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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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幕間十七 退路の果て

幕間十七 退路の果て


 それは、ベルカ魔導帝国がまだ空と大地を繋いでいた、千五百年前の記録だった。


 その男が最初に直したのは、皇女の馬車ではなかった。


 街道脇で立ち往生していた、避難民の荷車だった。


 片側の車輪が割れ、荷台は傾いている。老夫婦と幼い子供が二人、途方に暮れた顔で道端に座っていた。


 婚礼使節団の先頭が速度を落とした時、男はすでに荷車の下へ潜り込んでいた。


「何をしている」


 護衛隊長グレイヴェルが問う。


「見れば分かるだろ。直してる」


 荷車の下から、愛想のない声が返ってきた。


「使節団が通る。道を空けろ」


「車輪が直れば空く」


 男は出てこない。


 護衛騎士たちの間に、わずかな緊張が走った。


 帝国皇女エルディアの婚礼使節団である。


 道を塞ぐ者へ事情を尋ね、必要であれば排除する。それは護衛として当然の判断だった。


「隊長」


 馬車の窓が開いた。


 エルディアが、外を見ている。


「急ぐ旅ではありません。待ちましょう」


「しかし、殿下」


「婚姻先へ一刻早く着くために、民の荷車を壊したまま置いていくのですか」


「……承知いたしました」


 グレイヴェルは騎士たちへ停止を命じた。


 男は荷車の下から片手だけを出した。


「そこの長い鉄棒を寄越してくれ」


 騎士の一人が、グレイヴェルを見る。


「貸して差し上げなさい」


 エルディアが言った。


 男は鉄棒を受け取り、車軸を持ち上げた。割れた車輪を外し、荷台に積まれていた木材を削り、仮の補強材を組む。


 手際はよかった。


 けれど、職人の手ではなかった。


 指には剣胼胝があり、腰の剣は使い込まれている。着ている外套は旅人のものだが、騎士たちの視線が集まっても呼吸一つ変わらなかった。


「動かしてみろ」


 男が荷車の下から出た。


 まだ若い。


 風に乱れた髪と、日に焼けた顔。礼儀をどこかへ置き忘れたような目で、老夫婦へ顎を向ける。


 荷車は、少し軋みながらも動いた。


「次の町までは持つ。そこで車輪を替えろ」


 老人が何度も頭を下げた。


 男は礼を受け取らず、道端へ置いていた荷物を肩へ担ぐ。


「待ちなさい」


 エルディアが呼び止めた。


「礼をしたいのですが」


「直したのはあんたの荷車じゃない」


「では、待たせていただいたお礼を」


「待つと決めたのは、あんただ」


 男はそれだけ言って、歩き出した。


 グレイヴェルの目が細くなる。


「不審者として拘束しますか」


「荷車を直した罪で?」


 エルディアが問うと、隊長は黙った。


 馬車の窓が閉じる直前、彼女は遠ざかる背をもう一度見た。


 男は一度も振り返らなかった。


     ◇


 二度目に会ったのは、その日の夕刻だった。


 使節団が宿営地として選んだ川沿いの平地に、男は先にいた。


 焚き火の前へ座り、鍋をかき混ぜている。


「なぜ、ここにいる」


 グレイヴェルが問う。


「街道を歩いてきたからだ」


「我々の後をつけたのではないのか」


「大人数で道を塞いでおいて、後をつけたも何もないだろ」


 騎士たちの眉間に皺が寄った。


 エルディアは馬車を降り、焚き火から少し離れた場所で足を止めた。


「ここは、宿営に適していますか」


「今夜だけなら」


 男は鍋から顔を上げずに答えた。


「上流で雨が降っている。明日の昼までいれば、水が来る」


 グレイヴェルが周囲を見る。


 空は晴れている。


「その根拠は」


「水の濁りと、流れてくる枝。あと、あれだ」


 男が川上を指した。


 鳥の群れが、谷を離れるように飛んでいる。


 護衛隊は宿営地を高所へ移した。


 翌朝、川は濁流となって元の平地を呑み込んだ。


「お名前を伺っても?」


 出立前、エルディアは男へ尋ねた。


「ルク」


「それだけですか」


「旅人には十分だ」


「では、ルク。昨日と今日、二度も助けていただきました」


「昨日は荷車を直した。今日は水が来ると言った。それだけだ」


「助けたつもりはない、と?」


「あんたたちが勝手に助かった」


 エルディアは、少しだけ笑った。


「不思議な方ですね」


「皇族に言われたくない」


 グレイヴェルの手が剣へ近づいた。


 エルディアは手で制する。


「皇族は、不思議ですか」


「馬車に乗って嫁ぎに行くのに、道端の荷車で止まる程度には」


「止まらない方がお好みでしたか」


「いや」


 ルクは初めて、彼女の顔を正面から見た。


「止まれるなら、その方がいい」


 それから彼は、使節団とは反対の道へ歩いていった。


     ◇


 三度目は、婚姻先へ到着してから二十三日後だった。


 空が赤かった。


 夕焼けではない。


 城外の森が燃えている。


 魔獣の大侵攻は、警報より早く城壁へ到達した。


 最初の群れを防衛隊が迎撃している間に、別の群れが地下水路から市街へ侵入した。避難命令は混乱し、門には人が殺到した。


 婚礼は、まだ行われていなかった。


 迎え入れるはずだった家の当主も、婚約者も、防衛線へ出たまま戻らない。


 エルディアは城の礼拝堂へ集められた者たちを見渡した。


 負傷者。


 使用人。


 逃げ遅れた住民。


 泣いている子供。


 護衛騎士は、出発時の半数を失っていた。


「殿下、北門から離脱します」


 グレイヴェルの鎧には、黒い血がこびりついている。


「北門の先は」


「旧街道へ出ます。そこから西へ」


「帝都へ戻る道ですね」


「はい」


 エルディアは、礼拝堂の外へ目を向けた。


 鐘が鳴っている。


 避難を告げる鐘ではなかった。


 城壁の一部が落ちたことを知らせる音だった。


「ここにいる方々も連れていきます」


「殿下」


「私だけが戻るための道なら、使いません」


「人数が増えれば、速度が落ちます」


「分かっています」


「護衛し切れない可能性があります」


「それも分かっています」


 グレイヴェルは、しばらく彼女を見た。


 それから深く頭を下げる。


「承知いたしました」


 礼拝堂の裏口が、外から叩かれた。


 騎士たちが剣を抜く。


「俺だ。開けろ」


 聞き覚えのある、愛想のない声だった。


 扉を開くと、ルクが立っていた。


 外套は裂け、左腕から血を流している。背後には、地下水路から救い出したらしい住民が十数人いた。


「北門へ行くな」


 挨拶もなく、彼は言った。


「旧街道はもう呑まれている。逃げた連中を追って、魔獣の群れが西へ流れた」


「では、どこへ」


 グレイヴェルが問う。


「東へ抜ける」


「東には竜山脈がある」


「南端を回る古い退避路が残っている」


「その先は」


 ルクは一瞬だけ黙った。


「ファーランドだ」


 エルディアは、その沈黙を見逃さなかった。


「あなたは、その道を知っているのですね」


「知っている」


「なぜ」


「今は道の話だけでいい」


 礼拝堂の正面扉へ、何かがぶつかった。


 厚い木板が軋む。


 選ぶ時間はなかった。


「案内をお願いします」


 エルディアが言った。


 ルクは彼女を見た。


「皇女一人なら、もっと楽な道がある」


「ここにいる方々も連れていきます」


「後悔するぞ」


「あなたは?」


「何が」


「ここへ戻ってきたことを、後悔していますか」


 正面扉が、もう一度揺れた。


 ルクは短く息を吐いた。


「してない」


「では、私もいたしません」


「そうか」


 彼は剣を抜いた。


「なら、歩け。守られるだけの姫でいる暇はない」


     ◇


 旧第三十七退避経路は、道と呼ぶには狭すぎた。


 古い水路。


 放棄された保守坑道。


 崩れかけた石橋。


 地図から消えた山道。


 ルクは迷わず先頭を歩いた。


 グレイヴェルと護衛騎士たちは、避難民を挟むように前後へ散る。


 エルディアは負傷者の数を確認し、水と食料を分け、歩ける者へ役割を与えた。


「殿下がお運びになるものでは」


 侍女が言う。


 エルディアの腕には、眠った子供がいた。


「私はまだ歩けます。この子は歩けません」


 それだけ答えて、足を止めなかった。


 最初の夜、追いついてきた魔獣は十三体だった。


 ルクは先頭をグレイヴェルへ任せ、自分は殿へ回った。


「三十分で追いつく」


「一人で残る気ですか」


 エルディアが問う。


「一人の方が逃げやすい」


「戻らなければ」


「道は隊長に伝えた」


「そうではありません」


 ルクが、わずかに目を細める。


 エルディアは彼の外套の裂け目へ、細い布を結んだ。


 婚礼衣装を仕立てるために持たされていた、白い絹だった。


「戻ってください」


「命令か」


「お願いです」


「皇女が旅人に?」


「エルディアが、ルクに」


 ルクは白い布を見た。


「高くつきそうだな」


「婚礼用ですから」


「縁起が悪い」


「戻れば、よいものになります」


 彼は何も答えず、来た道へ戻っていった。


 二十七分後、追いついた。


 白い布は黒い血で汚れていたが、失われてはいなかった。


     ◇


 退却は九日続いた。


 一日目、二百八十六人。


 三日目、三百四十一人。


 途中の集落から、生存者が加わった。


 五日目、三百十九人。


 崩れた吊り橋を渡るため、荷物を捨てた。


 七日目、三百二十四人。


 別の避難民と合流した。


 数は増え、減り、また増えた。


 名を失った者もいた。


 家族を見つけた者もいた。


 護衛騎士たちは、眠るたびに傷が増えていた。


 それでも、朝になれば立った。


 グレイヴェルは右肩を噛まれ、剣を左手へ持ち替えた。


 若い騎士は脇腹を裂かれながら、最後まで負傷者を背負った。


 熱を出した騎士が、翌朝には歩いていた。


「お前たち、治り方がおかしくないか」


 ルクが言うと、グレイヴェルは血の滲む包帯を締め直した。


「歩けるうちは、歩きます」


「答えになってない」


「生きてから考えます」


「それは正しい」


 八日目の夜、退避路の出口が魔獣に塞がれていた。


 大型が二体。


 その後ろに、小型の群れ。


 正面から抜ければ、避難民へ被害が出る。


 迂回すれば、水が尽きる。


 ルクは地図を地面へ広げた。


「俺が南へ引く」


「また一人で残るおつもりですか」


 エルディアが問う。


「今回は戻れる保証がない」


「でしたら、認められません」


「他に道がない」


「あります」


 エルディアは地図の上へ指を置いた。


 川沿いにある、放棄された観測所。


「ここの警報設備は生きていますか」


「古いが、動くかもしれない」


「音と魔力光を出せるなら、群れを南へ誘導できます」


「起動するには、観測所まで行く必要がある」


「私が行きます」


 周囲の空気が止まった。


「殿下」


 グレイヴェルの声が低くなる。


「皇族認証が残っていれば、私が最も早く起動できます」


「危険です」


「ルク一人を残すよりは」


「比較するものではありません」


「比較すべきです。私一人の命と、ここにいる皆の命を、同じように数えてください」


 護衛騎士たちは、誰も答えられなかった。


 ルクだけが地図を見ていた。


「観測所まで、俺が連れていく」


「ルク」


「守られるだけの姫じゃないんだろ」


 エルディアは頷いた。


「ええ」


「なら、失敗するな」


「あなたも」


 二人は観測所へ向かった。


 グレイヴェルたちは、警報が鳴ると同時に避難民を出口へ走らせた。


 谷を裂くような音が響き、青白い光が夜空へ立つ。


 魔獣の群れが向きを変えた。


 大型の一体だけが、光へ向かわなかった。


 逃げる人々を見つけ、出口へ走る。


 グレイヴェルが立ちはだかった。


 左手の剣が折れた。


 爪が鎧を裂いた。


 それでも退かなかった。


 若い騎士たちが左右から飛び込み、脚へ剣を突き立てる。


 大型魔獣が倒れた時、グレイヴェルも膝をついた。


「隊長!」


「運べ」


 呼吸のたび、口元から血が落ちる。


「殿下が戻る場所を、空けておけ」


 護衛騎士たちは隊長を担ぎ、最後の避難民とともに出口を抜けた。


 夜明け前。


 ルクとエルディアが戻った。


 ルクの背には、途中で足を傷めたエルディアがいた。


「下ろしてください」


「歩けないだろ」


「皆が見ています」


「見せておけ。歩けない時に運ばれるのも、守られるだけとは違う」


 エルディアは言い返さなかった。


 彼の肩に結ばれた白い布を、握った。


     ◇


 九日目の昼。


 山道の先に、青地に銀の剣が見えた。


 ファーランドの旗だった。


 先行していた斥候が戻る。


「ファーランド辺境伯軍です! こちらへ向かっています!」


 避難民の間から、声にならない息が漏れた。


 泣く者もいた。


 その場へ座り込む者もいた。


 エルディアは、ルクを見た。


 彼は旗を見たまま、動かなかった。


「帰らないのですか」


「俺は、出奔した人間だ」


「やはり、ファーランドの方だったのですね」


「気づいてたのか」


「三日目には」


「黙っていた?」


「あなたも黙っていましたから」


 ルクは、困ったように息を吐いた。


「本名は」


「ルシアン・ファーランド」


 エルディアは、その名を静かに受け取った。


「アリシア様の、お兄様」


「末のな。家を出たから、今はただのルシアンだ」


「では、ただのエルディアとして伺います」


 彼女は、足を引きずりながら一歩近づいた。


「この先も、私たちと歩いていただけますか」


「退路は終わった」


「ええ」


「もう、俺がいなくても守られる」


「私は、守ってほしいとは申し上げておりません」


 ルシアンが黙る。


「隣を歩いていただけますか、と伺っています」


 遠くから、騎兵の音が近づいてくる。


 助かった者たちの泣き声と、笑い声が混じっている。


 ルシアンは、肩に残った白い布へ触れた。


「婚礼用だったな」


「使い道がなくなりました」


「縁起が悪いぞ」


「戻れば、よいものになると申し上げました」


 エルディアは手を差し出した。


「あなたは戻りました」


 ルシアンは、その手を見た。


 やがて、自分の手を重ねた。


「なら、最後まで付き合う」


「退路の先まで?」


「その先もだ」


     ◇


 後日、旧第三十七退避経路の記録は、公開索引から外された。


 退路沿いには、まだ救助を待つ者がいた。


 魔獣の群れも、敗残兵も、混乱に乗じて人を狩る者もいる。


 道の存在が広く知られれば、生存者を逃がす道ではなく、追手を導く道になる。


「記録そのものも消しますか」


 記録官が尋ねた。


 ルシアンは首を横へ振った。


「消すな」


「しかし、経路を秘匿するのであれば」


「道だけ外せ。何があったかは残せ」


 傍らで、エルディアが書類へ目を通している。


「いつか、この道を必要とする方が現れるかもしれません」


「その時に、見つける資格がある者なら辿れるようにしておけ」


「資格とは」


 記録官が問う。


 ルシアンは少し考えた。


「そこにいた者を、数字ではなく人として扱えることだ」


 記録官は困った顔をした。


「索引権限へ、その条件は設定できません」


「なら、皇族権限とファーランド系譜認証でいい」


「急に雑になりましたね」


 エルディアが笑った。


「仕方ないだろ。俺は技官じゃない」


「では、後世の技官が困らないよう、理由も残してください」


 ルシアンは渋い顔をしたが、記録端末を受け取った。


 入力した文章は、短かった。


 この道は、生きて戻る者のためにある。


 追う者へ渡すな。


 迎えに行く者へ残せ。


 記録官が、文章を読んだ。


「表題は、どうしますか」


 ルシアンはエルディアを見る。


 彼女の手首には、黒い血を洗い落とした白い絹が結ばれていた。


「退路の果て」


 エルディアが答えた。


「私たちが、そこで終わらなかった記録です」


     ◇


 数年後。


 ファーランドから、一通の私信が送られた。


 宛先は、アリシア・ファーランド。


 差出人の名は書かれていない。


 けれど、妹には誰が書いたものか分かった。


 内容は短かった。


 生きている。


 エルディアと夫婦になった。


 子供は三人。


 父上には、まだ言うな。


 最後の一行だけ、別の筆跡で書かれていた。


 お兄様は、今でも時折、何も告げずに出かけようとなさいます。


 その際は、必ず連れ戻しておりますので、ご安心ください。


 アリシアは手紙を読み終え、丁寧に折り畳んだ。


「末のお兄様らしいこと」


 そう言った声は、少しだけ笑っていた。


 手紙は星の間へ収められた。


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