第百三十三夜 帰還路を守る者
# 第百三十三夜 帰還路を守る者
学院管理迷宮の入口には、三つの班が並んでいた。
前回、古い識別柱が見つかった区画は封鎖されたままだ。
今日使うのは、そこから二層離れた西側経路。
学院長府による再点検を終え、誘導杭、隔壁、緊急帰還路の全てが正常に応答している。
「複数班合同で行う理由は、人数を増やすためではない」
ラウル教官が学生達を見渡した。
「普段と異なる隊列、知らない相手の負傷、複数の指示が重なった状況でも、帰還できるか確かめるためだ」
入口脇には、アインとアリシア・ファーランドも立っていた。
二人は授業の引率者ではない。
封鎖区画で見つかった旧規格の識別情報と、学院管理迷宮の現行制御に接続がないか確認するため、学院長府から立ち会いを求められている。
アリシア・ファーランドは左腰にレイピアを帯び、左手には閉じた扇を持っていた。
ステファニアが受け取ったものと、形は同じだった。
「姉様。その扇は、記録確認に必要なのですか」
リシアが尋ねる。
「護身具ですわ」
「レイピアもお持ちですが」
「護身具ですわ」
同じ答えだった。
ステファニアは、自分の腰に差した扇へ一度だけ視線を落とした。
「本日は、使用しません」
「まだ何も申し上げておりませんわ」
「はい」
アリシア・ファーランドが微笑む。
リシアは、なぜか少しだけ安心した。
◇
合同授業は、予定どおり進んだ。
先頭班が通路と魔物の痕跡を確認する。
中央班が物資と負傷者役の訓練人形を運ぶ。
最後尾の班は、通過後の経路と誘導杭の表示を記録する。
リシア達は中央班に入っていた。
セラとカイルが前方を警戒し、リシアとステファニアが左右の壁と魔力流を確認する。
エレナは三班から届く情報を整理し、ミレイアは足元の風で匂いと粉塵の流れを読む。
前回の実習と違い、地図にない空洞は見つからない。
擦れた古い刻印もない。
それでも、リシアは何度か足を止めそうになった。
壁の奥へ流れる魔力が、妙に静かだった。
流れていないのではない。
こちらから気づかれないよう、息を潜めているように感じる。
「リシア様?」
エレナが声をかけた。
「壁の奥が、静かすぎます」
ラウル教官が足を止める。
「前回と同じ反応か」
「いいえ。前回は、道がないのに何かがありました。今は……道があるのに、使われていないような」
ステファニアが壁へ手を近づけた。
触れずに止める。
「参照先は感じません。ですが、閉じられているというより、待っているように思えます」
アインが、通路の奥を見た。
「全班、止まれ」
声は大きくなかった。
だが、三つの班が同時に止まった。
次の瞬間、誘導杭の光が青から赤へ変わった。
前方。
後方。
曲がり角の先。
見える範囲の全てが、一斉に同じ色へ変わる。
「誘導表示を信用するな!」
ラウル教官の声が通路へ響いた。
「各班、現在位置を保持! 壁際へ寄り、人数確認!」
床の下で、重いものが動いた。
後方の隔壁が落ちる。
石と金属が噛み合う音の直後、地面が大きく揺れた。
誰かが息を呑む。
エレナの共有表示に、三班分の人数が並んだ。
「全員確認。負傷報告なし」
「緊急帰還路は」
ラウル教官が問う。
「表示上は、前方です」
「赤い杭の先だな」
「はい。ですが、現行地図では外周ではなく第四層へ繋がります」
誘導杭は、帰還路ではない方向を示していた。
遠くで、魔物の咆哮が重なる。
一つではない。
深い場所にいるはずのものが、押し上げられてくる音だった。
「事故ではありません」
クラウディアの声が、全員の共有端末へ届いた。
「現行制御へ、旧規格保守経路から命令が挿入されています。隔壁、誘導杭、魔物制御の三系統が同時に再参照を開始しました」
「止められる?」
リシアが尋ねた。
「現行制御側からの停止要求は拒否されています。挿入された命令は、一度限りの保守命令として認証済みです」
アインは、閉じた後方隔壁へ歩いた。
手を触れる。
「こっちは開ける」
隔壁の縁に、細い光が走った。
重い隔壁が、音もなく持ち上がる。
その先に見えた通路では、赤い誘導杭が奥を指している。
アインは床へ片手を置いた。
白い線が、隔壁の下から入口方向へ伸びていく。
曲がり角を越え、見えなくなっても止まらない。
「この線を辿れば、入口へ戻れる」
「誘導杭が変わっても?」
先頭班の学生が問う。
「変わらない」
「隔壁が、また閉じても」
「閉じさせない」
短い返答だった。
通路の奥から、硬い脚が床を叩く音が近づいてくる。
ラウル教官が学生達を白い線の側へ寄せた。
アリシア・ファーランドは、その反対側へ立った。
右手でレイピアを抜く。
左手の扇は、閉じたままだ。
「アリシア・ファーランド様」
ラウル教官が呼ぶ。
「入口側へ退避する時間を、確保できますか」
「もちろんですわ」
アリシア・ファーランドは、近づく足音へ顔を向けた。
「一匹も、こちらへは通しません」
曲がり角から、甲殻に覆われた魔物が現れた。
第三層の実習で扱う大きさではない。
天井近くまである頭部が、学生達を見つけて顎を開く。
アリシア・ファーランドの閉じた扇が、わずかに持ち上がった。
扇の先に、淡い光が集まる。
光は広がらない。
細く、短く、扇の延長だけに形を持った。
アリシア・ファーランドが一歩踏み込む。
魔物の前脚が落ちた。
続いて、レイピアが甲殻の継ぎ目を通る。
刃が触れた瞬間だけ、細い光が走った。
巨体は学生達へ届く前に崩れ、通路を塞ぐように倒れた。
アリシア・ファーランドは、扇にもレイピアにも光を残していない。
「今のは」
ステファニアの声が、僅かに上ずった。
「無属性魔力の実体化と、接触時のみの魔力伝導ですわ」
「授業で扱う内容ではありません」
ラウル教官が言った。
「基礎ですわ」
「現在の学院では、上級課程です」
「まあ」
アリシア・ファーランドは、少しだけ残念そうだった。
通路のさらに奥で、別の咆哮が響く。
アインは白い帰還線と、魔物が来る方向を見比べた。
「致死域を分ける」
床へ置いた手から、もう一本の線が伸びる。
今度は黒に近い色だった。
魔物が来る通路と、学生達が立つ場所の間を横切る。
線を越えようとした小型の魔物が、見えない壁へ当たって弾かれた。
「白い線の内側は安全。黒い線の向こうは、俺とアリシア・ファーランドが止める」
「暴走源は」
ラウル教官が問う。
「下だ」
「停止できますか」
「できる」
ラウル教官は、それ以上問わなかった。
白い帰還線へ目を向ける。
「全員、聞け。入口までの退路は確保された。授業は中止し、全班を退避させる」
学生達が頷く。
その時、クラウディアの声が届いた。
「補足します。白線内の安全性を確認。入口までの経路上に魔物、閉鎖隔壁、崩落危険はありません。退避は可能です」
一拍置く。
「また、現在の暴走環境は、アイン様とアリシア・ファーランド様による制御下へ移行しました」
ラウル教官が、僅かに眉を寄せた。
「何を提案するつもりですか」
「俺じゃない」
アインが答えた。
アリシア・ファーランドが、閉じた扇を指先で回した。
「せっかく、形になる前の魔力を学ぶには、良い環境が整いましたでしょう?」
学生達の間に沈黙が落ちる。
遠くでは魔物が咆哮している。
黒い線の向こうでは、深層の魔物が見えない境界へ爪を立てていた。
帰り道は、白く光っている。
「授業は中止です」
ラウル教官が言った。
「ここから先は、学院の通常課程ではありません。帰還を選んだ者に、不利益は一切ありません」
それから、アインとアリシア・ファーランドを見る。
「続ける場合、安全を保証できますか」
「できる」
「ええ」
二人の返答は、ほとんど同時だった。
ラウル教官は学生達へ向き直る。
「選べ。今すぐ帰るか。安全域内に残り、予定外の実地訓練を受けるか」
リシアは、足元の白い線を見た。
帰れる。
誰にも責められず、ここから出られる。
その道があるからこそ、黒い線の向こうを見ても、足が竦まなかった。
セラが、剣の柄へ手を置く。
ステファニアは、腰の閉じた扇へ触れた。
エレナが共有表示から、帰還希望と続行希望の二つの欄を開く。
カイルとミレイアも、互いの顔を見た。
リシアは手を上げた。
「残ります」
今度は、誰かに守られているだけではなく。
帰れる道があると知った上で、学ぶことを選んだ。




