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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第百三十一夜 迎えに行く者

第百三十一夜 迎えに行く者


 旧第三十七退避経路は、地図の上では途切れていた。


 学院の記録室に置かれた共有表示には、千五百年前の経路と現在の地形が重ねられている。


 古い水路は半分が埋まり、保守坑道の一部は学院管理迷宮へ組み込まれていた。山中の観測所は崩れ、石橋があった谷には森が広がっている。


 それでも、道は残っていた。


「西側出口の識別杭が応答しました」


 クラウディアが、山脈の西側へ小さな光点を置いた。


「旧経路の終端から北西へ二十八キロメートル。そこから先は記録がありません」


 聖女アリシアは、表示された地形を見つめていた。


 竜山脈西側の森。


 湖へ流れ込む三本の川。


 見覚えのある尾根。


「ここです」


 彼女は、光点よりさらに北へ指を置いた。


「里は、この先にあります」


「距離は」


 八雲が尋ねる。


「歩けば半日ほどです。ですが、道を知る者がいなければ、同じ場所を何度も通ることになります」


「精霊による認識誘導を確認しています」


 クラウディアが答えた。


「外部からの探索には有効です。大規模な調査を行えば突破できますが、里の秘匿性を失います」


「それは駄目です」


 聖女アリシアの返答は早かった。


「あの里は、追われた方々を受け入れてきました。わたくしたちが戻るために、隠れる場所を奪うことはできません」


 共有表示の向こうで、ステファニアが鍵スフィアへ手を添えている。


 旧第三十七退避経路を公開索引へ戻すことなく、必要な区間だけを開く。


 それが、彼女の役目だった。


「西側出口までの限定経路を開きます」


 ステファニアが言った。


「接続対象は、迎えに行く者と、その方々が許可した者だけです」


 鍵スフィアの内側で、淡い光が巡った。


 千五百年前に外された参照経路が、一時的に繋がる。


 共有表示の上で、途切れていた線が西側出口まで伸びた。


「開通を確認」


 クラウディアが告げる。


「西側出口周辺に人為的な監視反応はありません。大型魔獣二体を確認しましたが、進路は接触点から外れています」


 アインは線の先を見た。


「行こう」


 短い言葉だった。


 聖女アリシアは、すぐには頷かなかった。


 指先が、里のあるはずの場所へ置かれたまま動かない。


「怖いですか」


 紅緒が尋ねた。


「はい」


 聖女アリシアは隠さなかった。


「わたくしが、残るよう頼みました。追手を遠ざけるまでは戻らないと決めました。必要なことだったと、今も思っています」


 そこで一度、言葉を止める。


「ですが、必要だったからといって、置いてきたことがなくなるわけではありません」


 八雲は、里への道を見た。


「一人で戻るわけじゃない」


「分かっています」


「なら、行こう」


 聖女アリシアは、今度こそ頷いた。


     ◇


 西側出口は、岩壁の内側にあった。


 転送を終えると、湿った石の匂いと、水が落ちる音がした。


 古い保守坑道の先は崩れている。


 けれど、その手前にある識別杭だけは、淡い光を保っていた。


 追う者へ渡すな。


 迎えに行く者へ残せ。


 千五百年前の記録を、クラウディアは共有表示へ出さなかった。


 必要な者は、すでに読んでいる。


 接触班は、アイン、聖女アリシア、八雲、紅緒の四人。


 アークライトの連絡班と医療班は、出口側へ設けた待機地点に残っている。里の許可なく森へ入らないためだった。


「ここからは、わたくしが案内します」


 聖女アリシアが先頭へ出た。


 森へ入ると、すぐに道は見えなくなった。


 獣道さえない。


 木々の間隔は広いのに、進もうとすると同じ白い幹が何度も正面へ現れる。


 八雲は周囲を見回した。


「前より強くなっている」


「追手が増えたので、精霊たちが道を深く隠したのでしょう」


 聖女アリシアは、三本目の白い幹の前で足を止めた。


 根元へしゃがみ、小さな青い花へ手を触れる。


「戻りました」


 風が止まった。


 青い花が、一度だけ揺れる。


 木々の間に、細い道が現れた。


 紅緒が、その道の先を見た。


「許されたようね」


「まだ、森へ入ることだけです」


 聖女アリシアは立ち上がった。


「里へ戻ることを許されたとは限りません」


 歩き始めた彼女の背を、紅緒は何も言わず追った。


     ◇


 湖が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。


 森を抜けた先に、静かな水面が広がっている。


 岸辺には小さな家々が並び、畑から戻る者たちの姿があった。


 最初に気づいたのは、薪を抱えた少年だった。


 足を止める。


 抱えていた薪を落とした。


「アリシア姉ちゃん」


 声が里へ届いた。


 家の扉が開く。


 畑から人が駆けてくる。


 呼ばれた聖女アリシアは、湖の手前で立ち尽くしていた。


 四ヶ月前と変わらない家。


 修理された柵。


 干されている薬草。


 自分が使っていた木椀まで、井戸端の棚に残っている。


「ただいま、戻りました」


 声は、里の者たちへ届くには少し小さかった。


 それでも、一番近くまで来た老女が笑った。


「おかえり」


 その一言で、人々が動いた。


 囲まれる。


 無事だったのかと問われる。


 痩せたのではないかと言われる。


 八雲と紅緒も引き込まれ、戻ってくるのが遅いと肩を叩かれた。


 アインは少し離れた場所で、それを見ていた。


 説明は後でいい。


 今は、帰ってきた者の時間だった。


 人の輪が、不意に割れた。


 湖畔の家から、一人の女が歩いてくる。


 腹部の膨らみを庇いながら、それでも足取りは速い。


 後ろからマルクが追っていた。


「イレーネ、走るな」


「走っていません」


「今のは走っている」


 イレーネは答えず、聖女アリシアの前まで来た。


 顔を見る。


 肩へ触れる。


 腕に傷がないか確かめるように、外套の上から手を滑らせる。


 聖女アリシアは動かなかった。


「イレーネ」


 名を呼んだ直後、強く抱き締められた。


 息が詰まるほどだった。


 聖女アリシアは目を閉じ、背へ腕を回した。


「ただいま戻りました」


 返事はなかった。


 イレーネの腕に、さらに力が入る。


 三年間、自分を守り続けた腕だった。


 四ヶ月前、自分が里へ残した腕でもあった。


「ごめんなさい」


 聖女アリシアが言った。


「追手を遠ざけるまでは、戻れませんでした」


 イレーネは、しばらく離れなかった。


 やがて、聖女アリシアの両肩を掴んだまま、一歩だけ下がる。


 目元が赤い。


 それでも、声は聖騎士だった頃の硬さへ戻っていた。


「アリシア様」


「はい」


「わたくしは、残るよう命じられたことを怒っているのではありません」


「はい」


「戻れないようになさったことも、必要だったと理解しています」


「はい」


「ですが」


 イレーネは一度、息を吸った。


 無事を確かめた安堵が、ようやく怒りへ追いついた。


「四ヶ月も、無事だという知らせ一つ寄越さなかったことについては、これから叱ります」


 聖女アリシアは、反論しなかった。


「はい」


 湖畔へ、里の者たちの笑い声が広がった。


 迎えに来た道の先で、帰ってきた者は、ようやく叱られていた。


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