第百二十五夜 線を越えなかった者たち
第百二十五夜 線を越えなかった者たち
線は、もう消えていた。
平原に残っているのは、八咫烏の剣が引いた浅い溝と、その手前に置かれた武器だけだった。
剣。
槍。
弓。
騎兵の短刀。
誰かへ向けないために置かれた武器は、種類も置き方も揃っていない。
その向こうでは、簡易机を挟んで事情聴取が続いていた。
「次」
黒い装備の記録官が呼ぶ。
相馬悠斗は椅子から立ち、隣の机へ移った。
一度目は、召喚されてから侵攻軍へ組み込まれるまで。
二度目は、進軍中に見たもの。
三度目は、自分が行ったことと、行わなかったこと。
同じ問いが、少しずつ形を変えて繰り返される。
嘘を見つけるためだけではない。
本人が、自分の記憶を都合のよい順番へ並べ替えていないか確かめるためでもあった。
「降伏した村で、あなたは住民へ攻撃を加えましたか」
「加えていない」
「侵攻軍の兵が住民を追う姿を見ましたか」
「見た」
「止めましたか」
「止めなかった」
「理由は」
相馬は答えようとして、口を閉じた。
怖かったから。
命令だったから。
何が正しいか分からなかったから。
自分一人が止めても変わらないと思ったから。
どれも嘘ではない。
どれも、十分な答えには思えなかった。
「……止めない方が、楽だった」
記録官は表情を変えず、端末へ記した。
「確認します。あなたは住民へ直接攻撃を加えていない。しかし、追撃を目撃し、止めなかった」
「はい」
「線の前では、進軍を拒否した」
「はい」
「前者は、後者によって消えません」
相馬は膝の上で拳を握った。
「分かってる」
「後者も、前者によって消しません」
相馬は顔を上げた。
記録官は、同じ調子で続ける。
「途中で止まった事実は、途中まで進んだ事実と併記します」
「それで、いいんですか」
「良いか悪いかを、記録官は決めません」
端末の表示が閉じられる。
「あなたの記録は、現時点では以上です」
「俺達は、これからどうなる」
「選択肢の説明を受けてください」
記録官は次の机を示した。
事情聴取の隣に、今後の扱いを説明する窓口が作られていた。
罪を量る席と、行き先を決める席は分けられている。
相馬は立ち上がり、置かれたままの自分の剣を見た。
まだ、返されてはいない。
けれど、取り上げられたとも言われていなかった。
◇
「選べるのは、三つです」
説明役のクラウディアは、相馬達の前へ共有表示を開いた。
相馬と、線の前で隣に立った少女。
進軍を拒否し、事情聴取を求めた兵達。
全員の正面から同じ向きに読める文字が、机の上へ浮かんでいる。
「第一。監視下で保護を受け、記録照合と処遇判断を待つ」
一つ目の項目が明るくなる。
「第二。武装を放棄したうえで、この場から退去する。ただし、帝国軍支配地域へ戻る場合、その後の安全は保証できません」
二つ目。
「第三。出身地または希望する第三国・地域への移送を申請する。受け入れ先の確認が取れた場合に限ります」
三つ目。
「捕虜じゃないのか」
相馬の隣にいた少女が問う。
「降伏を受理していません」
「でも、武器は返さない」
「事情聴取中に武装を認める理由がありません」
「退去するなら」
「個人装備の返還可否を審査します。侵攻軍から支給された武器は返還しません」
少女は少し考えた。
「厳しいのか、甘いのか、分からない」
「そのために分けています」
クラウディアは淡々と答える。
「止まったことは保護判断へ反映します。侵攻へ加担した事実は処遇判断へ反映します。同じ一つの判断へ混ぜません」
相馬は共有表示を見る。
「舞達に会いたい」
「本人達へ希望を伝えます」
「すぐには会えないのか」
「あなたの希望だけで決めることではありません」
「……そうだった」
線の前でも、同じことを言われた。
会えるかどうかを決めるのは、助けたアインではない。
舞達本人だった。
「俺は、第一を選ぶ」
相馬は言った。
「記録が終わるまで、逃げたくない」
少女も手を上げる。
「私も」
兵達の間には、すぐ答える者も、俯いたままの者もいた。
帝国軍へ戻れば、命令拒否として処罰されるかもしれない。
ここへ残れば、自分達が何をしたか調べられる。
どこか別の土地へ行っても、見たものまで置いてはいけない。
簡単な選択肢は、一つもなかった。
クラウディアは急かさなかった。
「選択期限は日没までです。質問は受けます」
「日没までに決められなかったら」
「一晩、保護を継続します。明日、もう一度説明します」
少女が瞬きをした。
「期限の意味は」
「本日分の寝床と食事の配置を決めるためです」
相馬は、少しだけ笑った。
笑ってよい場面ではない気がした。
けれど、線の向こうへ進めと言われ続けた後では、寝床の都合で日没までに決めてほしいという理由が、妙にまともに聞こえた。
◇
第三ダンジョンへ移された王城では、別の二百七十一名について話し合われていた。
南門から退去した者達。
都市とともに移ることを選ばず、地上へ残った者達。
父王の前には、護衛隊長から届いた報告が開かれている。
「現在、南方街道の旧関所に滞在しています」
エリオノーラが読み上げた。
「負傷者なし。携行食料は三日分。周辺に帝国軍の姿はありません。ただし、北方の旧王都跡には侵攻軍主力が滞在中です」
「帰還を望む者は」
「百六十三名」
会議室が静かになった。
移送前、父王は選べと告げた。
留まる者も去る者も責めないと。
けれど、去ると選んだ者が、移送後に戻りたいと願った時のことまでは決めていなかった。
「認めれば、最初の選択が軽くなります」
大臣の一人が言った。
「移送前に留まった者達は、恐怖の中で覚悟を決めました。後から安全と分かって戻る者を、同じように迎えれば不満も出ましょう」
「では、戻ることを認めないのですか」
エリオノーラが問う。
「国の決定には、重みが必要です」
「民の恐怖にも、重みがあります」
大臣は口を閉じた。
父王は、報告を読み直した。
「南門から去る者を責めないと、わしは言った」
「はい」
「戻る者を罰するとは言っていない」
「しかし」
「一度の選択で、生涯の行き先を決めさせる必要がどこにある」
父王は顔を上げた。
「移送前に見えていたものと、今見えているものは違う。違うものを見て、選び直すことまで禁じれば、それは選択ではない」
エリオノーラは頷いた。
「戻ることを望む百六十三名へ、転移門を開きます」
「残る百八名には、食料、護衛、希望する行き先までの輸送を用意せよ」
「国へ戻らない者にも、ですか」
「昨日まで我らの民だった者達だ。今日から違う道を選んだとしても、街道の途中へ捨てる理由にはならん」
父王は少し考え、言葉を足した。
「いや。まだ我らの民だ。本人が国を離れると決め、手続きが終わるまでは」
記録官が、その言葉を記した。
◇
旧関所の前へ、転移門が開いた。
南門から出た二百七十一名が、一斉に後ずさる。
門の向こうには、見慣れた王城前広場があった。
ただし、その上にある空は知らない。
広場の奥には、父王とエリオノーラが立っている。
「戻る者は、こちらへ」
エリオノーラの声が、旧関所側へ届く。
「戻らない者には、希望する行き先を伺います。どちらを選んでも、昨日の選択を責めることはありません」
誰もすぐには動かなかった。
やがて、幼い子供を抱いた父親が前へ出た。
「私は」
声が震えている。
「この子を、知らない場所へ連れていくのが怖かった」
エリオノーラは黙って聞く。
「でも、ここに残れば、この子を戦から守れるか分からない。今さら戻っても、よいのでしょうか」
「はい」
エリオノーラは答えた。
「今だから、選べることもあります」
男は子供を抱き直し、転移門を越えた。
一人。
その妻が続く。
家族が続く。
百六十三名が、別の空の下へ戻った。
残った百八名は、門の向こうに立つ者達を見送った。
その中に、白髪の老人がいた。
「戻られませんか」
護衛隊長が尋ねる。
老人は、王都があった北の方角を見る。
「あの街で生まれた。だが、あの土地でも生まれたんだ」
地上の風が、老人の外套を揺らす。
「新しい空を否定するつもりはない。ただ、わしはこの空の下で終わりたい」
護衛隊長は頷いた。
「行き先は」
「南の甥を頼る。生きていればな」
「確認します。見つからなければ、次を一緒に考えましょう」
老人は少し驚いた顔をしてから、笑った。
「国を出る者に、随分と親切だな」
「陛下の命令です」
「なら、最後まで世話になろう」
転移門が閉じる。
別の道を選んだ者達は、護衛とともに南へ歩き出した。
◇
夕刻。
相馬達の選択結果が、クラウディアからアインへ届いた。
保護継続を選んだ者、三十七名。
第三国・地域への移送申請、十二名。
武装を放棄し、退去を選んだ者、十九名。
残りは翌朝まで判断を保留。
「退去した者は」
「帝国軍主力へ戻った者が十一名。南方へ向かった者が八名です。追跡はしていません」
「そうか」
アインは、王都の城壁上から第三ダンジョンの空を見ていた。
隣にはリシアがいる。
石粉を落とすために手を洗ったが、爪の間にはまだ白い色が残っていた。
「止めなくて、よろしかったのですか」
「何を」
「帝国軍へ戻った方々を」
「止まると決めたのは、あいつらだ」
アインは答えた。
「戻ると決めるのも、あいつらだ」
「戻れば、また進軍するかもしれません」
「その時は、また止める」
簡単に言った。
リシアは少し考える。
「選ばせるというのは、思ったより怖いことなのですね」
「そうだな」
「間違うかもしれません」
「間違う」
「それでも、選ばせるのですか」
アインは、城壁の下を見る。
戻ってきた者達が家族と抱き合っている。
水路では石工達が、灯りを持って漏水箇所を探している。
その先には、リシアが削った接続部がある。
「選ばせないで守るのは、簡単だ」
アインは言った。
「だが、それを続けると、自分で立てなくなる」
リシアは、自分の手を見る。
初めて魔力で削った石の感触が、まだ指先に残っていた。
「では、間違えた時は」
「直せるなら直す」
「直せなければ」
「記録する。次に同じ間違いをしないために」
城壁の向こうで、夕刻の鐘が鳴った。
城壁の下では、戻ってきた家族がまだ抱き合っている。
その向こうで、漏水を探す石工達の灯りが、一つずつ次の曲がり角へ移っていった。




