第百二十六夜 隣室の朝
第百二十六夜 隣室の朝
朝、舞は隣室の扉の前に立っていた。
手には、籠を持っている。
第三ダンジョンの商業区で買ったパンと、卵と、葉野菜。店員に勧められるまま買った香草入りの腸詰めも入っている。
問題は、朝食の材料ではなかった。
扉の向こうにいる人達だった。
幼馴染の八雲。
八雲の妻になった、聖女アリシアと紅緒。
知らない四ヶ月。
聞かなければならないことは多い。
聞きたいことも、多分それ以上にある。
けれど、何から聞けばよいのか分からなかった。
舞が扉を叩こうとした時、中から声がした。
「舞、いるんだろ」
「いるけど」
「入ってくれ」
「どうして分かったの」
「扉の前で、もう三分くらい気配が止まってる」
舞は、少しだけ腹が立った。
「そういうところ、変わってないね」
扉が開く。
八雲は、困ったような顔をしていた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけ言って、二人とも止まった。
以前なら、何も考えずに話せた。
朝、顔を合わせれば、眠そうだとか、髪が跳ねているとか、どうでもよいことから始められた。
今は、その間に四ヶ月と、二つの婚姻と、別の世界が挟まっている。
「立ち話も何ですから、どうぞ」
聖女アリシアが、奥から声をかけた。
紅緒は卓上へ皿を並べている。
「その籠も持ちます」
「ありがとうございます」
舞は聖女アリシアへ籠を渡した。
丁寧で、柔らかな人だった。
同時に、逃亡生活を三年続け、竜山脈を越え、八雲とともに魔物の群れを退けた人でもある。
どちらが本当なのだろう、と舞は考えた。
多分、どちらも本当なのだ。
◇
朝食は、四人で作ることになった。
八雲が腸詰めを焼く。
紅緒が葉野菜を洗い、聖女アリシアが卵を割る。
舞はパンを切った。
誰も、最初の問いを口にしなかった。
油の弾ける音。
包丁が板へ当たる音。
湯の沸く音。
朝食を作るだけなら、知らない四ヶ月は邪魔をしなかった。
「八雲、それ焦げる」
「まだ大丈夫だ」
「前もそう言って焦がしたでしょ」
「あれは火が強かった」
「今回も火が強いのよ」
舞が火を弱める。
紅緒が、八雲を見る。
「昔から?」
「昔から」
「そう」
短い返事だった。
けれど、紅緒の口元が僅かに緩んだ。
「こちらへ来てからも同じです」
聖女アリシアが言う。
「野営で焼き物を任せますと、外側を少し焦がします」
「中まで火を通そうとすると、そうなる」
「火を弱めればいいのよ」
三人の声が重なった。
八雲は黙って火から離れた。
「俺がいなくても焼けそうだな」
「最初から、そう言っているの」
紅緒が調理器具を受け取る。
舞は、思わず笑った。
笑ってから、少し驚いた。
紅緒も舞を見る。
聖女アリシアは、卵を混ぜながら微笑んでいた。
八雲だけが、不満そうに焼けかけの腸詰めを見ている。
◇
食卓へ四人分の皿が並んだ。
舞は、八雲の向かいに座る。
その両隣には、聖女アリシアと紅緒がいる。
「聞きたいことがあります」
聖女アリシアが先に言った。
「はい」
「舞様は、八雲様と、どのような方でしたか」
八雲が咳き込んだ。
紅緒は水を渡す。
「落ち着いて。まだ何も答えていないわ」
「質問が真っ直ぐすぎる」
「遠回りをすると、余計に苦しくなると思いましたので」
聖女アリシアの表情は穏やかだった。
舞は、少し考える。
「幼馴染です」
「それは伺いました」
「一緒にいるのが普通で。何かあれば最初に話して。離れるとは、あまり考えていませんでした」
召喚された日のことを思い出す。
何も言えないまま、教室ごと光に呑まれた。
「でも、何も約束していません」
舞は続けた。
「好きだとも、待っていてとも、言っていません。だから、八雲が誰かと一緒に生きることを選んだのを、責める権利はありません」
「権利の話だけなら、そうでしょうね」
紅緒が言った。
「でも、気持ちはそれだけで片づかない」
舞は紅緒を見る。
「紅緒さんは、怒っていないんですか」
「何に」
「私が、まだ八雲を」
最後まで言えなかった。
紅緒はしばらく舞を見た。
膝の上で重ねた指が、一度だけ強く組まれる。
それから、ゆっくりとほどかれた。
「怒るより先に、知りたいと思っているわ」
「知りたい」
「八雲が、あなたをどう覚えているのか。あなたが、八雲をどう見ていたのか。知らないものを勝手に敵にすると、間違えるから」
紅緒はパンを一口食べる。
「それに、私達も四ヶ月前には、今の形になると思っていなかった」
聖女アリシアも頷いた。
「私達の間に起きたことを、舞様が知らないのは当然です。舞様と八雲様の間にあったことを、私達が知らないのも同じです」
「全部、話した方がいいですか」
「いずれは」
聖女アリシアは答えた。
「ですが、今日一日で全てを決める必要はありません」
舞は、肩から少し力が抜けるのを感じた。
「では、今日は何を」
「まず、朝食を」
聖女アリシアが、自分の皿を見る。
「冷めてしまいます」
紅緒が小さく笑う。
「そこは大事ね」
「とても」
八雲もようやくパンへ手を伸ばした。
「助かった」
「何も助かっていないわ」
紅緒の言葉で、その手が止まる。
◇
同じ頃、エリオノーラは王城の一室で黒姫を膝へ置いていた。
移送された王城では、空いた部屋から順に臨時の執務室や診療室へ変えられている。
この部屋だけは、まだ本来の用途を決められていなかった。
窓の外には、作られた空と、見慣れた王都の屋根がある。
机の向こうには、八雲が座っていた。
朝食を終えた後、エリオノーラから話があると呼ばれたのだ。
「先日は、絵里と呼ばれても、何も分からないと申し上げました」
「ああ」
「今も、全てを思い出したわけではありません」
エリオノーラは黒姫の鞘へ指を添える。
触れると、時々、知らないはずの景色が見える。
狭い台所。
夕暮れの道。
自分より少し背の高い少年。
何かを取り合い、笑った記憶。
それらは懐かしい。
けれど、今の自分が生きた十六年まで、過去の記憶へ明け渡す気はなかった。
「あなたを見ていると、安心します」
八雲は黙っている。
「理由は、まだ分かりません。黒姫に触れている時は、知っている気もします。ですが、わたくしはエリオノーラです」
「分かってる」
「本当に?」
問い返すと、八雲はすぐには答えなかった。
「分かろうとしてる」
やがて、そう言った。
「絵里が戻ったと思った。今も、そう思いたいところはある」
「はい」
「でも、それで今の君を消したら、また失うことになる」
エリオノーラは、八雲を見る。
言葉を選ばず喜ばれるより、その答えの方が嬉しかった。
「では、お願いがあります」
「何だ」
「わたくしを、エリオノーラとお呼びください」
八雲は頷いた。
「エリオノーラ」
呼ばれた名に、胸の奥で何かが静かに応えた。
知らない記憶ではない。
今の自分が、呼ばれたことへの反応だった。
「はい」
エリオノーラは答える。
黒姫が、膝の上で少し震えた。
「絵里もエリオノーラも、お腹空くと機嫌悪くなるよ〜」
「黒姫」
「同じところ、見つけた〜」
八雲が、ほんの少し笑った。
エリオノーラも、仕方なく笑う。
「それは、あまり嬉しくない共通点です」
「でも本当だぞ」
「八雲様」
「悪い」
謝りながらも、八雲の表情は少し柔らかかった。
◇
昼前。
王城前広場には、仮設の掲示板が増えていた。
配給場所。
診療所。
行方確認。
臨時雇用。
元の街と同じ場所に立ちながら、書かれている内容は新しい暮らしのものへ変わっていく。
舞は、その前で立ち止まる。
隣には聖女アリシアと紅緒がいた。
八雲は少し離れたところで、資材運搬を手伝っている。
「舞様」
聖女アリシアが呼ぶ。
「様は、なくても大丈夫です」
「では、舞さん」
「はい」
「私のことも、アリシアで構いません」
舞は、少し困った。
この場所には、同じ名の人がもう一人いる。
「呼ぶと、お二人とも振り向きませんか」
「振り向きますわよ」
背後から声がした。
アリシア・ファーランドが、リシアとともに歩いてくる。
「呼ばれていなくとも、面白そうでしたら振り向きます」
「お姉様、それでは区別の意味がありません」
「区別は必要ですわね」
アリシア・ファーランドは、聖女アリシアを見る。
「ですが、名を変える必要まではありません。呼ぶ相手をご覧になればよろしいのです」
聖女アリシアも微笑む。
「私も、それでよいと思います」
舞は二人を見比べた。
よく似た顔。
同じ名。
けれど、話し方も、立ち方も、纏う空気も違う。
「分かりました。アリシアさん」
舞は、聖女アリシアを見て言った。
「はい」
返事をしたのは、一人だけだった。
リシアが、少し感心した顔をする。
「本当に、分かるものなのですね」
「ご自分を呼ばれたかどうかくらい、分かりますわ」
アリシア・ファーランドが当然のように言った。
その直後、広場の反対側から声が響いた。
「アリシア様!」
二人のアリシアが、同時に振り向いた。
リシアは黙った。
紅緒が目を逸らす。
舞は、笑ってよいのか迷った。
「呼ぶ相手を見ていませんでしたわね」
アリシア・ファーランドは、何事もなかったように扇子を開いた。
聖女アリシアは口元へ手を添えている。
広場の向こうでは、呼びかけた役人が二人を見比べて固まっていた。
◇
その日の夕方。
舞は再び、隣室の扉の前に立っていた。
朝とは違い、手には何も持っていない。
扉の前で立ち止まったのは、ほんの一呼吸だけだった。
舞は手を上げる。
今度は迷わず、扉を叩いた。




