第十一夜 夜空の船
第十一夜 夜空の船
消灯時間になると、草原の空は夜に変わった。
昼の名残を残していた茜色は静かに薄れ、今は深い藍色が頭上に広がっている。
草は夜風に揺れていた。
遠くの丘は黒い影になり、白い花だけが、月明かりを受けたように淡く浮かんで見える。
完全な闇ではない。
リジェスカが言っていた通り、病室の灯りは眠りを妨げない程度に残されていた。
どこからともなく、柔らかな光が差している。
それは月明かりのようであり、見えない灯火のようでもあった。
リシアは寝台の中にいた。
身体は疲れている。
森を走り、襲われ、魔力を使い果たし、見知らぬ船で目覚めた。
食事を取り、茶を飲み、今はこうして横になっている。
眠れないはずがない。
そう思うのに、まぶたの奥は冴えていた。
「リシア様」
隣の寝台から、静かな声がした。
「眠れませんか」
ステファニアだった。
リシアは、夜空を見上げたまま小さく息を吐く。
「色々ありすぎました。眠れませんね」
「同感です」
ステファニアの声にも、眠気はなかった。
しばらく、二人は何も言わなかった。
夜の草原が揺れている。
本物ではない。
それはもう分かっている。
けれど、風の音はあまりに自然で、草の匂いもあまりに優しい。
リシアは、ふと隣を向いた。
「ステファニア様」
「はい」
「アークライトのことを、どう思いますか」
少しの沈黙。
それから、衣擦れの音がした。
ステファニアが上体を起こしたのだろう。
「端末を、少しお借りしても?」
「もちろんです」
リシアは枕元に置いていた携帯端末を差し出した。
ステファニアはそれを受け取ると、迷いなく画面に触れた。
次の瞬間、草原の夜空が少しだけ変わった。
星が増えた。
いや、増えたように見えた。
頭上に広がる夜空は、先ほどより深く、遠く、吸い込まれるような暗さを帯びている。
星々は細かく、白く、無数に瞬いていた。
ステファニアは、その夜空を指さした。
「私は、アークライトはこの夜空の、もっと高いところにいるのではないかと考えています」
リシアは、思わず彼女を見た。
「夜空の、もっと高いところ」
「はい」
ステファニアの声は静かだった。
「もちろん、海の中という可能性も捨てきれません。けれど、あの二人の反応を見る限り、海ではないと思います」
「リジェナさんと、リジェスカさん」
「はい。地上にはありません、と言いました。空にあるかと尋ねても、正確な位置は伝えられない、と」
ステファニアは夜空を見上げる。
「それに、七十キロもの船体です。海中に隠すには、あまりにも大きすぎます。隠せたとしても、動かす理由が見えません」
「七十キロ……端末にあったのですか」
「概要にありました」
リシアは少しだけ目を細めた。
「かなり読まれたのですね」
「リシア様がお休みになっている間に、触れてよい範囲だけを」
ステファニアは淡々と答える。
「見せるために置かれていた情報だと思いましたので」
その言い方に、リシアは小さく笑いそうになった。
ステファニアは、やはりただ休んではいなかったのだ。
「それで、夜空ですか」
「はい」
ステファニアは端末の画面に視線を落とした。
「以前、読んだ文献があります。かなり古い写本でした。帝国期よりさらに古い、ベルカ魔導帝国に関する記録です」
ベルカ。
その名が出るだけで、リシアの胸の奥がわずかに震えた。
「その文献では、ベルカ魔導帝国は星々を旅したとありました」
「星々を」
「はい。今となっては、ほとんど神話のような記述として扱われています。空を越え、月を越え、星の海を渡った、と」
リシアは夜空を見上げた。
星の海。
言葉としては知っている。
伝承にも、詩にも出てくる。
だが、それを本当に渡った文明があったなど、普通なら信じられない。
普通なら。
この病室で目覚める前なら。
「その中に、船の名がいくつか記されていました」
ステファニアは続ける。
「その一つに、アークライトの名がありました」
リシアは息を止めた。
「もっとも、文献によれば、その船は空に上がることなく、戦争の混乱の中で封印されたようです。記述も欠落が多く、確かなことは分かりません」
「ですが、名前がある」
「はい」
ステファニアはリシアを見た。
「アークライト。ベルカ。この二つに、心当たりはありませんか」
リシアは、すぐには答えられなかった。
心当たり。
ありすぎる。
ありすぎて、言葉にするのが怖い。
白い髪。
赤い瞳。
幼い姿。
けれど、誰も彼を子供として扱わない。
アイン。
アイン・ジ・アークライト・ベルカ。
メシア正教国が魔王と呼ぶ名。
そして、ファーランドに古くから伝わる、百年戦争の英雄の名。
「……アイン様?」
リシアの声は、自分でも驚くほど小さかった。
ステファニアは頷いた。
「そうです」
夜風が草を揺らす。
星が、静かに瞬いている。
「アイン・ジ・アークライト・ベルカ」
ステファニアは、その名を丁寧に口にした。
「メシア正教国が魔王と呼び、古い伝承が白き神とも、百年戦争の英雄とも呼ぶ存在。その名と、この船の名は繋がっています」
リシアは、胸元で手を握った。
「でも、そんなことが」
「普通なら、ありえません」
ステファニアは静かに言った。
「ですが、今日一日で、普通ならありえないことをいくつ見ましたか」
リシアは答えられなかった。
草原の病室。
進まない床。
透明な棺。
灰白色の女たち。
ほうじ茶。
羊羹。
地上という呼び方。
そして、アインという少年。
「私は、まだ断定していません」
ステファニアは言った。
「ですが、仮に。仮にあの方が伝承のアイン様であるなら、私たちは今、神話の中にいることになります」
リシアは夜空を見上げた。
星々は何も答えない。
ただ遠く、冷たく、美しく瞬いている。
「神話の中」
リシアは小さく呟いた。
「いいえ」
ステファニアが首を横に振る。
「神話だと思っていたものの、続きかもしれません」
その言葉に、リシアは息を呑んだ。
続き。
終わったはずの物語。
伝承として語られるだけになった時代。
白き神と、魔王と、百年戦争。
それが、終わっていなかったとしたら。
リシアは、もう一度アインの名を思い出した。
アイン・ジ・アークライト・ベルカ。
名乗った時の、あの静かな声。
まるで、自分が何者として受け止められるかを、すでに知っているような目。
「ステファニア様」
「はい」
「明日、聞くべきでしょうか」
ステファニアは少し考えた。
「聞くべきです。ただし、急ぎすぎてはいけません」
「なぜですか」
「あの方が本当に伝承の存在なら、問い方を誤るべきではありません」
ステファニアの声は落ち着いていた。
「そして、あの方がそうでないとしても、アークライトとベルカの名を持つ以上、軽く扱ってよい相手ではありません」
「……そうですね」
リシアは目を伏せた。
自分たちは助けられた。
だが、まだ何も知らない。
アークライトが何なのか。
アインが何者なのか。
なぜ千年以上前の名が、今ここにあるのか。
分からないことばかりだった。
「リシア様」
ステファニアの声が少し柔らかくなる。
「今夜は、眠れなくても横になっていてください」
「ステファニア様こそ」
「私は問題ありません」
「それは、問題がある方の言い方です」
ステファニアは一瞬黙った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……では、努力します」
リシアも小さく笑った。
二人は再び寝台に身を横たえた。
夜空はそのまま残っている。
草原の上に、無数の星があった。
そのどこかに、アークライトがいるのかもしれない。
いや。
自分たちはもう、その中にいるのかもしれない。
リシアは目を閉じた。
眠気はまだ遠い。
けれど、ほうじ茶の香りと、羊羹の甘さと、夜草の匂いが、少しだけ胸のざわめきを鎮めてくれていた。
神話だと思っていたものの、続き。
その言葉だけが、夜の静けさの中でいつまでも残っていた。
◇
同じ頃。
クラウディアは、私室に設えられた机についていた。
机上には、淡い光を放つ端末が一つ。
そこには、環境投影病室の安全監視ログが静かに流れている。
会話の全文。
呼吸の乱れ。
心拍の変化。
投影設定の履歴。
携帯端末の閲覧記録。
そのすべてが、医療区画の通常監視として記録されていた。
クラウディアは、リシアとステファニアの会話を最後まで聞き終えると、わずかに目を細めた。
「……そこまで辿りますか」
声には、感心が混じっていた。
ステファニアは、リシアが休んでいる間に、端末の低階層情報へ目を通していた。
閲覧した項目は、アークライト概要、医療区画概要、患者端末の操作説明、環境投影病室の簡易説明。
どれも、見られて困る情報ではない。
むしろ、見つけられるように置いておいた情報だった。
だが、それを見つけ、読み、古文献の記憶と結びつけ、さらにリジェナとリジェスカの反応から所在を絞る。
そこまでできる者は、そう多くない。
クラウディアの唇に、極上の微笑みが浮かんだ。
「賢い子は好きですよ」
小さな独り言だった。
対象一、リシア・ファーランド。
伝承と名の意味を繋ぐ感性がある。
対象二、ステファニア・レーヴェンハイト。
状況確認、情報取得、推論、護衛判断。いずれも高い。
二人とも、まだ核心には届いていない。
けれど、方向は間違っていない。
クラウディアは、端末へ短く指を走らせた。
翌朝の面会予定。
開示情報の段階。
対象一、対象二の理解度評価。
低階層情報の追加開示候補。
項目が淡く更新される。
「明日は、少し話を進めてもよさそうですね」
そう呟いて、クラウディアは端末を閉じた。
その表情には、まだ極上の微笑みが残っていた。




