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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百三十七夜 大岩の欠片

第百三十七夜 大岩の欠片


 朝の祈りが終わると、小施療院の院長は礼拝所の扉を閉めた。


 閉じたのは、祈りを止めるためではない。


 患者三十七名と、働く者達へ、届いた書面を読んで聞かせるためだった。


「公開監査を受ければ、中央からの薬品配給は止まります」


 小さな礼拝所に、返事はなかった。


 寝台を離れられない者は、隣の施療室で聞いている。共同食堂の椅子も運び込まれ、修道士、炊事を担う者、患者の家族が座っていた。


 院長は、一枚目の書面を置いた。


 中央からの通告。


 監査要求を撤回しなければ、九日後に薬品と救護資金を停止する。


 二枚目を取る。


 差出人は、どの国でも、どの教区でもなかった。


 公開監査を選ぶ場合の記録保全手順。


 配給停止時の薬品供給申請。


 暗部への報告義務だけを拒否した場合の告発者保護。


 礼拝、施療、共同食堂、宿泊所を続けるための相互扶助申請。


 そして、どれも選ばない権利。


「これは、中央から離れろという命令ではありません」


 院長は言った。


「従えという命令でもない。私達が選ぶための手順です」


 老司祭が、祭壇の前から尋ねた。


「患者の記録は、どうする」


「残します。治療に必要な記録は、これまで通りです」


「暗部へ送っていた名簿は」


 院長の手が止まった。


 施療を受けた者の名。


 出身地。


 親族。


 祈りの場で口にした迷いや、中央への不満。


 治療には必要のない記録だった。


「送りません」


 礼拝所の後ろで、誰かが息を呑んだ。


「診療と礼拝は続けます。寄進と救護会計の公開監査を受け入れます。患者記録は保全し、治療に不要な報告義務だけを拒否します」


 老司祭は、しばらく院長を見た。


「祈りは、誰へ返す」


「神へ」


「なら、よい」


 最初に同意したのは、中央から任じられた老司祭だった。


     ◇


 アークライトの小会議室では、三つの扇が同じ盤面へ触れていた。


 アリシアの扇が、最初の小施療院を示す駒を持ち上げる。


 ステファニアの扇が、その下へ公開監査、記録保全、薬品代替の三経路を繋ぐ。


 リシアは、共同食堂と宿泊所へ伸びる線を確かめていた。


「選択通知を受領しました」


 クラウディアが告げる。


「公開監査を受諾。患者記録と礼拝を維持。暗部への報告義務のみ拒否」


「最初の一枚ですわね」


 アリシアは紅茶へ口をつけた。


 盤面の端で、小施療院と正教国中央を結ぶ一本の線が消える。


 消えたのは、暗部への報告経路だけだった。


 祈りも、施療も、患者も残っている。


「中央の反応を予測します」


 クラウディアが盤面へ演算領域を追加しようとした時、別の声が室内へ届いた。


『アークライト余剰演算領域の使用申請を受領しました』


 姿はない。


 声だけが、艦内管制を通じて静かに響く。


『トトです。指揮官級拡張視覚端末三基との接続を確認。多重並列大規模予測演算を開始します』


 正教国中央から、無数の細い線が伸びた。


 異端認定。


 院長拘束。


 薬品配給停止。


 教区への査問。


 命令撤回。


 監査受諾。


 どれか一つではない。


 誰が命令を受け、誰が拒み、誰が記録を残し、誰が途中で考えを変えるか。


 分岐は分岐を生み、盤面の上へ幾重にも重なった。


 アークライトの演算領域を使ってなお、全てを確定させることはできない。


『初期予測を完了しました。中央が最初に選択する可能性が最も高い対応は、施療院長の異端認定です』


 赤い札が、盤面へ落ちた。


『続いて院長の職務停止、代行者派遣、患者記録の接収。三手以内に強制移送へ移行する可能性は六十一パーセントです』


「やはり、そこから参りますのね」


 アリシアの扇が、赤い札の縁へ触れた。


 弾けば、異端認定が成立する前に無効化できる。


 その手前で、扇は止まった。


『未対処の脆弱箇所を三点検出しました。補完しますか』


「いいえ。そのままで結構ですわ」


『意図的な欠陥と記録します』


「出口、と記録してくださいませ」


 ステファニアが、盤面の一角を広げた。


 中央から見れば、小施療院は孤立している。


 院長を異端とし、代行者を送れば、取り戻せるように見える。


 代行者が正規の手続きを守る限り、施療院へ入ることもできる。


 そこが、中央へ見せる穴だった。


 ただし、患者記録を接収しようとした瞬間、その命令は公開される。


 院長を拘束すれば、家族を含む保護手順が開く。


 薬品を止めれば、既に待機している代替輸送が動く。


 穴へ踏み込むほど、中央が救護より暗部の報告を優先した記録が残る。


「塞がないのですか」


 リシアが尋ねた。


「塞げば、中央は動きません」


 ステファニアが答えた。


「動かなければ、他の教区は中央が何を守ろうとしているのか確かめられません」


「ですが、施療院の方々が危険になります」


「ええ。ですから、危険を承知せず囮にすることはできません」


 ステファニアは扇の先で、小施療院へ確認照会を送る。


 予測される異端認定。


 院長拘束。


 記録接収。


 その危険と、用意された保護手順。


 全てを示した上で、改めて選択を返した。


「選び直す権利は、何度でも残します」


 リシアは頷き、別の空白へ扇を触れさせた。


「では、こちらも必要です」


 小施療院から、中央へ戻る細い道が伸びる。


 中央が暗部への報告要求を撤回し、公開監査を受け入れ、処罰を行わない場合。


 面子を失わず、施療院との関係を維持できる道だった。


「これは、誘うための穴ではありません」


「ええ」


 アリシアが微笑んだ。


「本物の退路ですわ」


 中央が正すことを選ぶなら、失敗させない。


 中央が処罰を選ぶなら、その選択だけを記録する。


 二つの穴は、同じ盤面へ残された。


『予測条件を更新しました』


 トトの声が告げる。


『中央が暗部報告要求を撤回する可能性、七パーセント。なお、未把握の密命、個人の突発的判断、未記録経路による介入は予測精度外です』


「十分ですわ」


「十分なのか」


 アインが言った。


 アリシアとステファニアは、揃ってアインを見た。


「選ぶのは、わたくし達ではございませんもの」


「予測は、選択の代わりにはなりません」


 リシアも盤面を見た。


「選んだ後に、暮らしが残るようにするためのものです」


 アインは、三人と盤面を見比べた。


「なら、いい」


     ◇


 正教国中央からの返答は、予測演算の完了から半日後に届いた。


 小施療院長を異端の疑いにより職務停止とする。


 患者記録を保全するため、中央任命の代行者を派遣する。


 監査要求を撤回するまで、薬品配給を停止する。


 三つの命令が、同じ書面に記されていた。


 施療院長は、その書面を礼拝所で読み上げた。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 やがて老司祭が、杖を床へ置いた。


「異端の疑いとは、何を疑われた」


「暗部へ患者の名を送らないことです」


「祈りではないのだな」


「はい」


「教義でもない」


「はい」


 老司祭は、中央の書面を受け取った。


 裏返す。


 白いままだった。


「ならば、これは信仰への答えではない」


 院長は、公開監査の受諾記録へ署名した。


 中央の命令書。


 暗部へ送られていた治療不要の名簿項目。


 薬品配給停止の通告。


 三つを添え、公開記録へ置く。


 その夜、小礼拝所の老司祭から照会が届いた。


 翌朝には、白灯救済奉仕会の一支部が、中央を介さず薬品を届けると申し出た。


 昼までに、六教区の一つが寄進と救護会計を地域公開へ切り替えた。


 誰も、小施療院に従ったのではない。


 それぞれが同じ記録を読み、それぞれに選んだ。


 大岩は、まだ立っている。


 ただ、その足元には、昨日まで岩の一部だった小さな欠片が落ちていた。


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