレナは言った。


「ああ」


「許容範囲も残っていました」


「ああ」


「なぜ止めたのですか」


 カイルは消えた障壁の位置を見た。


「次も受けられる。だが、次の次は分からない」


 一度保つために足した魔力が、空白の奥で僅かに偏っていた。


 規定上は、まだ続けられる。


 けれど、続けるほど、止め時を失う。


「止めるなら、今だと思った」


 ラウル教官が試験記録へ印を置いた。


「有効判断。再試験は偏りの原因を確認してからだ」


「はい」


 カイルは悔しそうではなかった。


 止めた障壁の前に立ち、偏りが生じた線を自分で探し始めた。


     ◇


 最後の導水術式は、細い水流を三つの器へ順番に分ける課題だった。


 最初の器が満ちる。


 二つ目へ水流が移る直前、空白の上に淡い輪が現れた。


 担当する学生は、輪を見た。


 水流を見る。


 また輪を見る。


 何もしなかった。


 二つ目の器へ入るはずの水が、縁へ当たってこぼれ始める。


 輪の一部が欠けた。


 学生は待った。


 輪が閉じた。


 それでも待った。


 保護線が働き、導水術式が停止する。


 水は床の回収溝へ落ちた。


 事故は起きなかった。


 学生は、消えた輪を見つめていた。


「なぜ、何もしなかったのですか」


 エレナが尋ねる。


「次の表示を待っていました」


「次の表示」


「最初は、判断が必要だという印ですよね」


「はい」


「欠けたら、判断が遅れている。閉じたら、止めるべき時だと思いました」


「では、なぜ止めなかったのですか」


 学生は困ったように、何も映らなくなった実習板を指した。


「止めろという表示が、次に出ると思ったので」


 エレナは答えなかった。


 足せとも、減らせとも、止めろとも表示していない。


 答えを代行してはいない。


 けれど、表示が出た。


 そのこと自体が、次も何かが出ると教えていた。


 学生は、自分で判断する代わりに、表示が答えへ変わるのを待った。


「何を表示しましたか」


 クラウディアが尋ねた。


「判断が必要な時点です」


「何を待たせましたか」


 エレナは、停止した導水術式を見た。


「答えです」


 声が僅かに低くなった。


「表示していない答えを、待たせました」


     ◇


 試験終了後、四人の記録が同じ卓へ並べられた。


 魔力を足した者。


 逃がした者。


 止めた者。


 待った者。


 誰も、ステファニアと同じ判断はしていない。


 それでも三人は、自分の術式を自分で選び直した。


 一人は選ばないまま、保護線によって安全停止した。


「再現できなかったのでしょうか」


 リシアが尋ねた。


「いいえ」


 ステファニアは、四枚の記録を見た。


「私の判断を再現しなかったことが、今回の成果です」


「待ってしまった方もですか」


「はい。表示が判断を奪う条件が、一つ分かりました」


 エレナは、端末上に残る淡い輪を消した。


「次は、表示を減らします」


 アインが首を横へ振る。


「先に、出さない時を決めろ」


 エレナの指が止まった。


 表示を減らすだけなら、同じ期待を弱く残す。


 何を知らせるかより先に、知らせない方がよい条件を決めなければならない。


「承知しました」


     ◇


 夕方の実習場で、エレナは試験記録を一人で整理していた。


 補助表示の設計票には、最上段に名称欄がある。


 その下に、表示目的、対象術式、取得情報、表示条件、停止条件が並んでいた。


 エレナは名称欄を空白のまま残した。


 表示条件にも、まだ何も書かない。


 先に、新しい欄を一つ作る。


 表示しない条件。


 そこへ最初の一行を記した。


 表示がなくても、術者本人が判断を続けられる時。


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