第百三十八夜 完成しない術式
第百三十八夜 完成しない術式
学院の実技場へ戻ると、以前と同じ場所が少しだけ狭く見えた。
白い敷石。
術式を刻むための黒い実習板。
風を起こす訓練柱と、標的代わりの木製輪。
迷宮の深層に比べれば、どれも安全で、明るく、よく整えられている。
それなのに、周囲の学生達は、リシア達の近くへ以前より広い間隔を空けていた。
避けられているわけではない。
むしろ、見られている。
迷宮で残ることを選んだ者達。
暴走した魔物を前に、無属性の板を動かし、剣へ触れる瞬間だけ魔力を通し、必要な警告だけを残した者達。
実際には、何度も失敗した。
アインとアリシアが前を塞いでくれなければ、立っていられなかった。
けれど、遠くから見た者にとっては、失敗した回数より、最後まで残ったことの方が大きいらしい。
「気にするな」
アインが言った。
「はい」
リシアは答えた。
気にしないようにすることと、気づかないことは違う。
その違いも、少し前より分かるようになっていた。
◇
今日の課題は、風の中で術式灯を運ぶことだった。
掌ほどの実習板へ、一定の明るさを保つ光の術式を刻む。
それを起動したまま訓練柱の間を通り、反対側の卓へ置く。
柱から吹く風は一定ではない。
方向も強さも途中で変わる。
術式灯は風で消えないが、術式へ流す魔力が乱れれば光量が落ちる。強く流し過ぎれば、実習板の保護線が働いて停止する。
「術式の安定と、歩行中の魔力制御を同時に確認する」
ラウル教官が説明した。
「迷宮で何を見たとしても、今日は通常授業だ。規定外の技術を使う場合は、先に申告しろ」
何人かの学生が、リシア達を見た。
ラウル教官も、同じ方向を見た。
「特に、心当たりのある者は」
「まだ何もしておりません」
ステファニアが答えた。
まだ。
リシアは、その一語が気になった。
◇
リシアの術式灯は、最初の風で大きく揺れた。
光が弱くなる。
消えないよう魔力を足すと、今度は明るくなり過ぎた。
実習板の縁が赤く光る。
「足し過ぎ」
アインの声が届いた。
「はい」
リシアは魔力を戻そうとして、戻し過ぎた。
光が暗くなる。
また足す。
赤くなる。
「受け止めようとするな」
迷宮で言われた言葉だった。
リシアは、風へ対抗して光を一定にしようとするのをやめた。
術式へ入る魔力を、風の変化に合わせて少しだけ逃がす。
光は揺れた。
けれど、消えなかった。
反対側の卓へ置く頃には、規定の明るさから少し外れていた。
合格ではない。
それでも、実習板は止まらず動いている。
「次は、揺れを小さくします」
「そうしろ」
アインは短く答えた。
◇
セラは、風が強くなる瞬間だけ術式灯へ魔力を通した。
それ以外では、ほとんど何もしない。
光量は何度か落ちたが、必要な瞬間の補強だけは正確だった。
「剣と同じです」
「術式灯は斬らないでください」
リシアが言うと、セラは実習板を見た。
「斬る必要はありません」
「安心しました」
完全には安心できない答えだった。
エレナは装身型端末へ、訓練柱の風向き、術式灯の光量、魔力消費量を表示していた。
以前なら、全てを同時に並べていただろう。
今は違う。
次の柱で風向きが変わる直前だけ、小さな印が一つ現れる。
光量が許容範囲を外れそうになった時だけ、縁が淡く光る。
何も起きていない間、表示は静かだった。
「見ないのですか」
近くの学生が尋ねた。
「見ています」
エレナは答えた。
「表示する必要がない状態だと、確認しています」
学生は少し考え、よく分からないという顔のまま自分の実習板へ戻った。
クラウディアは、何も言わなかった。
端末上の記録欄へ、小さな評価印だけが追加された。
◇
ステファニアは、開始位置から動いていなかった。
黒い実習板の上には、整った術式が描かれている。
光量を一定に保つ基本構造から、魔力流入量を調整する補助線と、外乱を検知する小さな輪が伸びている。
どれも学院の教本にある形だった。
ただし、一部だけが欠けている。
「ステファニア様」
リシアが呼ぶ。
「はい」
「そこは、まだ書かないのですか」
「書きません」
ステファニアは、欠けた場所を見た。
「書けば、完成してしまいますので」
迷宮で作った板は、最初から整い過ぎて動かなかった。
完成させる前に、動ける余地を残す。
アリシアから教わったことを、ステファニアは術式へ持ち込もうとしている。
けれど、術式は完成させて使うものだ。
欠けていれば、起動しない。
「始めます」
ステファニアが実習板へ魔力を流した。
術式は起動した。
欠けたまま。
淡い光が灯る。
ステファニアは歩き始めた。
最初の訓練柱から風が吹く。
欠けていた術式の一部へ、その場で細い魔力線が伸びた。
灯りの中心に残っていた淡い影を、光の糸が一息だけ縫い合わせる。
補正構造が一瞬だけ完成する。
風が弱まると、線は消えた。
縫い目がほどけても、灯りは消えない。
次の柱では、逆方向から風が来る。
先ほどとは違う線が空白を満たし、別の補正構造になる。
術式の外形は変わらない。
空白だけが、状況に応じて違う形へ変わり続けている。
光は揺れなかった。
ラウル教官が、ゆっくりと腕を組んだ。
アインは黙って見ている。
クラウディアの視界端に、解析表示が幾つも開いた。
ステファニアは最後の柱を抜け、反対側の卓へ実習板を置いた。
術式灯は、最初と同じ明るさを保っている。
「完了しました」
誰もすぐには答えなかった。
最初に口を開いたのは、アインだった。
「何だ、それは」
「光量維持の術式です」
「違う」
クラウディアが、実習板の記録を拡大する。
「固定術式の一部を未定義のまま起動し、外乱に応じて術者が即時構築した魔法制御を接続しています」
「はい」
「術式が術者の判断を補助するのではなく、術者が判断を続けることを前提に、術式側へ空白を固定しています」
「はい」
クラウディアは一拍置いた。
「何ですか、これは」
「魔術です」
ステファニアは少し考えた。
「途中から魔法になりましたけれど」
「だから何だ、それは」
アインの声が、先ほどより僅かに低くなった。
リシアは、アインとクラウディアが同じ種類の困惑を示すところを、初めて見た気がした。
◇
「規定外の技術を使う場合は、先に申告しろと言った」
ラウル教官が言った。
「申し訳ございません」
ステファニアは素直に頭を下げた。
「規定外になるとは、起動するまで分かりませんでした」
「起動しない可能性は」
「ございました」
「停止する可能性は」
「ございました」
「暴発する可能性は」
「保護線の範囲では、ございません」
ラウル教官は実習板を見た。
確かに保護線は残っている。
完成しない術式を作りながら、安全停止だけは完成させていた。
「次回から、起動するか分からないものも申告対象だ」
「承知しました」
ステファニアは、少しだけ残念そうだった。
「再現できますか」
エレナが尋ねた。
ステファニアは答える前に、実習板を見た。
「私なら」
「他の術者では」
「同じ空白へ、同じ判断を入れられるとは限りません」
完成した術式なら、他の者も同じ手順で使える。
だが、これは完成していない。
使う者が、風を感じ、光の揺れを読み、その瞬間に必要な形を選び続けなければならない。
ステファニア一人が使えるだけなら、新しい術式ではなく、変わった技量で終わる。
エレナは自分の端末表示を見た。
端末には風向きと光量、魔力消費が残っている。
けれど、全てを表示する必要はない。
「空白へ入れる形を指示するのではなく、判断が必要になった時だけ知らせることはできます」
クラウディアがエレナを見る。
「何を表示しますか」
「答えではありません」
エレナは、ステファニアの実習記録から、空白が変化した瞬間だけを抜き出した。
風向きが変わる少し前と、光量が落ち始める直前。魔力を足すか、逃がすか、何もしないかを選ぶ必要が生じた時点だけが残った。
「選ばなければならない時だけです」
「選択肢は」
「術者本人が持つものだけを使います。端末が持っていない答えを、あるようには見せません」
クラウディアは表示を確認した。
「作ってください」
「はい」
「ただし、ステファニア様の補助ではありません。他の術者が、自分で判断できるかを確認するためのものです」
エレナの指が止まる。
「承知しました」
その返事は、少しだけ嬉しそうだった。
◇
授業終了の鐘が鳴った後も、黒い実習板の周囲には人が残っていた。
ステファニアは、完成しない術式を消さずに記録している。
エレナは、その隣で表示条件を減らしていた。
リシアは二人の作業を見比べる。
ステファニアは、術式へ空白を残した。
エレナは、表示へ沈黙を残した。
どちらも、何かを足して完成させたのではない。
使う者が自分で決める場所を、消さずに残している。
「ステファニア様」
「はい」
「先ほどのものに、名前はあるのですか」
「ございません」
ステファニアはアインを見た。
「必要でしょうか」
「先に再現しろ」
「承知しました」
エレナが、記録欄へ仮の分類名を入力しようとする。
クラウディアが、その欄を非表示にした。
「まだ早いです」
「はい」
少し離れた場所で、学生の一人が囁いた。
「完成していないのに、完成したのか」
別の学生が答える。
「分からない。けど、光は消えなかった」
実習板の上では、空白を残した術式灯が、まだ静かに光っていた。




