第百三十夜 消された頁の入口
第百三十夜 消された頁の入口
学院の記録室には、窓がなかった。
壁を埋める書架と、中央に置かれた長机。机の上には、昨日ダンジョンで記録した石柱の拡大映像と、学院が保管してきた迷宮の保守記録が並んでいる。
現物の石柱には、まだ誰も触れていない。
ラウル教官は実地授業を中止し、該当区画を封鎖した。学院長府もそれを承認し、調査が終わるまで立ち入りを禁じている。
それでも、記録の上では何も起きていなかった。
「問題の区画は、三百二十七年前に一度閉鎖されています」
学院の保守記録を預かる老書記官が、一冊の帳面を開いた。
「閉鎖理由は、安全上の措置。再開は、その十一年後です」
「安全上の措置とは、具体的には何でしょうか」
エレナが尋ねる。
老書記官は、申し訳なさそうに首を振った。
「記されておりません」
「崩落、魔物の増加、魔力流の異常。そのいずれかも」
「記されておりません。再開時の点検記録には、構造上の問題なし、とだけ」
エレナの眉がわずかに寄った。
昨日までなら、欠けている項目をすべて表示させていたかもしれない。
今日は手元の端末へ、閉鎖日、再開日、記録責任者の三つだけを残している。
「記録責任者は、同じ人物です」
「はい」
「閉鎖時には理由を書かず、再開時には問題がないと判断した」
「記録だけを読むなら、その通りです」
老書記官の答えは慎重だった。
リシアは、二冊の帳面を見比べた。
どちらも丁寧に書かれている。
文字が消された跡も、頁を破った跡もない。
けれど、丁寧すぎるように思えた。
「この間の記録はありませんか」
「あります」
老書記官が、別の帳面を差し出した。
日ごとの巡回記録だった。
閉鎖区画の前を確認した。異常なし。
封鎖を維持した。異常なし。
立ち入りを認めなかった。異常なし。
毎日、同じような記述が続いている。
「何もなかったことを、ずいぶん念入りに残していますね」
リシアが言うと、アリシア・ファーランドの扇子が小さく開いた。
「何もなかったのであれば、ここまで書き続ける必要はありませんもの」
「では、何かがあった」
「少なくとも、何もなかったと後世へ納得させたい方はいらしたのでしょうね」
アリシアは楽しそうではなかった。
扇子の向こうから、記録責任者の名を見ている。
「この人物については」
「三百年以上前の学院技官です」
老書記官が答えた。
「退職後の記録は残っておりません。ただし、その前後で学院の保守記録様式が一度改められています」
クラウディアが、長机の端へ小さな黒い箱を置いた。
「学院記録との照合は、ここまでです」
箱が開く。
内側には、掌に収まる大きさの鍵スフィアが固定されていた。
淡い光が、球体の奥でゆっくり巡っている。
ステファニアの指が、膝の上でわずかに動いた。
「これより、アークライト側に残る旧規格索引との限定照合を行います」
クラウディアは室内を見回した。
「接続者はステファニア様。私は接続状態の監視と遮断を担当します。アリシア様には索引階層の確認をお願いします」
「承知しましたわ」
「ステファニア様」
「はい」
「今回は、見つけるだけです。読みません」
「参照先の確認だけですね」
「はい。内容が見えても、追わないでください」
ステファニアは一度、深く息を吸った。
その隣で、アリシアが鍵スフィアへ手を伸ばす。
クラウディアの視線が向いた。
「今回は、落としませんわよ」
「当然です」
「少し残念そうですわね」
「気のせいです」
鍵スフィアは、静かにステファニアの両手へ渡された。
彼女の掌を包むように、淡い魔力が渦を巻く。
光が強くなったわけではない。
音がしたわけでもない。
それでも、部屋の空気が少しだけ遠くなった。
ステファニアは目を閉じている。
クラウディアの端末には、接続状態を示す細い線がいくつも浮かんでいた。
「学院第三管理迷宮。旧規格識別情報と照合します」
ステファニアの声が、静かな記録室へ落ちる。
「現行の学院索引には、ありません」
「旧規格側は」
「あります」
そこで、彼女の眉が動いた。
「いいえ。違います」
クラウディアは急かさなかった。
「何が違いますか」
「道がないのではありません」
ステファニアの両手を包む魔力が、ゆっくり形を変える。
「道を示すものが、外されています」
リシアは、昨日の石柱を思い出した。
参照先はあるのに、そこへ向かう道がない。
あれは、道そのものが消えたのではなかった。
「記録は残っているのですか」
「はい。一次情報は残っています」
ステファニアは目を閉じたまま答えた。
「その記録を示す索引だけが、後から外されています。公開索引からも、学院へ引き継がれた保守索引からも」
「消された頁ではなく」
エレナが、小さく言った。
「目次から外された頁」
「はい」
ステファニアの声が、少しだけ遠くなる。
「頁は、今もあります」
鍵スフィアの奥で、何かが動いた。
昨日、石柱の刻印を記録した時と同じ感覚なのだろう。
ステファニアの呼吸が浅くなる。
「参照先が、開こうとしています」
「接続を切りますか」
クラウディアが問う。
「まだ、止められます」
ステファニアの指先が、わずかに震えた。
「見えています。ですが、読みません」
その言葉の後、渦巻いていた魔力が静かになった。
鍵スフィアの光も、元の淡さへ戻る。
ステファニアは目を開け、球体から手を離した。
「申し訳ありません。内容には触れていません」
「謝る必要はありません」
クラウディアは端末を確認した。
「接続は安定。流入もありません。適切な判断です」
ステファニアは小さく息を吐いた。
リシアには、彼女が見たものは見えない。
鍵スフィアへ触れても、同じようには辿れないだろう。
以前なら、それを少し羨ましく思ったかもしれない。
けれど、今は違った。
「この記録を、誰まで知らせますか」
全員の視線が、リシアへ向いた。
少し驚いた。
それでも、言葉を引っ込める理由にはならなかった。
「学院には、閉鎖区画と石柱に関する安全上の情報が必要です。けれど、旧規格索引の内容まで渡す必要はありません」
ラウル教官が、静かに頷く。
「ファーランドには、旧地下経路が領内や系譜に関わるのであれば報告が必要です」
次に、クラウディアを見る。
「アークライトには、シークの一次情報が意図的に索引から外されている事実を。記録そのものは、扱う人を決めるまで開かない方がよいと思います」
「理由は」
アインが尋ねた。
「消した人が、何を隠したかったのか分からないからです」
リシアは答えてから、首を横へ振った。
「いいえ。それだけではありません。今ここで開けば、私たちが何を知ったかも、誰かに知られるかもしれません」
昨日、ステファニアは、何かがこちらを向いたと言った。
記録が人を見るはずはない。
それでも、見られていないと決めつける理由もなかった。
「一点だけ、修正します」
クラウディアが言った。
「学院には、旧規格索引の存在まで知らせます。内容は限定できますが、管理区画で見つかった事実を伏せれば、私たちも索引を外した者と同じになります」
リシアは、息を止めた。
守るために伏せることと、なかったことにすることは、よく似ている。
「……はい。存在と内容は、分けなければなりません」
「残りは、その方針で進めます」
アリシアは扇子を閉じ、机へ置いた。
「では、次に考えるべきは、消した方が何を隠したかったかではありませんわね」
「誰に、読ませたくなかったか」
リシアが言うと、アリシアは微笑んだ。
「ええ。それから、誰ならば再び辿り着けるように残したのか、ですわ」
クラウディアの端末へ、一つの通知が届いた。
彼女は内容を確認し、共有表示を長机の中央へ開く。
全員から同じ向きに読める文字が、机の三十センチほど上へ浮かんだ。
旧索引への接触痕。
記録時期、不明。
直近の再参照要求、一件。
参照元、偽装。
「誰かが、最近この索引へ触れようとしています」
ラウル教官の顔から、わずかに血の気が引いた。
「学院内からですか」
「断定できません。旧設備を経由しています」
クラウディアは表示を消した。
「現時点で追えば、相手に気づかれます」
「なら、今は追わない」
アインが言った。
「見ていることだけ、覚えておく」
老書記官が、深く息を吐いた。
「学院側の記録は、私が預かります。原本の閲覧者も限定しましょう」
「お願いします」
リシアは頭を下げた。
話は終わるはずだった。
けれど、ステファニアは鍵スフィアを返す前に、クラウディアを見た。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「内容には触れない範囲であれば」
「表題だけ、確認できます」
クラウディアは、すぐには答えなかった。
アインを見る。
アリシアを見る。
最後に、リシアへ視線を向けた。
「どうしますか」
判断を求められている。
記録を開くかどうかではない。
入口に、何と書かれているかを見るかどうか。
「表題だけ確認します」
リシアは答えた。
「内容は開きません。表示は、この場だけに限定してください」
「承知しました」
ステファニアが、もう一度鍵スフィアを両手で包む。
今度は長くかからなかった。
長机の上へ、古いベルカ文字が一行だけ現れる。
それを現在の文字へ置き換えた表示が、その下へ重なった。
東部避難民護送記録。
ファーランド方面、旧第三十七退避経路。
護送対象代表、エルディア。
現地経路責任者、ルシアン・ファーランド。
添付記録表題。
――退路の果て。
アインの指が、机の上で止まった。
アリシアは、置いた扇子へ手を伸ばさなかった。
誰も続きを開こうとは言わない。
それでもアインは、その表題を消さなかった。




