第百二十九夜 地の下の授業
第百二十九夜 地の下の授業
学院へ戻って最初の実地授業は、地下だった。
学院本館の北棟を抜け、訓練場のさらに奥へ進む。
石造りの階段を二十段ほど下りると、鉄格子の門があった。
門の脇には、剣と灯火を組み合わせた学院の紋章が刻まれている。
「本日の目的地は、学院管理迷宮の第三層です」
ラウル教官が、門の前で言った。
「管理迷宮」と聞いていたので、リシアはもう少し整った場所を想像していた。
実際、入口は整っている。
受付机があり、入退場を記録する学院職員がいる。壁には区画図と、閉鎖中の通路を示す赤い札も掛かっていた。
けれど、鉄格子の向こうには湿った暗がりが続いている。
風もあった。
地下から吹き上がってくる風は、土と水と、わずかに鉄に似た匂いを運んでいた。
「魔物を倒せば終わり、という授業ではありません」
ラウル教官は、学生達の顔を順に見た。
「隊列の維持。地形の把握。負傷者の搬送。魔力と物資の管理。帰還後の記録作成。迷宮へ入って、全員で戻るまでが評価対象です」
「討伐数は?」
前列にいた学生が尋ねる。
「必要なだけ」
「多く倒した方が」
「余計な戦闘を増やした場合は減点します」
尋ねた学生は口を閉じた。
その少し後ろで、カイルが小さく頷いている。
以前なら、必要なだけ、という言葉より先に身体が動いていたかもしれない。
隣のミレイアは何も言わなかったが、カイルの横顔を見ていた。
「班ごとに携行食を確認してください。途中で交換、譲渡した場合も記録します」
ラウル教官の指示を受け、エレナが肩掛け鞄の中身を確認し始める。
乾パン。
干し肉。
水筒。
傷薬。
包帯。
簡易灯。
セラの視線が、乾パンの袋で止まった。
「足りませんか」
リシアが尋ねる。
「規定量です」
「足りない顔をしています」
「実習ですので、我慢します」
答える声には、騎士としての覚悟があった。
乾パンへ向けるには、少し重すぎる覚悟だった。
◇
班の先頭はセラとカイル。
中央にリシア、ステファニア、エレナ、ミレイア。
最後尾をアインとアリシア・ファーランドが歩く。
ラウル教官は一定の距離を保ち、後ろから全体を見ていた。
第一層は、歩きやすかった。
床には学院が置いた誘導杭があり、曲がり角には通路番号が刻まれている。天井も高く、灯りを掲げれば奥まで見通せた。
第二層へ下りると、道幅が狭くなった。
水の流れる音が、壁の向こうから聞こえる。
エレナの首元には、貸与された装身型拡張視覚端末があった。
正面を見たまま、視界の端へ地図を置く。
隊列。
通過時刻。
携行品。
各人の推定疲労。
記録候補。
表示は、歩くほど増えていった。
「エレナ」
アインが呼んだ。
「はい」
「前を見ろ」
「見ています」
言った直後、エレナの靴先が床の小さな突起へ当たった。
転びはしなかった。
ただ、姿勢が一度崩れた。
端末の共有回線を通じ、クラウディアの短文が視界中央へ表示される。
――表示しない判断も、情報管制です。
エレナは歩きながら、表示項目を三つ消した。
さらに二つ消す。
最後に残したのは、地図、隊列、緊急警告だけだった。
「仕事が減った気がしません」
エレナが呟く。
「減っていません」
クラウディアの声が耳元へ届いた。
「選ぶ仕事が増えました」
「便利なものほど、忙しくなるのですね」
「正しく使えば」
そこで通信が切れた。
リシアには、クラウディアが僅かに楽しんでいるように聞こえた。
◇
最初の魔物は、第三層へ続く坂道の手前にいた。
甲羅を持つ、犬ほどの大きさの地虫が三匹。
岩の割れ目から這い出し、脚を鳴らす。
セラが剣を抜いた。
カイルも半歩前へ出る。
「右を」
セラが言う。
「分かった」
カイルは短く答えた。
二人は同時には踏み込まなかった。
セラが一匹目の正面を受け、甲羅の向きを変える。
露出した脚の付け根へ、カイルが刃を入れた。
二匹目が横から回り込もうとする。
ミレイアが杖の先を床へ向け、小さな風を起こした。砂埃が地虫の顔へ入り、動きが鈍る。
セラは一匹目を押し返した勢いのまま、二匹目の進路へ剣の腹を置いた。
倒すより先に、動く場所を狭めている。
「左奥」
ステファニアの声がした。
岩陰に隠れていた三匹目が、中央へ向きを変えていた。
リシアは杖を構えかけた。
撃ち出す。
そう考えたところで、第三層へ下りる坂の脇に細い亀裂があることへ気づいた。
魔力を放てば、壁へ当たる。
壁の向こうは空洞だった。
「待ってください。右の壁が薄いです」
リシアの声に、セラが足を止めた。
カイルも追撃をやめる。
三匹目はミレイアの風を嫌い、別の割れ目へ逃げ込んだ。
一匹目と二匹目も、動けるうちに岩陰へ戻っていく。
誰も追わなかった。
「今の空洞は、地図にありますか」
ラウル教官が尋ねた。
エレナが表示を確認する。
「ありません。第三層通路の東側は、岩盤として記録されています」
「どうして分かった」
今度は、リシアへ向けた問いだった。
「壁へ魔力を当てた時の戻り方を、考えました」
口にしてから、少し違うと思った。
「いえ。まだ当ててはいません。流れている魔力が、壁の中へ少しだけ逃げています」
「見えるのか」
カイルが壁を見る。
「見える、とは違います。水が石の隙間へ染み込むような……」
そこで言葉に詰まった。
「すみません。うまく説明できません」
「十分です」
ラウル教官は壁へ近づき、柄の先で数か所を叩いた。
最後の一か所だけ、音が軽い。
「この区画は帰還後に閉鎖申請を出します。発見者と発見方法を記録してください」
エレナが、すぐに記録候補を開く。
リシアは薄い壁を見た。
水路で石を削った時は、残す厚みを教えてもらった。
今度は、触れてはいけない薄さを先に見つけられた。
「進みます」
セラの声で、リシアは壁から目を離した。
◇
第三層には、学院が用意した搬送課題があった。
通路の中央に、人と同じ重さの訓練人形が倒れている。
右脚には、赤い布。
胸元には、意識なし、と記された札。
「罠では?」
カイルが周囲を見た。
「課題でしょう」
ミレイアが答える。
「課題に見せた罠かもしれない」
「その疑い方は必要です」
ステファニアは人形へ近づかず、床と壁を見た。
「ですが、疑って置いていけば、搬送課題は不合格でしょうね」
カイルは困った顔をした。
「どうすればいい」
「確認してから運びます」
完璧な答えではなかった。
それでも、全員が動ける答えだった。
セラが周囲を警戒する。
ミレイアが床へ小石を転がし、仕掛けの有無を見る。
アインは最後尾から動かない。
アリシアも、口元へ扇子を当てたまま見ていた。
安全を確認した後、カイルとセラが訓練人形を担架へ載せる。
エレナは地図と隊列だけを視界へ残し、搬送開始時刻を記録した。
「アイン様は、お手伝いなさらないのですね」
リシアは小声で尋ねた。
「俺が持つと、授業にならない」
「確かに」
答えた時、担架の前側を持ったカイルが足を滑らせた。
人形が傾く。
セラは腕力で支えようとしたが、狭い通路では剣の鞘が壁へ当たった。
「一度、下ろしてください」
リシアが言った。
カイルは悔しそうにしたものの、従った。
担架を下ろし、持ち手を替える。
前をセラ。
後ろをカイル。
ミレイアが足元を照らし、リシアが曲がり角の先を感知する。
先ほどより遅い。
けれど、今度は傾かなかった。
ラウル教官は何も言わない。
評価板へ、何かを一つ記しただけだった。
◇
帰還路へ入る前に、班は小さな休憩区画で足を止めた。
壁を削って作られた四角い空間で、中央には古い石柱が一本立っている。
学院の誘導杭とは形が違った。
表面は黒ずみ、角の一部が欠けている。
学生達が水を飲む間、エレナは携行品の残数を確認した。
「乾パンが一袋不足しています」
全員の視線が、セラへ向いた。
「規定量では足りませんでした」
セラは正直だった。
「交換、譲渡は記録対象です」
「譲渡ではありません。私の分を食べました」
「予備分です」
「予備も、私達の分です」
エレナは少し考えた。
「予備食一袋消費。理由、班員一名の空腹」
「合理的ですね」
アリシアが微笑む。
「次回は、初めからセラの分を増やしておくべきですわ」
「規定量の意味がなくなりませんか」
「規定量で足りないという記録が得られましたもの」
エレナは記録欄を見た。
消費理由の末尾へ、次回配分量の再検討、と追記する。
その横で、ステファニアは古い石柱を見ていた。
「ステファニア様?」
リシアが呼んでも、返事がない。
石柱の中ほどに、薄い線がある。
文字にも見えないほど擦れた刻印だった。
「読めるのですか」
「いいえ」
ステファニアは、すぐに答えた。
その声は普段より少し低い。
「読めません。ですが」
指先を近づける。
触れる直前で止めた。
「知っている形です」
「どこで」
「分かりません」
ステファニアが、自分からそう言うのは珍しかった。
アインが石柱へ目を向ける。
アリシアの扇子が、ゆっくり閉じた。
エレナは記録欄を開きかけたが、手を止める。
「記録しますか」
ラウル教官は、すぐには答えなかった。
石柱の刻印を確認し、壁に掛けられた学院の区画番号と見比べる。
「まず、現状のまま保存します。触れないでください」
「承知しました」
ステファニアは一歩下がった。
けれど、視線は石柱から離れない。
「何が、知っている形なのですか」
リシアは尋ねた。
ステファニアは答えようとして、言葉を止めた。
「参照先が、あります」
「参照先?」
「はい。けれど、そこへ向かう道がありません」
リシアには、その意味が分からなかった。
ステファニア自身にも、まだ分かっていないようだった。
エレナの端末へ、クラウディアから短い通知が届く。
――刻印を拡大記録。共有範囲は当該班、ラウル教官、学院長府に限定。
エレナは通知を読み、ラウル教官へ確認を求めた。
許可を得てから、石柱の刻印を記録する。
その瞬間。
ステファニアが、息を止めた。
刻印の奥にある何かが、ほんの一瞬だけ、こちらを向いた。
「ステファニア様」
「大丈夫です」
そう答えた後、彼女は首を横へ振った。
「申し訳ありません。今のは、大丈夫かどうかも分かりません」
ラウル教官が、帰還を指示した。
誰も異議を唱えなかった。
来た時と同じ隊列を組み、訓練人形を運び、地上へ戻る。
鉄格子の門を抜ける直前、リシアは一度だけ振り返った。
地下の暗がりは、何も変わっていない。
それでも、あの石柱の向こうには、まだ道のない場所がある。
ステファニアは帰還記録用紙の前で、しばらく筆を置けずにいた。




