第百三十二夜 退路の先
第百三十二夜 退路の先
イレーネの叱責は、夕食の支度が始まるまで続いた。
聖女アリシアは、最初から最後まで正座して聞いた。
追手を引きつける必要があったこと。
里へ知らせを送れば、経路を辿られる危険があったこと。
アークライトと合流した後も、エリオノーラの救出と王都移送が続いていたこと。
イレーネは、その全てを理解した上で叱った。
「事情があれば、心配させてよいということにはなりません」
「はい」
「危険がなくなってからで構いません。無事だと知らせる手段を、最初に探してください」
「はい」
「お一人で決めず、八雲様と紅緒様にも相談なさってください」
「はい」
少し離れた場所に座っていた八雲と紅緒へ、イレーネの視線が向いた。
「お二人もです」
「はい」
「承知しました」
八雲と紅緒まで姿勢を正した。
マルクは囲炉裏へ薪を足しながら、何も言わなかった。
口を開けば、自分も叱られる側へ加えられると分かっている顔だった。
アインは戸口の近くに座っていた。
「終わった?」
「まだです」
イレーネは即答した。
「そうか」
アインは待った。
やがて、イレーネは深く息を吐いた。
「次は、知らせてください」
「必ず」
聖女アリシアが答える。
その短い約束を聞いて、イレーネはようやく頷いた。
◇
里の者たちから許可が出たのは、その後だった。
旧第三十七退避経路の西側出口で待機していた連絡班と医療班へ、精霊が道を開く。
白い幹の間から現れたのは、灰白色の医療勤務服を着た女性二名と、連絡担当の調整体一名だった。
武器は見える場所に持っていない。
医療器具も、蓋の閉じた小さな鞄一つだけだった。
「診察をお勧めします」
医療班の一人が、イレーネへ言った。
「受けなければなりませんか」
「いいえ。受けるかどうかは、イレーネ様が決めてください」
「結果は、誰へ伝わりますか」
「まず、イレーネ様へお伝えします。それ以外の方へは、イレーネ様が許可した範囲だけです」
イレーネは、医療班の顔を見た。
「子供についても?」
「お腹の中にいる間は、イレーネ様の診察情報です」
迷いは長くなかった。
「お願いします」
診察には、湖畔の家の一室が使われた。
マルクは本人の希望で同席し、聖女アリシアたちは外で待つ。
薄い光を放つ診察器具が運び込まれた時、イレーネは少し身構えた。
「痛みはありません」
医療班が先に説明する。
「身体の内側を画像として確認します。見たくない場合は表示を切ります」
「見ます」
イレーネは答えた。
マルクも頷いた。
しばらくして、家の中から音が聞こえた。
規則正しく、速い音だった。
聖女アリシアが顔を上げる。
紅緒も、閉じた扉を見る。
八雲だけが何の音か分からず、二人の顔を見比べた。
「心臓の音です」
聖女アリシアが小さく言った。
家の中では、マルクが椅子へ座り直していた。
診察を終えた医療班は、最初にイレーネへ説明した。
母体と胎児の状態は、現時点で安定している。
すぐに処置を要する異常は見つからない。
ただし、出産まで同じ状態が続く保証ではないため、定期的な確認と、緊急時に医療班へ連絡できる手段を勧める。
「この結果を、マルク様と外で待つ方々へ伝えてよろしいですか」
「はい」
イレーネは一度、腹部へ手を置いた。
「皆に、お願いします」
扉が開いた。
「母子ともに安定しています」
医療班が告げると、聖女アリシアの肩から力が抜けた。
紅緒は静かに息を吐く。
八雲は、マルクの肩を叩いた。
マルクは何か答えようとして、声が出なかった。
◇
翌朝、湖畔に里の者たちが集まった。
アインは、三つの選択肢を示した。
第三ダンジョン森林区画へ移る。
今の里へ残る。
二つの場所を限定転移路で繋ぎ、行き来できるようにする。
「里ごと移すこともできるのですか」
畑を預かる男が尋ねた。
「できる」
アインは答えた。
「でも、しない」
「できるのに?」
「ここは、俺たちの里じゃない」
湖畔が静かになった。
「移すかどうかは、住んでいる人が決める。家ごとでもいい。今決めなくてもいい」
「残る者が少なくても?」
「道と連絡手段は残す」
「移る者が一人だけでも?」
「場所は用意する」
里の老女が笑った。
「四万七千人の町を移したと聞いたよ」
「移した」
「なら、こんな小さな里くらい、持っていってしまえば早いだろうに」
「早いだけだ」
アインは言った。
「決めるのは、そっちだ」
老女は、少しだけ目を細めた。
「そうかい」
それから森の方を見た。
「あの子たちにも聞かないとね」
湖の水面に、波紋が広がった。
風はない。
岸辺の青い花が、一斉に森へ向く。
精霊たちが、聞いていた。
◇
限定転移路は、里の外れに置かれた。
石造りの門でも、光る輪でもない。
二本の白い木の間を抜けると、第三ダンジョン森林区画へ出る。
許可されていない者が通れば、元の森へ戻る。
道を開く条件は、里の住民と両側の精霊が管理する。
最初に通ったのは、里の老女だった。
聖女アリシアと紅緒が付き添う。
三人が白い木の間を抜けると、空の色が変わった。
第三ダンジョン森林区画の空。
遠くには、移送された王都の城壁が見える。
けれど、近くにあるのは若い森と、細い川と、まだ誰も使っていない小道だった。
森の奥から、小さな光が集まってくる。
隠れ里からついてきた青い光と、第三ダンジョン側の淡い緑の光が、互いの周囲を巡った。
しばらくすると、青い光の一つが川上へ飛ぶ。
緑の光が、その後を追った。
「気に入ったようですね」
聖女アリシアが言った。
「全部こちらへ来るわけではなさそうだよ」
老女は、元の森へ残った青い光を振り返った。
「それでいいのです」
紅緒が答える。
その日、暮らしの全てを移すと決めた者はいなかった。
見に来ると決めた者は、何人もいた。
出産まで第三ダンジョン側の医療区画に近い家を借りたいと、イレーネとマルクは申し出た。
畑を預かる男は、種を一袋だけ向こうへ植えると決めた。
老女は、冬だけ向こうで暮らしてみると言った。
今の里へ残る者も、まだ決めない者もいた。
アインは、誰の選択も一つへ揃えなかった。
医療班は緊急連絡端末を置き、連絡班は物資搬送の手順を説明した。
精霊たちは、二つの森を行き来し始めている。
◇
夕暮れ。
聖女アリシアは、旧第三十七退避経路の西側出口に立っていた。
かつては、追手から逃れる者だけが辿った道。
今は、その先で隠れ里と第三ダンジョンが繋がっている。
戻る場所を隠すため、道そのものは公開されない。
けれど、無事を知らせることはできる。
助けを呼ぶこともできる。
離れた後で、帰ることもできる。
「これは、退路ではありませんね」
聖女アリシアが言った。
隣に立つイレーネは、限定転移路の先を見た。
「今度は、帰ってくるための道です」
二人の前で、淡い光が静かに道を照らしていた。




