第百二十七夜 砂漠へ向かった名
第百二十七夜 砂漠へ向かった名
学院へ戻った日の夕方、貸与邸に一通の書簡が届いた。
ベルン商会ランツェ支店。
差出人は、支店長セシリア。
表向きは、北方交易路の状況と仕入れ価格をまとめた定期報告だった。
砂漠越えに使う水袋の値上がり。
乾燥肉と塩の在庫。
隊商宿で不足している薬材。
街道を通る商隊の数。
どれも商会として必要な情報だった。
その末尾に、別紙が一枚だけ添えられていた。
「観察事実と推測を分けています」
クラウディアが言った。
卓の中央、全員から同じ向きに見える位置へ、別紙の内容が共有表示される。
リシアは最初の行を読んだ。
契約書本人署名欄。
長谷川浩。
商会側では読めなかった文字を、セシリアが原形のまま添付していた。
「浩さん」
舞が、小さく繰り返した。
彼女も今日は貸与邸へ来ていた。
学院への帰還に合わせ、召喚学生に関する確認を行うためだ。
「はせがわ、ひろし」
舞が読みを告げるより僅かに早く、アインが口にした。
「アイン様も、御存じなのですか」
リシアが尋ねる。
「知っている。柳兵衛だった頃、師匠同士の縁で何度か会った」
「そうなのですね」
リシアは頷いた。
一度。
それから、もう一度。
「……柳兵衛だった頃?」
「兵衛さん?」
舞の声が、リシアの声へ重なった。
彼女は椅子から半ば立ち上がり、アインを見ている。
「傾いていた柳家を、護人として一代で頂点まで押し戻した、あの兵衛さんですか?」
「多分、その兵衛だ」
「多分で済ませる方ではありません!」
舞の声が、今日初めて大きくなった。
「……護人?」
リシアが尋ねると、舞は半ば立ち上がった姿勢のまま、こちらを見た。
「人や土地を、人の手だけでは防ぎきれない災いから守る者です。八雲や兵衛さんが、そうです」
「では、舞様も護人なのですか」
「私は守護巫女です。御門さまをお守りすることを第一に、護人の働きを支え、整える者です」
「守護巫女」
聞き慣れない言葉が、さらに一つ増えた。
柳兵衛という名も、リシアには聞き慣れない。
けれど、アインは自分のこととして、あまりにも自然に口にした。
「前の名だ」
「前の」
「転生する前の」
リシアの中で、何かが静かに止まった。
ベルカ魔導帝国の皇太子。
千五百年前の英雄。
次元を渡ったアークライトの主。
そこまでは、どうにか一つずつ受け取ってきた。
その下から今、さらに一人分の人生が出てきた。
しかも、舞の反応を見る限り、そちらでも何かを成し遂げている。
護人として、頂点まで。
「リシア」
ステファニアが、隣から静かに呼ぶ。
「息をしてください」
言われて初めて、息を止めていたことに気づいた。
リシアはゆっくり吸い、ゆっくり吐いた。
「……皆様は、御存じだったのですか」
「はい」
クラウディアが答える。
「説明項目から漏れていました」
「漏れてよい項目ではありません」
思ったより、はっきりと声が出た。
「私も、そう思います」
舞が、まだ半ば立ったまま強く頷いた。
セラが、心配そうにこちらを見る。
アリシアは扇子で口元を隠していた。
目が、少し笑っている。
「つまり、アイン様は」
「今は浩の話だ」
アインは、卓上に浮かぶ四文字へ視線を戻した。
そうでした。
そうなのですけれど。
リシアは、一度だけ額へ手を当てた。
隣では舞も、よく似た仕草で額へ手を当てている。
確認しなければならないことが、また一つ増えてしまった。
少し間を置いて、アインは続けた。
「最後に会ったのは随分前だが、同じ名の別人でなければ長谷川浩だ」
ただし、報告された来店者の外見は、十五、六歳ほどの白髪の少年。
アインと舞が知る、中年の浩とは一致しない。
「同門の方です。八雲のお爺様に、時々稽古をつけてもらっていました」
舞は表示を見たまま答えた。
「私達より、ずっと年上です。おじさんになってからも道場へ来て、八雲や私が時々お相手をしていました」
「お強い方なのですか」
ステファニアが問う。
「棍に限れば、八雲と私より上です」
舞は、少し考えてから付け加えた。
「本人は、自分を普通の会社員だと思っていましたけれど」
「普通ではないだろ」
アインが言った。
「私達も、そう思っていました」
「本名ではない可能性もありますわね」
アリシアが扇子を閉じる。
「ですが、舞様の御存じの方が、そのまま御本人であるとは限りません」
長谷川浩。
名前が一つ増えた。
それも、舞とアインの双方が知る人物へ繋がる名前だった。
けれど、ランツェを出た男が本当に同じ人物なのか。
なぜこの世界にいるのか。
何をするために北へ向かったのか。
分からないことは、まだ多い。
リシアは、別紙の続きを見た。
◇
長谷川浩と名乗る男は、三人の女性を伴ってベルン商会ランツェ支店を訪れた。
購入した品は、砂漠越えを前提としたものだった。
水袋と保存食。堅焼きのパン、干し肉、塩。それに、日除けの幕。
購入量は、四人で砂漠を越える量としても多い。
ただし、荷役用の人員や荷車を手配した事実はない。
価格交渉はしたが、相場から外れた値下げは求めなかった。
支払いに問題なし。
盗品、偽貨、既知の犯罪記録との一致なし。
武器の購入なし。
同行者は三名。
銀髪の少女。
黒髪の少女。
金髪の少女。
銀髪の少女は、長谷川浩を夫と呼称。
他二名と長谷川浩の関係、全員の所属、出身地は確認できず。
店内で、帝国、獣人諸氏族連合王国、戦況、魔導騎装について自ら話題にした事実なし。
「何も聞かなかったのですか」
セラが言った。
「聞かない支店長なのでしょう」
ステファニアは、報告書の欄を指す。
接客時には、目的地、必要な水量、砂漠越え経験の有無、街道封鎖時の代替経路だけを確認している。
商売として必要なことだけが並んでいる。
長谷川浩は、一行の目的地をランツェ北方と答えた。
砂漠越えの経験はない。
道案内は不要。
「荷車も手配せず、どうやってこれほどの荷を運ぶのですか」
リシアは思わず問うた。
「北門までは、購入品を収納する手段を用いたと見られます」
クラウディアが答える。
「ランツェ北門の記録と、街道監視員二名の証言が一致しています。四人は北門を出た後、街道沿いで巨大な八輪自走車へ乗り込みました」
卓上の表示へ、監視員が描いた略図が加わった。
箱形の大きな車体に、左右四輪ずつ、合わせて八つの車輪。全長は、およそ十一メートル。
ランツェの街中でも、北門を出るまでは存在を確認されていない。
「どこへ隠していたのでしょう」
リシアは尋ねた。
「不明です。車両を運び込んだ記録もありません」
クラウディアが略図を拡大する。
「八輪すべてを駆動輪としている可能性があります。砂地走破を前提とした長距離遠征用車両でしょう」
「自走車というより、車輪の上へ小さな館を載せたようですわね」
アリシアが微笑んだ。
「荷物を運ぶ心配は、なさそうですね」
セラが、略図の八輪を順に目で追う。
「むしろ、これほど大きな物を隠して運べる方々だという心配が増えました」
ステファニアの言葉に、誰も否定できなかった。
「止めなかったのですね」
「止める理由がありません」
その通りだった。
危険な道を選んだ。
けれど、危険な道を選ぶこと自体は罪ではない。
商会が知らない人物だからといって、進む道を塞いでよい理由にもならない。
クラウディアは、別紙の最後を開いた。
表示の下に、セシリアの所見が出る。
四名は、砂漠を越えるための品を過不足なく求めた。
購入量と自走車の規模から、短期間で引き返す予定ではないと推測される。
ただし、最終目的地が獣人諸氏族連合王国であるとは断定しない。
「丁寧な方ですね」
リシアは言った。
「セシリアですか」
「はい。良い人かもしれない、という書き方をしていません」
北へ向かうための品を揃えた。
巨大な八輪自走車もある。
連合王国まで行くように見える。
そう思いたくなる。
けれど、セシリアは書いていない。
書いたのは、購入量と車両規模から読み取れること。
目的は断定しないこと。
それだけだった。
「推測欄は、ここからです」
クラウディアが表示を切り替えた。
先日流れた、帝国魔導騎装十騎行動不能の噂。
長谷川浩の来店時期。
北方への移動。
舞が同門者として知る名。
関連する可能性あり。
根拠不足。
照合継続を推奨。
「これでも、まだ繋がりませんか」
セラの問いに、クラウディアは頷いた。
「繋げることはできます。繋がったと扱うことはできません」
十騎を止めた者が、長谷川浩かもしれない。
まったく関係のない旅人かもしれない。
連合王国を助けようとしているのかもしれない。
別の目的で北へ向かったのかもしれない。
どの線も引ける。
だからこそ、今はまだ引いてはいけない。
「クラウ」
アインが呼んだ。
「はい」
「追っているか」
「受動監視のみ。一行への接触、誘導、追尾は行っていません」
「それでいい」
アインは、北へ伸びる街道表示を見た。
「行き先を選んだ者の背中へ、こちらの都合で手をかけるな。危険が近づいた時だけ拾え」
「承知しました」
「セシリアが渡したものは」
「特にありません。去り際に、ファーランド公国へ行くなら、本店でセシリアの名を出して構わないと伝えています」
進む道を決めたのではない。
必要になった時、話を聞いてもらえる名を一つ渡した。
「セシリアらしいですわね」
アリシアが微笑んだ。
「誘導したように見せず、縁だけ置いています」
「商人ですから」
クラウディアの返答は平坦だった。
けれど、少しだけ誇らしそうに聞こえた。
◇
問題は、この情報を誰へ渡すかだった。
長谷川浩という名。
三人の同行者。
巨大な八輪自走車。
北へ向かった事実。
帝国魔導騎装十騎行動不能との関連可能性。
カイルとミレイアが知れば、希望に見えるかもしれない。
連合王国へ向かう者がいる。
十騎を止めた者かもしれない。
けれど、今あるのは、また材料だけだった。
「以前と同じ扱いにはできません」
リシアは言った。
皆の視線が向く。
「十騎の噂だけだった時は、地点も時刻も退却範囲も分かりませんでした。今回は、ランツェから北へ向かった人物がいたことまでは確認されています」
「では、本人へ渡しますか」
エレナが問う。
彼女の前にも、同じ表示が開かれている。
以前なら、クラウディアかアリシアへ答えを求めたかもしれない。
今は、リシアを見ていた。
「名前と、十騎との関連推測は伏せます」
リシアは答えた。
「ただし、連合王国方面へ向かった旅行者達が確認されたことは、新しい観察事実です。本人向け要約の表題へ置き、見るかどうかを選んでいただきます」
「巨大な八輪自走車は」
「本文へ入れます。性能と出所は不明とします」
「関連推測は、どこへ」
「確認窓口の非提示記録へ。照合条件が揃うまで保留します」
エレナは表示へ記録する。
連合王国方面へ向かう四名の旅行者を確認。
ランツェ北門通過を複数記録で確認済み。
巨大な八輪自走車を使用。
砂漠越えを前提とした長距離移動用品を所持。
目的、所属、戦況への関与は不明。
本人向け表題提示候補。
「良いと思います」
ステファニアが言った。
「希望を隠しているのではなく、分かっている範囲を渡す形です」
「十騎の噂と結びつけないのですか」
舞が尋ねる。
「結びつくかもしれません」
リシアは答えた。
「ですから、結びついた時に消えない場所へ記録します。けれど、今カイル様達へ渡せば、結びついているように見えてしまいます」
舞は少し考え、頷いた。
「分かりました」
長谷川浩。
その名は、本人向け要約には載らなかった。
名前は、期待に輪郭を与えてしまう。
だから今は、北へ向かった者達がいるという事実だけを置く。
◇
翌朝。
学院長府確認窓口で、カイルとミレイアは新しい表題を見た。
連合王国方面へ向かう四名の旅行者の確認。
カイルは、すぐには開かなかった。
以前の彼なら、表題を見る前に本文を求めていたかもしれない。
今は、隣のミレイアを見る。
「見る」
「私も」
二人の意思を確認して、エレナが本文を開いた。
短い文章だった。
ランツェ。
北門。
砂漠。
巨大な八輪自走車。
目的不明。
所属不明。
戦況への関与不明。
カイルは、最後まで読んだ。
「助けに行ったのか」
「分かりません」
リシアは答えた。
カイルの耳が僅かに伏せられる。
「十騎を止めた者か」
「分かりません」
今度は、伏せられた耳が動かなかった。
けれど、カイルは声を荒らげなかった。
「何なら分かる」
「四名が、砂漠を越える用意を整えて北へ向かいました」
リシアは、確認されていることだけを答える。
「巨大な八輪自走車を使っています。短期間で戻るための支度には見えません」
カイルは表示を見る。
何かを言いかけ、やめた。
代わりに、ミレイアが口を開いた。
「誰かが、北へ向かったのですね」
「はい」
「それ以上は、まだ分からない」
「はい」
ミレイアは、ゆっくり息を吐いた。
「では、今日はそれだけを受け取ります」
カイルは、もう一度表示を見た。
それから、頷く。
「俺も、それでいい」
カイルは、本文を閉じなかった。
共有表示の中では、ランツェから北へ伸びる細い街道が、砂漠の縁まで続いている。
その先に、目的地を示す印はない。
ミレイアも隣に立ち、途切れた道の先を見ていた。
学院の白い窓から差し込む朝の光が、二人の前に浮かぶ砂漠の地図を静かに透かしていた。




