表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

143/154

第百二十六夜 隣室の朝

第百二十六夜 隣室の朝


 朝、舞は隣室の扉の前に立っていた。


 手には、籠を持っている。


 第三ダンジョンの商業区で買ったパンと、卵と、葉野菜。店員に勧められるまま買った香草入りの腸詰めも入っている。


 問題は、朝食の材料ではなかった。


 扉の向こうにいる人達だった。


 幼馴染の八雲。


 八雲の妻になった、聖女アリシアと紅緒。


 知らない四ヶ月。


 聞かなければならないことは多い。


 聞きたいことも、多分それ以上にある。


 けれど、何から聞けばよいのか分からなかった。


 舞が扉を叩こうとした時、中から声がした。


「舞、いるんだろ」


「いるけど」


「入ってくれ」


「どうして分かったの」


「扉の前で、もう三分くらい気配が止まってる」


 舞は、少しだけ腹が立った。


「そういうところ、変わってないね」


 扉が開く。


 八雲は、困ったような顔をしていた。


「おはよう」


「おはよう」


 それだけ言って、二人とも止まった。


 以前なら、何も考えずに話せた。


 朝、顔を合わせれば、眠そうだとか、髪が跳ねているとか、どうでもよいことから始められた。


 今は、その間に四ヶ月と、二つの婚姻と、別の世界が挟まっている。


「立ち話も何ですから、どうぞ」


 聖女アリシアが、奥から声をかけた。


 紅緒は卓上へ皿を並べている。


「その籠も持ちます」


「ありがとうございます」


 舞は聖女アリシアへ籠を渡した。


 丁寧で、柔らかな人だった。


 同時に、逃亡生活を三年続け、竜山脈を越え、八雲とともに魔物の群れを退けた人でもある。


 どちらが本当なのだろう、と舞は考えた。


 多分、どちらも本当なのだ。


     ◇


 朝食は、四人で作ることになった。


 八雲が腸詰めを焼く。


 紅緒が葉野菜を洗い、聖女アリシアが卵を割る。


 舞はパンを切った。


 誰も、最初の問いを口にしなかった。


 油の弾ける音。


 包丁が板へ当たる音。


 湯の沸く音。


 朝食を作るだけなら、知らない四ヶ月は邪魔をしなかった。


「八雲、それ焦げる」


「まだ大丈夫だ」


「前もそう言って焦がしたでしょ」


「あれは火が強かった」


「今回も火が強いのよ」


 舞が火を弱める。


 紅緒が、八雲を見る。


「昔から?」


「昔から」


「そう」


 短い返事だった。


 けれど、紅緒の口元が僅かに緩んだ。


「こちらへ来てからも同じです」


 聖女アリシアが言う。


「野営で焼き物を任せますと、外側を少し焦がします」


「中まで火を通そうとすると、そうなる」


「火を弱めればいいのよ」


 三人の声が重なった。


 八雲は黙って火から離れた。


「俺がいなくても焼けそうだな」


「最初から、そう言っているの」


 紅緒が調理器具を受け取る。


 舞は、思わず笑った。


 笑ってから、少し驚いた。


 紅緒も舞を見る。


 聖女アリシアは、卵を混ぜながら微笑んでいた。


 八雲だけが、不満そうに焼けかけの腸詰めを見ている。


     ◇


 食卓へ四人分の皿が並んだ。


 舞は、八雲の向かいに座る。


 その両隣には、聖女アリシアと紅緒がいる。


「聞きたいことがあります」


 聖女アリシアが先に言った。


「はい」


「舞様は、八雲様と、どのような方でしたか」


 八雲が咳き込んだ。


 紅緒は水を渡す。


「落ち着いて。まだ何も答えていないわ」


「質問が真っ直ぐすぎる」


「遠回りをすると、余計に苦しくなると思いましたので」


 聖女アリシアの表情は穏やかだった。


 舞は、少し考える。


「幼馴染です」


「それは伺いました」


「一緒にいるのが普通で。何かあれば最初に話して。離れるとは、あまり考えていませんでした」


 召喚された日のことを思い出す。


 何も言えないまま、教室ごと光に呑まれた。


「でも、何も約束していません」


 舞は続けた。


「好きだとも、待っていてとも、言っていません。だから、八雲が誰かと一緒に生きることを選んだのを、責める権利はありません」


「権利の話だけなら、そうでしょうね」


 紅緒が言った。


「でも、気持ちはそれだけで片づかない」


 舞は紅緒を見る。


「紅緒さんは、怒っていないんですか」


「何に」


「私が、まだ八雲を」


 最後まで言えなかった。


 紅緒はしばらく舞を見た。


 膝の上で重ねた指が、一度だけ強く組まれる。


 それから、ゆっくりとほどかれた。


「怒るより先に、知りたいと思っているわ」


「知りたい」


「八雲が、あなたをどう覚えているのか。あなたが、八雲をどう見ていたのか。知らないものを勝手に敵にすると、間違えるから」


 紅緒はパンを一口食べる。


「それに、私達も四ヶ月前には、今の形になると思っていなかった」


 聖女アリシアも頷いた。


「私達の間に起きたことを、舞様が知らないのは当然です。舞様と八雲様の間にあったことを、私達が知らないのも同じです」


「全部、話した方がいいですか」


「いずれは」


 聖女アリシアは答えた。


「ですが、今日一日で全てを決める必要はありません」


 舞は、肩から少し力が抜けるのを感じた。


「では、今日は何を」


「まず、朝食を」


 聖女アリシアが、自分の皿を見る。


「冷めてしまいます」


 紅緒が小さく笑う。


「そこは大事ね」


「とても」


 八雲もようやくパンへ手を伸ばした。


「助かった」


「何も助かっていないわ」


 紅緒の言葉で、その手が止まる。


     ◇


 同じ頃、エリオノーラは王城の一室で黒姫を膝へ置いていた。


 移送された王城では、空いた部屋から順に臨時の執務室や診療室へ変えられている。


 この部屋だけは、まだ本来の用途を決められていなかった。


 窓の外には、作られた空と、見慣れた王都の屋根がある。


 机の向こうには、八雲が座っていた。


 朝食を終えた後、エリオノーラから話があると呼ばれたのだ。


「先日は、絵里と呼ばれても、何も分からないと申し上げました」


「ああ」


「今も、全てを思い出したわけではありません」


 エリオノーラは黒姫の鞘へ指を添える。


 触れると、時々、知らないはずの景色が見える。


 狭い台所。


 夕暮れの道。


 自分より少し背の高い少年。


 何かを取り合い、笑った記憶。


 それらは懐かしい。


 けれど、今の自分が生きた十六年まで、過去の記憶へ明け渡す気はなかった。


「あなたを見ていると、安心します」


 八雲は黙っている。


「理由は、まだ分かりません。黒姫に触れている時は、知っている気もします。ですが、わたくしはエリオノーラです」


「分かってる」


「本当に?」


 問い返すと、八雲はすぐには答えなかった。


「分かろうとしてる」


 やがて、そう言った。


「絵里が戻ったと思った。今も、そう思いたいところはある」


「はい」


「でも、それで今の君を消したら、また失うことになる」


 エリオノーラは、八雲を見る。


 言葉を選ばず喜ばれるより、その答えの方が嬉しかった。


「では、お願いがあります」


「何だ」


「わたくしを、エリオノーラとお呼びください」


 八雲は頷いた。


「エリオノーラ」


 呼ばれた名に、胸の奥で何かが静かに応えた。


 知らない記憶ではない。


 今の自分が、呼ばれたことへの反応だった。


「はい」


 エリオノーラは答える。


 黒姫が、膝の上で少し震えた。


「絵里もエリオノーラも、お腹空くと機嫌悪くなるよ〜」


「黒姫」


「同じところ、見つけた〜」


 八雲が、ほんの少し笑った。


 エリオノーラも、仕方なく笑う。


「それは、あまり嬉しくない共通点です」


「でも本当だぞ」


「八雲様」


「悪い」


 謝りながらも、八雲の表情は少し柔らかかった。


     ◇


 昼前。


 王城前広場には、仮設の掲示板が増えていた。


 配給場所。


 診療所。


 行方確認。


 臨時雇用。


 元の街と同じ場所に立ちながら、書かれている内容は新しい暮らしのものへ変わっていく。


 舞は、その前で立ち止まる。


 隣には聖女アリシアと紅緒がいた。


 八雲は少し離れたところで、資材運搬を手伝っている。


「舞様」


 聖女アリシアが呼ぶ。


「様は、なくても大丈夫です」


「では、舞さん」


「はい」


「私のことも、アリシアで構いません」


 舞は、少し困った。


 この場所には、同じ名の人がもう一人いる。


「呼ぶと、お二人とも振り向きませんか」


「振り向きますわよ」


 背後から声がした。


 アリシア・ファーランドが、リシアとともに歩いてくる。


「呼ばれていなくとも、面白そうでしたら振り向きます」


「お姉様、それでは区別の意味がありません」


「区別は必要ですわね」


 アリシア・ファーランドは、聖女アリシアを見る。


「ですが、名を変える必要まではありません。呼ぶ相手をご覧になればよろしいのです」


 聖女アリシアも微笑む。


「私も、それでよいと思います」


 舞は二人を見比べた。


 よく似た顔。


 同じ名。


 けれど、話し方も、立ち方も、纏う空気も違う。


「分かりました。アリシアさん」


 舞は、聖女アリシアを見て言った。


「はい」


 返事をしたのは、一人だけだった。


 リシアが、少し感心した顔をする。


「本当に、分かるものなのですね」


「ご自分を呼ばれたかどうかくらい、分かりますわ」


 アリシア・ファーランドが当然のように言った。


 その直後、広場の反対側から声が響いた。


「アリシア様!」


 二人のアリシアが、同時に振り向いた。


 リシアは黙った。


 紅緒が目を逸らす。


 舞は、笑ってよいのか迷った。


「呼ぶ相手を見ていませんでしたわね」


 アリシア・ファーランドは、何事もなかったように扇子を開いた。


 聖女アリシアは口元へ手を添えている。


 広場の向こうでは、呼びかけた役人が二人を見比べて固まっていた。


     ◇


 その日の夕方。


 舞は再び、隣室の扉の前に立っていた。


 朝とは違い、手には何も持っていない。


 扉の前で立ち止まったのは、ほんの一呼吸だけだった。


 舞は手を上げる。


 今度は迷わず、扉を叩いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ