表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/70

第十二夜 朝食の作法

 第十二夜 朝食の作法


 朝は、手のひらの中で鳴った小さな音から始まった。


 リシアはゆっくりと目を開ける。


 草原ではない。

 淡く調整された白い天井と、柔らかな照明。

 眠る前には夜空の草原だった景色は、いつの間にか素の病室に近い姿へ戻っていた。


 隣の寝台では、ステファニアがすでに上体を起こしている。


「おはようございます、リシア様」

「……おはようございます、ステファニア様」


 眠れたのか、と問おうとして、リシアはやめた。

 顔を見れば分かる。

 眠ったには眠ったのだろう。

 けれど、深く休めた顔ではなかった。


 枕元の携帯端末が、もう一度小さく鳴った。


 リシアが手に取ると、画面には丁寧な文字が浮かんでいる。


『朝食の準備が可能です』


 その下に、いくつもの献立が並んでいた。


 柔らかく煮た穀物。

 焼いた魚らしきもの。

 卵料理。

 薄く切られた肉。

 香草を添えた温野菜。

 果物。

 白いパン。

 甘い焼き菓子。

 そして、見たこともないが、どう見ても手間のかかっていそうな料理がいくつも。


 リシアはしばらく黙って画面を見つめた。


「……ステファニア様」

「はい」

「今日は、毒味をしないで食べてみましょうか」

「リシア様」


 ステファニアの声が、わずかに低くなった。


 咎める声ではない。

 けれど、それは護衛として、そして友人として、見過ごせない提案だった。


「理由を、お聞かせください」


 リシアは頷いた。


「第一に、あの方々はセラを保護し、治療しています。殺すつもりなら、わざわざあそこまで手を尽くす必要はありません」


 ステファニアは黙って聞いている。


「第二に、昨夜のお二人です。リジェナ様とリジェスカ様。あの方々の行動は、探るものではありましたが、敵対するものではありませんでした」


「……はい」


「第三に」


 リシアは端末を見下ろした。


「ここは、あの方々の場所です。私たちは部屋の外へ出ることもできず、端末も、食事も、寝台も、衣服も、すべてあちらに管理されています」


 言葉にすると、改めてどうしようもない状況だった。


 けれど不思議と、昨夜ほどの恐怖はなかった。


「殺そうと思えば、いつでも殺せる環境にあります。毒を警戒すること自体が、あまり意味を持ちません」


 ステファニアは小さく息を吐いた。


「つまり」

「ええ」


 リシアは、少しだけ笑った。


「開き直りましょう」


 ステファニアが目を瞬かせた。


「……開き直る、ですか」

「はい。どうせなら、現在の状況を満喫するべきです」


 その言い方が自分でも少し可笑しくて、リシアは端末へ視線を戻した。


「それに、昨日の食事は美味しかったです」

「それは否定できません」


 ステファニアの表情が、わずかに緩む。


 リシアは画面を指で滑らせ、最も豪華そうな朝食を選んだ。

 皿の数が多く、説明文も長い。

 正直なところ、半分以上は何の料理か分からない。


「リシア様、本当にそれを?」

「ええ。せっかくですから」

「では、私も同じものを」

「毒味ではありませんよ」

「存じております。ただ、同じものを食べた方が、感想を共有できますので」


 それは護衛の言い訳だった。

 けれど、リシアはあえて何も言わなかった。


 二人分の注文を終えると、端末に短い表示が出る。


『承りました』


 そのあまりにも淡々とした文字に、リシアは少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


 医療区画の監視室では、クラウディアが端末画面を見つめたまま、しばらく沈黙していた。


 隣ではメディナが、別の生体情報を確認している。


「……毒味なしで、最上位朝食を二名分」


 クラウディアが静かに言った。


 メディナの手が止まる。


「本当ですか」

「ええ。理由も聞きますか」

「ぜひ」


 クラウディアは、会話記録を要約して読み上げた。


 セラを治療していること。

 昨夜の接触が敵対的ではなかったこと。

 そして、殺すつもりならいつでも殺せる環境であること。


 最後に、開き直って満喫する、と。


 メディナは数秒だけ黙った。


 そして、ふっと肩を震わせた。


「……ふ、ふふ」


 クラウディアも口元を押さえた。


「判断としては、かなり正しいですね」

「ええ。正しいです。正しいのですが」


 メディナはついに堪えきれず、片手で顔を覆った。


「豪華なものを選びましたか」

「迷いなく」

「公女殿下、なかなか肝が据わっていますね」


 クラウディアは澄ました顔を保とうとした。

 だが、目元だけが明らかに笑っている。


「賢い方です」

「賢いだけですか」

「……少し、好きになりました」


 メディナが小さく笑う。


「副司令がそう言うなら、よほどです」

「朝食の栄養値は」

「問題ありません。魔力枯渇後としては少し豪勢ですが、許容範囲です。胃腸負荷も低めに調整しましょう」

「お願いします」


 クラウディアは画面の向こうの二人を見た。


 怯えているだけではない。

 疑いながら、考え、選び、楽しもうとしている。


「……本日の面会における開示段階は、少し上方修正しましょう」


     ◇


 朝食は、ほどなくして届いた。


 運ばれてきた皿の数に、リシアとステファニアはしばらく言葉を失った。


 焼きたての白いパン。

 香草の香りがする温かな卵料理。

 薄く切られた肉は、表面だけが香ばしく焼かれ、中は驚くほど柔らかい。

 野菜は色鮮やかで、果物は瑞々しく、温かな飲み物には甘く香ばしい匂いがあった。


「……これは」

「頼みすぎましたね」

「はい」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、どちらからともなく笑った。


 毒味はしなかった。

 祈りもしなかった。

 ただ、手を合わせる代わりに、リシアは小さく息を整えた。


「いただきましょう」

「はい」


 最初の一口を口に運ぶ。


 リシアは目を閉じた。


 美味しかった。


 悔しいほどに。


「……ステファニア様」

「はい」

「これは、少し困ります」

「分かります」


 ステファニアも真剣な顔で頷いた。


「警戒心が削られます」

「ええ。非常に危険です」


 そう言いながら、二人は皿を空にしていった。


     ◇


 朝食の後、温かな茶が運ばれた。


 昨日のほうじ茶とは違う。

 柔らかな香りの、淡い色をした茶だった。


 リシアは寝台に腰かけ、湯気の向こうを見つめていた。

 ステファニアも隣に座り、端末を膝の上に置いている。


 その時だった。


 端末が、小さく鳴った。


 画面に文字が浮かぶ。


『手紙が届いています』


 リシアは、息を止めた。


 手紙。


 この場所で。

 この船で。

 この、夜空のさらに高い場所にあるかもしれない場所で。


 誰から。


 リシアは指先で画面に触れた。


 文字が開く。


『リシア・ファーランド殿

 ステファニア・レーヴェンハイト殿


 本日、十時ごろ、面会の時間をいただきたい。

 体調に問題がなければ、医療区画内の面会用談話室で話をしたい。


 アイン・ジ・アークライト・ベルカ』


 短い文だった。


 飾りはない。

 余計な慰めもない。

 だが、不思議と乱暴ではなかった。


「……十時ごろ」

「今が八時を少し過ぎたところですから、支度を整えるには十分な時間がございます」


 ステファニアは端末の時刻表示を確認しながら言った。


 リシアは自分の服を見下ろした。


 アークライト側が用意した病衣。

 柔らかく、清潔で、動きやすい。

 けれど、これで正式な面会に臨むわけにはいかない。


「ステファニア様。昨日預けた服は、戻っているのでしょうか」

「確認してみましょう」


 ステファニアが端末を操作する。

 しばらくして、画面に文字が浮かんだ。


『衣服の補修および洗浄は完了しています』


 続いて、別の表示が現れる。


『着替え補助のため、女性医療スタッフを派遣します』


 リシアは目を瞬かせた。


「……見越されていましたね」

「はい。かなり正確に」


     ◇


 ほぼ同じ頃、医療区画の管理室でメディナは端末を閉じた。


「対象一、対象二、面会前に私物衣装への着替えを希望する可能性が高いです」


 そう言って、彼女は待機していた四人の女性スタッフへ視線を向けた。


 全員、灰白色の医療勤務服を身につけている。

 戦闘員の黒装備とは違う、清潔で柔らかな意匠。

 だが動きに無駄はない。


「二名ずつに分かれてください。対象一は公女殿下、対象二は侯爵令嬢です。衣装は修繕済みですが、貴族衣装としての扱いに注意。紋章、刺繍、留め具、飾り紐は勝手に省略しないこと」


「了解しました」


「傷は閉じていますが、魔力枯渇の影響は残っています。腕を上げる動作、腰を捻る動作、長時間の起立は補助してください。急がせないように」


 メディナはそこで少しだけ声を和らげた。


「それと、彼女たちはまだこちらの作法を知りません。不安にさせない説明を」


 四人が揃って頷く。


「行きなさい」


     ◇


 間もなく、病室の扉近くに柔らかな音が鳴った。


『着替え補助のスタッフが到着しました』


 ステファニアがリシアを見る。

 リシアは小さく頷いた。


「お願いします」


 扉が開き、四人の女性が入ってきた。


 灰白色の服。

 銀の細い線。

 清潔で、静かで、目立ちすぎない。


 先頭の一人が丁寧に頭を下げる。


「お支度をお手伝いに参りました。お預かりした衣服は、洗浄と補修を終えております。ご確認いただけますか」


 壁際の収納が音もなく開いた。


 そこには、昨日まで血と土に汚れていたはずの衣服が、信じられないほど整った状態で掛けられていた。


 裂けていた布は繕われ、泥は落ち、血の跡も見えない。

 刺繍も飾り紐も、元の意味を失わないよう丁寧に戻されている。


 リシアはしばらく言葉を失った。


「……本当に、一晩で戻るのですね」

「はい。予定通りです」


 女性は穏やかに答えた。


 その声には、誇る様子も、恩を着せる様子もない。

 ただ、当然の仕事を終えた者の静けさがあった。


 支度は丁寧に進められた。


 病衣を脱ぐ時も、腕を通す時も、留め具を締める時も、四人はリシアたちの身体に負担がかからないよう細かく動いた。

 貴族衣装の扱いにも不慣れではない。

 少なくとも、見よう見まねで触れている者の手つきではなかった。


 ステファニアは途中で一度、わずかに眉を寄せた。


「そこは、左の飾り紐が上になります」

「失礼いたしました」


 女性はすぐに手を止め、丁寧に直した。


 リシアはそれを見て、少しだけ安心した。

 完璧ではない。

 けれど、きちんと聞き、直す。


 それは礼儀だった。


 やがて支度が終わる。


 病衣ではない。

 昨日まで身につけていた、リシア自身の衣服。

 傷と汚れの記憶だけを取り除かれたように、整えられた服。


 袖口を軽く撫でると、胸の奥に小さな力が戻ってくるような気がした。


 ステファニアもまた、侯爵令嬢としての姿を取り戻していた。

 まだ顔色は万全ではない。

 けれど、背筋は伸びている。


「リシア様」

「はい」


 リシアは頷いた。


 助けられた者としてだけではなく。

 ただ守られる者としてだけでもなく。


 話を聞き、問い、選ぶために。


     ◇


 十時の少し前。


 リシアとステファニアは、医療区画内の面会用談話室へ案内された。


 病室からは近かった。

 扉を出て、数歩。

 それだけの距離だったが、病室ではない場所に出るというだけで、空気が少し変わったように感じられた。


 談話室は、病室ほど広くはない。


 白銀の壁。

 低い卓。

 四脚の椅子。

 壁際には、茶器を置くための細い棚がある。


 窓の外には、朝の庭が見えた。

 もちろん本物ではないのだろう。

 けれど、柔らかな光と葉の揺れは、作り物だと分かっていてもよくできていた。


 部屋の隅には、医療区画らしい小さな表示が淡く灯っている。

 おそらく、リシアたちの体調を見ているのだろう。


「女性の病室に男性を入れない配慮、ということでしょうか」

「おそらくは。少なくとも、礼を失するつもりはないようです」


 ステファニアが静かに答える。


 警戒すべき相手ではある。

 けれど、無遠慮な相手ではない。


 それだけは、少しずつ分かってきていた。


 リシアとステファニアが席につくと、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、白髪の少年と、灰銀の髪の女だった。


 アイン・ジ・アークライト・ベルカ。

 そして、クラウディア。


 アインは、リシアたちの姿を見て、ほんのわずかに目を細めた。


「体調は」

「問題ありません」


 リシアは答えた。


「お気遣い、感謝いたします」

「ならいい」


 短い。

 けれど、雑ではない。


 クラウディアが静かに一礼する。


「お支度が整ったようで何よりです。衣服に不都合はありませんか」

「ありません。むしろ、こちらが驚くほどです」

「一晩いただければ、あの程度は可能です」


 クラウディアの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「朝食も、お口に合ったようで」

「……そちらもご存じなのですね」

「医療区画ですので」


 それだけで、リシアは察した。


 注文も。

 食べた量も。

 おそらく、会話も見られている。


 だが、不思議と今朝ほど腹は立たなかった。


「ええ。大変、美味でした」

「それは何よりです」


 クラウディアは澄ました顔で言った。


「毒味なしで最上位の朝食を選ばれた判断も、見事でした」


 リシアは少しだけ頬を熱くした。


「……見事、なのでしょうか」

「ええ。現状認識としては、極めて正確です」


 からかわれているのか、褒められているのか。

 おそらく、その両方なのだろう。


 リシアは息を整えた。


 朝の茶の香りも、豪華な食事の余韻も、もう遠い。


 ここから先は、歓待ではない。

 救助された者への説明でもない。


 真実を持つ者と、真実に辿り着こうとする者の、最初の対話だった。


 リシアは、最初の問いを口にした。


「アークライトは、船なのですね」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ