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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百三十六夜 離れても残るもの

第百三十六夜 離れても残るもの


 学院管理迷宮の暴走が止まった翌日、六通の照会が届いた。


 差出人は、メシア正教国内の六教区。


 いずれも、寄進と救護会計の公開監査を求めている。


 添えられていたのは、正教国中央から各教区へ送られた同じ通告だった。


 監査要求を撤回しない教区には、救護資金と薬品の配給を停止する。


 アークライトの小会議室で、ステファニアは通告を読み終えた。


 卓上には、茶器と焼き菓子が並んでいる。


 その隣に、黒に近い灰色の小箱が二つ置かれていた。


 アリシアが、一つをステファニアの前へ滑らせる。


「お使いになりまして?」


 箱の中には、細い首飾りに似た端末が収められていた。


 学院で使う装身型拡張視覚端末より、飾りが少ない。


「指揮官級拡張視覚端末です」


 クラウディアが言った。


「情報処理特化型。複数組織の関係、経路、条件、予測結果を同時に扱えます。判断者権限は付与しません」


「お借りします」


 ステファニアが端末を首元へ着ける。


 アリシアも、もう一つを身に着けた。


 二人の視界にだけ、正教国中央と六教区を繋ぐ多層の盤面が開く。


 教区、施療院、救護団体、商会、暗部。


 それぞれが駒のように浮かび、寄進、命令、薬品、報告の経路が細い線となって結ばれていた。


「監査を受ければ、患者を見捨てることになる。そう思わせる文面です」


「実際、止めるつもりでしょう」


 アリシアが答えた。


 開いた扇の向こうで、微笑んでいる。


 アインは、卓上に並ぶ六教区の記録を見た。


「正教国を、滅ぼすのか」


「いいえ」


 アリシアは、扇を静かに閉じた。


「祈る国には、祈ることへお戻りいただきますわ」


 クラウディアが、正教国中央の組織図を共有表示へ出す。


 教義審議。


 礼拝管理。


 救護と施療。


 その下へ、暗部への報告経路、秘密資金、他国協力者への指示、婚姻と継承に関する非公式照会が重なっていた。


「祈りと救護を残し、こちらだけを外しますの」


 閉じた扇の先が、暗部と秘密資金の経路へ触れた。


 扇を横へ滑らせる。


 二つの経路が盤面の外へ動き、残された組織だけが組み直される。


「簡単に言うな」


「難しいことは、存じておりますわ」


「楽しそうだな」


「気のせいですわ」


 ステファニアも、受け取った扇の先を盤面へ触れさせた。


 救護資金を示す線を、中央から地域の施療院へ引き直す。


 途中へ監査窓口を置く。


 盤面が、次に起こり得る三つの反応を表示した。


 資金停止。


 異端認定。


 関係者拘束。


 ステファニアは、その三つを消さず、別の位置へ並べた。


 アインは黙った。


 クラウディアも黙った。


 エレナは記録用のペンを持ったまま、二人を交互に見た。


 リシアは、一度だけアインと視線を合わせた。


 同じ顔をしていた。


     ◇


「最初の条件は、聖女を所有しないことですわ」


 アリシアが言った。


「聖女という名も、保護も、帰還も、正しき祀りも。本人の意思を他者へ渡す理由にはなりません」


 卓上へ、古い二つの事件名が置かれる。


 ファーランド側の記録では、聖女像寄進要求事件。


 メシア教側の記録では、聖女隠匿事件。


 二つの事件名が、盤上で向かい合う。


 アリシアは、扇の先で片方を持ち上げた。


 聖女像。


 その表記を外し、下に隠れていた二人の名を盤面へ戻す。


 アリシア。


 メイ。


「わたくしとメイは、眠っておりました」


 アリシアの指先が、閉じた扇を一度撫でた。


「石化睡眠であっても、生きております。ですが、像と呼び替えれば、運び出して所有できると考えた者がおりました」


 笑みは残っている。


 声だけが、少し低かった。


「わたくしが、後世の干渉を炙り出すために眠る姿を選んだこととは別の話です」


 アリシアは、六教区から届いた照会へ目を向けた。


「眠っている者の沈黙は、同意ではございませんわ」


 ステファニアが頷いた。


「逃げた聖女を、連れ去られた聖女と記録することも。同じですね」


「ええ」


「婚約者という名を、本人より先に扱うことも」


 ステファニアの声は静かだった。


 ジークフリートを責める響きはない。


「正教国の影響へ対抗するため、ファーランドの系譜とアレーナ王家の婚姻が、安定のための防壁として必要と判断された。正教国が命じた婚姻ではありません。ですが、他国の婚姻を防壁として必要にさせた遠因ではあります」


 ステファニアは、自分が返した婚約者の名を、もう一度記録の上で見た。


「私の代で、終わらせます」


 アリシアの扇が、僅かに開いた。


「では、始めましょうか」


「はい」


 二人の声が、少しだけ弾んだ。


 アリシアは紅茶を一口飲み、扇の先で正教国中央の監査拒否を盤面へ置く。


 ステファニアは焼き菓子へ手を伸ばす前に、その拒否から六教区へ伸びる処罰経路を三つに分けた。


「救護資金停止は、そのまま記録公開条件へ」


「異端認定は、教義判断と会計回答を同じ席へ置きましょう」


「関係者を拘束した場合は」


「御家族も含めた保護申請を自動で開きますわ」


 茶会の相談にしか聞こえない声で、正教国中央が選べる手が一つずつ減っていった。


 エレナがペンを止めた。


「お二人とも、今のところで楽しそうになられるのですね」


「必要な仕事ですわ」


「必要な仕事です」


 返事まで揃った。


 アインはクラウディアを見た。


「止めるか」


「条件違反が生じた場合は」


「今は」


「生じていません」


「そうか」


     ◇


 ステファニアが扇の先で盤面へ並べた離脱手順は、五つに分かれた。


 寄進と救護会計の公開監査。


 患者記録と施療記録の複製保全。


 中央から止められた救護資金と薬品の代替。


 内部告発者と、その家族の保護。


 そして、礼拝の継続。


「中央への報告義務だけを切ります」


 ステファニアが説明する。


「教義、礼拝、施療、地域内の相互扶助は残す。ファーランドにも、アークライトにも、学院長府にも臣従を求めません」


「離れた教区の監査記録は、次の教区が使えますわね」


「はい。中央が処罰すれば、その処罰記録も加えます」


「救護を止めた記録も」


「公開します」


「告発者を異端とした場合は」


「異端判断の根拠と、会計監査への回答を同じ記録へ置きます」


 アリシアの扇が、少しずつ開いていく。


 開くたびに、盤面の一部が次の状態へ進む。


 中央が強く締めるほど、次の教区へ渡る記録が増える。


 異端と呼べば、監査要求へ教義で答えた記録が残る。


 薬を止めれば、患者より暗部の会計を優先した記録が残る。


 告発者を捕らえれば、次の告発者を守る理由が増える。


「一つ離れるごとに、次は離れやすくなりますわ」


「最初の一つだけは、完全に守る必要があります」


「白灯救済奉仕会の救護中心派が使えますわね」


「ベルン商会は薬品と輸送を担当できます。学院長府確認窓口は記録の真正性確認。各地の施療記録を繋げれば、中央が患者数を理由に配給を止めることも難しくなります」


 二人は、楽しそうだった。


 上品に。


 紅茶の温度を確かめ、焼き菓子を勧め合い、扇の先で組織と資金と命令を動かす。


 盤面は、碁盤にも、チェス盤にも見えた。


 ただし、駒には全て人の暮らしが繋がっている。


 正教国中枢が次に選ぶであろう手を、一つずつ次の離脱理由へ変えていく。


 アインとクラウディアとエレナは、揃って少しだけ身を引いていた。


 リシアも、同じ側にいた。


 途中までは。


「離れた人達は、その後どう暮らすのですか」


 アリシアとステファニアの手が、同時に止まった。


 リシアは、卓上の六教区を見る。


「薬品と資金が届いても、それだけでは暮らせません。教区を離れたと見なされれば、近隣の宿泊所や共同倉庫も使えなくなるかもしれません。礼拝を続けられても、司祭や修道士の家族が地域から追われれば、同じことです」


 ステファニアが、共有表示の端へ空白を作った。


 アリシアが、隣の椅子を引く。


「リシア」


「はい」


「こちらへ」


「私は、確認を」


「ええ。必要な確認ですわ」


「ですが」


「生活側の設計が空いております」


 ステファニアも、自分の隣へ資料を寄せた。


「リシア様。地域倉庫、宿泊所、共同食堂、子供の学び場、家族の移動先まで必要です」


「私は、策略へ加わるとは」


「存じておりますわ」


 アリシアが微笑む。


「ですから、暮らしを守るお話をいたしましょう」


 リシアは、アインを見た。


 アインは短く言った。


「行ってこい」


 リシアは少しだけ迷い、空けられた席へ座った。


 アリシアが、三つ目の小箱を卓上へ置く。


「用意していたのか」


 アインが言った。


「必要になると思っておりましたの」


 リシアは、小箱と二人を見比べた。


「私は、確認をしただけです」


「ええ」


 ステファニアが微笑む。


「ですから、確認できる盤面が必要です」


     ◇


 六教区全てへ、同じ命令は送らなかった。


 監査を続けろとも、中央から離れろとも書かない。


 最初に送ったのは、一つの小施療院だった。


 中央からの薬品配給停止まで、残り九日。


 患者は三十七名。


 併設された小礼拝所では、毎朝と夕方に祈りが続いている。


 送ったのは、選択肢だった。


 公開監査を受ける場合の記録保全手順。


 配給が止まった場合の薬品供給申請。


 暗部への報告義務だけを拒否した場合の告発者保護。


 礼拝、施療、共同食堂、宿泊所を止めずに運営するための相互扶助申請。


 そして、どれも選ばない権利。


「送付を確認しました」


 クラウディアが告げた。


 卓上には、まだ六教区が残っている。


 正教国も残っている。


 祈りも残っている。


 ただ、離れても残せるものが、初めて一組の手順になっていた。


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